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腐敗の聖女と追放されました

作者: 希羽

 神聖歴842年。アステル王国は、緩やかな死に侵されていた。


 生命を蝕み、大地を枯らす「瘴気」。それは王国の東の森からじわじわと溢れ出し、木々を黒く変色させ、動物たちの命を奪い、畑を不毛の地へと変えていく呪いだった。


 この厄災に対抗できる唯一の存在が、神より浄化の力【サンクトゥス】を授かった聖女。


 そして、当代の聖女である私、エリアーナ・フォン・クラウスナーは、歴代最強の力を持つと言われていた。


「エリアーナ様、ご準備を! 瘴気が、また村に……!」


 神殿の侍祭が悲鳴のような声を上げる。私は静かに頷き、純白の祭服の袖を整えた。向かう先は、王都近郊の農村。瘴気の汚染レベルが危険水域に達したとの報せだった。


 現場に到着すると、そこは地獄のような光景だった。村の半分を覆う灰色の靄。瘴気に触れた麦の穂は黒く萎れ、家畜は口から泡を吹いて倒れている。村人たちは青ざめた顔で、遠巻きにこちらを見つめていた。その目に宿るのは、期待半分、そして恐怖半分。


 私は村の中心に立ち、静かに目を閉じて祈りを捧げる。


「――聖域解放(アブソリューション)


 私の両手から、太陽のような眩い光が奔流となって溢れ出した。光は津波のように広がり、禍々しい灰色の瘴気を一瞬にして飲み込んでいく。瘴気は光に触れたそばから霧散し、空は元の青さを取り戻した。


「おお……!」

「さすがは聖女様だ!」


 村人たちから安堵の声が上がる。だが、その声が歓声に変わることはない。


 光が収まった後、そこに広がっていたのは、瘴気とは別の絶望だったからだ。


 瘴気に汚染されていた麦畑も、森も、草地も、すべてが真っ白な灰と化していた。生命の気配が一切しない、静寂の世界。私の浄化魔法は、瘴気だけでなく、その地に根付く生命力そのものまで根こそぎ消し去ってしまう。


 村人たちの顔から血の気が引いていく。安堵はすぐに、静かな憎悪と恐怖へと変わった。


「……畑が、死んだ」

「これでは、来年まで生きていけない」

「ああ……なんて恐ろしい力だ……」


 彼らの囁き声が、針のように私の心を刺す。


 違う。私は、あなたたちを救うために――。


 しかし、その言葉は声にならなかった。事実として、私は彼らの土地を殺したのだ。人々が私を「腐敗の聖女」と蔑むのも、無理からぬことだった。


 その日の夕刻、王城の謁見の間に呼び出された私の前に、二人の人物が立っていた。


 一人は、この国の王太子であり、私の婚約者でもあるアルフォンス殿下。


 そしてもう一人は、最近になって神殿に現れた、もう一人の聖女、リリアン・セレスタ。


「エリアーナ。今日の浄化の儀、まことに見事であった」


 アルフォンス殿下の声は、氷のように冷たい。


「だが、その結果はどうだ。瘴気は消えたが、大地は死んだ。民は畑を失い、嘆き悲しんでいる。それは果たして『救い』と呼べるのか?」

「……しかし、放置すれば被害はさらに広がります。瘴気による死者を出すわけには……」

「その通りだ。だからこそ、我々は真の聖女様にお願いすることにした」


 アルフォンス殿下が隣のリリアンに優しく微笑みかける。リリアンはこくりと頷き、一歩前に出た。彼女の体から、蛍のような淡い光が放たれる。その光は、謁見の間に飾られていた、瘴気に蝕まれ黒ずんだ一輪の薔薇へと降り注いだ。


 薔薇の黒ずみは、わずかに薄らいだ。完全には消えていないが、枯れていた花びらが少しだけ瑞々しさを取り戻している。そして何より、花そのものが傷ついていない。


 「これが、真の癒やしの力だ」とアルフォンス殿下は言った。「大地を傷つけず、生命を育む、慈愛の光だ。リリアンこそが、この国を救う真の聖女だ!」


 謁見の間に集まった貴族たちから、賛同の声が上がる。彼らの目は、リリアンの弱いが「安全な」力を称え、私の強大で「危険な」力を糾弾していた。


「エリアーナ・フォン・クラウスナー」


 アルフォンス殿下が、判決を言い渡すように私の名を呼んだ。


「お前は偽りの聖女だ。その力は国を救うのではなく、破壊へと導く『腐敗の力』に他ならない。よって、聖女の称号を剥奪し、王国で最も瘴気が濃い不毛の地、『灰色の荒野』への追放を命じる」


 頭が、真っ白になった。


 追放? 私が? この国のために、民のために、心をすり減らしながら力を振るってきた私が?


 反論しようと口を開くが、言葉が出ない。周りを見渡しても、私を弁護する者は一人もいなかった。誰もが、厄介払いができたと安堵したような、あるいは、化け物を見るような冷たい目で私を見ている。


 その日のうちに、私は全ての身分と財産を剥奪され、たった一枚の粗末なローブだけをまとわされ、一台の荷馬車に乗せられた。


 夕暮れの王都を、荷馬車はゆっくりと進んでいく。窓の隙間から、民衆がリリアンを「救国の聖女」と讃え、祝祭を上げているのが見えた。


 誰も、私がいなくなったことなど気にも留めない。


 やがて王都の門をくぐり、馬車は荒れた道を進み始める。目指す先は、人も獣も住めぬと言われる、死の大地。


 悔しさと、悲しさと、そしてほんの少しの安堵が入り混じった、熱い雫が頬を伝った。


 もう、あの恐怖に満ちた目で見られることはない。もう、大地を殺す罪悪感に苛まれることもない。


 ――アステル王国がどうなろうと、もう私の知ったことではない。


 空っぽになった心で、私はただ、揺れる荷馬車に身を任せていた。


 荷馬車に揺られること幾日か。窓の外の景色から緑が消え、黒ずんだ岩と乾いた灰色の土だけが延々と続くようになった頃、ようやく馬車は止まった。


「着いたぞ。ここがお前の新しい住処だ」


 御者の男が吐き捨てるように言う。私が降り立ったのは、粗末な木の柵で囲まれただけの、十数軒の家が点在するだけの寂れた開拓村だった。吹き付ける風は砂塵を巻き上げ、乾いた咳を誘う。ここが、王国で最も過酷な土地、『灰色の荒野』。


