第7話前編
本日完結
記憶の提供者たちに会ってから一週間が経った。
僕は大学を休んでいた。講義に出ても、教授の話が頭に入ってこない。周りの学生たちが普通に生活している光景が、別世界のことのように感じられた。
アパートで過ごす日々は、空虚だった。朝起きて、顔を洗って、適当に食事をして、また眠る。それだけの繰り返し。
鏡を見るたびに、自分が誰なのかわからなくなる。山田という名前を持つこの人物は、いったい何者なのか。
田中から何度も電話があったが、出る気になれなかった。彼に何を話せばいいのか。事件は未解決で、僕の混乱も解決していない。すべてが宙ぶらりんのまま、時間だけが過ぎていく。
ある日、森田刑事から連絡があった。
「山田さん、事件の捜査は一時中断することになりました」
電話口の声は、疲れ切っていた。
「中断?」
「記憶市場を経由した情報では、捜査を進められません。別の角度から調べ直すことになりました」
別の角度。つまり、僕が提供した情報は役に立たなかったということだ。
「山田さん、あなたはもう自由です」刑事は続けた。「重要参考人としての扱いも解除します」
自由。その言葉は虚しく響いた。確かに警察からは解放されるが、自分自身からは解放されない。
「ただし」刑事は付け加えた。「記憶中毒の治療は受けてください。あなたは被害者です。適切なケアが必要です」
被害者。僕は被害者なのだろうか。それとも、自ら望んで記憶を買った加害者なのだろうか。
電話を切って、僕は部屋の中を見回した。何もかもが色褪せて見える。テレビ、本棚、机、ベッド。すべてが無意味な物体の集合に過ぎない。
引き出しから、昔の写真を取り出した。小学校の運動会、中学校の修学旅行、高校の文化祭。写真の中の少年は確かに僕だった。
でも、その少年がどんな気持ちでいたのか、何を考えていたのか、全く思い出せない。まるで赤の他人の写真を見ているようだった。
僕は写真を床に並べて、自分の人生を再構成しようとした。六歳の運動会、十二歳の修学旅行、十五歳の文化祭、十八歳の卒業式。
でも、それらの記憶は断片的で、脈絡がない。一本の線でつながっているはずの人生が、バラバラのパズルのピースのように散らばっている。
そして、そのパズルの中に、他人の記憶が混ざり込んでいる。田村の輝かしい青春、高橋の成功体験、そして名前も知らない殺人犯の記憶。
どれが本物で、どれが偽物なのか。もう判別できない。
夕方、意を決して大学に行くことにした。このまま引きこもっていても、何も解決しない。
キャンパスに着くと、学生たちの活気に満ちた声が聞こえてきた。笑い声、会話、足音。すべてが生命力に溢れている。
僕はその中を幽霊のように歩いた。誰にも気づかれず、誰とも関わらず。
図書館に入って、心理学の本を探した。アイデンティティ、自我、記憶と人格の関係。様々な本を読んだが、僕の状況に当てはまる答えは見つからなかった。
閉館時間になって、図書館を出た。夜のキャンパスは静かで、街灯だけが道を照らしている。
ベンチに座って、夜空を見上げた。星がいくつか見える。彼らは何億年も前から同じ場所で輝いている。変わらず、揺らぐことなく。
それに比べて、僕の存在は何と脆いことか。たった数ヶ月で、自分が誰なのかわからなくなってしまった。
その時、背後から声をかけられた。
「山田?」
振り返ると、田中が立っていた。心配そうな表情で、僕を見つめている。
「田中……」
「やっと見つけた。電話に出ないから、心配してたんだぞ」
田中はベンチに座った。しばらく沈黙が続いた。
「事件、どうなった?」田中が尋ねた。
「捜査は中断された。僕の情報は役に立たなかった」
「そうか」田中は頷いた。「でも、それでよかったんじゃないか」
「よかった?」
「お前は事件から解放された。もう警察に呼ばれることもない」
解放。でも、僕は何も解決していない。
「でも、僕の中には、まだあの記憶がある」
「忘れろよ」田中は真剣な表情で言った。「そんな記憶、忘れてしまえ」
「忘れられない。あれは僕の一部になってしまった」
田中は困ったような顔をした。
「山田、お前は記憶にとらわれすぎだ」
「とらわれてる?」
「ああ」田中は断言した。「記憶なんて、所詮過去のことだろ。大事なのは今だ」
今。でも、今の僕には何もない。
「今の僕には、何もないんだ」
「何もないって、お前ここにいるじゃないか」田中は僕の肩を叩いた。「生きてるじゃないか」
生きている。確かに、僕は生きている。でも、それだけでいいのか。
