蘭陵王伝 別記 第八章 百日紅の陽光 ② 黄河の奔流
長恭と青蘭が婚儀を挙げた三月、太白星が現れ、日食があった。天変地異は、天下に異変が起こる前兆と考えられ、人々は大いに恐れた。
★ 太白星の呪い★
三月の初め、突如として太白星(金星)が東の空に出現した。太白星は怪しく輝き、昼間でも肉眼で見ることができるほどだった。
太白神は、武事や凶事を司る神である。太白星の出現は、北斉や北周の民衆に天災や凶事を予感させるのに十分であった。そして人々の恐怖をあおったのが引き続いて起こった四月の日食であった。
この時代、相次ぐ天象の異変は政治的な異変を示すと信じられていた。
一番恐怖を感じたのは、他でもない北斉の皇宮で暴虐の限りを尽くしていた高洋であった。
北斉の皇帝に即位したとき、迷信に流されやすい高洋は、道士にその運命を占わせた。その結果は『三十年は超すことはないであろう』であった。高洋は、自分の治世が三十年続くと喜んでいたが、実は寿命が三十年を超えることがないとの占いであったという。誅殺を恐れた道士が、占いの結果を歪曲して伝えたのだ。
太白星の出現により、酒毒に犯されていた高洋は、自分の寿命が尽きる兆候ではないかといっそう恐れはじめたのだ。
★ 北斉の忠臣 ★
三月の下旬、一月に逝去した崔暹に代わって、侍中であった高徳正が尚書右僕射となった。尚書右僕射は、丞相、尚書左僕射に次ぐ家臣として第三の宰相の地位である。北斉建国の功臣が、やっと相応しい地位に就いたと言えるだろう。
侍中の高敬徳は、尚書右僕射への昇進祝として高叔正のために喬香楼で一席を設けた。喬香楼の夕闇がせまる紅廊には、脂粉の香りを含んだ晩春の風が流れている。
「徳正殿、尚書右僕射への昇進、誠にめでたい」
清河王高敬徳は、碧玉の杯に酒を満たすと、向かいに座る徳正に向って掲げた。西域から渡来した葡萄の赤い酒が、芳香を放っている。
「清河王、これからは一層協力を願わなければならん。よろしく頼むぞ」
高澄が宰相を務めていたころは、黄門侍郎として国家の機密に参与し、勅書の作成に関わっていたのだ。しかし、高洋が北斉を建国してからは、漢族の楊韻や出自のあやしい高帰彦などが幅を効かせて、朝堂の中枢から遠ざけられてきたのだ。
徳正と敬徳は玉杯を打合わせると、機嫌良く酒を干した。
「藍田公が、宰相となれば政道も正されるはず。神武帝(高歓)に認められ、文襄帝(高澄)に抜擢された士貞殿(徳正)の言葉を陛下は疎かにしますまい」
喬香楼の一番奥まった客房に、技女の嬌声は届かない。
「このままでは、斉は危うい」
しばらくの沈黙の後、酒杯を見詰めながら徳正が苦り切った表情で言葉を吐き出した。
「陛下は、変わってしまった。高宰相(高澄)が横死した時に、斉の建国を具申したのは俺だ。最初の六年は、陛下も精勤していた。しかし、酒毒に犯されてからは、あの体たらくだ。・・・暴虐な暗君となった」
徳正の激烈な言葉に、敬徳は思わず辺りを窺った。ここは、多くの男女が出入りする妓楼である。どこに間者が潜んでいないとも限らない。苛烈な刑罰は、誰もが恐れるところだ。
「陛下に意見が言えるのは、楊韻だけだ。なぜ、楊令公は、陛下に忠言を呈さないのだ?」
暴虐の限りを尽くす高洋であるが、楊韻と李祖娥の言葉は疎かにしなかった。
「敬徳、漢人である楊令公にとって、皇帝はこれと同じだ」
