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蘭陵王伝 別記 第八章 晋陽宮の幽霊 ④

 結婚した長恭と青蘭は、幽霊におびえる今上帝に随行して、晋陽城に行く。晋陽城は、長恭の母親が、亡くなった悲しい思い出の残る城だった。

    ★ 晋陽の夕焼け ★


 数日後、長恭一行は晋城に到着した。高長恭の一家は、晋陽宮内の薫風殿に居を定めた。九月末の晋陽はすでに冬の装いで、城内には山茶花が赤く花を開き、木々は黄葉の葉を散らしていた。

 晋陽は、鄔澤に注ぐ汾水の中流に栄えた邑である。古くは春秋時代の大国晋の都邑のひとつだった。晋の有力者である趙鞅が、汾水のほとりに邑を築いたのがはじめであった。晋の分裂後、しばらく三晋の一つである趙の国都であった。秦から漢の時代には、太原郡や并州と名前を変えながらこの地の政治の中心であった。 


 長恭は荷物を整理すると、夜着に着替えて榻に座った。

 晋陽宮にはいい思い出がない。長恭にとって冬の晋陽城は暗く陰鬱な城だった。

 今から十三年前、母と私が父の晋陽の屋敷に引き取られたのは、九月の終わりの頃だった。

 日陰の存在であった私たち親子が晴れて認められるとの期待は、屋敷に入った瞬間に失われた。父が西魏との戦のために晋陽にいなかったせいもあるが、最初に案内されたのは侍女の宿舎だった。貧しいながらも誇り高く生きてきた母にとって、侍女同然の扱いがどれほど辛かったか。それは、父が戦から凱旋してくるまで三か月も続いた。

 父が凱旋しても惨めな状況は変わらなかった。さすがに居所を与えられたが、側仕えは鄴から連れて来た劉氏の他はほんの数名だった。父が家人が寝静まった深夜にしか母子居所を訪れなかったのは、正妻を恐れていたのか母を守ろうとしたのか。幼い長恭にとっては、どちらでもいいことであった。先に生まれた長恭は第四子とされ、自分より遅く生まれた孝琬を三兄と呼ばなければならなかった。

 そのために体力的に勝る長恭にたいして、孝琬は常に敵愾心を燃やしていた。物置に閉じ込められたり池に落とされるのは日常茶飯事だった。しかし、その虐めを母親に訴えることはできなかった。不安定な精神状態の母を困らせるだけだからだ。

 自死とも言えるような母の死の後、父は母の身体を抱いて一晩泣いていた。後悔と謝罪の言葉は隣りに眠る長恭の耳にも届いていたが、不思議なことに父への憐憫の情は湧かなかった。謝罪も、後悔も生きているときにこそするべきだったのだ。


 そして、その時決心したのだ。私は決して妻を泣かせるような愚かな男にはならない。愛する女子をただ一人娶り、生涯共白髪になるまで添い遂げよう。母のような不幸な女子は、つくらない。

 母の死の後、父は初めて自分に似た息子の存在に気が付いたように、私を身近に置くようになった。汾水の岸に遠乗りに出たのも、そのころだった。遠い存在だった父親の姿が、おぼろげながら分かってきたとき、父高澄は、突然暗殺されてしまった。

 結局、自分は第四子として正式に認められた。しかし、後ろ盾を持たない母の荀翠容は、王子を産みながらも妃の身分は与えられなかった。晋陽宮は、庭のあちらこちらに母の悲嘆と死の思い出が残る陰鬱な屋敷である。長恭は、背もたれに寄りかかると両手で顔をおおった。


