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蘭陵王伝 別記 第八章  ⑤ 晋陽の細氷花

  ★ 暗殺の疑惑  ★


高長恭は侍中府の回廊の手摺りに座って、晋陽宮の正殿の方を眺めた。十月の上弦の夜空は暗い。三日月が凍り付いたような光を西南の空で放っている。

 高長恭は、先日の今上帝高洋の言葉を思い出していた。

『兄上、お許しを』・・・ろれつの回らない言葉だった。陛下にとって兄は、父しかいない。高洋は暗殺の直後に屋敷へ駆けつけ、暗殺者蘭京を討った。兄の仇を取ったことにより、高一族の頭領の資格を得たのだ。

 父が生きていたら、陛下の今の地位はなかった。暗殺の黒幕が高洋だとしたら・・・。恐ろしい想像に、長恭は身震いした。実の兄を暗殺した罪悪感に苛まれて、陛下が酒浸りになったと考えると納得がいく。

長恭は、星空に掛る三日月を見上げて深い溜息をついた。


 その時だ、小さな灯りが一つ、ふらふらと左の回廊をこちらに近付いてくるのが見えた。侍衛か、はたまた鬼火か?灯りは角でしばらく止まったが、再び浮遊するように進んでくる。

『宮女だろうか?』

 長恭が灯りの方を注視すると、ほの暗い灯りに照らされて髪を振り乱した男が見える。

『陛下!』

 土色の頬はこけ、右手には酒瓶を手にしている姿は、まさしく鬼神だった。高洋は酒瓶から一口飲むと、奇妙な角度に頭を傾けて長恭の方を見た。

「兄上、・・・お怒りですか」

 高洋は奇妙な笑みを浮かべ顔をしかめた。

「兄上が、・・・悪いのです。俺を見下して・・・侮るから、仕返しを、した。・・・お許しを・・・」

 父の暗殺は、陛下が関係しているのか?

 いきなり、高洋が顔を近づけてきた。長恭は、思わず高洋に睨み返した。

「子進(高洋の字)よ、・・・兄は、そなたを許さぬ」

 試しに父の声色で言ってみた。

「お許しを・・・ひい、ひ、ひい。私が蘭京に・・・あ、あ」

 驚いた高洋は、腰が抜けたように座り込むと、振るえだした。

 もう一言問い質せば、真実にたどりつけるかもしれない。長恭が呼吸を正していると、宦官や宮女、侍衛、太医が小走りで現われた。

「陛下、陛下・・・御静まりください」

 高洋は暴れるも、力なく侍衛に抑えられた。

「長恭様」

 大長秋の宦官は、長恭に黙礼をすると、内密にと目配せをして皇帝の後を追った。


 やはり父上を、暗殺したのは、実弟の陛下だったのだ。権力欲は恐ろしい、長恭は大きな溜息をついた。兄を殺し元氏を殺し尽しても、まだ猜疑心に捕らわれて残虐を極めている。帝位とは、何と空しいものであろう。

 長恭は、重い身体を引きずるようにして、薫風殿へと戻っていった。


   ★ 皇帝の危篤  ★


十月の四日、皇帝高洋の病状がにわかに改まった。高洋は徳陽殿から出ることはなくなった。榻牀から起き上がれず、好きな酒さえ受けつけず粥と薬湯を口にするばかりとなった。

