第五十一話 別の世界があるらしい
得体のしれない女の言うことを真に受けるつもりはないが、この世界に前田がいないというのは間違いないのかもしれない。俺にもその理由はわからないが、この女の言っていることは真実なのだろうという確信めいたものがあるのだ。
「この世界に前田がいないってことなら、俺はもうこの世界に用はないってことだな。教えてくれてありがとう」
もしものためにとっておいた鉈をカバンから取り出そうとしたのだが、いつもの場所に鉈はなかった。やけに軽くなっているとは思っていたのだけれど、鉈までなくなっているというのは想定外だった。
学校を出るときには確かにずっしりとした重量感はあったし、トンネルの中を歩いているときにもカバンを右手から左手に持ち替えていたので重さを感じていたと思う。
トンネルを抜けた後に見た光景があまりにも異常だったのでカバンを持っていた時の感触は覚えていないのだが、それ以降のカバンは心なしか軽くなっていたような気もするのだ。そこに関して確信は持てないのだが、トンネルを抜けた後にカバンが軽くなっていたような気がしてきた。
「ちょっと待ってって、君はそうやって結論を急ごうとする。それはあまりいい事とは言えないよ。私の話をちゃんと聞いてからにしないと無駄に死ぬことになるんだからね。いくら君だって無駄死には嫌でしょ?」
「無駄死にが嫌だというか、死ぬのは嫌なんだけど」
「そうなんだ。君は死ぬことに対して抵抗なんて無いのかと思ってた。いや、そのことを覚えていないだけだったりするのかな」
この女はいったい何を言っているのだろう。
誰だって死ぬことは嫌だと思うし、死ぬことに抵抗がないほど絶望しあきらめの境地に立っているわけでもない。死ぬことに対して抵抗がないなんて冗談にしても笑えるようなものではない。
だが、俺はナイフや鉈でいったい何をしようとしていたのだろうか?
自分でも理由がわからない。
「君は少し混乱しているみたいだけど、君はこの世界に前田がもういないと知った時に何を思ったのかな?」
「何をって、この世界にいないってことは別の世界にいるってことなんだろうって思っただけだけど」
「それって、別の世界があることを君は知っているってことでイイのかな?」
良いのかなと言われても俺には答えることが出来ない。
俺が暮らしている範囲を俺の世界だと仮定して、俺が関わっていない他の範囲を別の世界と仮定するのであれば別の世界があると言えるだろう。
だが、この女が言っている別の世界というのはそういうものではないだろう。
文字通り、俺が暮らしているこの地球とは全く別の星だったり今の時代とは別の時代だった利するのだろう。
そういう意味で別の世界だと言っているのだろうが、当然俺はそんな世界があるということなんて知らないし有るとも思っていない。思ってはいないのだけれど、前田がその別の世界にいるんだということは知っている。それが誰かから聞いたからなのか俺が過去に経験していたからなのかわからないが、前田が別の世界に行っているということは過去にもあったことのように思えた。
俺は、過去にも前田が消えてしまったという事実を体験している。
そんな気がしていた。
「君が前田と同じ世界に行く方法を正確にご存じだとは思わないけど、何となくはわかっているんだろうということはわかっているよ。だって、君はこのナイフか鉈を使ってこの世界から自分を解き放とうとしていたんだからね。それが無意識なのか意識しての事なのかはわからないけど、深く考える前に即決し迅速に命を絶とうとしたくらいに習慣化していたんだろうね。いったい今まで君は何度前田の後を追って命を絶ったって言うんだろう。全く、前田って男は罪な男だね」
前田を褒めているのか貶しているのかわからないが、悪意を持っているわけではなさそうだ。慈愛に満ちている優しい視線からは純粋に俺の身を案じているようにも思える。
ただ、俺が今まで何度も前田の後を追って自殺しているというようにしか聞こえないのだが、俺は今まで一度も自殺なんてしたことがないし、誰かに殺されたこともない。
それなのに、俺はどうしてナイフと鉈を常備していたのだろう。
サバイバルをするわけでもなく、何か物を作るというわけでもない。もちろん、誰かと喧嘩をするときに使うようなものでもない。
なぜあんなモノをカバンや内ポケットに忍ばせていたのだろう。
その意味を、俺自身も理解はしていなかった。
「そうやっておとなしく話を聞いてくれる姿勢は大事だね。今から君にとってとても大切なのに辛いことを教えてあげるね。多分、君はこのことを聞くことで後悔してしまうと思うんだけど、これを聞かないと本当に無駄死にするだけになってしまうからね。それだけは避けた方が良いと思うんだ」
女は俺が持っていたナイフと鉈を返してくれたのだが、俺がそれらを受け取った瞬間に柄を残して本体が砂になったかのようにサラサラと崩れていった。零れ落ちて行った砂を拾い集めようと同時に俺は女に両肩をがっしりと掴まれた。
顔を上げるとバッチリと目が合ったのだが、女の瞳の奥には何か得体のしれない恐怖が存在しているように見えていた。
「この世界の真実を教えてあげるよ」