「田中は、自分が誰なのかわかる?」
「当たり前だろ」田中は笑った。「俺は田中だ」
「どうして、そんなに確信を持てるんだ?」
「どうしてって……」田中は困惑した。「考えたこともないな」
考えたこともない。普通の人は、自分が誰なのか疑わない。当たり前のこととして、自己同一性を保っている。
でも、僕はその当たり前を失ってしまった。
「山田、昔の話をしようか」田中が提案した。
「昔の話?」
「ああ。お前と俺が初めて会った時のこと、覚えてるか?」
僕は記憶を探った。でも、はっきりしない。
「大学の入学式だったか?」
「違うよ」田中は笑った。「新入生歓迎コンパだよ。お前、緊張しまくってて、ほとんど喋らなかった」
新入生歓迎コンパ。その記憶は曖昧だった。
「で、俺が話しかけたんだ。『緊張してる?』って」
田中の声を聞いて、少しずつ記憶が蘇ってきた。確かに、そんなことがあった気がする。
「お前、『はい、人見知りなんです』って答えた」田中は懐かしそうに笑った。「それで、俺も同じだって言ったら、お前すごく安心した顔してた」
安心した顔。その時の気持ちを、僅かに思い出せる気がした。
「それから、よく一緒にいるようになったよな」田中は続けた。「講義も、昼飯も、飲み会も」
田中との思い出。それは確かに僕のものだった。他の誰のものでもない、山田太郎の記憶だった。
「山田は優しいやつだよ」田中は真剣な顔で言った。「困ってる人を見ると放っておけない。俺が失恋した時も、朝まで付き合ってくれた」
朝まで付き合った。その記憶も、確かにある。田中が泣きながらビールを飲んでいた夜。
「お前は何もない人間じゃない」田中は断言した。「ちゃんと、お前の人生がある」
僕の人生。でも、それは他人の輝かしい記憶に比べて、あまりにも地味で、平凡で、つまらない。
「地味でも、平凡でも、それが太郎なんだよ」田中は僕の考えを見透かしたように言った。「他人の記憶なんて、所詮借り物だ。お前自身の記憶こそが、お前を作ってるんだ」
田中の言葉は、シンプルで、力強かった。
「でも、僕の記憶は曖昧で……」
「みんなそうだよ」田中は笑った。「誰だって、過去のことを正確に覚えてるわけじゃない。でも、それでいいんだ」
それでいい。田中の言葉に、少しだけ救われた気がした。
「帰ろうぜ」田中が立ち上がった。「飲みに行こう。久しぶりに」
居酒屋で、僕たちは久しぶりにゆっくり話をした。大学の思い出、くだらない冗談、将来の不安。
田中は普通に接してくれた。僕を犯罪者として見ることも、異常者として扱うこともなく、ただの友人として。
それが、どれだけ救いになったか。
「なあ、山田」田中が酔った勢いで言った。「お前、就職どうするんだ?」
就職。そういえば、僕はまだ就職先が決まっていなかった。記憶屋に通い始めてから、就職活動も放棄していた。
「わからない」
「じゃあ、これから考えればいいじゃん」田中は気楽に言った。「まだ時間はあるよ」
これから。未来の話だった。
「未来なんて、考えられない」
「どうして?」
「自分が何者かわからないのに、未来なんて……」
「逆だよ」田中は真剣な顔になった。「未来を考えることで、自分が見えてくるんだ」
未来を考えることで、自分が見えてくる。
「お前、何がしたいんだ? これから」
何がしたいのか。僕は考え込んだ。
記憶屋に通う前、僕は何を望んでいたのか。輝かしい青春? 成功体験? 他人から認められること?
でも、それらはすべて表面的な欲望だった。本当に欲しかったものは、何だったのか。
「わからない」僕は正直に答えた。「でも、少なくとも、自分が誰なのかを知りたい」
「じゃあ、それが目標じゃないか」田中は笑った。「自分探しの旅だ」
自分探し。ありふれた言葉だが、今の僕には切実な課題だった。
居酒屋を出て、夜の街を歩いた。酔いが回って、足元がふらついている。田中が支えてくれた。
「山田、明日から大学来いよ」
「でも……」
「でももクソもないよ。お前の居場所はここなんだから」
居場所。僕の居場所は、まだここにあるのだろうか。
アパートの前で、田中と別れた。
「また明日な」
「うん」
部屋に入って、ベッドに倒れ込んだ。酔いと疲れで、意識が遠のいていく。
でも、眠る前に、一つだけ確信したことがあった。
田中との思い出は、間違いなく僕のものだということ。他の誰のものでもない、山田太郎の記憶だということ。
それは地味で、特別なことは何もない記憶だった。でも、確かに存在している。