 村人たちが、遠巻きにこちらを見ていた。王都の民が私に向けた恐怖の眼差しとは違う。彼らの目にあるのは、長年の苦労で染み付いたような、諦めと無関心。そして、新たな厄介者を見る侮蔑の色だった。


 一人の男が、村人たちの中から進み出てきた。日に焼け、厳しい顔つきをしているが、その目には強い意志の光が宿っている。


「俺はこの村のまとめ役、カイ・ランフォードだ。あんたが噂の『腐敗の聖女』様か」

「……エリアーナです」

「聖女だろうが何だろうが、ここでは働かざる者食うべからずだ。水も食料も、ここでは金より価値がある。あんたに分け与える余裕はない」


 カイと名乗った男は、私の返事を待たずに背を向けた。村人たちも、蜘蛛の子を散らすようにそれぞれの家に戻っていく。誰も私に手を差し伸べようとはしない。それが、この土地の掟なのだろう。


 あてがわれたのは、今にも崩れそうな空き家だった。隙間だらけの壁が、夜の冷たい風を容赦なく通す。喉がカラカラに乾いていた。村の中央にある井戸へ向かうと、桶には濁った水が澱んでいる。微かに瘴気の匂いがした。この水を飲めば、病気になるだろう。


 ――浄化、しなければ。


 しかし、王都での記憶が蘇る。私の力は、瘴気と共に大地そのものを殺してしまう。この村人たちにとって命綱であるはずの井戸を、私が灰に変えるわけにはいかない。


 それでも、喉の渇きは限界だった。せめて、この一杯の水だけでも。


 私は震える手で、木の杯に濁った水を汲んだ。そして、祈りを捧げる。いつも国全体を覆うようにイメージしていた力の奔流を、ただ、この小さな杯の中にだけ注ぎ込むように。破壊ではなく、救済を。全力ではなく、繊細な一滴を。


「――聖域解放(アブソリューション)


 私の指先から、米粒ほどの小さな光が生まれ、杯の水に落ちた。


 すると、どうだろう。水は光を放つことも、蒸発することもなく、ただ静かに、その濁りがすうっと消えていったのだ。瘴気の禍々しい気配は消え、澄み切ったただの水がそこにあった。


「……え?」


 私は恐る恐るその水を口に含んだ。冷たく、清らかで、ほんのりと甘みさえ感じる、今まで飲んだどんな水よりも美味しい水だった。


 灰にならない。破壊しない。瘴気だけを、消し去ることができた……?


 もしかして、私の力は、規模の問題だったのだろうか。国を救うという大義名分のもと、常に最大戦力で魔法を行使してきた。だが、もし、この一杯の水を浄化したように、細心の注意を払って力をコントロールすれば……。


 希望の光が、胸に灯る。私はもう一度、井戸に向き合った。今度は井戸そのものを浄化する。杯の水の時のように、優しく、丁寧に。瘴気という毒だけを取り除くイメージで。


 指先から放たれた光は、糸のように細く、静かに井戸の中へと沈んでいった。井戸水が激しく光を放つことはない。ただ、水面の揺らめきが収まった時、そこに溜まっていた水は、先程の杯の中のように、どこまでも透き通っていた。


 呆然と井戸を見つめていると、背後から声がした。


「……おい、お前。今、何をした?」


 振り返ると、そこにはカイが、信じられないものを見るような目で立っていた。彼の視線は、私と、輝くように澄んだ井戸水とを行き来している。


 私は何も答えられなかった。ただ、心臓が大きく、高く鳴っていた。それは恐怖からではない。追放されてから初めて感じた、確かな喜びの鼓動だった。


 この灰色の荒野でなら、私は『腐敗の聖女』ではなく、ただのエリアーナとして、誰かを、何かを、本当に救えるのかもしれない。


 カイは険しい顔のまま、おもむろに井戸から水を一杯汲むと、一気にそれを飲み干した。そして、目を見開いたまま、こう言った。


「……明日、東の畑に来い。話がある」


 それは、拒絶でもなく、歓迎でもない、無骨な言葉だった。だが、私にとっては、追放されてから初めて向けられた、人間としての期待が込められた言葉のように聞こえた。


 翌朝、私はカイに指定された村の東にある畑へと向かった。そこは「畑」と呼ぶのも憚られるような、ひび割れた灰色の地面が広がるだけの不毛の地だった。カイと、数人の村人たちが腕を組んで私を待っていた。


「昨日の井戸は見事だった」


 カイは、相変わらず厳しい表情のまま切り出した。


「だが、水だけじゃ生きていけねえ。俺たちが欲しいのは、この死んだ土地で育つ作物だ。あんたの力で、この畑を蘇らせることはできるか?」


 彼の目は、試すように私を射抜いていた。村人たちの視線も同じだ。ここでできなければ、私はただ「少し便利な水汲み女」でしかない。彼らが本当に求めているのは、この絶望的な土地で生きるための希望だった。


「……やってみます」


 私は静かに頷き、畑の中心へと歩みを進めた。


 王都にいた頃の私なら、きっと躊躇しただろう。私の浄化は、大地を殺す力だったから。でも、今は違う。昨夜の一滴の奇跡が、私に新たな可能性を示してくれた。


 深く息を吸い、両手をそっと地面にかざす。意識を集中させるのは、力の規模ではない。その質だ。大地に宿る微かな生命力を感じ取り、それを蝕む瘴気の毒素だけを、丁寧に取り除いていく。まるで、布に染み付いた染みだけを、生地を傷つけずに抜き取るように。