 扉が開き冷たい風が吹いて、湯浴みを終えた青蘭が入ってきた。

「晋陽は、もう真冬ね」

 青蘭が、頭に巻いた布帛に手を遣った。長恭は立ち上がると、布帛で髪の露を拭いた。

 青蘭が鏡台の前に座る。

「ああ、もうこんなに冷たくなって・・・」

 長恭は青蘭の髪を降ろすと、櫛を手にとった。

「私が髪を梳こう」

 青蘭の髪は冷たく滑らかで、肉感的な重さで長恭の手の中にあった。長恭は髪を束ねると、器用に髷を結った。紫水晶の飾りの付いた笄を髷に差すと、首筋の白さが際立つ。

長恭と青蘭は、共に榻牀に座った。

「この寒さでは、雪が降るのももうすぐね」

「もっと寒くなる。厳冬期になると、朝に、河畔で細氷が見える。霧が金剛石の様に輝き降るのだ。君に見せたい」

 長恭がにぎった青蘭の手が冷たい。

「でも、それが見られるのは、特別寒い日なのだ。眉が凍るほど」

「金剛石の霧は見てみたいわ。でも寒いのは・・・」

 青蘭は、建康で生まれ長らく長沙で生活してきたから、晋陽の冬の寒さは、骨身に染みるのだ。 

「それでは、思いっきり厚着をして行くとしよう」

 青蘭は首をかしげて、長恭の肩に頭を寄せた。

「十月になれば、皎潔のような霜雪に被われるのね?」

 一面に雪が降り積もり、霧がきらきら輝くとはどのような光景であろう。青蘭は長恭の肩にもたれながらうっとりと想像した。


   ★ 晋陽の細氷 ★

   

「粛よ、父上がいらっしゃる」

 母は、麗容に笑顔を添えて長恭を見た。鮮やかな長裙を着た母は、吸い寄せられるように夜の後苑に出ていった。後苑は不思議な明るさを保っている。月が煌々と輝いているのに、細かい氷の粒ががサラサラと降っている。

「母上、待って・・・」

 幼い長恭が追いかけても、母に追い付けない。氷の粒が長恭の頬を打つ。氷の粒がキラキラと月光を反射して幻のように母を包む。長恭は持っていた披風を差しだした。

「ああ、子恵様・・・もうすぐ来るわ」

 母は、父を待ってそわそわと睡蓮池の周りを歩き始めた。

「母上、・・・戻りましょう。お身体が・・・」

 長恭は、母の袖を引っ張った。

「いいや、・・・子恵様が来ている」 

 長恭の手は、母に思わぬ力で振り払われた。ああ、母上の心は、父上への思い出でいっぱいだ。


 突然、白い披風がひるがえり、母が雪の上に倒れた。横たわった母は、舞い降りた蝶のようだ。

「母上、母上・・・だいじょうぶ?」

 長恭は駆け寄ると、母の身体を揺すった。母の身体は氷のように冷たく動かない。

 母上、母上・・・。なぜ、僕を残していったのです。

 

「師兄、師兄・・・」 

 青蘭に揺リ動かされて、長恭は目覚めた。暗い灯籠の灯りに照らされて、長恭の瞳が涙でゆがんで見える。

「何か、悪い夢でも?・・・」

 久しぶりに・・・見た夢だ。長恭は、青蘭を抱き寄せた。身体の温かさが、胸に腕にじんわりと広がる。

「このままで・・・」

 もう独りぼっちじゃない、青蘭こそが、家族だ。長恭は青蘭の額に唇を押しつけた。

「何か、うなされていたわ」

「母の夢を見たのだ。・・・」

「母上の夢を?・・・」

 晋陽に引き取られてから、母はいつも父を待ち、悲しそうに座っていた。あれは幻だったのかも知れない。満月の夜、母は父を探しに後苑に出た。朝方まで庭を彷徨った母は、凍りついた睡蓮池の横で凍死していたのだ。その後、母の魂が呼んでいるのか、毎夜のように母の夢を見た。