 療養にためにと称して、李皇后と内官の徳総監だけが看病に当たった。

 やがて病状は進行し、高洋は粥さえも口にすることができなくなった。意識は混沌として、時々意識のあるときも、意味の分からない言葉をつぶやき、怯える表情をするのだ。

 婁皇太后は頻繁に徳陽殿をおとずれた。しかし、李皇后と徳内官は療養を盾に、見舞うことも許さなかった。


 病に伏してから四日目、僅かに意識が戻ったとき、高洋が枕元に呼んだのは、母の婁皇太后ではなく、尚書令の楊愔、高帰彦、燕子献、鄭頥の四人だった。

「ああ、 楊愔よ。朕はもう長くない。・・・太子の殷を、殷をよろしく頼む」

混沌とした意識を振り払うように、高洋は手を伸ばすと楊愔の手を掴んだ。瞳が焦点を失い、こけた頬はどす黒く唇も血の気を失っている。

楊愔は、高洋の手を強く握りかえした。

「殷を、殷を・・・」

「陛下、この楊愔、必ず太子をお守り致します」

 楊愔は、皇帝の口から常山王の名前が出ることを密かに恐れていたが、高洋にとっては実の息子が何より気がかりらしい。

 高洋は楊愔の言葉に安心したのか、浅い息をつくと目を閉じた。その後、李皇后と太子高殷と婁皇太后が呼ばれたが、李皇后と婁皇太后の呼びかけにも拘わらず高洋の目は開くことはなかった。


 陛下の病状は、極秘事項として箝口令が敷かれ、皇族はもちろん実の母である婁皇太后にさえ内密にされた。そのため、廷臣や皇族は太医や内官の様子から、その病状を推し量ることしかできなかった。

 

   ★  その日の真実 ★


 皇帝の病状が分からぬまま、皇帝崩御の噂が飛び交っていた。

 婁皇太后は、心労が重なったためであろうか、したいに床に伏せるようになった。長恭と青蘭は婁皇太后が体調を崩していると聞き、仙居殿を訪れた。

 心配した長恭が臥内に駆けつけると、榻牀で婁氏が薬湯を飲んでいた。

「御祖母様、お加減いかがですか?」

「おお、粛と青蘭よ。よく来てくれた」

 長恭は、祖母の手を握った。かつては、手を取って千字文を教えてくれた手が、今ではすっかり痩せ細っている。

「粛よ、陛下の病状について、・・・危篤だとの噂もあるが」

「単なる噂です。食事も運ばれているので回復されてとの話もあります」

 婁氏がため息をついた。

「太医など、何の当てにもならぬ」

 長恭は昨日訪れた延宗が、保って半月だと話していたのを思い出した。延宗は李皇后に近いため、事情通である。しかし、事実だとすれば、あまりにも残酷だ。


「粛よ、殷皇太子に帝位を担えると思うか?」

 帝位に関してうかつな事は言えない。

 殷皇太子は、今上帝高洋と皇后李祖娥との間に生まれた嫡長子である。幼少より文人に師事し、文学・礼学を学んだ。しかし、高洋は殷が自分と似ても似つかず漢人のようであることを嫌い、弟の太原王高紹徳と皇太子を代えようとしたこともあった。漢人の母を持つ殷皇太子は、熱心な漢人の学士そのものだ。皇帝が務まるか。

「太平の世なら、強力な補佐があれば大丈夫かと・・。しかし今のような戦乱の時代に幼君は、国を危うくする」

 うつむいた婁氏は、何度かうなずいた。

「国を守るためには、廷臣の信頼篤い高演が相応しいのだ。それなのに遺勅は得られず。高演も帝位に欲がない」

 婁氏所生の高演叔父は、文武両道で家臣からの人望も篤い。長恭から見ても名君になると思える人物だ。

「高演は、簒奪者と非難を受けることを恐れているのだ」

 青蘭は、秀児が勧めた茶に口を付けた。常山王の即位は、多くの廷臣の望むところだ。しかし、高演の儒教的な教養が、即位を妨げているのだろうか。

「御祖母様。実は、故事に似たことがあるのです。周では周公が甥の成王に代わって政を行い、成人した後に王位を返還した。これを思えば、常山王の説得も可能ではないでしょうか」

