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蘭陵王伝 別記 第八章  ③ 晋陽の残照

太白星の輝きにおびえた高陽は、皇位を奪い返される恐怖から元氏一族の虐殺を強行する。延宗の話からそれを予感していた長恭は、自分が何もしないために元氏が殺されたことに、罪悪感を抱く。

  ★  元一族の大虐殺  ★


七月も半ばになり立秋も近いというのに、この年は地面を焼くような暑さが続いていた。黄河上流で大雨が降ったため、黄河下流の青州、斉州で洪水の被害が出ていた。長恭は敬徳と救済策を話し合い、献策するための上奏の文面を考えていたのである。


慌ただしい足音と共に同僚の廬思道が、慌てて書房に入ってきた。

「長恭、たっ大変だ」 

 大きな腹を抱えた盧思道は、長恭の横にくると耳に顔を寄せると囁いた。

「元一族が、皆殺しだ」 

 そ、そんな、心の臓を掴まれたような痛みだ。三か月前、延宗は高洋と元韻の話を聞いて、元氏が、皆殺しになるかも知れない。と言っていた。

恐れていたことが現実になってしまった。長恭は、あまりの重大事に延宗に口止めをしてたのだ。そして、その重さゆえに誰にも打ち明けられずにいたのだ。


 前王朝の皇族である元氏は、元々は拓跋氏と言っていたが、中原の政治制度を取り入れる中で、元の氏を用いるようになったのである。元氏の一族は多い。その連枝や元氏を賜った者を加えると、数千人に及ぶであろう。今までも、東魏の孝静帝や北魏の孝武帝に連なる元氏を惨殺してきた。しかし、長く北魏を支配してきた元氏は今でも名門であり、六部の官吏や禁軍の武将として重要な地位に就いている者も少なくなかった。 

延宗に陛下の言葉を聞かされた長恭であったが、高官である元氏の族滅など想像することができなかったのである。

「長恭、午の刻から東市で元氏の処刑が行われている。女子も子供も皆殺しだ」

「ま、まさか。子供までなのか?」 

長恭の筆を持つ手が震え、書き途中であった献策文の料紙に、黒い染みを作った。鮮卑族も漢族も、一族の繋がりを大切にする。社稷を守り、命脈を繋ぐことが何より重大である。王朝の交代でも、完全に完全に命脈を絶つことはしていない。

 長恭は、皇帝を呪う言葉を吐きそうになって、中庭の梅林に行った。すでに、梅の木には青い梅がたわわに実っている。

「本当に、皆殺しにするなんて・・・」

 長恭は、老木に身を寄せると額に手を当てた。自分が声を挙げて、元氏一族に危険を知らせたら、未然に防げたのだろうか。もし、祖母に知らせていたら、・・・それも無理だ。


長恭は、盧思道に聞いても元氏の処刑を信じられなくて、侍中府からの帰りに東市にむかって馬車を走らせた。東市の刑場は、市の北側に設けられている。

 長恭は馬車を少し離れたところに止めると、前の扉の窓を僅かに開けて刑場を見た。既に運ばれた後であろうか、遺体は既になくなっている。しかし、生臭い血の匂いが漂い、刑場の台の上は、赤黒く染まっている。

「まったくねえ、お上のやることは酷い。女子や子供まで殺さなくてもいいだろうに」

「どこまで、先帝の一族が憎いのか。人のやることか」

 刑場に集まった人々は、官兵をはばかって小声で言い合っていた。

 人の血の匂いだ。長恭の喉から、嘔吐感が湧き出し、口を抑えた。血生ぐさい戦場なら長恭も経験している。しかし、女子や子供に剣を振ったことは一度もない。罪もない者たちの命を陛下はなぜ求めるのか。

 長恭は静かに窓を閉めると、戚里にある屋敷に馬車を向けた。

『元氏虐殺の予兆を延宗から聞いていたのに、私は何もしなかった』

 自分は手をくだしていないが、何もしなかったという点では、楊韻と同じかも知れない。罪悪感が、長恭の心を押しつぶした。長恭は、何度も馬車の窓枠を拳で叩いた。


    ★  後悔の月影  ★


 星空に掛った月が輝きを増し、長恭の剣の刃を冷たく照らした。

「この斉では、罪もない者の血がなぜ流れるのだ」

 長恭は、叫びながら唇を歪めて身を翻した。上段に構えた剣を前に向って突くと、剣先を返し思いっきり左右に空を切った。

『なぜ、自分は何もしなかったのだ』

 自分は皇子としての冊封をうけたが、何の責任も果たしていない。高徳正や崔叔正は一命を賭して陛下を諫めたのだ。しかし、皇族の自分は何もしなかった。自分は何たる腰抜けの卑怯者だ。