徳正は、皮肉な口調で己の冠を指さした。
「あいつらは、斉を漢人の国だと思っている。・・・鮮卑族の皇帝などいくらでも冠のように替えがきくと思っているのだ。だから、君主は政に口を出さず、遊興に耽っている者こそ望ましいのだ」
確かに、ここ数十年で鮮卑族の王朝である北魏は、東魏と北斉に王朝が代わっている。しかし、政権の実務は漢族の官吏が担って来た。鮮卑族の国でありながら、斉の王朝は漢人なしでは一日も回らないのだ。
「陛下に建国を進言したのは儂だ。このままでは斉はいずれ滅びてしまう。侍中の時には、何の力もなかった。尚書右僕射になったからには、善悪のけじめを正すつもりだ。漢族にこの斉を牛耳らせてはならぬ」
建国当初、高洋の力により、それまで給されていなかった俸禄が復活した。それまで北魏の官吏は、俸禄でなく賄により生計を立てていたのである。高洋が汚職に対して苛烈な刑罰を課したため、官吏が清廉になったとの評判もあった。しかし、立后をめぐる鮮卑族と漢族の対立により、母親である婁皇太后と不仲になると、高洋の酒量は一気に増えた。激高しては、家臣を傷つけるようになったのである。
徳正は、酒を喉に流し込むと、音を立てて卓上に酒杯を置いた。
高徳正は、高洋に新たな王朝を開くことを勧めた功臣であるとの矜持が、無軌道に奔る高洋をそのままにすることを許さなかったのだ。今までも侍中として、今上帝高洋に苦言を呈してきたが、侍中としてはできることに限りがあった。しかし、宰相の一人である尚書右僕射ともなれば、重みも違う。
建国当時の有能な高洋を知らない敬徳にとっては、今上帝は、父を理不尽に斬殺する残虐な皇帝でしかなかった。しかし、徳正には思い入れがあるのだ。
「これからの斉は、徳正殿にかかっています。・・・今日は、存分に飲みましょう」
敬徳は、笑顔を作ると徳正の酒杯に酒を満たした。
★ 崔叔正(季舒)の左遷 ★
四月の清明が過ぎたころ、高敬徳は長恭と青蘭を観籐の宴に招いた。成婚後、長恭の兄弟達との付き合いに苦労していると漏れ聞いたからである。
二人を乗せた馬車が清河王府に到着した。青蘭は、香色と藤色の襦裙に、紫苑色の背子を着けて長恭に手を取られて馬車を降りた。長恭は、葵色の長衣に杜若色の外衣をまとっている。
二人は睡蓮池に面した露台に案内された。睡蓮の葉が浮かぶ池の向こうには石橋が見え、そのそばには藤棚が設けられて長く花房を垂らしている。
「睡蓮池に、橋を架けるのもいいな」
長恭は、羨ましげに目を細めた。
「庭の景色は、自然が一番よ」
青蘭は、茶杯に口を付けると遠くの藤棚を見やった。公府の経済状態を考えれば、無駄な橋など架けられない。
「一緒に、藤を見に行こう」
声の方に振り向くと、大きな扇子を持った高敬徳が立っていた。
「敬徳、夏の清河王府の庭は、格別だな」
三人は、睡蓮池に沿った小径を藤の棚に向かった。睡蓮池の周りには、躑躅の花が咲き乱れ菖蒲が大振りの花弁を垂らしている。
「清河王府の庭は、正しく花園ね」
近づいてみると藤棚は思っていたよりも大きく、さながら四阿のようだ。
「たまたま、藤の古木を見つけて・・・そのまま朽ちさせるのは惜しいと思って、屋敷に移植させたのだ。棚を作ったので日陰は涼しいぞ」
藤棚の下には、瀟洒な食盤と椅子が据えられていた。高長恭と王青蘭が席に着くと、給仕の侍女が酒器と料理を運んできた。