「――聖域解放(アブソリューション)


 私の手から放たれたのは、かつてのような全てを焼き尽くす太陽の奔流ではなかった。それは、夜明けの空のような、柔らかく穏やかな光。光は爆発的に広がるのではなく、慈しむようにゆっくりと大地へと染み込んでいく。


 膨大な魔力が、繊細なコントロールを強いられて体中を駆け巡る。目眩がし、立っているのがやっとだった。けれど、私は力を緩めなかった。


 すると、信じられない光景が広がった。


 私の足元から、灰色の地面がみるみるうちに色を変えていく。乾ききった死の灰色から、水分と養分をたっぷりと含んだ、生命力溢れる黒土へと。瘴気の淀んだ匂いは消え、雨上がりの森のような、清浄な土の香りが風に乗って運ばれてきた。


「おお……!」

「土が……生き返ってやがる……!」


 村人たちから、驚愕の声が漏れる。一人の老人が、おぼつかない足取りで畑に近づくと、その場に膝をつき、両手で黒土をすくい上げた。


「……柔らかい。暖かい。何十年ぶりだろうか。こんな土を触るのは……」


 老人の目から、大粒の涙がこぼれ落ち、蘇った大地に吸い込まれていった。


 全ての浄化を終えた私は、立っていられなくなり、その場にへたり込んだ。体は空っぽだったが、心は不思議なほどの達成感で満たされていた。


 静かに歩み寄ってきたカイが、私の目の前で屈み込む。彼もまた、ひとすくいの土を手に取り、その感触を確かめるように指の間からこぼれ落とした。


「……あんた、一体何者なんだ」


 その声には、もう侮蔑の色はなかった。ただ、純粋な畏敬と、理解を超えたものへの戸惑いが滲んでいる。


「私は……ただの、エリアーナです」


 そう答えるのが、精一杯だった。


 カイはしばらく黙っていたが、やがて立ち上がると、村人たちに向かって、今まで聞いたこともないほど大きな声で言った。


「総出でこの家を直し、一番いい寝床を用意しろ! それから、ありったけの保存食と温かいスープだ! 彼女は、この村の恩人だ!」


 その言葉を合図に、村人たちの間に、歓声ともどよめきともつかない声が上がった。彼らは私を遠巻きに見ていた昨日までとは違い、駆け寄ってきては、私の体を心配そうに覗き込んだ。


 その夜、私は修繕された家で、温かい豆のスープを飲んでいた。それは、王城で食べたどんな豪華な食事よりも、私の心と体を温めてくれた。


 窓の外では、村人たちが松明を灯し、蘇った畑を囲んで小さな宴を開いている。その光景を眺めながら、私は確信した。


 私は追放されたのではない。


 この灰色の荒野で、本当の聖女になるために、ここに導かれたのだ、と。


 私が畑を蘇らせてから、村の空気は一変した。諦めが支配していた人々の顔には活気が戻り、子供たちの笑い声が灰色の荒野に響くようになった。村人たちは総出で黒土の畑を耕し、備蓄されていた種を蒔いた。私はその畑に毎日通い、発芽を促し、健やかに育つよう、大地に微細な魔力を注ぎ続けた。


 そんなある日、カイが深刻な顔で私の元へやってきた。


「エリアーナ、頼みがある。こいつを見てくれ」


 彼が私に見せたのは、刃こぼれし、錆びついた一本の鍬だった。


「畑はできた。だが、俺たちの道具はもう限界だ。この辺りには昔、鉄鉱石が採れる鉱山があったんだが、数十年前に瘴気に汚染されて放棄された。あんたの力で、鉱山を浄化することはできないだろうか?」


 道具がなければ、開拓は進まない。村が豊かになるためには、避けては通れない問題だった。


「案内してください。やってみます」


 カイに連れられて向かった鉱山は、入り口からして禍々しい瘴気を放っていた。内部は暗く、湿った空気は肺を刺すように冷たい。王都にいた頃なら、この鉱山ごと浄化して、山肌を真っ白な灰に変えていただろう。


 だが、今の私には別の方法があった。


 私は目を閉じ、意識を集中させる。力の奔流を放つのではない。魔力を細い糸のように練り上げ、それを感覚器として鉱脈の奥深くまで伸ばしていくのだ。瘴気の源流を探り、その核だけを的確に狙うために。


「……あった」


 瘴気は、鉱脈に絡みつく蔦のように岩盤の奥で渦巻いていた。私は魔力の糸をさらに細く、鋭くし、その蔦だけを断ち切るように力を解放した。


 ズン、と地響きのような微かな振動が足元を伝わる。すると、鉱山の入り口から吹き付けていた不快な風がぴたりと止み、代わりに清浄な空気が奥から流れ込んできた。


「……瘴気が、消えた?」


 カイが松明を掲げて奥へ進むと、壁面には良質な鉄鉱石が黒々とした輝きを放っていた。


 その日のうちに、村の男たちは鉱山へと向かい、歓声を上げながら次々と鉱石を運び出した。村で唯一の鍛冶師である老人が、涙を流してその鉱石を撫でていたのが印象的だった。


 数日後、村の鍛冶場から、心地よい金属音が響き渡る。新しい鍬や鋤が次々と打ち直され、村人たちの手に渡っていった。私も、カイから護身用にと、美しく研ぎ澄まされた一振りの短剣を贈られた。そのずっしりとした重みが、この村が自らの足で立ち上がろうとしている証のように感じられた。