 青蘭は、露台に差し込む灯籠の灯りに照らされながら剣を振るう長恭を見ていた。夕餉のために呼びに来たのであるが、異様な感情の奔流に青蘭は掛ける言葉がなかった。温厚な長恭が、これほど感情を表したことはない。 

何か侍中府で問題があったのか?もしや、元氏の処刑が原因か?高徳正の死でさえも、自分を責めていた長恭であった。ましてや、何百人という元氏の処刑である。仁愛に満ちた長恭にとっては、同じ高一族の手によって、多くの罪なき者が斬首されたのは耐えがたいにちがいない。

剣術の鍛錬は一時ばかり続き、その後やっと夕餉になった。


 青蘭が、羹を盆に載せて書房に入ると、几案に向かった長恭は、灯火の下でぼつねんと書冊を開いていた。

「師兄、羹を持って来たわ」

 青蘭が几案の脇に立っても、長恭は、同じ頁ばかりを見つめている。

「いらない。一人にしてくれ」

「師兄、夕餉の時、ほとんど食べていなかったでしょう?」

青蘭は羹を匙ですくうと、長恭の唇に持っていった。

「いらぬ、余計なことをするな」

 怒りを含んだ鋭い言葉と共に、長恭の手が匙を払った。羹の汁が青蘭の顔にかかり、匙が大きな音を立てて床で砕けた。

「あっ・・・」

 青蘭は頬を硬直させた。長恭はどんなに怒りに駆られても、けっして乱暴なことはしなかった。

「師兄、怒りは分かるけれど、・・・」

 青蘭は、長恭の腕に手を置いた。

「青蘭、私にかまうな、一人してくれ」

 長恭は青蘭の手を振り払うと、横を向いた。長恭の怒りは、元一族の処刑に関係があるのかも知れない。それは、皇族としての誇りに関係があるのだ。青蘭は唇をかんだ。


 足元を見ると、几案の前に砕けた匙の破片が落ちている。夜の灯りでは、踏んで怪我をするかもしれない。反射的に、青蘭は身をかがめた。

「明日、侍女にさせればいい」

「落としたままでは、怪我をするわ」

 青蘭が小さな破片を拾っていると、横から大きな手が伸びてきた。

「怪我をするぞ」

 長恭は拾いあつめた破片を料紙で包むと、几案にのせた。顔をのぞき込むと、青蘭は口をとがらせて黙っている。

「すまない、考え事をしていたので・・・」

「そうよ、師兄はひどいわ。・・・妙に怒っているし・・・私が何か悪いことをした?」

 青蘭は、明るく怒って長恭の胸をつついた。

 長恭は不満や恨みも口に出さずに、飲み込んできたのだにちがいない。 

「師兄、何があったの?」

 心の憂さを話して欲しい。青蘭は見上げると長恭の眉間にできた皺に指を当てた。

 

「今日、元氏の斬首があったのだ」

 二人で榻に座り、茶を一口飲むと長恭が口を開いた。

「えっ、北魏の皇族だった元氏が?」

 青蘭は初めて聞くさまで、長恭の顔を見上げた。

「五百人以上の元氏が斬首されたのだ。・・・その中には女子や子供もいたという。あまりにも理不尽だ」

 この日、記録によると元氏の七百二十一人が斬首された。しかし、この時点では、長恭は正確な人数は把握していなかった。

「今ごろになって、何の罪で?・・・陛下が罪もない前王朝の皇族を斬首するなんて、信じられない」

 青蘭は、顔をゆがめた。

 王朝の変革期に、前王朝の主要な皇族を処刑する例はあった。それは、賞罰を明らかにすると共に、王朝の変革を世に知らしめるためである。しかし、その様なときも、未成年者や女子は残され、新王朝に取り込まれるのが普通であった。すでに新王朝が建国されてから年月がたってから、これほどの処刑が行われるのは希であった。