 父が暗殺され、孤児になった長恭を、祖母の婁氏が引き取った。鄴都で暮らし始めてから、この夢は少しずつ間遠になって、最近は忘れていた。

 この晋陽宮が、夢を引き寄せたのか。


 長恭は幼子のように、青蘭の胸に顔を埋めた。

「母上を、追いかけても連れ戻せなかった」

 青蘭は、長恭の頭を抱き寄せた。

「母上が、睡蓮池をさまよっていた。・・・叫んでも母上は」

 長恭は晋陽の高一族の邸宅で、辛い幼年時代を過ごしたという。長恭にとって晋陽は暗い記憶を引きずる城なのか。青蘭は顔を上げると、長恭の涙の痕がある頬を指でなぞった。

 長恭は衾のなかで青蘭の細い腰を抱いた。

「母上の魂が、師兄に会いたがっているのかも・・・墓参りに行きましょう」

 妃の位を得ていない義母上は、一族の陵墓には入れない。母の荀翠容は、晋陽の城外にある明懸尼寺に葬られているのだ。

「ああ、そうだな。母上が寂しがっておられる・・・」

 青蘭は長恭の頬に唇をつけると、逞しい肩を抱きしめた。


    ★ 紫雲と鏡玄 ★


「周夫人、崔師父からは、手簡などはあるのですか?」

 顔紫雲は、父顔之推からの礼物を周夫人に渡すと、さり気なく聞いた。

「主は、北辺に流された身。家族に手簡などかないません」

 周夫人は寂しげに答えると、卓の上に櫃を置いた。流刑と行っても、左遷された刺史であれば賄を渡せば報告文の移送のついでに手簡を託すことは難しくない。しかし、一本気な崔叔正は、己にそれを許さないのだろう。     

「もし、知らせたいことがあれば、父の弟子に託してとどけます。鏡玄様に持たせてください」

 紫雲の申し出に、夫人は淡い笑顔で応えた。

「落ちぶれると、一族でさえ顔を見せぬのが普通なのに、顔之推殿は、・・・有り難い」

「一日教えを受ければ、一生の師であると言われます。崔師父は、必ず戻られると父も言っています」

 紫雲の言葉に、周夫人は涙ぐんだ。


 紫雲は、書庫に向かった。崔叔正の医術に関する蔵書は、太医院を凌駕している。紫雲は最近本草学に興味を持っていた。

 紫雲と鏡玄が書庫に入ると、鏡玄は姿勢を崩して不満げに椅子に座り込んだ。

「陛下は、暴虐だ。禅譲で帝位を譲った元氏を刑死させるなんて。そうしておいて、さっさと晋陽に逃げていった」

 鏡玄は真一文字に口を結んで不満を露わにした。外では決して口に出せない陛下への不満だ。

 学問を始めたころは何かと衝突していた紫雲と鏡玄は、馬が合うのかしだいに遠慮のない仲になっていった。二人の間では、世の中に対する不満が止まらない。

「噂で聞いたわ。・・・夜になると東市のあたりからすすり泣く声が聞こえるんですって。知っている?」

「ああ、学堂の弟子から聞いたぞ」

 鏡玄はうなずいた。最近でも、赤子を抱いた元氏の幽霊が小路に現れたなどの噂が、後を絶たなかった。噂や流言は、民の世論の表れでもある。鄴城の民の中にも、元氏一族への同情の声が多く聞かれる。

「ああ、こたびの晋陽への行宮も、元氏の幽霊を恐れた陛下が、晋陽城に逃げ出したのが真相だそうだ」

 今上帝が酒毒に犯されているということは、公然の秘密であった。その様な君主により父崔叔正は、官位を奪われ、北辺に左遷されているのだ。

「あまりにも、理不尽だ」 

 崔鏡玄は立ち上がると、書庫の壁を殴った。 

「鏡玄師兄、ここで壁を殴ったって何になるの?」

 紫雲は腕組みをすると、冷たく鏡玄を見た。紫雲はあくまでも毒舌だ。 

「ここは、鮮卑族の君主を戴く国よ。理不尽な君主だと、端っから分かっていたわ。父上だって仕官したけれど、政道は正せないと匙をなげたのよ」

 紫雲は、書架から竹簡を引き出すと袋についている札をめくった。

「青蘭は、今ごろ晋陽で何をしているやら。学問を続けると言っていたのに、舌の根も乾かぬうちに晋陽に行った。開国公夫人は優雅なもんだ。晋陽で物見遊山か?・・・女子は得だな、玉の輿という手があるからな」