 青蘭は、『史記』に記された故事を紹介した。

 周公は、幼い甥が即位すると十二年間も周の政を行って、王位を返したのだ。

「そうか、歴史にはそんなことがあったとはな。・・・だれか、相応しい人物がいるのか?」

 廷臣の総意を受け、しかも常山王が信頼を寄せる人物でなければならない。

「皇族ではなく廷臣の声を代表する立場で、常山王が信頼を寄せる人物は?・・・」

 何人かの廷臣を挙げたが、相応しくないという。

「おう、そうだ。かつての学友の王睎がいた」

 婁氏は笑顔になると、王睎への手簡を長恭に渡した。


 長恭と青蘭は仙居殿をでると、御花苑に入った。

「皇太后は、すでに先のことを考えているのですね」

 息子が明日をも知れぬというのに、次の帝位に事を考えるのは、皇族としては当たり前かも知れない。

 しかし、青蘭の胸にはヒヤッとするものを感じた。

「御祖母様は、責任ある立場だ。だから、情に流されるわけにはいかないのだ」

 長恭は腕組みをした。

「国の基盤が盤石なら、殷皇太子もいい。・・・しかし、今は戦国の世だ。幼君を立てればあっという間に隣国に飲み込まれてしまう。それに楊令公は、呂不意ほどの大物じゃない。楊令公が摂政になったら、王将軍にも影響が出るだろう」

 突然出てきた、父王琳の名前に青蘭は驚いた。

「えっ?、父上に?」

「ああ、公にはされていないが、陳の武帝が亡くなり、臨川王陳倩が即位した。王将軍は、陳の混乱を利用して建康に攻撃を掛けようとしている。それには、斉からの支援が不可欠なのだ。陛下はああ見えても、王将軍の忠義を仰敬していた。だから、梁を支援してきたのだ。はたして楊令公が支援を続けるか」

 そうなのだ。誰が玉座に登るかによって、父王琳の率いる梁の命運も左右されるのだ。

「漢族の楊令公は、父上との同盟に乗り気ではない」

 漢人官吏は、勲貴派の武人が手柄を立て勢力を拡大するのを恐れているのだ。

「たしかに、殷皇太子が総帥では、周とはおろか陳との国境も守れないでしょうね」

 長恭は、雪が降り始めた空を見上げた。

 もうすぐ、皇帝の命が尽きようとしている。しかしこの晋陽宮には新帝の思惑を探る人ばかりで、その死に涙する人間はいない。だれが玉座に登るのか。その後の朝堂の勢力図はどのように変わるのか。人々はそれぞれの思惑を抱え得て息をひそめていた。


 次の日、青蘭は朝餉の後に晴児を呼んだ。今上帝の病状は重篤で保って半月であること。そして、殷皇太子と常山王高演が後継をめぐって暗闘を繰り広げていることを、簪の修理にかこつけて母の鄭氏に知らせるのである。

「この簪の修理を、鄴の母上に頼んできてちょうだい」

 青蘭は簪を入れた櫃を晴児に渡した。

 皇帝の崩御は、父王琳にとっても鄭桂瑛にとっても、重要な情報だ。青蘭は手簡にそれらを記すと、簪と一緒に母に送ったのである。


★  伏せられた服喪  ★


 十月十日、高洋が崩御した。

 酒毒に身体も心もむしばまれた高洋は、最期は好きな酒も受けつけることができぬほど衰弱して、李皇后と殷皇太子に看取られながら枯れるように亡くなったのである。

 その前日、婁皇太后は危篤だと聞かされて病室に通されたが、榻牀の傍に寄ることもできなかった。すでに息子の息はなかったのかもしれない。

 しかし、皇帝の喪は、すぐには発せられなかった。皇帝の喪が正式に発せられると、新皇帝である殷皇太子は喪に服し政から引かなければない。実権は一族の長たる常山王高演に渡るのである。それを防ぐために、楊愔は高洋の死後もしばらくは危篤状態を装いながら、殷皇太子の即位に向けて根回しをしていたのである。


