第59話 何のために
昼休み後の授業は一切身に入らなかった。
というのも、この世界が仮想世界で、周りの人達が現実世界には存在しない人達なんだと聞いてから、僕の周りが一気に静かになったように感じていたから。
クラスメイト達の話し声やノートの上でシャーペンを走らせる音、窓を叩く風の音まで、全部が全部仮想なんだと思うと、僕はここで何をしてるのかという自問にずっと頭を回していた。
良く言えば集中していた、悪く言えば呆然と過ごしていたといったところだろう。
いつもならバスの扉の開閉音と停まるボタンを押した時の車内アナウンスが鼓膜まで届いてくるのに、今日は体に振動が伝わってくるくらいで耳は特に音を拾おうとしていない。
窓の外を流れる景色もなんだか白黒に見えてくる。目に映るそれは色鮮やかな夕暮れの街並みなどではなく、ただそこに物体があるだけという認識に成り下がっていた。
この体で感じている全てが仮想だと思うと、ここまで世界が信じられなくなるものなのか。
『おーい、介くーん』
『無駄ですよ。介様に何を言っても、今は反応してくれません』
『えー でもちゃんと声は届いてるっぽいけど。聴覚野はちゃんと機能してるし』
『声が届いてたとしても、反応を示すかどうかは別です』
ただ、この頭の中の声はやけにクリアに聞こえる。この声だけは仮想じゃないと理解できてるからだろうか……。
授業中もリペアさんとリードさんの声は聞こえてたけど、仮に反応したところで僕から話せることはないから無視してた。
厳密に言えば、応える余裕がなかった。依然として感情も、頭の中で渦を巻く情報も整理はできていない。
僕は今、自分を整理するのにとても忙しいのだ。だから返答する気が起きない。
こんな無気力になってしまうほど、僕は追い詰められている。自分の置かれてる状況すらまだまともに把握できていない。
対して瓢太は、すぐに事実を飲み込んで、もうこの世界の真実を受け入れたようだった。そういえば、今日帰る時に瓢太に挨拶したっけ。思い出せない……。
『次は──三国ヶ丘駅前、三国ヶ丘駅前です』
しかし僕の心が停滞していようと、この世界の時間は、このバスは止まることなく進み続ける。動き出せない僕を無理やりにでも押し進めていく。
例え〈AIの力〉という非現実的な能力があったとしても、きっと何もかもを強制的に前へ進めるこの力に逆らうことはできない。
さっきまでこの世界から音がなくなっていたのに、そのバスの音声は僕の耳に無理やり入り込んできた。無理やり入り込んできて、僕の体を支配する。
僕の意志とは無関係に指が勝手に降車ボタンを押下して、『次、止まります』というアナウンスがバスの中に響く。
だがそれを合図とするように、僕の体の支配は解かれた。まるで空気が抜けた風船のように、上げていた腕がボトッと僕の膝の上に落ちる。
途端、自分は何も考えていない、何も考えられていないことに気付く。ただ思考が同じところをぐるぐる回ってるだけ、思考を回して現実逃避をしてるだけなんだと。
だが、それに気付いたところで僕は何もしない。ただぼーっと窓の外を眺めて、現実逃避の続きをする。
次第にバスの進行速度が遅くなっていくのを感じて、もうすぐ着くのだと予感する。けれど降りる気力すら失せてしまっていた僕は、降車準備もせず窓の外を眺めている。
「三国ヶ丘駅前です」
バスが止まってプーッと甲高いブザー音が車内に鳴り響く。ここでようやく、僕はバスを降りるか降りないか考え始める。
いっそこのままどこか遠くへ運んでほしいと望んでる自分がいるから、思考せざるを得ない。
けれど、僕の意志に反して体は動き始めた。
まるで意志が固まったような淡々とした歩行で、慣れた手つきでICカードをかざして、何も言わずバスを降りる。
「介様、しっかりしてください」
『おいおい、ほんと大丈夫かよ』
僕の口からリードさんの声がして、自分は無理やり降ろされたんだと認識する。同時に、余計なことをしないで欲しかったと、ほんの少しばかり怒りが湧いていた。
ずっと視界にいたリードさんがいなくなって、視界にはリペアさんだけがいる。それに特段なにを思うこともなく、ただ事実としてそう受け止めただけ。
足は家の方へ進み始めるけど、それは決して僕の意志ではない。
『これはかなり重症だね』
「やはりこうなりましたか」
『リードはこうなることが分かって今まで言わなかったんだね』
「もちろんです。介様がこの世界の家族を大事に思っていたことは分かっていたので、被験者以外がNPCと報せることに何もメリットはないと考え、これまで話すことをしませんでしたし、あなたにも話さないよう暗に諭したのです」
『そういうこと。すみません』
「いえ、謝ることはないです。誰も悪くはありません。なんにせよ時間の問題でしたし、その真実を知る機会が早まったに過ぎませんので。私たちが真に考えないといけないのは、ここから。こうなった介様をどうするか」
まるで自分の体じゃないみたいだ。今日のお昼前までは体に違和感はなかったのに、今はこの体の中に閉じ込められてるような感覚がある。
見えてる景色はレンズ、もしくは画面を通して映ってるもののような感じだ。
腕や脚、顔や体全体が、人の皮に近い着ぐるみを身に纏ってるような感覚がある。これが、リードさんが言ってたゲームのアバターに入ってる状態ってやつかもしれない。
映る景色は見慣れた道で、方向的にも僕の家に向かってるのが分かる。
リードさんとリペアさんが何か話してるみたいだけど、車通りがあって騒々しいこの場では上手く聞き取れない。
しかし、しばらく歩いていくと住宅路に入る。そこまでくると車の音はほとんど聞こえてこなくなる。
「リペアさんの方から現実世界に帰還する選択肢を出してもらって、私が押せば、介様を現実世界に戻すことができるはずです」
『無理やり押させるのかよ! あの約束は? 介くん話してたじゃん。行方不明の両親を見つけ出すんだって』
「この状態の介様が両親を見つけ出すという目的を果たせるとは考えられませんし、そもそもNPCの両親を見つけ出したところで、その方々は結局……現実世界には存在しない人達です。実際、仮想世界にしかいない両親を探すメリットは特にありませんし。アフターケアは現実世界の方でやるのも手かと」
『まあ、そうかもだけどさ』
この住宅路だと話し声が鮮明に聞こえてくる。
それは、この世界に被験者と呼ばれる人が四人しかいなくてその四人以外はNPCだということを知らなければ、僕はすぐに口を挟んでいただろう。
でも、真実を知った今、僕はその考えに一理あるとすら思ってしまってる。
見つけても見つけられなくても、現実世界で再会することはない人達。なら、いっそもう、ここで帰還を選択しても……。
「おーい……おーい!」
『……ん? 誰かこっちに来るよ?』
さっきまで景色の一部としか見ていなかったひとりの男性が、突然僕に向かって手を大きく上げる。
「おーい!」
その人はとても嬉しそうに満面の笑顔を浮かべながら、徐々に僕の方に駆け寄ってきていた。
『介くんの知り合いかな……』
リペアさんはそう言ったが……知らない人だ。あんながたいの良さそうな大人の男性なんて全く身に覚えがない。
もしかしたら僕が覚えてないだけかもしれないけど。
「いえ……リペアさん、違います。彼は……」