 もし、延宗に聞いた話を皇太后に明かしていたら、元氏の一族の多くは助かっていたかも知れない。口をつぐんでいた自分はある意味、加担していたと言えるかもしれない。罪悪感が長恭の胸を鉛のように締め付けた。

 青蘭に全てを話したい。しかし、もし青蘭がその事実を知ったら、私を許さないだろう。青蘭は私を清廉で慈悲深いと信じている。青蘭は、私を卑怯者と軽蔑するかも知れない。

「師兄が、陛下の命を覆せるわけはない。・・・師兄のせいではないわ」

 青蘭は、笑顔を作ると長恭の頬をなでた。


   ★ 北周の建白書と願之推の絶望 ★


八月に入り春分の日が過ぎたころ、願之推は病と称して朝廷に出仕しなくなった。

 昨年末に奏朝請として出仕した願之推であった。最初の頃は、高洋も頻繁に願之推を召していたが、行動が混迷するに従って願之推の誅言を避けるようになったのである。願之推をもってしても、酷虐の度を深める高洋を留めることはできなかった。


 南朝からきた文人である徐沈琰の講義が終わった。

「顔師父が、最近病で出仕していないと聞いたけれど」

 青蘭は、筆硯を片付けながら顔紫雲に訊いた。最近、崔叔正や高徳正などの忠臣が、あいついで粛清されている。顔之推の身を案じた長恭が、青蘭に知らせたのだ。

 顔紫雲は、ため息をついた。

「そうなの、・・・もっとも、・・・父上の病は嘘だけれど」

「嘘?」

「父上は、斉の朝堂がほとほと嫌になったって」 

 高洋は、最初こそ顔之推の中原を聞く姿勢を見せていたが、しだいに奏朝請としての役目も形だけのものとなっていった。

「でも、理由もなく休めないから、病を装っているの。そのせいで、外に出掛けるわけには行かないので、退屈しているわ」



青蘭が見舞をすべく正房に向かうと、すっかり大人びた元烈が迎えた。

「青蘭様、師父は四阿にいらっしゃいます」

 すっかり慣れた様子で、青蘭を後苑に導いた。

願之推は後苑の四阿に腰掛け、筆を握っていた。元烈は、四阿の外に控え師父の筆が止まるのを待っている。 成長した元烈の横顔は、どこか長恭に似ている。この者もきっと出自は、何らか身分のある家柄に違いない。

 四阿に木犀の香りを乗せた風が吹き渡り、願之推は顔を上げた。

「師父、王青蘭様がいらっしゃいました」

「おお、青蘭か。久しぶりだな。・・・茶を用意せよ」

願之推は、手簡の料紙を折ると、文箱にしまった。

「師父、病と聞いておりましたが、お元気そうで・・・」

 青蘭は、顔師父に礼をした。

「青蘭よ、紫雲との特別講義はどうかな?」

「はは、二人だけのために、高名な学者に講義をしてもらうのは申し訳なくて」

 崔叔正が左遷された後は、南朝から来た学者が講義をになっていた。それはそれで有り難いが、論議の機会がへったのは、物足りないのだ。

「大っぴらにやっては、差し障りがあるのでな」

 開明的な顔之推でも、女子の学問には抑制的なのだ。


ほどなく、元烈が茶を運んできた。

「病は、私ではなくこの斉だとは、思わんか青蘭よ」

 願之推は、全ての思いを洗い流したような表情で茶杯を持つと青蘭を見た。

「そなたも知っておろう。・・・元氏、七百人以上だ。疑いのある者を殺し尽くすつもりなのか。・・・何のために斉に来たのか」

顔氏は、眉を寄せながら青蘭に茶を勧めた。青蘭は、家人達から聞いた元氏斬首の話を思い出し、茶に口を付ける気になれなかった。

 願之推は文箱から、日に焼けた料紙を取り出した。

「これが何だと思う。周で左光禄大夫の樂遜が、皇帝に提出した十四条の意見書の内の五条だ」 

「周の皇帝に提出した意見書?」

 青蘭は首を伸ばして五条の文言を見た。北周の皇帝が忌憚のない意見を提出せよとの詔に応じて提出された意見書であるという。臣下が君主に対して本当に忌憚のない意見を本当に言うことができるのであろうか。青蘭は周の臣下はどのような意見を具申するのか興味を持って料紙を手にした。