 そんな平穏な日々に、小さな波紋が投げかけられたのは、それから一月ほど経った頃だった。


 一人の旅商人が、痩せこけた馬を引いて村に立ち寄ったのだ。彼は村の変わりように目を丸くし、浄化された水と、芽吹いたばかりの麦畑を見て絶句していた。


「信じられん……ここは死の大地のはず。東の男爵領は、もう瘴気に飲まれて地図から消えたというのに……」


 商人がもたらした王国の情報は、私の胸をざわつかせた。


「王都では、リリアン様が日夜祈りを捧げておられるが、瘴気の勢いは増すばかり。浄化しても、数日後にはまた元に戻ってしまうそうだ。人々は、『腐敗の聖女』を追放したせいだと、今更ながら王家を非難し始めているとか……」


 カイが、私の隣で静かに言った。


「あんたを追放した連中のことだ。同情はしねえ」

 「……ええ。私の居場所は、もうあそこにはありません」


 私の視線の先には、夕日に照らされて緑に輝く麦畑と、新しい道具を手に明日への希望を語り合う村人たちの姿があった。


 王都での日々が、まるで前世のことのように遠く感じられた。あそこで私に向けられたのは、恐怖と侮蔑の視線。だが、ここにいる村人たちの目は、信頼と感謝の温かさで満ちている。


 この手で掴んだ、ささやかで、かけがえのない日常。これを守るためなら、私はどんな力も振るうだろう。


 私は贈られた短剣の柄を、強く握りしめた。


 ◇◇◇


 季節は巡り、灰色の荒野に初めての実りの時が訪れた。


 私と村人たちが丹精込めて育てた麦畑が、黄金色の穂をたわわに実らせたのだ。収穫祭の日、村はかつてないほどの喜びに包まれた。子供たちは麦の穂を編んで作った冠をかぶり、大人たちは新しくできたパンを頬張り、涙を流してその味を噛みしめていた。


「エリアーナ様のおかげだ」

「まさに、この村の聖女様だ」


 村人たちの感謝の言葉が、胸に温かく染みる。私はもう「腐敗の聖女」ではなかった。この土地で、私は命を育む者として受け入れられたのだ。


 村の発展は目覚ましかった。蘇った鉱山から採れる鉄で農具は充実し、開拓された畑は村の食料を支え、余剰分は交易にも回せるようになった。かつて死の大地と呼ばれたこの場所は、今や旅商人たちの間で「灰色の奇跡」「聖女のオアシス」と呼ばれるようになっていた。


 しかし、繁栄の光が強くなるほど、その外から差す影もまた濃くなっていく。


 ある日、村を訪れた商人が、青ざめた顔で王都の惨状を語った。


「ひどいものです。瘴気は王都の城壁のすぐ外まで迫り、城下の畑は全滅。食料価格は高騰し、民衆の不満は爆発寸前だとか」


 彼は声を潜め、続けた。


「『真の聖女』リリアン様は、日に日に衰弱しておられるそうです。彼女の力では、もはや瘴気の進行を止めることはできない。民の間では、王家が本物の聖女様……つまり、エリアーナ様を追放したから天罰が下ったのだと、もっぱらの噂で……」


 その話を聞いていたカイが、苦々しく吐き捨てる。


「自業自得だ。今更どの口がそんなことを」


 私は黙って頷いた。王国に同情はない。だが、瘴気に苦しむ名もなき民のことを思うと、胸が痛んだ。


 そんな私の葛藤を見透かしたように、カイが言った。


「お前が気に病むことはない、エリアーナ。お前には今、守るべき民がここにいる」


 彼のまっすぐな視線が、私の迷いを振り払ってくれる。そうだ。私の居場所はここだ。この村の人々こそが、私の民なのだ。


 その決意を試すかのような出来事が、すぐに起こった。


 村の井戸の水位が、少しずつ下がり始めたのだ。人口が増え、畑が広がったことで、一つの井戸では水が足りなくなってきていた。このままでは、いずれ村は再び乾き、立ち行かなくなる。


「鉱山の奥深くに、巨大な地下水脈があるという言い伝えがある」


 カイは村の古地図を広げ、私に言った。「だが、そこは瘴気の濃度が最も高く、誰も近づくことさえできなかった場所だ」


 それは、今までで最も危険な浄化になるだろう。しかし、村の未来のためには、やり遂げるしかなかった。


 私とカイ、そして数人の屈強な村人たちは、鉱山の最深部へと足を踏み入れた。そこは空気が重く、瘴気が目に見えるほどの濃さで渦巻いていた。


 私は祈りを捧げ、これまで培ってきた力のすべてを解放する。


 だが、今回はただ浄化するだけではない。瘴気を消し去った後、岩盤の奥に眠る清らかな水脈を、この地表まで導くのだ。破壊ではなく、創造。それは、聖女に与えられた力の、本当の使い方。


「――再生の息吹(リジェネレーション)!」


 私が編み出した、新たな魔法。それは、瘴気を浄化し、生命力を活性化させる奇跡の力。


 眩い光が闇を払い、禍々しい気配が霧散していく。だが、瘴気の抵抗も凄まじく、私の魔力はみるみるうちに削られていった。意識が遠のき、膝が折れそうになったその時、力強い腕が私の体を支えた。


「一人で背負うな、エリアーナ」


 カイの声だった。見れば、他の村人たちも、私を守るように周囲を固めている。


 彼らの信頼が、私の尽きかけた力に再び火を灯した。


「――いっけえええええ!」


 最後の力を振り絞ると、ゴゴゴゴという地響きと共に、目の前の岩盤から清らかな水が勢いよく噴き出した。水は濁流となって鉱山を駆け下り、乾いた大地を潤しながら、村へと続く新たな川筋を作っていった。


 鉱山の外で待っていた村人たちから、割れんばかりの歓声が上がる。


 灰色の荒野に、命の川が生まれた瞬間だった。


 私はカイの腕に支えられながら、その光景をただ夢中で見つめていた。もう、王国がどうなろうと関係ない。私はこの地で、私の民と共に、未来を築いていくのだ。


 その決意を胸に刻んだ私の耳には、遠い王都で上がる民衆の悲鳴も、私を呼ぶ後悔の声も、もう届いてはいなかった。


 ◇◇◇


 灰色の荒野に川が流れてから、村は「オアシス」と呼ばれるに相応しい場所へと変貌を遂げた。水路が整備され、畑はさらに広がり、家畜の数も増えた。村の名は旅商人たちの間で瞬く間に広まり、人々は敬意と親しみを込めて、この地を「エリアーナの村」と呼ぶようになった。