「どうだ、国公府での生活は、慣れたか?」
敬徳は笑顔を作って酒杯に酒を注いだ。
「ああ、だんだんに」
敬徳は真面目な顔でうなずく長恭の顔を見た。侍中府から帰れば愛する青蘭が出迎え、夜になれば榻牀で手を延ばせば隣には青蘭がいるのだ。
「青蘭、学問の方はできているのか?」
「もちろんよ。毎日とは行かないけれど、崔師父や顔師父の講義を紫雲と受けているの」
青蘭はうっとりと長恭の清澄な瞳を見ている。顔氏学堂での聴講が継続できれば、青蘭は念願通り学問を続けられる。学堂を訪ねれば、青蘭に会うこともたやすい。
学堂帰りに茶楼に誘えば、昔のような楽しい語らいが戻るかも知れない。しかし、敬徳は妄想を振り払うように言葉を発した。
「昨日、崔叔正が侍中を罷免になった。・・・知っているか?」
崔叔正の罷免は、今はまだ一部の者しか知らない事案である。
「えっ?師父が罷免に?」
青蘭は、驚いて酒杯を取り落としそうになった。崔叔正といえば、青蘭の医術の師匠で、清廉な官吏として知られている。先日、侍中に昇進したばかりのはずである。
四月になってからは、顔氏邸では叔正による紫雲と青蘭への講義が行われていた。大講堂での講義に比べると刺激に欠けるが、理解度は増したと言えよう。そんな崔叔正が、突如として罪を得て侍中を罷免になったというのである。
「崔叔正殿は、清廉な官吏だ。それが罷免だなんて・・・理由は何なのだ?」
長恭は、魚の煮揚げを青蘭の皿に取り分けた。
「司馬子如と陳山提が、賄を受け取ったなどと有ることないことを陛下に吹き込んだのだ。陛下は怒りにまかせて、崔叔正を鞭打ち七十回のうえ、北辺への流罪に処すると決した」
崔叔正は、頭脳明晰で実直な文人官吏である。鞭打ち流刑に書せられるような重罪を犯すとは思えない。創生期の北斉では、汚職を防ぐため高洋の命により、崔叔正が勲貴派の摘発を行ったことがあった。司馬子如と陳山提は、かつての恨みから皇帝に罪状を列挙して告発したのである。
「崔師父が、鞭打ち七十回?・・・北辺に流刑?」
青蘭は、過酷な刑罰に身体を震わせた。鞭打ちは、男でも五十回以上受ければ壮健な者でも、命を失うと言われ、運が良くても、半身不随の憂き目に遭った。ましてや、叔正は高齢で頑丈とは言えぬ文人である。
「崔殿の身体は、大丈夫なのか?・・・」
「ああ、ひどい怪我を負ったが、・・・命は取り留めたようだ。しかし、回復次第北辺に流刑となる」
長恭は、安堵の息をついたが、叔正の怪我の具合が心配になった。鞭打ちや丈刑にも、軽重があるという。叔正を擁護する者が、手を回して手心を加えさせたに違いない。
「瀕死の重傷を負って、北辺への流刑だなんて・・・師兄、何とかできないの?せめて都近くの官職とか・・・」
青蘭の言葉に、長恭と敬徳は下を向いた。
「それも、難しい」
酷薄な君主である高洋に、諫言のできる家臣は斉ではほとんど駆逐されてしまったのだ。
「せめて、崔師父の見舞に行きたいわ」
罪人の家に、女子の青蘭が行けば世の注目を浴びる。
「青蘭、まず私が見舞に行ってみる」
「俺も一緒に行こう。・・・一家の主人が罪を得れば、家族だって平常ではいられない」
青蘭が見舞に行けば、顔氏学堂でしていた講義が注目される。それが崔叔正の迷惑になる恐れもあるのだ。
「私も、一緒に行ってはだめなの?・・・」