 その内容は、驚くほど素朴な直言であった。

『周の臣下は、このように率直に意見を言うのか』

 決して美麗な文ではない。しかし、国と民を愁える気持ちがよく分かる。しかし、これを斉で出せば、斬首は免れない。


一 政治は寛大にせよ

二 華美を慎め

三 人事は公開せよ

四 戦いを慎め

五 贅沢を禁じよ


四の『戦いを慎め』では、高洋を愚昧とののしり、戦は民の負担を増やすだけであるとしている。そして、国土の保全に努め、徳政のみが民を助けると言い切っている。

 樂遜は、字を尊賢といい河東の人である。徐尊明に師事し、経書の大義を学び、李弼の子供の師となった。その後、于文泰の子供の家庭教師を務め、太学博士、車騎将軍、光禄大夫を歴任した。

 皇帝が、臣下に意見を求め、光禄大夫が正論を提出できる周国の政に驚きを感じた、それと共に、言葉には出せなかったが羨望も禁じ得なかった。


青蘭は、静かに料紙をたたむと願之推に戻した。

「これを出した樂殿は?」

 もしかして、これを出したために死を賜ったのではないか。

「青蘭、安心せよ樂殿は今でも周の太学博士だ」

青蘭は、自分の憂慮が杞憂であったことに安堵して何度もうなずいた。

 この、意見文も何者かによって写された意見文が、密かに周から斉に持ち込まれたのであろう。

 内容からすると、この五条は斉では禁書である。持っていることが露見すれば、斬首を免れない。皇族の正室である青蘭に見せたということは、青蘭への信頼の現れであろう。

「周の様子が、少し分かりました。師父にお礼を申します」

「長恭に、他言無用じゃ。この意見書を口にすると言うことは、暗に陛下の政を批判すると言うことだ。長恭は皇族だ。清廉な長恭は、これを知れば黙ってはいまい」

 何事も話し合おうと約束したのである。しかし、元氏の惨殺でさえ衝撃を受けていた長恭にとって、『十四条の意見書』の内容はあまりにも残酷だろう。 

「分かっております。喋りません」

青蘭は、深く溜息をついた。


 顔之推が、手招きをした。

「太医によると、・・・陛下の病は篤く、長くないそうだ」

 顔之推が、小声でささやいた。

『陛下の命が、長くない?』

 青蘭は、思わず右手で卓を抑えた。願之推は、漢人官吏の強力な情報網を持っている。それは、太医局にも及んでいるのであろう。

「陛下が、重い病とは知りませんでした」

 青蘭は、極秘の情報に表情を硬くした。

「必ず、朝廷にも変化がある。長恭が正義感に駆られて無茶な行動に出ぬように・・・」

 顔氏は、長恭が正義感に駆られて高徳正の二の舞になることを危惧していたのだ。

「師父のお言葉、肝に命じます」


 その後、青蘭は一刻ばかり『荀子』の教えを受けると、顔氏邸を退出した。


  ★ 一族の責務 ★


 顔之推邸を出た王青蘭は、鄭家の屋敷に寄った。婁皇太后に贈る生薬を受け取るためである。

「青蘭、一族との付き合いは上手くやっているのか?」

 鄭桂瑛は、向かいに座る王青蘭に茶を勧めた。

「安徳王は仲がいいけれど・・・なかなか難しい」

 皇族同士の付き合いは難しい。誕辰や昇進祝での贈物でさえ気を遣うのだ。

「顔朝請奏は、お元気か?・・・最近、朝議に出てきていないと聞いたが・・・」

「今日、見舞に行ってきたのですが、元気そうでした。この斉では、官職も有名無実だと嘆いて・・・それに、陛下は・・・」

 陛下の余命は長くないと言う。しかし、君主の病状は国家の機密である。

「陛下に、何かあるのか?」

 鄭桂瑛が、急に鋭い賈主の眼差しになった。陛下の病状を母に漏らしてもいいものか。

「その、師父が言うには、陛下の病は篤く、そう長くないと・・・」

「高洋が、もうすぐ亡くなる?・・・いずれ、皇位に波乱がある」  

 母は、すでに鄭家の賈主の顔になって、腕組みをした。長恭との婚姻にも、王家と鄭家そして高家の利害が複雑に絡み合っている。

「皇族との付き合いは大変だろう。贈物については、よく知る白家宰に相談するがいい」

 これからも、鄭家に有用な情報を知らせてほしいと言うことだろうか。

 