 王青蘭が、開国公高長恭と婚儀を挙げたことは、祝宴に行った兄弟子から聞いている。父が流刑になった後の崔家を、顔之推と高長恭などが援助してくれていることは鏡玄も知っていた。しかし親しかった青蘭が、いきなり皇族夫人になったと言われても、なかなか受け入れられないのだ。

「開国公夫人ですもの仕方がないでしょう?青蘭は、いやいやながら、夫君の行宮行きに同行しているの。青蘭を馬鹿にしないで」

 紫雲は、手にしていた竹簡で鏡玄の肩を叩いた。

「玉の輿だなんて、高長恭は容貌は麗しいけれど政治力はからっきしよ、財力だって高が知れているの。青蘭が豪商の娘だから娶ったとの噂もあるわ。青蘭は苦労しているんじゃないかなと、心配なの。女子の道は厳しいものよ」

「そうなのか」

 崔鏡玄は、渋面を作ると腕組みをした。


    ★ 明懸尼寺の静寂 ★


 明懸尼寺は、北魏の彭城王であった元勰げんきょうが建立した尼寺である。晋陽を北方防衛の重要な拠点ととらえた北魏では、仏教を奨励し晋陽の近辺に多くの寺院が建立されていた。

 

 その尼寺は、晋陽と朔州の間をながれる汾水の東に広がる丘陵にあった。長恭と青蘭は冬枯れの草原に馬車を走らせ、明懸尼寺に向かった。 

 山門の前で馬車を停めると、二人は中門まで続く急な石段を登った。見上げると楼門ははるか上の方にある。中門を過ぎ本堂への石段をさらに登って行くと、一人の年老いた尼僧が、本堂前を掃除していた。

 名前を名のった高長恭は、案内を請うた。

「管主さまは、どちらに?」

「はい、昨日から晋陽に行かれていて・・・本堂にご案内いたします」


 二人は尼僧に供物を渡し、本堂の聖観世音観音菩薩像に拝礼すると、長恭の母親の墓に向かった。

 正式な妃として身分を得られなかった母の荀翠容は、高家の墓陵に葬られることはなく、元氏ゆかりの明懸尼寺に葬られたのである。

 母の墓所は、墓陵のなかでも西の丘陵のはしにあった。落ち葉を踏みながら丘陵を登る。周りを見回すと、木々の葉はすっかり落ちて、茶色になった唐松林だけが残っている。そんな松林の尽きたところに母の墓所はあった。小さく建てられた墓碑の向こうには、石で囲まれた小ぶりの丸い墳墓が作られている。周囲には石塀もなく、庶民の墓所と見紛うほどの簡素さである。

 長恭と青蘭は墓碑と墳墓に積もった落ち葉を払うと、墓石の前に供物と香炉を並べた。墓前に膝をついて並ぶと、線香に火を付けた。手を合わせて母親の霊に三度拝礼した。白い線香の煙が、風に吹き上げられて西の空に向かって駆け登って行く。

 祖母である皇太后の庇護の元、鄴で生活している長恭にとって、母親の墓参りは容易なことではなかった。今上帝と不仲な皇太后は行宮に随行することは少なく、母の墓所を訪れたのもわずか四度ほどだった。長恭が最後に墓参りをしたのは、四年前のことだ。

「母上、やっと墓参りに来られました。ご安心ください。母上、粛は妻を娶りました。もう大人です。王青蘭を見てください。優しく綺麗な女人です。もう、私は一人ではありません」

 長恭の瞳に涙がにじんだ。

「義母上、妻の王青蘭です。長恭様と一緒になりました」

 長恭は、『荀翠容の霊位』と楷書で書かれた墓碑を見上げた。そこには母の称号も身分も記されていない。以前は幼くて気が付かなかったが、皇子を生んだ女人なら、妃など何らかの称号を追贈するのが普通である。いくら後ろ盾のない妾だとしても、これでは、庶人にも劣る墓陵ではないか。長恭は唇をかんだ。