青蘭は、懇願するように長恭を凝視した。
「女子の君が行けば、いらぬ憶測を招く。顔師父に迷惑が掛かる」
青蘭は箸を置いて、拳を作った。自分が何かをやろうとすると、常に女子であることが障害になるのだ。
「女子の私は迷惑だって言うの?」
青蘭は唇をかんだ。
「そうじゃない。青蘭、君の気持ちは尊い。しかし、崔殿の鞭打ちを受けた傷は深刻だ。崔殿は弟子の君にその様な姿を見せたくないはず」
長恭にそこまで言われては、青蘭は諦めざるを得なかった。
崔家は高官でありながら、その潔癖さゆえ清貧を保っている。そんな崔家がこたびの冤罪でより一層窮乏するのが心配であった。
★ 叔正の願い ★
次の日、高長恭と高敬徳は、見舞の礼品を携えて崔叔正の屋敷を訪れた。
医者の診察が終わるまで、二人は寝殿の外で待った。長恭が内院を見回すと青蘭が言っていたように実に簡素な屋敷である。どこに賄賂の財物があるのだろう。
若い医師と入れ替わりに二人が寝殿に入ると、帳を下ろした榻牀の横には、正室の周氏が呆然と立っていた。
「侍中府でお世話になっている高長恭と高敬徳です。崔侍中の見舞に参りました」
二人が夫人に挨拶をすると、周氏はさめざめと泣き出した。元々は高官の令嬢であったが、たまたま崔叔正に嫁いだのが、不幸の元だったのかも知れない。敬徳が見舞の品を渡すと、夫人は礼もそこそこに侍女に支えられながら出て行った。
長恭が榻牀に近づくと、帳をめぐらした中から、うつ伏せになった叔正の唸る声が聞こえてきた。
「崔殿、高敬徳です。・・・こちらは、高長恭で王青蘭の夫君です。お身体は・・・」
二人は、丁寧に拱手をした。
「ああ、見舞に来てくれたか?・・・大事ない・・・帳を開けてくれぬか。背中が痛くてかなわぬ」
崔叔正は侍従の力を借りて身体の向きを変えると、高長恭と高敬徳に目を遣った。
「崔殿、今日は妻の王青蘭の代わりに見舞に参りました」
叔正は、首をめぐらせると長恭の花顔を見た。王青蘭が、皇族と婚儀を挙げたことは知っていたが、相手が高長恭だとは知らなかった。
「かたじけない。・・・そなた達が、なぜ、罪人である儂の見舞に来てくれたのか?」
崔一族の者でさえ、後難を恐れて顔を出さないというのに、皇族の二人が見舞に来てくれた。
「崔殿が賄賂を受け取っていたなどと、とても信じられない。なぜこのようなことに・・・」
血がしみ出した衣の汚れを目にして、敬徳は唇をかんだ。
「以前、陛下の命により私有地の横領を摘発した・・・それを恨んで陛下に儂を告発したのだ」
叔正は、見えない敵がいるように、空を睨んだ。
「崔殿、北辺への流刑は、酷すぎる。楊令公に働きかけて近郊の刺史にしてもらうわけには・・・」
敬徳が免罪のための裏工作を仄めかした。
「いや、それはならぬ。・・・高侍中まで巻き込めん。・・・しばらく、北方の刺史でもやってくるさ」
叔正は、達観したように乾いた笑いを浮かべると、ゆっくりと頭を枕に乗せた。
「私たちにできることは、何かないのか?」
叔正は本物の聖臣だ。聖臣を用いる者は王となる。しかし、聖臣の言葉は時には耳に逆らうので、君主が王に相応しくなければ、悲劇を招く。
「申し訳ないが、崔家を頼みたい。私がいなくなれば、一家は寄る辺なくなる」
長恭は崔家への援助を申し出ようかと思った。しかし、青蘭が崔家の支援をするとなれば、いらぬ誤解を生む可能性もある。