 徳陽殿に潜ませている間者により皇帝の崩御を知った常山王高演と長広王高湛は、婁皇太后の仙居殿を訪れた。

「母上、高洋兄上は、すでに十日に亡くなっているのだそうだ」

 高洋が亡くなった?・・・とうとう・・・喉の奥が苦しくて婁氏は胸を抑えた。

「兄弟はおろか母上さえ呼ばないなんて、母上、楊愔は皇族を蔑ろにしている」

長広王高湛は、婁皇太后の座る榻の前を行き来しながら息巻いた。

「私が前に見舞ったときも、すでに意識がなかった。結局遺勅などなかったのだ」

数年来の高洋との不仲が悔やまれる。

 婁氏は、榻にすわると高演を見やった。先日かつての学友だった王睎に、高洋の説得を頼んだけれど、いい返事が来なかったのだ。


「高洋が、二人に何か言い残したことはないか?」

 榻の前に立った高演は、腕組みをした。

「だいぶ前だが、二兄と話したとき、『もし、自分が亡くなったときは、三弟に斉を託す』と言っていた。その代わりに、殷を頼むと・・・。だから、兄上は、後継を私にと考えていたはずだ」

 高湛は高演の手を握るとうなずいた。

「それは、私も傍にいて聞いた。もっとも相応しい人物が首領となるのが、鮮卑族の掟だ。斉が生き残るためには兄上が即位するのが最良かと思う」

 遊牧民族の鮮卑族では、可汗(王)の死後、一族の中でもっとも有力な部族長が次の可汗となるのである。そこには、幼君の生まれる余地はない。

「それは、正論だ。しかし、二兄も人の親だ、子供は可愛い。殷を廃嫡しなかったのは、息子に継がせたいからだ。私は、・・・二兄の意志を尊重したい」

 鮮卑族の王朝である北魏にも、漢化政策の結果、儒教の教えが静かに浸透してきていた。 

「このままでは、父上と大兄、次兄が築いてきた斉の国が、楊愔たち漢族の手に落ちてしまう。兄上、それでいいのか?」

 四弟の高湛は、苛立たしげに高演を見た。高湛はこの時二十三歳で血気盛んな年頃であった。

「殷皇太子は、李皇后と楊愔の言いなりだ。それでなくとも、斉の政は漢族に牛耳られている。これ以上やつらをのさばらせてはならぬ」

楊愔は美姫や美酒で兄の高洋を昏迷へと導き、政への興味を失わせて実権を握ったと睨んでいる。無能な君主ほど御し易い者はないからである。そして、誣告を行い高岳や高徳正などの忠臣を殺害させたのだ。現に常山王高演自身も瀕死の重傷を負っている。

「誠に、楊愔は、佞臣そのものだ」

高演は、高い志を掲げて国の改革に取り組んでいた建国時の高洋と、元氏を族滅した皇帝が同一人物とは思えなかった。

「陛下の葬儀は、一族の者が執り行うのが習いだ。まさか葬儀で我々を殺害することはあるまい」

高湛は、そう言葉に出して反って身の危険を感じた。

「服喪中は、新帝は直接政に関わることはできぬ。その時、一族の長である高演が政を執るのは何の問題もない。東殿に常駐して、政に口出しをする隙を与えぬのだ。そしてよそ者の楊愔を排除するのだ」

 婁氏は夫の高歓と一緒に築いてきた権力を、みすみす漢人に奪われてなるものかと語気を強くした。婁氏にとって、楊愔と李皇后は、高歓と共に築いてきた国と息子を奪った仇敵と言えよう。皇太子の高殷は孫であったが、時々しか顔を合わせない李皇后の生んだ孫と実の息子とは比べようがなかった。

 晋陽は、高歓が幕府を開いた高一族の本拠地である。高殷が即位して鄴都に戻れば、各鎮に駐屯している鮮卑族を結集し、漢族を一掃することも不可能ではない。


 母婁氏と四弟高湛は、幼君が立つ危険性や鮮卑族の誇りを持ちだして高演を説得しようとした。しかし、温厚な高演は、母婁皇太后や四弟の強い説得にもかかわらず、世の非難を浴びて皇位を簒奪する覚悟はできていなかった。