 墓石の左下に、劉逖の名前が刻まれている。劉逖は、父高澄のもとで開府行参軍を務めた武将であった。幼かった長恭には、母親の葬儀の記憶がない。劉婆も葬儀については多くを語らない。父上が、劉逖に母の墓碑の題字を依頼したのか、あるいは劉逖が葬ったのかも知れない。

 母が身罷ったとき、自分が成人して官職についていたなら、身分を追贈して立派な墓に葬ることができたかも知れない。自分の幼さと母に対する父の薄情さを呪った。それならば、私が母の墓を立派に改葬してみせる。手柄を立てて母に称号を賜れば、晴れて高家の墓陵に改葬できるのだ。

「母上、長恭は必ず手柄を立てて王位を賜ります。・・・待っててください」

 長恭は、頭を垂れると膝の上で拳をにぎった。

 寂しい墓所の有様は、孤独な荀翠容の生涯を象徴しているようだ。師兄は立身出世をはたして母親に称号を賜り、生前の無念を晴らしたいのだ。長恭は決して財物や権力を望む欲深な人間ではない。しかし、母親のためなら、俗欲にまみれる覚悟なのだ。

 そうだ、自分との婚姻を願ったときもそうだった。


 長恭と青蘭は再度拝礼すると、立ち上がった。そのとき、西風が強く吹いて落ち葉を舞い挙げた。長恭と青蘭が進む道に、雪のように落ち葉が降りかかった。

「もうすぐ、雪が降るわ」

 青蘭は、空を見上げると長恭の手を握った。

 晋陽の空はどこまでも蒼く、はるか漠北まで続いている。漠北は、長恭たち鮮卑族の故郷である。江南に故郷をもつ自分が長恭と結ばれ、ここ晋陽宮に住まうとは、まさしく天意と言うべきであろうか。


    ★ 晋陽城の落陽 ★


 晋陽に移った今上帝高洋は、冬の長旅に体力を消耗したのであろうか、しだいに食欲をなくしてただ酒を飲むだけの毎日になった。

 政は、丞相の楊令公と尚書左僕射の平秦王高帰が以前より増して担うようになっていった。そのことにより、高洋はより一層酒浸りになり、元氏の亡霊や足音など幻影や幻聴を観るようになっていった。榻牀で眠っているときも、悪夢に悩まされ、突然起き上がり晋陽宮を彷徨うようになっていたのだ。

 

 その夜、遅くまで奏上文と格闘していた長恭は、侍中府を出て居所に向かっていた。すでに戌の刻(午後十時~十二時)である。高一族の邸宅と旧晋陽城を改築した晋陽宮は、長い回廊に灯籠も少なく、はほの暗い回廊がどこまでも続いている。長恭は、所々に下げられている灯籠を頼りに薫風殿に急いでいた。

 その時である、遙か北の回廊の方からギャーという悲鳴とワーという怒号が、聞こえてきた。

『くせ者か』

 長恭が、声のした方に走っていくと、頬がこけ龍袍を着た男が、奇声を発しながら剣を振り回していた。周りでは、男の動きを避けるように宦官と宮女が逃げ惑っている。侍衛は、剣を携えているはずだが、誰一人としてこの男を制止しようとする者はいなかった。斉の皇帝の剣を制止させられる者は、この行宮にはいない。


「 ヒヒヒヒイ」

 高洋は奇妙な声を発すると、手にした剣を横に払った。若い宮女が思わず後ずさりをしようとして、ひっくり返った。その拍子に、高洋の剣が宮女の袖を切った。バッサリと切られた袖から、花びらが散るように鮮血が飛んだ。

「ギャー、陛下、ああ腕が・・・」

 宮女が腕を押さえてうずくまる。

「お前達は、・・・朕を馬鹿にしておろう。・・・知っているぞ・・・陰で・・ひひ」

 酒毒で黒みを帯びた頬がこけ、大きな目は虚ろに据わっている。宦官達が、後ろに下がるにつれて長恭が前に押し出されてしまった。

 その時だ、宦官に斬りかかろうとして柱に傷を付けた高洋が、くるりと長恭の方に振り向いた。横にいた宮女が奉げ持っていた灯籠の灯りに引き付けられたせいであろうか。高洋は長恭を認めると、惚けたように近づいてきたのだ。