「承知した。叔正殿が戻るまで、崔家の家族を守ろう」
敬徳は笑顔で答えた。下級官吏では当主が流罪同然に左遷されると、残された家族が路頭に迷うのはよくある話である。
「それから、医館を頼みたいのだ」
「民の病を癒やすことは、私にとっても切なる願いだ」
高敬徳は、そう言うと叔正の手を握った。斉の朝廷では、君主が佞臣だけを残し、聖臣や能臣を排除しているのだ。
長恭と敬徳は、崔家への援助を約束すると、崔家を後にした。
★ 崔叔正との別れ ★
鞭打ちの刑を受けてから一ヶ月後、崔叔正は恒州の刺史として流刑の地に赴任することになった。
長恭・青蘭・敬徳の三人は、恒州に赴任する崔叔正を見送るために、鄴の北にある漳水に架かる浮橋のほとりまで出掛けた。
丘の上にある四阿に登ると、漳水の北方には旧邯鄲の林が見える。侍中の旅立ちだというのに、見送る人影は三人の他は見えない。
「崔師父の行く恒州は、邯鄲のずっと北よね。酷い傷が癒えていないのに、長旅をするなんて・・・」
王青蘭は、崔叔正がこれから向かう自然の過酷さを思って胸が痛くなった。左遷という名目の流刑者の多くは、流刑地に到着する前に命が潰えるという。
「堅牢な馬車を手配した。皮衣を敷いたので、長旅でも病身に響かぬはずだ」
長恭が、青蘭の肩を抱いた。
「駅館には、手配をしておいたから、安全に行けるはずだ。・・・まだ来ないな」
敬徳は、腕を組んで鄴の方角を見遣った。
一刻の後、南方から数人の侍衛が先導して馬車の一隊が見えてきた。土埃を上げながら馬車は四阿のある丘の下に止まった。
「師父、・・・」
青蘭が馬車に駆け寄っていくと、馬車の窓が開けられた。病身の崔叔正は、馬車を降りられない。
「おう、おう、青蘭が、見送りに来てくれたか」
叔正は、窓から手を出した。
「傷の方は大丈夫ですか?道中でお召し上がりください」
青蘭は、持参した食盒を御者に渡した。
「護衛も付けてもらい。薬も十分にあるのだ。心配せずともよい」
叔正は窓から顔を出すと、丘から降りてきた長恭と敬徳を認めた。
「恒州の長史は、父高岳の旧友です。手簡を送っておきました。お身体に気を付けて」
叔正は、薬剤が入った櫃を受け取った。
「崔師父、鏡玄様のことはご安心ください。お帰りになるまで、学問を中断させません」
青蘭はそう言うと、長恭に笑顔を向けた。
「崔殿、・・・お身体に気を付けて、家族のことは心配なく」
高長恭は、清澄な瞳で微笑んだ。
長恭と敬徳から、餞別が贈られた。崔叔正一行は浮橋の方に馬を向けると、恒州へ向かってしゅっぱつした。
「崔師父は、無事に戻れるかしら」
丘の上の四阿に登った三人は、土埃をあげて遠ざかる馬車を見送った。浮橋を渡った馬車は、土埃を挙げながら北に向かった。
「崔殿は、見かけより頑丈だ。きっと戻ってくる」
長恭は自信に満ちて、となりの青蘭の肩に手を置いた。
「崔殿は、馬車の中にも医術の書物を乗せていたそうだ。その気概だったら大丈夫だ」
敬徳は心配そうに遠くを見遣る青蘭を見た。その名のごとく碧い蕾だった蘭の花は、花開こうとしている。しかし、自分には触れることも蘭香を楽しむこともできぬのだ。
敬徳は、北から吹き付けるほこりっぽい風に目を細めた。
★ 崔家の危機 ★
数日後、王青蘭は顔氏邸に出掛けた。顔之推の『文選』の講義の後、青蘭は顔紫雲の居所に寄った。