 しかし、光ある場所には、影もまた集まる。


 ある風の強い日、村の見張り台から声が上がった。


「西から……人の集団が来るぞ!」


 カイと共に丘に立つと、地平線の向こうから、ぼろぼろの衣服をまとった数十人の人々が、よろよろとこちらへ向かってくるのが見えた。難民だ。瘴気に土地を追われた、王国の民だった。


「水……水をください……」

「食べ物を……子供が……」


 村の入り口で力尽きた彼らは、か細い声で助けを求めた。その姿は、私を追放した王国の傲慢さとはかけ離れた、ただ生きようとする人々のものだった。


「受け入れよう。見捨てることはできない」


 カイの決断は早かった。村人たちも、かつての自分たちを重ねるように、文句一つ言わず難民たちを迎え入れた。私は浄化した水と、畑で採れた滋養のあるスープを彼らに与えた。温かい食事を口にし、涙を流す人々の姿に、私の胸は締め付けられた。


 難民たちが語る王国の現状は、商人の話よりさらに悲惨だった。


「リリアン聖女様は、もうお力を失われた……。王都は瘴気に囲まれ、まるで陸の孤島です」

「貴族たちは我々を見捨て、城壁の中に閉じこもっている。外に残された民は、ただ死を待つばかり……」


 彼らの話は、一つの時代の終わりを告げているようだった。


 その数日後、今度はまったく異なる来訪者が村に現れた。


 先頭に立つのは、王家の紋章を掲げた豪奢な馬車。それを護衛するのは、きらびやかな鎧に身を包んだ騎士たち。彼らは難民たちとは対照的に、この辺境の地には不釣り合いなほどの威光を放っていた。


 馬車から降りてきたのは、見覚えのある男だった。王太子アルフォンス殿下の側近、マルクス伯爵。彼は私を断罪したあの日、最も軽蔑に満ちた目で私を見ていた男だ。


「エリアーナ・フォン・クラウスナー。いや、『腐敗の聖女』よ。王太子殿下からの勅命である」


 マルクス伯爵は、蘇った村の光景を値踏みするように見回しながら、尊大に言い放った。


「お前の追放を解く。ただちに王都へ戻り、その力を王国のために使うことを許可する。光栄に思うがいい」


 その言葉に、周りにいた村人たちの顔色が変わる。カイが、私をかばうように一歩前に出た。


「ふざけるな。あんたたちはエリアーナを捨てたんだ。今更どの面を下げて……」


 「黙れ、辺境の民が」伯爵はカイを冷たく見下す。「これは命令だ。聖女は王家の所有物。我々には、彼女を連れ帰る権利がある」


 その傲慢な物言いに、私の心の中で何かがぷつりと切れた。私はカイの前に進み出て、マルクス伯爵とまっすぐに向き合った。


「お断りします」


 凛とした声が、乾いた風の中に響く。伯爵は、私が断るとは思ってもいなかったのか、一瞬呆気に取られた顔をした。


「……何を言っている? これは、殿下直々のお情けだぞ!」


 「情け、ですか」私は静かに首を振る。「私を偽物と断じ、この死の大地に追いやったのは、あなた方です。私はここで、私を必要としてくれる人々と共に、新たな生き方を見つけました。私の力は、この村と、ここに住む私の民のためにあります」


 私の毅然とした態度に、伯爵の顔が怒りで歪む。


「逆らう気か! たかが追放された女一人が、王国に楯突くなど……!」


 伯爵が剣の柄に手をかけた、その時だった。


 カキン、という鋭い金属音と共に、彼の喉元に一本の矢が突きつけられた。矢を突きつけたのは、村の若い狩人。見れば、いつの間にか、鉱山で鍛えられた新しい武具を手にした村人たちが、騎士たちを静かに取り囲んでいた。彼らの目は、もはや諦観に満ちた難民のそれではない。自らの手で未来を掴んだ、土地を守る戦士の目だった。


「……っ!」


 マルクス伯爵は、予想外の抵抗に言葉を失い、顔を青ざめさせる。


 「お引き取りください、伯爵」カイが低い声で言った。「次にこの地に足を踏み入れる時は、歓迎のパンではなく、鋼の矢を以て迎えよう。それが、この『エリアーナの村』の答えだ」


 伯爵は屈辱に顔を震わせながらも、多勢に無勢と悟ったのだろう。忌々しげに舌打ちをすると、馬車に乗り込み、慌ただしく去っていった。


 遠ざかる馬車を見送りながら、私は固く拳を握りしめていた。


 これで終わりではない。むしろ、始まりなのだ。


 力を失い、正義も大義も失った王国が、次に取る手段は一つしかない。


 ――この豊かな土地と、私という力を、力ずくで奪いに来る。


 だが、もう私は一人ではない。私の隣にはカイがいる。後ろには、共に戦うと決めた、かけがえのない民がいる。


 灰色の荒野に、決意の風が吹いていた。


 ◇◇◇


 王都アステルは、死の淵に立たされていた。


 マルクス伯爵がもたらした報告は、玉座に座るアルフォンス王太子を激昂させるのに十分だった。


「辺境の民が……王国に刃向かうだと? 恩知らずどもめ!」


 謁見の間には、焦燥と苛立ちが渦巻いていた。城壁の外は瘴気に覆われ、食料は底をつき、民衆の不満は暴動寸前まで高まっている。リリアン聖女はとうに力を失い、今はただベッドで祈ることしかできない。もはや、国を救う力を持つ者が、追放したエリアーナしかいないことは誰の目にも明らかだった。