 秀児が、皇太后に贈る櫃を持って入って来た。

「皇太后は、婿殿の後ろ盾に留まらず、斉の大黒柱だ。健康で長生きしてもらわねば」

「分かっています。皇太后は母親代わり。頻繁に様子を見に行きます」

 青蘭は櫃を受け取ると、鄭家を後にした。 


   ★  父親との思い出  ★


 八月の中秋節のあと、今上帝高洋は狂乱の度合いを一層増した。

 闇の中でさまよい、自分が斬殺した元氏の亡霊を見るようになったのである。八月の下旬、今上帝は、北魏・東魏時代に元氏を賜った者、養子となった者は、本姓に戻すように詔を出した。元氏という存在を、この世から抹殺するという執拗な意思の表れであった。


 九月に入って、高洋は高氏の本拠地である晋陽に行宮を移す勅命を発した。血生臭い記憶が宿る鄴都から逃れて、一時の安息を得たかったのである。

 広い中原には古来より首都の他に副都を置く習慣がある。北魏は長らく洛陽を都としてきたが、東魏と西魏に分裂するに至って、北斉は曹操の建設した都である鄴に首都を移した。洛陽が西魏との国境に近すぎて国防上の問題があったからである。

 その後、東魏の実権を握っていた高歓は、本拠地の北辺に近い晋陽に軍事政権である幕府(軍事政権)を開き、権威の象徴である皇帝を武力により晋陽から支配するという二重構造の政権を樹立したのである。

 皇帝の存するところが則ち行宮である。行宮には皇帝以下、宰相、三公、尚書左右僕射など六部に属する官吏が半数が晋陽に移動する。また皇后を初め皇太后や各妃嬪たち後宮も大半が大移動するのである。

もちろんそれらに仕える宦官や宮女たちも主人に随行する。

 昨年来の干魃と度重なる寺宮の造営、北周や陳との戦いにより、国の財政は逼迫していた。それにもかかわらず、この時期になぜ晋陽へ大移動するのかと疑問に思った臣下は多かった。


 鄴城を挙げて、晋陽宮に移動するための準備が始まった。 

 楽城県開国公府では、王青蘭を中心に馬車で晋陽に向う準備が進められていた。

「お嬢様、冬の晋陽というのは寒いのでしょうね」

 晴児は冬物の外衣を大櫃の中にしまいながら、青蘭に訊いた。

「室内でも眉毛が凍るとか。何枚衣を重ねてもさむいそうよ」

 青蘭は、装飾品や化粧道具を朱塗りの櫃に入れると、ため息をついた。

「 


 鄴都がある司州と信用のある太原の間には、大行山脈が連なっている。大行山脈の険しい山道を登り漳水の支流をたどると上党に着く。さらに漳水の支流沿いに西に行くと戒州に至る。

 戒州からさらに西に下ると鄔澤がある。鄔澤は、汾水の水源といっていい大きな湖である。その鄔澤のほとりに定楊の邑があった。


 高長恭の一行は、日が西に傾いてから定陽の駅站に到着した。駅站は、役人の往来を助ける官営の宿舎である。長恭の一行は脇殿の二階を割り当てられた。

 旅装を解き夕餉を摂ると、長恭と青蘭は窓際に立った。通りを挟んだ民家越しに、鄔澤の澄んだ湖面が夕焼けに輝いて見える。

「鄔澤が碧く澄みきっているから、汾水は澄んでいる。でも、黄河に注げば黄龍となるのだわ」

 黄河は砂漠の黄砂を含むので、黄色い暴れ川『黄龍』として恐れられていた。

「何事も、初心を貫くことは、難しいということだ」

 長恭は、ため息をついた。仕官を始めたころの意気込みが萎んできたような気がする。 

「師兄、遠乗りに出掛けない?汾水の沿岸は初めてだから、汾水の湖畔に行ってみたいの。雀鼠谷と言う景勝地があるそうだわ」

「雀鼠谷?」

 雀鼠谷は、鄔澤から汾水に注ぐ出口に連なる渓谷である。黄河と汾水の間の地域は、長年、斉と周との領土争いの戦場になっていた。特に南に位置する義寧郡や平陽郡は、長恭も出征した昨年の斛律将軍の遠征の折に、壮絶な戦闘が行われ戦場たなった。現在は北斉の支配地となっているが、民心は不安定であった。民の暮らしの様子を見てみたいのだ。