「あ、あ、あ、兄上・・・ひひひ」

 突然、長恭に嬌声を挙げながら斬りかかってきた。長恭は、とっさに身を躱すと振り下ろした高洋の手首を掴んだ。思わぬ近さで、高洋が振り向き長恭を見た。

「兄上、おひゅるしください。わたしが・・・」

 高洋は、突然、引きつった顔でわななき始めた。

「私では、・・・わ、私・・・では、あ、あ・・・。兄上のせい・・・」

 高洋はゆがんだ顔を振りながら、刀を握った腕を引き抜こうと暴れ出した。

「陛下、御静まりを・・・」

 長恭が手首を離し、冷静さを促そうとしたとき、高洋は剣を放り投げて駆けだした。

「どうしてここに、・・・許してくれ、助けてくれ」

 髪を振り乱した高洋の後を、宦官と宮女、侍衛が追いかけていく。

「あばあ、ああ。だめだめ。私じゃない。ぎゃあ、ああ」

 暗闇に包まれた回廊に高洋の絶叫が響き渡り、次第に遠くなっていった。


『これは何なんだ』

 幻だろうか?いや現実だ。その証拠に向かいの赤い回廊の柱には、刀傷が深く残り、足元には生々しい血だまりが赤く残っている。

 柱に寄りかかり長恭は、荒く息をした。陛下の昏倒の様子は、噂では知っていた。しかし、実際に目にすると、君主の浅ましいまでの狂乱振りに衝撃を受けた。陛下の何という姿を見てしまったのだ。

 陛下は、幻想や幻聴を見るという。恐怖に引きつった様子をしていた。長恭を見て幽霊だと思ったのだろうか。

『陛下の剣を避けて、手で手首を掴んでしまった。おとがめはないか』

 儒教では、父母や君主の罰は避けてはならないと教えている。長恭は、それを心配しながら、薫風殿に戻っていった。


 百鬼夜行。春秋戦国時代に晋の都として栄えてから、多くの王朝が覇権を争ってきた晋陽には、天下を渇望した武人達の魂が霊となって彷徨っているのかも知れない。

 陛下は自分を兄上と呼び、恐怖におびえながら逃げて行った。陛下の兄とは、当然父の高澄であろう。確かに、廬思道は自分が父に似てきたと言っていた。

 最近、元氏一族や高徳正の幽霊を頻繁に見ると噂になっている。しかし、敵を取った兄高澄の亡霊を見るということはおかしい。

 陛下は、何か父に疚しいことがあるのか?『兄上、お許しを』あの言葉は、何なのか?父の暗殺を防げなかった自分を責めているのか。それとも、暗殺の黒幕は・・・。恐ろしい疑惑が、長恭の脳裏を過ぎった。


「師兄、顔色が真っ青よ・・・」

 長恭が薫風殿に戻ると、夕餉を並べながら青蘭が驚いた。

「侍中府から戻るときに、陛下に出くわした。・・・その様子が・・・」

 言葉にするのも恐れ多い。長恭は粥の椀を引き寄せた。

「噂に聞いたわ・・・。陛下が泥酔して皇宮を彷徨っていると」

 自分を父の高澄と間違えたことは、話せない。

「剣を振り回して、切られた宮女も数知れず。こんなことがあっていいのかしら」

「君は、出歩かないように気を付けよ」  

 安全であるはずの皇宮で、陛下の辻斬りを警戒するなんて、・・・。長恭は、外に広がる暗闇を見やった。


      ★  皇太后の苦悩 ★


「粛よ、晋陽宮は懐かしいであろう」

 婁皇太后は、火爐に手をかざしながら、笑顔を見せた。晋陽宮は、祖母にとって祖父と協力し合いながら高家の基礎を築いた思い出の場所であった。しかし、長恭にとっては、辛い高家での生活を思い出させる場所であった。