 「もはや説得の余地はありません」マルクス伯爵が進言する。「彼女は、あの土地と民を自らの所有物と勘違いしているのです。ならば、力で奪い返すまで」

「軍を……出すというのか」


 老宰相が、かすれた声で問いかける。


 「他に道がありましょうか」アルフォンスは立ち上がり、冷酷に言い放った。「エリアーナは、もとより王家の所有物。それをたぶらかした辺境の民は反逆者だ。反逆者には、鉄槌を下すのみ。全軍に命じよ。ただちに辺境へ進軍し、『腐敗の聖女』を捕縛。逆らう者は、一人残らず殲滅せよ!」


 それは、もはや国を救うための決断ではなかった。自らが犯した過ちを認めることができず、失墜した権威を取り戻すためだけの、愚かで傲慢な命令だった。彼らは、自分たちが見捨てた民が、武器を取って抵抗してくる可能性など、微塵も考えてはいなかった。


 その頃、エリアーナの村では、来るべき戦いに向けた準備が着々と進められていた。


「敵の数は、おそらくこちらの十倍以上になるだろう」


 カイは村の広場に集まった男たちを前に、冷静に告げた。村人たちの顔に緊張が走る。だが、そこに恐怖の色はなかった。


「だが、恐れるな。俺たちには地の利がある。そして、この手には鉱山から掘り出した鉄で鍛えた、新しい剣と槍がある。何より、俺たちには守るべきものがある!」


 カイがそう言って私に視線を向けると、村人たちから雄叫びのような声が上がった。


 鍛冶場では昼夜を問わず火が焚かれ、鉱山で採れた鉄が屈強な武具へと姿を変えていく。村の周囲には深い堀が掘られ、新たに生まれた川の水が引き込まれて天然の要害となった。女たちは食料を備蓄し、子供たちでさえ、矢を運ぶ手伝いをしていた。


 私は、その光景を胸の痛む思いで見つめていた。私のせいで、この穏やかな村を戦火に巻き込んでしまった。


「……私のせいです」


 夜、見張りの櫓の上で、隣に立つカイに思わず呟いていた。


「私が、ここにいなければ……」


 「馬鹿を言うな」カイは、私の言葉を遮った。「お前がいなければ、俺たちはとうの昔にこの土地を捨てていたか、瘴気に飲まれて死んでいた。お前は俺たちに、戦ってでも守りたい未来をくれたんだ。下を向くな、エリアーナ」


 彼は、不器用な手つきで私の頭をぽんと撫でた。


「お前は、お前のやり方で戦えばいい」


 その言葉に、私は顔を上げた。そうだ。私にしかできない戦い方がある。


 翌日から、私は村中を歩き回った。鍛冶場で打たれた剣や鎧に、浄化の力を応用した祝福の魔法をかける。それは武具の強度を高め、使い手を瘴気の邪気から守る加護となる。村を囲む柵には、聖なる結界を編み込んだ。それは物理的な壁ではないが、邪な意思を持つ者の侵攻を鈍らせるだろう。


 そして、決戦の前夜。私は一人、村を見下ろす丘の上に立った。眼下には、松明の光が点々と灯り、家族と最後の夜を過ごす村人たちの姿が見える。


 私は両手を大地にかざし、静かに祈りを捧げた。


「――再生の息吹(リジェネレーション)


 私の魔力が、村全体を優しく包み込む。それは、戦いのための力ではない。この土地に生きる全ての命を励まし、明日へと繋ぐための、癒やしと再生の祈りだった。


 夜が明け、朝霧が晴れた頃。


 見張りの若者が、絶叫に近い声を上げた。


「来た……! 王国の軍だ!」


 地平線の彼方。朝日を浴びて、無数の鋼が鈍色に輝いていた。整然と隊列を組んだ王国の軍勢が、砂塵を巻き上げながら、まるで巨大な鉄の蛇のように、私たちの村へと迫ってくる。


 私はカイの隣に立ち、その光景をまっすぐに見据えた。


 もう、後戻りはできない。


「始めよう、カイ」


 「ああ」と、カイは剣を抜いた。「俺たちの、国盗り合戦をな」


 灰色の荒野に、戦いの始まりを告げる角笛が、低く、長く響き渡った。


 王国の軍勢は、さながら鋼鉄の津波だった。先頭に立つのは、陽光を浴びて輝く重装騎士団。彼らの顔には、辺境の民を蹂躙することへの疑いも、憐れみもない。ただ、命令を遂行する機械のような冷酷さだけが浮かんでいた。


「全軍、突撃! 反逆者どもに王家の威光を知らしめよ!」


 後方で指揮を執るマルクス伯爵の甲高い号令が響き渡る。地響きを立てて、騎士団が一斉に村へと殺到した。


 だが、彼らが最初に味わったのは、辺境の土の味だった。


「なっ……馬が!」


 先頭の数騎が、村の目前で突然地面に脚を取られて転倒する。後続の馬も次々と同じ罠にはまり、完璧だったはずの突撃陣形は一瞬にして混乱に陥った。それは、私が昨夜のうちに祈りを込めていた場所。大地に頼み、表土の下を沼のように柔らかく変質させておいたのだ。


「怯むな、進め!」


 騎士たちが馬を立て直そうともがく、その一瞬の隙を、村人たちは逃さなかった。


「放てぇ!」


 カイの号令一下、柵の内側から無数の矢が放たれる。それはただの矢ではない。一本一本に、私の「浄化」の祝福を込めた聖なる矢。矢は騎士たちの分厚い鎧を紙のように貫き、的確に急所を捉えた。


「ぐあああっ!」


「馬鹿な、この鎧が……!?」


 王国最強を誇る騎士たちが、名もなき村人たちの矢によって次々と落馬していく。彼らは信じられないものを見る目で、自らに突き刺さる矢を見つめていた。


「次は俺たちの番だ!」


 カイを先頭に、村の男たちが堀に架けられた一本橋から躍り出る。その手にあるのは、鉱山で鍛えられた新しい剣と槍。私の祝福を受けた鋼は、騎士たちの剣をたやすく打ち砕き、その勢いを殺すことなく敵兵を薙ぎ払っていく。