「青蘭、崔殿が流罪になったのは聞いた?最近、崔鏡玄の姿が見えないと思ったら、崔侍中が何と鞭打ちを受けて流罪になったとか。さいわい、家族は罪を免れたそうだけれど、崔殿が賄を受けたなんて信じられないわ」
「もちろん、冤罪と聞いているわ。忠臣が罪を着せられるなんてどう言う世の中よ」
屋敷で口にできないことも、紫雲相手なら遠慮なく吐露できるのだ。
「崔鏡玄が学堂に来ないのも、それに関係あるの?」
崔鏡玄が、学堂を破門されたとは聞いていない。
「冤罪でも、世間の目は厳しいわ。それを気にしているからか来ないのかも・・・」
学堂は、多くの漢人官吏の子弟が集うところだ。たとえ破門を言い渡されていなくとも、その中に、流罪に処せられた官吏の息子が通うことは、気が引けるに違いない。
「実は、顔師父が恒州に行く日に、見送りに行ってきたの。家族のことを心配していたわ」
「『一日教えを受ければ、一生の師たらん』と言うじゃない?鏡玄は嫌みな奴だけれど、このまま学問を諦めさせたら、師父に申し訳ない。どうにかして来させなければ」
いつもは、喧嘩ばかりしている紫雲が、神妙に鏡玄を心配している。
「そろそろ、高家の馬車が来る頃だわ。帰り道に馬車で、崔家を訪ねてみるわ」
「私も一緒に、崔家に行く」
顔紫雲は衣桁から外衣をとると、鏡をのぞいた。櫃の中に、手近にあった料紙と蝋燭を入れる。
「一緒に学んできた兄弟弟子として、見過ごしにできないわ」
二人が垂花門をくぐると、高家の馬車が寄ってきた。王青蘭が顔紫雲の手を引いて馬車に乗り込んだ。
「崔叔正殿の屋敷に行って」
崔家には、顔師父と訪問したことがある。清貧を絵に描いたような暮らしで、学問の墨や料紙にさえ事欠く様子だったのだ。カラカラという車輪の音と共に、馬車は戚里に入っていく。
「崔鏡玄が、悲観して変なことをしないか心配だわ」
「大丈夫よ。崔師父は必ず戻ると言っていたもの。それに、敬兄上と師父が崔家を助けると言ってくれたわ」
華やかな貴公子は、薄情と決まっているのに、青蘭の夫とその族従兄は違うらしい。
崔家に着いてみると、簡素であった屋敷はよりいっそう寂れて見えた。
「ここが、崔叔正殿の屋敷なの?商賈の別院の方が立派だわ」
あけすけな紫雲は、青蘭の耳元で囁いた。前庭の松の周りには、草が伸び放題で露台の椅子も半分欠けている。
「だれか、いませんか?」
紫雲が声を掛けると、偏殿から見知った家人が顔を出した。清河王府の何侍従である。
「なぜ、何侍従がここにいるの?」
「殿下の命で、届け物と崔家の手伝いに参りました」
敬徳は、実直に崔師父との約束を守っているようだ。
二人は、何侍従の案内で正房に通された。正面に座る周夫人は、以前より落ち着いた様子に見える。
「王青蘭です。周夫人、お久しぶりです」
青蘭は挨拶すると、わずかにうなずいた。
「こちらは、顔子推殿の令嬢で顔紫雲さまです」
顔之推の名前が効いたのか、夫人はおもむろに立ち上がった。
「若君に訊きたいところがあるので、お邪魔しました」
周夫人は、眉をひそめると首をかしげた。
「鏡玄は、・・・学堂に行っているはず・・・」
鏡玄は、学堂に行っていないことを隠しているのだ。
「若君は、飲み込みが早いと父も褒めています。きっと、・・大学者になると」
紫雲には珍しくお世辞を言うと、正房を離れた。
「紫雲が、お世辞を言うとはね・・・」
