第32話 夕食タイム
「……あ、孝子さんだ」
僕たちの目に映ったのは、通路の壁にもたれて座り込んでる孝子さんだった。
髪で顔が隠れてるけど、あの少しうねってて癖のある長い黒髪。それにベージュのロングコートに黒のパンツは、いつもの孝子さんの服装だ。
『どうやら酔ってるようですね。片手にお酒の缶を持ってますし』
「えぇ……」
なんでこんな時間にもうお酒を……。しかも孝子さんお気に入りのアルコール度数九パーセントのやつ。というか、よくそんな状態でここまで帰ってこれたなぁ……。
『千鳥足になって、ドアに体をぶつけたのでしょう。あと、〈透視の力〉を使って孝子様を見てみましたが、相手には支配されてません。安心してください』
「それって、僕にも分かるように見せてもらえたりできる?」
『私の力は常時発動中ですので、それでも見えないなら無理だと思います』
「あー……そっか」
とりあえず、孝子さんを家に入れないと。近所迷惑になるのは勘弁だし。僕は手近なサンダルを履き、渋々玄関口を開けた。
「おかえり、孝子さん」
「……んー? ……あー、介くん。なんで私の職場に?」
完全に酔ってるな……。見たところ、ビニール袋は持ってない。お酒の缶だけ買って、我慢できず飲んじゃった感じか……。そしてやっぱり頬っぺは真っ赤だ。
「いいから、立って。ここ、孝子さんの家だよ」
「えー、まだ六時間くらいしか働いてないのにー?」
「その足で帰ってきたのは孝子さんやん」
「えー、えへへー」
ダメだこれ。手首を引っ張っても膝が畳まれるだけで、孝子さんから立ち上がろうとする意志を感じない。
「ていうかー、なんで介くん、髪濡れてるのー? もしかしてー……いやらしい場所でも行ってたー?」
ほんと好きだよね、そっちの方面の話。彼女作れーとか、楓はモテるでしょとか。
「ほら、とりあえず立つよ。せー……のっ!」
僕は掴んだ手首そのまま、孝子さんの頭がぶつからないよう僅かにその背を廊下の壁側に反らすや、素早くこちら側に腕を引く。
その反動を利用したことでようやく孝子さんを立たせることに成功した。おかげで缶のお酒がちょっぴり漏れ出た。危うく服にかかるとこだった……。
案の定、覚束ない足取りでいた孝子さんがこちらに傾いてくると、僕は少し腰を落としてその体躯を受け止める。
分厚い布越しに微かながら柔らかい温もりを感じ取ると、孝子さんの左腕を持ち上げて自分の後ろ首に巻き、孝子さんの隣に立つ。
そして今度は、崩れ落ちそうになってる膝を支えようと、孝子さんの腰に右腕を回した。
「歩ける? 孝子さん」
「もちろーん」
本人はそう言ってるが、僕が前に行こうとしても、孝子さんの力の抜けた膝では二歩分くらいしか進めない。玄関は目前なのに、孝子さんの今のペースではまるで永遠にも感じる。
「んー……よし」
「えへえへ」
時間は掛かったけど、とりあえず孝子さんを家の中に入れることができた。真面目に一分くらいは掛かった気がする。一メートルもない距離でこんなに疲れるとは思わなかった……。
「ほら孝子さん。家の中、入ったよ」
「……うーん……」
ダメだこの人。玄関マットの上で横になっちゃったよ……。このまま玄関で寝ちゃわないといいけど。
『お酒はしっかりと手放さないのですね』
「はぁ……いつもだよ」
マットにぺたりと背中を付けても、中身がこぼれぬように開け口はしっかりと上を向けている。
孝子さんのお酒に対する執着が窺える。
「んー……」
お酒を取ろうと掴むと、孝子さんが嫌そうに唸る。まだ意識は保ててるらしい。
「孝子さん、今からご飯作るけど。いいの? そこで寝てて」
「え、ごはん? 食べたい」
「起きるの早っ」
「料理は別腹だよぉー……」
「いや寝るんかい」
起きるか寝るかはっきりして欲しいんだけど……。
「じゃあ料理作ってますから。できる前にいろいろ済ませてくださいね」
「……うーん……」
かくいう僕も、まずは髪を乾かさないと。
しかし、あそこまで疲れてる孝子さんも珍しい。思えば、お酒を飲みながら帰ってくることなんて今までなかった。
僕と楓は二十歳じゃないからお酒は買えない。だから孝子さん自身がお酒を買ってきて家で飲むというのはいつものことだ。
余程疲れているのか……いや、多分楓のことで気に病んでるんだと思うけど。