「晋陽に来ると、父母のことが思い出されます」

 長恭は、茶釜から茶をすくうと祖母に茶杯を差しだした。

「そなたには、辛い想いをさせてしまったな」

「辛い想いだなんて、・・・そういえば、父は馬で汾水に連れて行ってくれました」

 長恭が、父親を身近に感じた唯一の機会だった。

「そうよな、母が亡くなり、高澄はそなたを可愛がっていたな」

 可愛がっていた?・・・長恭は、祖母に隠れて唇をかんだ。冷淡な父が私を可愛がるはずがない。私たち母子への罪悪感が、そんな思い違いをさせたのか。

「粛よ、そなたは、先夜、陛下に会ったと聞いたが、まことか?」

 婁氏は、探るように長恭の顔を見上げた。泥酔した陛下の様子をどこまで話していいものか。

「そなたに切りつけたとは、まことか?」

 皇帝の乱行はすでに皇宮の噂になっているらしい。隠し通すわけにはいかない。

「まことです」

「怪我はなかったのか」

 婁氏は、立ち上がって長恭の身体を検めると、息子の乱行を嘆くように首を振った。

「陛下は、・・・どのような様子であった?」

「泥酔して、衰弱しておられました。・・・太医を呼んで、病状を詳しく訊かれては?」

 婁皇太后と陛下の間柄は、同じ城内に住まいながら星よりも遠い。

「それが難しいのだ。陛下とは皇后や近習にさえぎられて会えてない。親子なのに・・・」

 

 長恭は、皇帝が自分を父と見間違った事を話そうかと思って口をつぐんだ。似ている父子を見間違うことはある。しかし、亡くなった兄と息子を見間違うとは、ただ事ではない。

 どちらも、祖母にとっては同じ息子なのである。自分を父の幽霊と見間違えて恐怖におののいていたと言う話は、祖母を傷つけるだけであろう。

 長恭は、口をつぐんだ。


   ★ 父の面差し ★


 十月に入って、晋陽にも雪が降るようになってきた。毛皮の衿を付け、刺し子の裏を付けた外衣は、青蘭が仕立ててくれたものだ。そのお陰で、晋陽の寒さも少しは凌ぎやすいものとなっていた。

 侍中府の官房で高長恭と廬思道は、昼餉を取ろうとしていた。行宮では、散騎侍郎の人数も少ない。宦官の吉良が食盆から持参した皿を出し、卓に並べた。羊の煮込みと、焼餅、柑子の旨そうな匂いが官房に広がった。

「おう、ありがたい。旨そうだ」

 思道は、吉良から茶杯を受け取ると明るく笑った。

「長恭、王夫人は、なかなか気が付くな。・・・婚姻が皇太后様からの賜婚と聞いたので、心配していたのだ。二人が不仲なのではないかとな」

「それは誤解です。私が、皇太后に願って婚儀を挙げたのです。不仲なはずがありません」

 廬思道は、長恭の花顔を見上げた。これほどの美貌だ。多くの娘が婚儀を望んでいるにちがいない。はたして、二人の平和な家庭がいつまでも続くのだろう。


 女子に見紛う美貌だが、長恭が笑うと人の良さがにじむ。しかし、時折鋭い表情をすると、父の高澄によく似ている。秀でた鼻梁に清華な瞳、引き締まった唇が宇氣の高さを感じさせた。笑顔のときの温順さを、峻厳な眼差しが裏切っているのだ。