 私は村の一番高い見張り櫓から、戦場のすべてを見つめていた。私の役目は、直接敵を討つことではない。この村の誰一人として、死なせないことだ。


「――癒やしの光よ!」


 敵の刃に倒れた村人の傷が、私の祈りによって瞬時に塞がっていく。疲弊した仲間の体に、活力が戻っていく。戦場全体を俯瞰し、戦況の綻びを先読みし、それを癒やしの力で繕っていく。それが、今の私にできる戦い方だった。


 王国の軍勢は、明らかに動揺していた。彼らが相手にしているのは、武器の扱いも知らない農民ではなかった。故郷を守るために死をも恐れぬ覚悟を持った戦士たちであり、その背後には、戦場そのものを支配する聖女の奇跡があった。


「伯爵! このままでは損害が……! 一度退くべきです!」

「黙れ! たかが百姓相手に、王国騎士団が退いてどうする! 予備隊を投入しろ! 踏み潰してしまえ!」


 後方で見ていたマルクス伯爵は、現実を受け入れられずに叫ぶ。彼の命令で、さらに多くの兵士たちが泥濘と化した戦場へと突入し、無駄に命を散らしていく。


 その無慈悲な光景を、さらに後方の丘の上から、一人の男が苦々しい表情で見つめていた。王太子、アルフォンス。


「……役立たずどもめ」


 彼の呟きは、誰に向けられたものだったのか。無様に苦戦する自軍か、あるいは、自らの命令に逆らい、奇跡の力を見せつける元聖女か。


「エリアーナ……」


 アルフォンスは、遠眼鏡を構え、櫓の上に立つ私の姿を捉えた。その横顔は、かつて王都で見た、おどおどとした女のものではなかった。民を導き、戦場を支配する、女王の風格さえ漂わせていた。


 その姿が、彼の歪んだ誇りを決定的に傷つけた。


「――全軍、退け」


 不意に、アルフォンスが低い声で命じる。マルクス伯爵は驚きながらも、その命令に従った。敗走する王国軍を、村人たちは深追いせず、勝利の雄叫びを上げた。


 だが、私とカイだけは、その撤退に安堵していなかった。あまりにもあっさりとしすぎている。


 その予感は、すぐに現実のものとなる。


 退却した王国軍が、丘の上で奇妙な動きを見せた。兵士たちが、巨大な台車に乗せられた何かを運び出してきたのだ。それは、禍々しい紫色の水晶がはめ込まれた、巨大な弩のような形をしていた。


「……まさか、あれは……」


 カイが息を呑む。私も、それが何かを理解した。


 禁断の魔導兵器、「瘴気カタパルト」。瘴気を凝縮した水晶を撃ち出し、着弾した一帯を生命の住めない死の大地へと変える、非道の兵器。かつて王国が、敵国を滅ぼすために一度だけ使用し、そのあまりの破壊力と非人道性から封印したはずのものだった。


「アルフォンス殿下……正気ですか……」


 私を捕らえるためではない。自分に逆らうこの村ごと、そこに住む民ごと、全てを無に還すつもりなのだ。


「エリアーナ!」


 カイが私の名を叫ぶ。村人たちも、あの兵器が何なのかを悟り、顔を青ざめさせていた。


 紫色の水晶が、不気味な光を放ち始める。狙いは、この村の中心。


 もう、小手先の魔法では防げない。


 私は櫓から飛び降り、村の広場の中心に立った。そして、両手を天に掲げる。


 この地を守る。この民を守る。そのために、私は、かつて自分が最も恐れた、あの力を解放する。


 だが、今度は違う。破壊のためではない。


 全てを、守り抜くために。


「――聖域解放(アブソリューション)!」


 私の体から、王国全土を浄化した時と同じ、いや、それを遥かに凌駕するほどの純白の光が、天を突く柱となって立ち上った。


 丘の上、アルフォンス王太子は歪んだ笑みを浮かべていた。


「やれ。あの忌まわしき村ごと、聖女のまがい物を消し去ってしまえ」


 彼の命令を受け、禁断の魔導兵器が咆哮を上げた。凝縮された瘴気の塊が、禍々しい紫色の尾を引きながら、空を切り裂いて村へと向かう。それは、着弾した地のすべてを永遠の死に閉ざす、呪いの弾丸。


 村人たちが息を呑み、絶望に目を見開く。


 だが、その呪いは、村に届くことはなかった。


 村の中心に立つ私から放たれた純白の光の柱が、天と地を繋ぐように立ち上る。それは、かつて大地を灰に変えた破壊の光ではない。守りたいと願う強い祈りが、私の力を新たな次元へと昇華させていた。


 天を衝く光の柱は、巨大なドーム状の結界へと姿を変え、村全体を優しく覆い尽くす。


 次の瞬間、瘴気の弾丸が、光の結界に激突した。


 凄まじい衝撃音と共に、世界から色が消える。紫色の瘴気と純白の聖なる光がせめぎ合い、空間そのものが悲鳴を上げているようだった。


「な……に……?」


 丘の上でその光景を見ていたアルフォンスが、信じられないものを見るように目を見開く。瘴気の弾丸は、結界を破れないどころか、その紫の色を急速に失っていく。まるで、純白の光に飲み込まれ、浄化されていくかのように。