★  高洋の葬儀  ★

 

 十月の十九日、皇帝高洋の喪が正式に発せられ、皇太子殷が皇帝に即位した。皇帝は一日の空位も許されないからである。ついに、楊愔たち漢人派が勝ったのだ。

九日間の空白の間、水面下では婁皇太后と常山王高演、長広王高湛、司徒の段韶たちが図って、高演を即位させようという動きがあった。殷皇太子を廃して高演が即位するためには、皇帝に即位するという高演の強い意志を示すことが必須だ。しかし、殷皇太子の聡明さを知っている高演には、甥を廃太子とする決心が付かなかったのである。楊愔・李皇后・高帰彦たち皇太子方の守りは堅く、実際は何もできず手をこまねいているしかなかった。


弔鐘が晋陽城に鳴り響いた。晋陽宮の堂では文宣帝の葬儀が執り行われた。葬儀は、一族の長老たる常山王演が喪主となり主催するのが慣例である。皇太子殷、妃嬪、皇族方、尚書令の楊愔以下の臣下は、白い喪服に身を包み、葬儀に参列した。長恭と青蘭も皇族の一員として、喪服に身を包み朝堂に入った。

 正面に安置された棺には白い布帛が掛けられ、中央には奠の字が掲げられている。両側には太子高殷、李皇后を初め多くの妃嬪や各皇子が居並んでいる。しかし、皇太后は心痛のために病を得て参列していなかった。

 喪主の高演が焼香すると、皇太子以下、皇族や廷臣達がその身分に従って線香を献げた。多くの皇族の葬列の中にはいって長恭と青蘭は線香に火を付け死者に礼拝した。

 宰相の楊愔は、涙を流し憔悴した様子であった。しかし、妃嬪を初め多くの臣下の誰一人として涙を流している人はいなかった。むしろ、嗜虐の君主の崩御にほっとしている様子さえ見えた。

『御祖母様は、この様子を見たらどう思うだろう』

 青蘭は、周りに座る皇族夫人たちの顔を見回した。たとえ、母親を殴ろうと、息子には変わりはないはず。皇帝として玉座に座りながら、その死を悼む人間が誰もいないなんて、なんと寂しいことだろう。青蘭は、祖母の心中を思うと胸が痛んだ。


   ★ 太子高殷の即位  ★


十一月二日、新しい皇帝に高殷が正式に即位した。そして、速やかに新しい政治体制が整えられた。

禄尚諸事の常山王高演を太博に、司徒の長広王湛を太尉に、司空の段韶を司徒に累進させた。また、右丞相の斛律金を左丞相に、尚書左僕射の河間王高琬を司州牧に、尚書右僕射の高陽王高睼を尚書左僕射にした。また、広陽王高紹義を笵陽王に、長楽王高紹廉を隴西王に封じている。

 そして、後宮では李皇后が皇太后に、婁皇太后が太皇太后に封じられた。


 今回の叙爵では、新帝の伯父たちが王位に爵封された。楊愔に従わない鮮卑族の皇族は実権を弱められ、権力の中枢から遠ざけられたのだ。皇太后の近しい者たちほど冷遇される結果となった。

しかし、喪中であったので新帝は政務を執らず、慣例通り、高演が録尚書事兼太傅として晋陽宮の東館で政務を執ることになった。高演は、皇帝より先に上奏文を観て決済を行い、皇帝高殷は、ただ承認をするだけであった。

 文宣帝の弟で、高一族の当主である高演が、新帝の禄尚諸事を務め、新帝高殷に代わって政を総覧することは、多くの廷臣が認めるところであり、朝堂は平穏を保っているようにも見えた。