 廬思道が笑うと、長恭が怪訝な表情をした。

「思道殿、どうしたのですか」

「そなたを見ると、高宰相を思い出してな・・・」

 廬思道は、焼餅に羊肉をのせると、口に運んだ。

「父ですか?・・・あまり覚えていないのです」

 高一族に生まれながら、家族に恵まれない少年時代を送ったと聞いている。思道は父のことをあまり覚えていないという長恭を痛ましげに見詰めた。

「そう言えば、幼いころ劉子長(逖)殿にお世話になった記憶があるのですが、ご存じですか?」

 母の墓碑に劉逖の名前が刻んであったが、皇宮で見かけることがなかった。祖父の代から高家に仕えている盧思道なら、母の葬儀と劉逖の関わりを知っているかも知れない。

「劉子長(劉逖)か、・・・事件に連座して十年も不遇を託っていたが、今年、員外の散騎常侍に復帰して梁に遣わされたと聞いたが・・・」 

 員外散騎常侍は、使節としての体面を整えるために与えられる官職の場合もある。だから、散騎常侍にもかかわらず、侍中府で顔を合わせる事がなかったのか。


   ★ 思い出の擬雲閣 ★


 北斉の建国の後、長恭と母の荀翠容が住まっていた高澄の宰相府は、かつての晋陽城と合わせて晋陽宮として改修された。晋陽宮は、正殿や偏殿など殿舎が立て込んだ南城と、庭に殿舎が点在する北城がつなぎ合わされた形の皇城であった。


 長恭と青蘭は、擬雲閣を訪ねた。かつて、長恭と母親が住まっていた殿舎だ。長恭は廃屋同然になった擬雲閣をまざまざと見る勇気がなくて、訪ねかねていたのだ。

「師兄、母上の形見が見付かるかも知れないわ」

 青蘭はあくまでも、前向き思考である。

 晋陽宮の北東の林を進むと、そこに朽ちた塀に囲まれた小さな殿舎があった。崩れた門を入ると、敷石が正殿まで続き、両側には枯れ草が背丈ほどに伸びでいる。擬雲閣の前には、山茶花の白い花が寂しく咲いている。基壇に昇り長恭が正面の扉を手で押すと、扉が音を立てて開いた。

「入ってみよう」

 父親の死後、婁皇太后の元に行くために晋陽を離れてから、十年の年月が経つ。幼いときに遊んだ前庭も、草に埋もれ、寝起きをしていた居所も蜘蛛の巣だらけになっている。天井から張られていた帳は破れ、壁の漆喰ははがれ、窓も朽ち果てている。右側の房に置かれた榻牀は、柱も折れて薄絹は破れて、垂れ下がっている。

「こんなに荒れ果てているとは・・・」

 記憶にあるのは、狭くても暖かな我が家であった。そうだ、榻牀の横の物入れには、私の遊び道具を入れていた。長恭が蜘蛛の巣を払い物入れを開けると、中からは古びた木剣が出てきた。

 黒ずんだ小さな木剣を手に取る。見覚えがある。観翠亭にいた頃母上が作ってくれた木剣だ。七歳の自分にはあまりに小さいと、引っ越しの時に捨て置かれたのだろう。

 青蘭は、埃まみれの飾り棚を見つけた。飾り棚にはよく仕掛けがある。青蘭は棚の背板を探ってみた。一番左の棚板を横に動かすと空間があって、両手に載るほどの小さな厨子が出てきた。長い間忘れ去られてきたのだろう。埃をかぶっているが螺鈿を施した華麗な厨子である。

「師兄、こんな物が・・・」

 青蘭は袖で誇りを拭き取ると、長恭に渡した。長恭が厨子を開ける。中から白玉で彫られた聖観音像が出てきた。二寸に満たないが、精巧に彫られた仏である。

「母上の持仏だ」

 先祖伝来の仏だと言って、観翠亭にいるころから手を合わせていた。晋陽に来てからは、高家の者たちに奪われることを恐れて、隠し棚に隠していたのだろう。

「青蘭、よく見つけてくれたね」

「母上の形見です。大切に持ち帰りましょう」 

 晋陽宮の後宮の奥深く、忘れ去られた殿舎であったゆえに、反ってこの観音像は守られたのかも知れない。


 前庭に出ると、長恭はもう一度殿舎を振り返った。そこは、母の悲嘆と父への恨みが詰め込まれた建物だ。自分は決してここへは戻らない。

『母上、粛は必ず母上の悔しさを見返すことができる力を手に入れます』

 長恭は、木剣と厨子を懐に入れると、青蘭の手を握った。



 長恭は、酒毒に犯されて皇宮をさまよう皇帝に出くわした。皇帝高洋は、長恭を見ておびえ「兄上、許して」と言葉をもらす。父親暗殺の黒幕は、皇帝だったのではないかと疑惑が浮かんだ。

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