「君は好奇心旺盛だな。しかし雀鼠谷は、定陽から遠いのだぞ、日帰りでは無理だ。明日は汾水まで行ってみよう」

「師兄、せっかく汾州に来たのだもの。馬で出掛けたいわ」

 青蘭は明るく笑った。


     ★ 父との思い出 ★


 汾水は渭水につぐ黄河第二の支流である。谷間を流れる支流を集めたその流れは広大で、黄土高原を深く浸食して渓谷を作りながら盆地に入ると、広く穀倉地帯を潤していた。

 長恭と青蘭は馬を駆ってどこまでも続く草原を疾走した。喬木の丘陵をへだてて、赤褐色の汾水の崖が連なっている。窪地になっているところを右に曲がると、崖の上に出た。

 対岸の赤褐色の崖は、はるか遠くに見える。崖の下には林が広がりその間からは、汾水の流れが見える。長恭と青蘭は崖の上で馬を降りると、木につないだ。九月の汾州の空は蒼くどこまでも続いている。

「ああ、気持ちがいいわ。やっぱり北辺の草原は違う」

 青蘭は両手を広げると、胸いっぱいに空気を吸い込んだ。

「ここへ来ると、子供の頃を思い出す」

 長恭は、眼下に広がる汾水の流れを見下ろした。長恭は、幼少期を観翠亭で過ごした後、晋陽にいた父親の高澄に呼び寄せられた。母の死後、父高澄は母を失った子供を哀れんだのであろうか、たびたび長恭の居所を訪れるようになった。

「父の思い出はほとんどない。・・・でも、私が祖母に引き取られると決まったあと、一度だけ父の馬に乗せられて汾水に来たことがあった」

 長恭は西日の眩しさに目を細めた。

「その頃、汾水の対岸は西魏の領土だった。・・・父は幼い私に向かって、黄河の向こうまでも東魏の領土にすると言っていたのを覚えている」

 長恭は初めて父親の体温を感じたできごとだった。

「宰相まで上り詰めながら、お亡くなりになるなんて、義父上はお気の毒・・・」

 世が世なら、長恭だって直の皇子として権勢を振るっていたかも知れないのだ。運命というものは、何と残酷なのだろう。

「父の願いは、もう一度北朝を統一することだった。しかし、斉の現状は不正と欺瞞に満ちている。北朝の統一など夢のまた夢だ」

 父の野望を口にするには、私の力はあまりにも小さい。しかし、今上帝の乱行や、朝廷にはびこる不正は目に余る。このままでは民の困窮は増して、ひいては斉国の根幹を揺るがす事態になるのではないだろうか。

 長恭は遙かな対岸を望むと、唇をかんだ。

「師父に聞いたわ。最近、陛下の建康が思わしくないとか。朝堂は、どうなるか分からない。師兄に軽挙を慎むようにと師父も仰っていたわ」

「師父が?」

 陛下の建康は、最高機密である。しかし、多くの弟子や故知が皇宮にいる顔之推の元には、張り巡らされた情報網にのって届くに違いない。

「陛下の酒毒が、かなり進んでいると・・・」

 いるはずの無い間諜をはばかって、青蘭は首をめぐらした。

 後宮にこもって政を楊韻に任せっきりの皇帝高洋の様子は、侍中府にいる長恭は窺い知れない。むしろ、思い出したように発せられる勅命により混乱するより、実務能力に長けた楊韻に任せた方が、万事円滑にすすむと思う雰囲気さえあるのだ。

「そうか、陛下の病状はかなりお悪いのか」   

 父上の理想の実現は、黄河の源流より遠い。長恭は夕日に目を瞬かせた。

 鄴都より北にある九月末の晋陽は、すでに冬である。



高洋は、酒毒が抜けずますます混迷の度を増していった。顔之推は病だと称して、ついに朝堂へ出仕しなくなった。見舞に行った青蘭に顔之推は高洋の死期が近いことを仄めかした。

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