   ★            ★


 しかし、楊愔たちにとって、高演の摂政は望ましいものではなかった。服喪の三年間も政を総覧していれば、常山王が地保を固めるのは火を見るよりも明らかであった。南北に北周と陳との戦を抱える北斉にとって、軍勢を鼓舞できる皇帝が必要だったからである。

 高帰彦の屋敷に、楊愔、燕子献、鄭頥の三人が集った。楊愔が正殿の堂に入ると、喪中にもかかわらず歌舞音曲に家妓の舞が華やかな酒宴が催されていた。 

「楊令公、常山王の独走を容認していいのか?」

 高帰彦は、顎に蓄えた髭をしごいた。

「喪中だ、仕方があるまい」

喪中には多くの忌禁がある。正式には両親の場合は、三年のあいだ婚姻をせず、職を辞して精進料理を食するのである。しかし、戦乱が続く南北朝時代には、その習慣も三か月や一年に短縮された。それでも、喪中は歌舞音曲を慎むのが貴族としての常識であった。

 喪中でありながら、家妓が舞う宴を開いている高帰彦を見て、さすがに楊愔は溜息をついた。楊愔は、政を専横していると批判されるが、礼に関しては儒教を厳格に守る士大夫であった。

「このまま、摂政王にでもなり、政を続ければ、いずれ常山王高演に皇位を奪われる事は必定ですぞ」

 下卑た笑いを浮かべながら家妓の腰を撫でる高帰彦を、楊愔は呆れたように見ていた。高帰彦は皇族でありながら、己の私欲のためには同族をも様々な陰謀で陥れてきた男である。油断がならないが、手先に使うには大いに役に立つ。 

「政務を取り戻す手立てを考えなければ」

 先帝の暴虐に耐え、斉の政を掌握すべく、皇族や鮮卑族の将軍達を、慎重に排除してきた楊愔であった。

「楊殿、そのようなことは容易いであろう」

 高帰彦は、新入りの若い家妓の肩を抱き寄せている。

「そうだな、政を故意に滞らせれば、奴は、手も足も出まい。は、は、は」

 燕子献は、分かっているというように高笑いをした。

 漢族の官吏に手を回して、政を故意に滞らせその責を朝議で問うというのである。政の停滞は、民の苦しみを生む。しかし、燕子献には、民の苦しみなど何ほどの事でもないのである。

「それは、そなたに頼もう」

「常山王を指弾する上奏は、私が」

 鄭頥が自信ありげに自分の胸を叩いた。

 楊愔は、鷹揚に笑うと、高帰彦が家妓に支えられながら堂を出て行くのを見送った。高演は聡明だ。気弱な皇太子に比べて皇帝として有能である何も知れない。しかし、有能な君主ほど補佐するものにとって扱いにくい者はいないのだ。


  ★ 東館の摂政 ★

 

 高長恭は、鄴から送られてきた上奏に要約文をはさむと筆を置いた。十日前に葬儀が終わたばかりだ。文書が少ないのは、六部の仕事がいまだ軌道に乗っていないからだろうか。閑散とした官房は、長恭の他は誰もいない。

 長恭は両手を伸ばして大きく伸びをすると、肩を回した。 

 

