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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

あなたが選んだ結果です

作者: 鬱沢色素

「クラリス。君との婚約を破棄したい」


 城の応接間は、夏の光を遮るために分厚いカーテンが引かれていた。


 部屋の中央には腕を組んで立つのは、王太子レオニス。

 その向かいでは、青いドレスを着た伯爵令嬢クラリスが、彼の話に耳を傾けている。


「……理由をうかがっても?」


 クラリスが問う。


 婚約破棄を告げられたというのに、彼女の表情には一切の焦りがなく、それどころか口元には薄い微笑みすら浮かんでいた。


「君はつまらない女だ」


 どこか勝ち誇った顔をして、レオニスが言う。


「いつも無表情で、愛想もない。王太子である僕の婚約者として、華やかさに欠ける。これまで我慢をしてきたが、もう限界だ」


(つまらない女……ね。殿下にとって、所詮私はそういう女だったってこと)


 レオニス王太子の婚約者に選ばれてから、クラリスは必死に頑張ってきた。

 彼からの愛情を特に感じたことはなかったが、それでもそれが自分で選んだ道だったからだ。


 だが、この瞬間に全てが水泡に帰した。

 自分のやってきたことは、レオニスにとって全て無駄なものだったのだ。


「かしこまりました。では、正式な書面は後日お渡しいたしますね」


 その答えに、レオニスはわずかに目を見張った。

 もう少し動揺するかと思っていたのかもしれない。


 だが一方で、クラリスは平然としたままだった。


「ですが、最後に一つだけ」


 一歩前に出ると、クラリスは優雅に一礼する。


「どうか、その選択を後悔なさいませんように」


 それは、怨みでも呪いでもなく、ただ静かな祈りのような言葉だった。

 レオニスは鼻で笑う。


「後悔? ふんっ、負け惜しみのつもりか。僕はこの選択を、後悔なんてするものか」


 そう言い残し、彼はクラリスに背を向けたまま、足音高く部屋を出ていった。


 その姿が完全に見えなくなってから、クラリスはようやく小さく溜め息を吐いた。


(バカね、あの男は)