 やがて、瘴気の塊は完全にその力を失い、無害な光の粒子となって霧散した。


 だが、奇跡はそれだけでは終わらなかった。


 私の放った光は、結界の役目を終えた後も消えることなく、柔らかな光の波となって戦場全体へと広がっていったのだ。


 光の波は、泥濘と化した大地を撫で、傷つき倒れた村人たちを癒やし、そして――王国軍の足元をも、等しく照らしていった。


「う……おお……!?」


 王国軍の兵士たちから、どよめきが上がる。彼らが立っていたはずの、瘴気に汚染された灰色の土地が、光に触れたそばから、生命力に満ちた豊かな黒土へと変わっていく。枯れた草の根からは、新しい緑の芽が息吹を上げ始めた。


 彼らは、自分たちが滅ぼそうとしていた聖女が起こした奇跡の、まさに中心に立っていた。その事実は、どんな武器よりも雄弁に、彼らがどちらの側にいるべきかを物語っていた。


「武器を……捨てろ!」


 誰かが叫んだのを皮切りに、兵士たちは次々と剣や槍を地に投げ捨て、その場に膝をついた。彼らはもはや戦意を失い、ただ目の前の神々しい光景に圧倒され、ひれ伏すことしかできなかった。


「馬鹿な……ありえない……!」


 アルフォンスは、がくがくと震える膝で後ずさった。自分の軍隊が、敵であるはずの聖女の奇跡の前に、戦わずして崩壊していく。彼はようやく理解したのだ。


 自分が犯した過ちの、本当の大きさを。


 自分が捨てたのは、偽物の聖女などではなかった。この国を、いや、この世界そのものを救うことができたはずの、唯一無二の希望そのものだったのだと。


 その罪の重さに耐えきれず、アルフォンスは玉座から転げ落ちるようにその場に崩れ落ちた。


 その頃、村の中心で、私はゆっくりと倒れようとしていた。最後の力を振り絞った体は、もう指一本動かない。薄れゆく意識の中、村人たちの歓声と、こちらへ駆け寄ってくる力強い足音が聞こえた。


「エリアーナ!」


 カイが、私の体を倒れる寸前で抱きとめる。彼の腕の中は、温かくて、安心できる匂いがした。


「……カイ……みんな……無事……?」

「ああ。お前のおかげだ」


 カイは私をそっと横抱きにすると、崩壊した王国軍を、そして丘の上で無様にうなだれる王太子を、射抜くような鋭い目で見据えた。


 村人たちが、私とカイの周りに集まってくる。彼らはもはや難民でも、百姓でもない。自らの手で故郷を守り抜き、聖女を戴く、誇り高き民だった。


 戦いは終わった。


 だが、私たちの物語は、まだ始まったばかりだ。


 この日、灰色の荒野は死に、そして、聖女エリアーナの国が、産声を上げた――。


 ◇◇◇


 戦いの後の静寂は、不思議なほど穏やかだった。


 武器を捨て、膝をついた王国軍の兵士たちは、ただ呆然と、蘇った大地に芽吹く緑を見つめていた。彼らの顔に、もはや敵意はなかった。あるのは、自らが犯した罪への悔恨と、目の前で起きた奇跡への畏敬の念だけだった。


 カイの指示のもと、村人たちは負傷した兵士たちにも治療を施し、浄化した水とパンを与えた。憎しみではなく、憐れみをもって。彼らはもはや侵略者ではなく、道を誤っただけの、救われるべき民だったからだ。


 丘の上では、アルフォンス王太子が側近たちに捕らえられ、力なくうなだれていた。彼の目に、かつての傲慢な光はない。ただ、全てを失った者の空虚な闇が広がっていた。彼が犯した最大の罪は、聖女を追放したことではない。民を、国を、そして自らの心をも見捨て、破壊という安易な道を選んだことだった。


 数日後、王国軍は武装を解かれ、王都へと帰っていった。だが、彼らが帰るべき国は、もはや存在しなかった。


 指導者を失い、兵士たちの戦意も失われた王国は、もはや瘴気の拡大を押しとどめる術を持たなかった。王都の城壁は、日に日に濃くなる瘴気に静かに飲み込まれていった。


 歴史書には、こう記されることになるだろう。アステル王国は、敵に滅ぼされたのではない。自らが吐き出した毒によって、内側から腐り落ちたと。


 私たちは、その滅びを見届けることはしなかった。私たちの目には、過去ではなく、未来が映っていたからだ。


 戦いが終わって一月後、かつて「灰色の荒野」と呼ばれた土地には、新しい国の礎が築かれつつあった。王国を見限った民や、エリアーナの奇跡の噂を聞きつけた人々が次々と移住し、村は活気あふれる街へと姿を変えていた。


 私は、街を見下ろす丘の上にカイと共に立っていた。私の体は、あの戦いで魔力を使い果たした反動で、以前のような強大な力はもう使えなくなっていた。だが、不思議と悲しくはなかった。


「もう、私がいなくても、この土地は大丈夫そうですね」


 私の呟きに、隣に立つカイが笑う。


「何言ってやがる。お前がいなけりゃ、始まらなかったんだ。それに、あんたの力は、まだこの国に必要だ」


 彼は私の手を取り、その視線を街へと向けた。


「俺たちは、ただ生き延びただけじゃねえ。これから、国を創るんだ。畑を広げ、家を建て、法を作り、民が笑って暮らせる国を。そのためには、あんたの知恵と、その……大地を慈しむ心がいる」


 カイの言葉は、いつも無骨で、飾り気がない。だが、その奥にある温かさが、私の心をじんわりと満たしていく。


「……はい」


 私は、彼の手を強く握り返した。


「一緒に、創っていきましょう。私たちの国を」


 眼下には、黄金色に輝く麦畑が風に揺れている。鍛冶場の槌音、子供たちの笑い声、新しい家を建てる人々の活気ある声。それら全てが混ざり合って、新しい国の産声のように聞こえた。


 私はもう、誰かに与えられた役割を演じる聖女ではない。追放され、全てを失い、そして自らの手で未来を掴んだ、ただのエリアーナだ。


 空はどこまでも青く、大地は緑に輝いている。


 かつて腐敗の聖女と呼ばれた私の、本当の物語は、今、この場所から始まるのだ。

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