「長恭、きれいな蝋梅の木を見つけた。一緒に食べないか?」

 食盒を持った高敬徳が、官房の入り口から顔を出した。そう言えば、すでに巳の刻はとうに過ぎている。長恭は昼餉用の食盒を持つと、敬徳のあとから回廊に出た。

 冬にしては強い陽光が、樹木に残った雪を溶かしている。

「東の庭園に、香りのいい蝋梅を見つけたんだ。近くに四阿もある」

 侍中である敬徳が、散騎侍郎の官房に顔を出しとは、めずらしいことだ。


 官房から東に行くと東館があって、さらに歩くと東の庭園になっている。

「蝋梅は、極寒の中でも気高く花を咲かせる。だから、逆境に立ち向かう士人を表すそうだ」

 長恭は黄金色に輝く蝋梅を見上げた。自分は蝋梅のような気高い男になれるだろうか。

 長恭は、料理を広げると敬徳に勧めた。

「青蘭の手料理だ」

 高敬徳は、羊の煮込みをつまむと口に入れた。香辛料の辛みと羊のうま味が口の中に広がる。長恭の奴、毎日こんな旨いものを食べているのか。

「最近は、上奏が、半分も届かない」

 敬徳は、忌々しげに羊の肉を噛みしめた。

「葬儀が終わって間もない。六部が本格的に機能していないのかも」

「まさか、・・・急に上奏が減るはずないだろう?・・・楊愔のいやがらせだ。常山王が東館で録尚書事として政務を担当しているので、妨害しているのだ」

 朝儀で下級官吏達が常山王を責めていた。政務の遅滞は、摂政たる常山王の責任であると。楊韻に指示された漢人達は、自分たちの責任を常山王に転嫁して、摂政の職から追い落とそうとしているのだ。

「斉国のためには、常山王に玉座についてもらうしかない」

 敬徳は拳をにぎった。

「実は、御祖母様の依頼で王睎殿に頼んだのだが、断られたのだ」  

「王睎に断られた?」

「ああ、自分の身分では一国の帝位にかかわるような立場にない。説得はできないと」

 王睎は、鮮卑族にかかわることで楊韻達からの報復を恐れているのだ。しかし、本来は王睎はどちらの党派にも属さない清廉な官吏である。高演が幼少のころ、その学友に選ばれ長らく机を並べていたことがあった。成人してからも、政治を離れて学問の付き合いをしていた。

「やっぱり王睎がふさわしい。私が、王睎を説得してみる。長恭、一緒に行ってくれるか?」

 敬徳は、長恭の腕に手を置いた。


  ★ 長恭の傷心  ★


 晋陽の冬の夕暮れは足早にやってくる。夕餉が終り、這い上がってくる寒さを火爐がようやく防いでいた。

 王睎の屋敷に敬徳と訪ねていったら、あれほど渋っていた王睎があっさりと承諾してくれた。敬徳が携えた銀子のせいか?清河王の身分のせいか?結局、私が無力で無能だと言うことか?

 それに加えて、新政にかかわる爵封でも、自分には何の音沙汰もなかった。皇太后にかかわる者は冷遇されているが、例外の者もいる。

 

 蝋燭の灯りが青蘭の目の中に映って長恭はふと微笑んだ。

「青蘭、以前細氷の話をしただろう?」

「細氷?」

細氷とはいわゆるダイヤモンドダストで、寒い冬の淺に水蒸気が凍ってキラキラ光る現象である。

 長恭は、銀の酒杯を上に揚げて、蝋燭の灯りに輝く様子を見た。

「そうだ、とても寒い朝、霧が凍って金剛石のようにきらきらと輝く・・・細氷には思い出がある」


長恭は、幼き日の晋陽での暮らしを思い出した。

「父上が宰相になり、母上と私は観翠亭より晋陽の高家に引き取られたのだ。しかし、身分の低い母は、他の妻妾から様々な嫌がらせを受けたのだ。父上は私たちの苦境を知りながら助けの手を差し伸べることはなかった」

「そんなことが?・・・母上は苦労されたのですね」

 今まで母親の死については詳しく話すこともなかった。しかし晋陽宮に来て幼きころのことを思い出すことも多いのだ。長恭は、ぽつりぽつりと話し始めた。

 長恭以外の肉親を持たぬ母荀翠蓉には、頼るべき家もなかった。そのために、高家の屋敷では辛いことも多かったのだ。

「母は、訪れのない父を待っていた。母の身体が心配で、私は後をついて歩いたよ。朝まで歩き疲れた母は、凍てつく四阿で細氷を見ていたのだ。朝日に輝く細氷が、母の涙のようで切なかった」