 誰にも気づかれぬよう、僅かに肩をすくめて、彼女もまた扉へと向かう。


 その歩みは静かで、揺らぎがないものだった。

 まるで、この先の未来を見通しているのかのように。





 ◆ ◆



 クラリスが王宮を去って、まだ十日も経っていない。

 にもかかわらず、王太子付きの執務室では、既に異変が起き始めていた。


「……こちら、本当にこのまま提出なさるおつもりですか?」


 レオニスに仕える官吏が、恐る恐る彼に差し出したのは、一通の外交文書だった。


「『通商条約の停止』って……これ、『調整』のつもりで書かれたんじゃ……?」

「うるさい。些細なミスだ。いちいち騒ぐな」


 レオニスは顔をしかめると、文書を放り投げるようにして突き返した。


 確かに字面こそ似ているかもしれないが、『停止』と『調整』とでは、意味がまるで違う。

 しかもこの文書の宛先は、王国最大の貿易国だ。この一文で、国交すら危うくなりかねない。


 それでも、誰もそれ以上はレオニスになにも物申せなかった。

 今まで、レオニス王太子の選択には間違いがなかったからだ。

 それよりも、今はレオニスの機嫌を損ねることが、最も厄介だという空気が王宮には蔓延していた。


「……承知いたしました」


 その官吏は少し納得していなさそうな顔をしながらも、レオニスの前を立ち去った。


 終わりの時は、まだ少し先。




 王宮の異変はそれだけに留まらなかった。

 日が経つにつれ、徐々に綻びが見え始める。


「ですから、工事予算の割り当ては──」

「黙れ。細かい数字など、あとでまとめて確認すればいいだろう」


 レオニスは部下の意見を一蹴する。


 クラリスがいなくなってから、なんてことない会議の場も荒れ始めた。


 些細な予算案が通らない。

 かと思えば、大雑把な予算案は素通りする。


 周りの者たちも、徐々にレオニスの手腕に疑問を持ち始めていた。


「しかし、それでは各地の貴族たちが……」

「彼らには、僕の名前を出しておけ。それで黙るだろう」


 貴族たちとの繊細な調整が必要な場面でも、レオニスは強引な姿勢を崩さない。

 結果、各地の領主たちとの不和が生まれ、あちらこちらで抗議文が飛び交うこととなっていた。


「クラリス様がいらした頃は、こういうことは起こらなかったのに……」


 誰かが呟いた言葉は、幸いにもレオニスの耳に届くことはなかった。




 さらに、レオニスが外遊で口にした不用意な言葉が、他国の使節の逆鱗に触れたという報せも官吏たちの耳に届く。


 訪問先は、敬虔な信仰を重んじる山岳の小国。

 格式張った歓迎の晩餐会に招かれたレオニスは、退屈そうにワインを口にしながら、ふとこう口にしたのだ。


『こんな寒村に、神の加護があるとは信じがたいな。うちの国では、せめて道くらいは舗装くらいされてるがな。この国に神なんていないんじゃないのか?』


 レオニスにとっては酔って、なにげなく口にした冗談のつもりくらいだったのだろう。

 だが、へらへらとした笑みを浮かべるレオニスの一方、場は凍りついた。


 宗教指導者を兼ねる老宰相が青ざめ、女王の顔色がみるみるうちに険しくなる。

 レオニスの発言は、彼らの誇りと信仰心を、無知と傲慢で踏みにじる言葉だった。


 帰国後、小国との国交は冷え込み、予定されていた友好条約の締結も保留となってしまった。


 その話を聞いた側近たちは、口を揃えてやっぱりこう言う。


「クラリス様がいらした頃は、こういうことは起こらなかったのに……」




「なあ、あの女は今どこにいるんだ?」

「あの女といいますと?」

「ふざけるな。僕の元婚約者、クラリスに決まっているだろう」


 ついにレオニスが口にしたその名に、官吏たちの間で一瞬の沈黙が流れた。


「殿下と婚約破棄をされてから、実家に戻られたと聞いております」

「ふんっ、そうか」


 鼻で笑うレオニスだが、彼女に興味を示しているのは明らかだ。


 クラリスがいなくなってから。

 レオニスが抱える政務だけ、明らかに滞っている。

 それどころか最近では、『レオニスに王太子の資格はないのでは?』という声も出始める始末だ。


「お言葉ですが」


 官吏の一人が意を決して、声を上げる。


「クラリス様に頭を下げて、王宮に帰ってもらうべきでは? このままでは、あなたの地位も怪しくなります」


 そうなのだ。

 クラリスは、ただの『つまらない女」ではなかった。

 いわば、彼女は王宮の『影の調整役』だった。


 誰も気づかないところで争いの火種を潰し、誤字脱字すら見逃さず、貴族たちの不満を飲み込みやすい言葉に言い換える。

 時には、レオニスの不用意な発言を他国に『ユーモア』として伝え直すことすらしていた。


 だが、それらは決して表に出ない。

 彼女が望まなかったからだ。


『私は目立たないほうが性に合っていますので』


 そう言って、クラリスはいつもひっそりと微笑んでいた。


 そして、今になってようやくレオニスの側近たちは気付いた。


 レオニスが優秀だったのではない。

 彼の傍にいる婚約者クラリスがずば抜けて優秀だったのに過ぎない。

 彼女は、王太子として劣っているレオニスを陰ながら支えていたのだ、と。


「バカを言うな」


 だが、レオニスはその事実を簡単に認められない。


「僕はただ、少し気になったから聞いてみただけだ。あの女に頭を下げる気はない。たかが女一人がいなくとも、今まで通り上手くやってみせる」


 レオニスの苛立った声。


 官吏たちにとっては、クラリス帰還が最後の希望だったのだろう。

 レオニスの前だというのに、深く溜め息を吐いた。





 ◆ ◆



 その頃、クラリス本人は──。

 自室のテラスで紅茶を飲みながら、庭の花に目を向けていた。


「……そろそろ、混乱が始まっている頃かしら」


 独り言のように、微笑みを零す。


 憐れみでも、復讐心でもない。

 ただ、事実を受け入れているだけの笑みだった。


(まあ、私の手を離れた王宮が、どうなろうと知ったことではないけどね)