僕と楓は、孝子さんの家に住まわせてもらってる。
孝子さんは仕事もして、その上いろんな手続きもしてもらって、多少なりともお金だって使わせてもらってる。
いろいろとお世話になってるからこそ、孝子さんのあんな姿を安易に見過ごすことなんてできない。
まあ……今となっては、あんなに酔って帰ってくる家主の面倒を見るくらい別にどうってことない。
なんなら習慣になってるまである。日々、家の中をぐちゃぐちゃにされたり暴れられたりするよりはマシな方だ。料理ができるまでは放っておいてあげよう。
脱衣所で髪を乾かし終えてキッチンに向かう途中、玄関の方ではまだ孝子さんがぐでーっと横になっていた。
いつの間にかお酒の缶はその手から離れていたが、相変わらず開け口は律儀に上を向いている。
大人はみんなこうなのか、もしくは孝子さんだけがあんなにも執着しているのか。
やれやれと思いながら、僕は夕食の準備に取り掛かる。
今日のメニューはビーフシチューにしようと決めていた。ちなみに曜日にちなんだ料理を出すのは楓の担当である。
僕は冷蔵庫の中を見たり買い物中に思い付いた料理か、前から作ろうと考えていた料理を作っている。
そういえばお米を炊いてないことに気付き、僕は手早く済ませられる無洗米を内釜に三合分流し込んですぐさま水に浸す。
念のため一度だけ研いでから炊飯器にセットしてスタートボタンをポチッ。
あとはビーフシチューを作ってる間にできあがることを祈って、ひとまず冷蔵庫から人参、玉ねぎ、じゃがいも、牛すね肉、そしてブロッコリー。台所の下からは包丁とまな板、それとお鍋を取り出す。
切った具材はいつもそのままお鍋に直接入れている。これは単純に洗い物を減らす理由でそうしてるだけ。友達や他の人にはなんだかみっともなく思われそうだから言わないけど。
シンクの横に掛けてたピーラーを手に取り、じゃがいもの皮を剥く。じゃがいもは芽が出てくることも考えて、二人分を作るにしては少し多い気がするけど、四個中の三個を使う。
ビーフシチューに入ってる人参とじゃがいもは大きいイメージだけど、うちは小さく切ってる。
なぜなら女性の口でも無理なく入るようにしてるから。うちは女性が二人いるからいつもそう。
玉ねぎを切る時はもう気合。鼻腔と目に襲いかかってくる刺激臭はいつも慣れない。切り終わった後は絶対に涙が出てくる。
『介様。なぜ泣いているのですか?』
「玉ねぎのせい。別に泣きたくて泣いてるわけじゃない」
『なるほど。了解です』
何を理解したのか知らないが、とにかく切り終えた野菜達をお鍋に入れる。あとは牛すね肉を小さくサイコロ状に切ってコショウをふる。
「よし」
全ての具材を切り終えたら牛すね肉も入れてお鍋に火を通す。サラダ油……は入れず、肉の油で他の具材も滞りなく滑ってることを確認して炒める。
これこそまさに、素材の味を生かしたビーフシチューというわけだ。別にドヤ顔するような事じゃないけど。
菜箸で全ての具材に火が通ったことを確認してから、あとはビーフシチューに肝心のシチューの素と水を注ぐ。
こればかりは文明の利器に従わざるを得ない。手軽に美味しく作れるならそうしてしまうのが人間の性というものだ。
ぐつぐつとシチューの中で溺れる具材達を眺めながら、バターをちょっと加える。そして赤ワインやお酒は絶対に入れない。こればかりは過去のトラウマがヤバいので……。
その記憶を思い起こして再度玄関の方を見やると、孝子さんが目をこすって座り込んでいた。
「あ、起きた?」
「うーん……」
まるで寝起きの小さな女の子みたい。ぐいぐいっと目をこする仕草に幼気を感じる。
「今日はシチューだよ。ビーフシチュー」
「シチュー……」
白米とビーフシチュー。うーん……如何せん、物足りなさがある。
『介様。サラダも盛り付けましょう』
「え、サラダ?」
「サラダー……食べる」
『と、孝子様もおっしゃられています』
「いや、あれは本心でそう言ってるのかどうかも疑わしいよ……」
一応、市販で売っていた既にカットしてある野菜の詰め合わせがある。リードさんに運動後は食物繊維も取るように言われたから、二つほど買い置きしていた。
まあ、物足りないとは思ってたし……作りますか。作るというか盛るだけだけど。