その後、失意のうちに母荀翠蓉は亡くなったという。晋陽宮と細氷は、長恭にとって悲しい母の思い出と共にあるのだ。

「都に帰る前に、君に細氷を見せたい」

母親をみすみす死なせてしまったという後悔が、女人への思いを一途なものにしているのかもしれない。母への惨い仕打ちを思うと、婁氏に引き取られた後も、延宗以外の兄弟とは決して馴染もうとしないのもうなずけた。


「私と一緒にもう一度細氷を?」

「君となら、別な細氷が見られるかと思って・・・」

 長恭は悲しい思い出を乗り越えて、明るい未来をみたいと思っているのだ。青蘭は、笑顔でうなずくと酒瓶を取った。

「さあ、師兄、一緒に飲みましょう」

 青蘭は、長恭の杯に酒を満たした。

『この酒は、師兄に似ている』

見た目は華やかだが、熱い情念と悲しみを抱えている。長恭はこの極寒の晋陽で、金剛石よりも硬い心を陶冶してきたのだ。青蘭は、堅い心を少しでも温めたいと思った。


★ 王琳の戦い  ★


これより先六月に、陳では武帝陳霸先が、崩御した。武帝の嫡子は、長安に留め置かれていたので、七月に陳蒨(文帝)が即位したのである。文帝は章皇后の実子ではなかったため、朝廷に波風が立っていた。武帝の長子である陳昌が、優れた容貌と仁愛に満ちた性格で聡明であったからである。重雲殿が火事になるなど建康が不穏な空気に包まれたため、文帝は嫡母の章皇后を皇太后にし、薬王の陳伯宗を皇太子とするなどその沈静化を図っていた。

 陳の混乱に乗じた梁の丞相の王琳は、十月になると天啓帝簫莊を伴い、長江の中流にある汾城から陳を撃つべく東に向って出撃した。

王琳の梁軍は、汾城の東北にある大雷を攻めた。続いて、王琳軍の堤霊洗は、南陵を撃破した。王琳軍は、かつて支配していた濡須口に到った。そして北斉の慕容儼は、長江北岸に軍を展開しこれを助けた。また、巴陵太守の任忠が、汾城を急襲した呉明徹を追い払った。

父王琳の軍は、北斉と協力して、長江沿岸の勢力を着々と広げつつあった。


★  王晞の助言  ★


楊愔に執政権を奪われ、晋陽宮の東館を離れた高演は、半ば逼塞状態で他の廷臣との面会を断っていた。そんな中で高演の元を訪れていたのが、王晞であった。

王晞は、字は叔朗といい名文家の王元景の弟である。この時五十歳だったが、風韻漂う美男子であった。二十六歳の常山王高演にとっては、王晞は幼いころから学友として誰よりも信頼のおける存在であった。


 常山王は、王晞に椅子を勧めた。王晞は出された茶を喫すると高演を見つめた。 

「常山王、鳥の王鷲であっても一旦巣を離れれば、卵を奪われる危険が生じる。しかるに、新帝の叔父であるそなたが、皇宮を離れていいのか」

 意気消沈している高演を、王晞は励まそうとした。

「新帝の命だ。私は従うしかない」

 高演は、八方ふさがりの状態に肩を落とした。朝儀で政の怠慢を追求されて、やむなく東館を出たのだ。それ以来、政の情勢がすっかり分からなくなってしまった。

「録尚書事である常山王は、皇宮で天子を輔佐するべきであるとは、皆の思いは一致しておる。そなたは皇宮の外に出るべきではないのだ」

 一族の長老である自分が、若輩の高殷を補佐すべきであるとの道理はわかる。高湛は、廷臣に根回しをし時には武力を使って摂政の立場を取り戻すべきだと主張している。しかし、温順な高演にとって甥の高殷を廃してまで、権力を手に入れたくないのだ。

 「分かっている。しかし、殷は正統な後継者だ。朝儀で追求されたら仕方がない」

高演は、王晞の言葉をありがたく聞いたが、その後、陽休之が訪ねてきても会うことはなかった。



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