 けれど、自分を「つまらない女」と評したあの男が──。

 その『つまらなさ』にどれほど救われていたのかを、少しでも気付いてくれるのなら。

 少しは、気も晴れるだろうとクラリスは思った。


「……まあ、気付いたところで、もう遅いのだけれど」


 風に揺れる紅茶の香りが、ふわりと空に溶けていった。





 ◆ ◆



 朝のレオニスの自室に漂うのは、重く鈍い空気だった。


 あれから、レオニスは政務でさらにミスをし続けた。

 一人──また一人と、レオニスの元を離れる者たちが現れ、彼は王宮内でさらに孤立していく。

 今となっては執務室の扉をノックする者も、彼に意見を述べる者もいない。


 書類は山積み。

 進まない政務。

 そして、どれ一つとして満足に処理できない自分。


「……何故だ」


 書類を握り潰しながら、レオニスはぽつりと呟く。


 レオニスは今まで、王太子として育ち、なに不自由なく教育を受け、称賛されて育ってきた。

 挫折を感じたことはない。

 彼の周りには、いつも人がいた。


 それなのに、どうして今は誰一人、彼の言葉に従わないのか。

 誰も助けようともしないのか。


 ……違う。

 元から、誰も支えてなどいなかったのだ。


 ──彼女を除いては。


「クラリス……」


 後悔ばかりが浮かんでくる。


 彼女はつまらない女だった。

 笑顔は少なく、周囲に愛嬌を振り撒くことは決してしない。

 レオニスがそのことを注意しても、彼女が態度を改めることはなかった。


 だが、今になって気付く。

 あれは、クラリスなりの抵抗だったのだと。


 未来の国王陛下となるレオニスに敵は多い。

 必然的に、その婚約者であるクラリスに向けられる目も厳しくなる。

 時には、王宮内で彼女に異を唱える者もいただろう。


 しかし、それらを跳ね除けるため──隙を見せないために、あえて彼女は表情を崩さないようにした。

 そのおかげで、レオニスが気付かないほど、クラリスは王宮内で上手く立ち回ってき、彼を支えてきた。


「僕の選択は間違っていたのかもしれない」


 レオニスは立ち上がる。


「行こう」


 護衛も側近も呼ばない。

 そもそも呼んだとしても、今のレオニスに付いてくる者は誰一人いななかった。


 彼は一人寂しく、馬車を出させた。





 ◆ ◆



 クラリスが住む屋敷は、王都から少し離れた丘の上にある。


 手入れの行き届いた庭園。

 上品な白の煉瓦造りの屋敷。

 そこには王宮よりも静かで、凛とした空気が流れていた。


 彼女はそんな屋敷の自室で、紅茶を飲む。


(そろそろ、来るかしらね……)


 クラリスには確かな予感があった。

 ゆえに侍女から「王太子殿下がお見えです」と告げられても動揺せず、僅かに眉を上げただけだった。


「お通ししてちょうだい」


 笑顔はない。

 だが、拒絶もしなかった。


 やがて部屋に入ってきたレオニスは、以前のような傲慢な面影はどこにもない。

 歩みも声も、どこか不安げで、迷いが滲み出ている。


「……クラリス」

「ごきげんよう。レオニス王太子殿下。ようこそお越しくださいました」


 丁寧な挨拶。

 しかし、その声にぬくもりはなく、相変わらず彼に向ける眼差しも冷たいものだ。


「君がいなくなってから、なにもかも上手くいかないんだ」


 席に着き、開口一番にレオニスが放った一言は、懺悔であった。


「書類も、会議も、外交も……なに一つ、上手く回らない」

「どうしてか、お分かりですか?」

「分からない……いや、今まで分かっていなかったんだ。僕は選択を誤った。それにようやく気付いた」


 彼が膝の上で握った拳が、ズボンをしわくちゃにする。

 そしてレオニスは、覚悟を決めたように顔を上げた。


「クラリス。君が、僕をずっと支えてくれていたんだ。愚かな僕は、君がいなくなるまで、それに気付きすらしなかった」


 その声は震えていた。


 どれほどの後悔を抱えて、レオニスがクラリスの前にいるのか。

 この姿を見るだけで、想像が出来てしまう。


「そうですか」


 だが、クラリスは紅茶を一口飲んでから、静かに言葉を返す。


「では、問いましょう。殿下が私を選ばなかったあの日──どれほどの覚悟がありましたか?」


 彼女の問いに、レオニスはすぐに答えを返せない。


「私は、あなたにとって『つまらない女』でしたわ。ですが、それは他の者に隙を見せないため」

「そ、それも気付いたんだ……っ! だから、君に謝りたく──」

「あなたからの愛情がないことに気付きながらも、私はそれでもずっと、あなたのために働いてきた」


 レオニスの言葉を遮って、クラリスは続ける。


「けれど、あなたは私に目を向けることはなかった。それだけならまだしも、私を切り捨てた」

「分かっているっ! 分かっているから、後悔しているんだ! 図々しいことも分かっている! もう一度、僕とやり直そう!」

「殿下」


 クラリスはレオニスの瞳を真っ直ぐ見つめ、さらにこう続ける。


「私は、あなたと一緒になれなくとも、決して後悔しませんでした。だって、これは私が()()()末の結果。こうなることも予想した上で、『つまらない女』として、あなたを支えてきました」

「…………」

「ですから、殿下。あの時、言いましたよね。どうか、その選択を後悔なさいませんように──と」


 レオニスは目を伏せ、なにも言葉を紡げない。

 こんな時にも言い返せない彼を見て、クラリスの心はさらに冷え切っていく。


「これは、あなたが選んだ結果です。ですから、後悔するのも、あなた一人で勝手にしてください」


 クラリスが言い放つ。


 それに対して、レオニスの唇が僅かに開き、そしてすぐに閉じた。

 どんな言葉も、今の彼女がには届かないことを、彼自身が一番よく悟ってしまったのだろう。


「……そうか」


 レオニスはそれだけを呟くと、ふらふらと立ち上がった。

 未練を滲ませるように、彼は最後にクラリスを一目見て、背を向け去っていく。


 彼が扉の向こうに消えても、クラリスはしばらく席を立たない。

 代わりに冷めかけた紅茶を口に含み、ほんの少しだけ、笑うだけだった。


(……もう遅いのよ、殿下)





 ◆ ◆



 半年後──。




 伯爵家の小さな屋敷。

 春風に揺れる庭の木々を背に、クラリスは穏やかな空気に身を委ねていた。

 レースのカーテンが揺れるたび、窓際のテーブルに置かれたティーカップから、ふわりと紅茶の香りが立ちのぼる。


「クラリス様、先日の縁談をまた断られたのですか?」


 そっと声をかけたのは、古くから仕える彼女の侍女だった。


「ええ。少し、気が乗らなくて」


 クラリスは柔らかく微笑む。


 レオニスと婚約破棄をしてから、クラリスの元には山のような婚約の申し出が舞い込んできた。

 レオニスが最後まで気付けなかっただけで、クラリスの美しさや才覚は、見る者にはしっかりと伝わっていたのだ。


 だが、クラリスはどんな魅力的な縁談にも、首を縦に振らなかった。


「ダメですよ。また、伯爵様が心配なされます」


 侍女はそう言って、小さく溜め息を吐く。


「クラリス様には、もっと明るい未来があるはずです」

「明るい未来……ねえ。そんなの、本当にあるのかしら。レオニス王太子──っと違ったわね。レオニスとの婚約も、上手くいかなかったわけだし」


 クラリスがそう言い直したのには理由がある。

 世間では、レオニスが正式に王太子位を剥奪されたという知らせが、広がり始めていたからだ。


 現在の彼は、地方の寒村に幽閉されているという。

 さらに政からも遠ざけられてしまった彼は、かつてのような輝きをすっかり失っているのだそう。

 かつて彼に仕えていた者たちも、その多くが既に去ってしまっていた。


「レオニス元王太子殿下は、現状を後悔してないのでしょうか」


 ぽつりと漏らす侍女。


 クラリスはそれに答えず、紅茶を一口含む。

 そのまま静かにカップを置くと、軽く息を吐いて微笑んだ。


「後悔していないでしょう。だって──これは、あの人が選んだ結果だもの。きっと、楽しくやっているわ」


 言葉の端に、皮肉とも哀れみともつかない響きが滲んでいた。


 レオニスの悲惨な末路を知っても、クラリスの心は全く揺らがない。

 何故なら、これもクラリスが選んだ末の結果だったからだ。




 ──どうか、その選択を後悔なさいませんように。




 かつて彼に言った祈りの言葉。

 彼女はこれからもきっと、後悔しない道を選び続ける。

お読みいただき、ありがとうございました。

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影の調整役となったのはわざとだったんじゃないですかね。 早い段階でこのままでは王の器ではないと見据え、試したのではないかと考えました。 自分の行動に気付ける様な成長したなら先がある証となる。 気付けな…
代わりもいないのに気に入らないからってだけで切り捨てたのか ほかの母体の当てもなさそうだし、子供残す気もなかったのかな・・・ 王族としてまともに機能してる部分一つもなくない?
元婚約者のことを、“つまらない女”呼ばわりするくらいだから、“面白い女”の当てがあるとと思いきや、そんなことなかったな。“つまらない男”ですね。 そういえば、影の薄い国王陛下や王妃達は、何をしていた…
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