回廊を曲がると、鏡玄の部屋だ。
「こんな事態で息子は、鏡玄は夫人の唯一の希望よ。少しでも明るくしたかったの。父はいつも言っている。漢人にとって学問こそが、決して奪われることのない武器だと・・・だから、鏡玄にこそ学問が必要なの」
多くの国が勃興し滅亡したこの時代において、漢族の文人が生き残るためには、学問を身につけそれを武器にして世を渡ることが生き抜く術である。後ろ盾を持たない崔鏡玄のような若者にこそ、それは必要なのである。
「何としても、鏡玄を連れ出さなくてはね」
二人は、鏡玄の居所の扉を叩いた。
★ 本当の友情 ★
「うるさい、扉を叩くのはだれだ」
乱暴に扉が開くと、崔鏡玄が顔を出した。
「崔鏡玄、学堂になぜ来ないの?」
紫雲が不躾に問うと、鏡玄は紫雲を睨んだ。
「なぜ、お前達がここに?」
「鏡玄が、学堂に来ないからよ」
紫雲が答えると、バタンと扉は閉ざされた。
「鏡玄、父上も心配しているの。中に入れてくれない?」
「哀れみなどけっこうだ。来ないでくれ」
扉の向こうからは、くぐもった鏡玄の声が聞こえる。清廉な官吏だと信じていた父親が、収賄の罪で丈刑に処され、北辺の恒州に左遷になったことは、学問の意味に疑問を持たせるのに十分であった。そして、罪人の息子と指弾される事への屈辱感も拭いきれなかった。
「崔師兄、中に入れて、・・・話をしたいの」
乱暴な物言いが多い紫雲にしては、穏やかな口調だ。
ほどなく扉が開き、二人は中に招き入れられた。
簡単な書架と几案、そして粗末な卓と椅子があるだけの質素な房である。半分開けた蔀窓から、夏の光が簡素な居房に差し込んでいる。
「この斉国には、ほとほと絶望したのだ。この国のために学問をして、何の意味があるのか。俺は、まったくする気がなくなったのだ」
鏡玄は、手にした書冊を床に投げ捨てた。
「父上の考えは、ちょっと違う」
紫雲は、床に落ちた書冊を拾い上げた。
「鏡玄師兄、本当に国のために学問を?・・・違うでしょう?本当は自分や家族のためでしょう?だれだって、士大夫は、自分と家族のために学問をしているの」
「そうだ、我ら漢人は、一族の栄達と自分の立身出世のために学問をしている。・・・まあ、父上は例外だが・・・それが悪いか・」
鏡玄は、青蘭を睨んだ。王青蘭は、最近皇族の高長恭と成婚したという。女子には、玉の輿というやつがあるのだ。
「当然だわ。父は言っている。戦乱の世に、浮き沈みは世の常だ。学問で力を付けてこそ、官界で生き残れると・・・。だから、鏡玄師兄には、学問を諦めないで欲しいの」
顔紫雲は、師匠の令嬢であることを笠に着て、いつも崔鏡玄を罵ったり喧嘩を売っていた。しかし、今日の紫雲は師兄などと敬う姿勢をみせて、説得している。どう言うことなのだろう。
崔鏡玄は、二人に椅子を勧めた。
「この前、崔師父を見送ったときにも、家族のことを心配していたわ。こんな姿は、お父上も喜ばないわ」
「父の見送りに行ってくれたのか。・・・礼を言う」
鏡玄は、うつむくと唇をかんだ。王青蘭の開国公府と清河王府からは、多大な銀子が届いているらしい。しかし、ここで礼を言うのは、あまりにも惨めだ。
「ここに籠もっていては、気が滅入るだけでしょう?・・・だから、冤罪だと知らしめるためにも、平気な顔で出てきてよ」
青蘭が笑顔で誘うと、鏡玄はうなずいた。
「ああ、明日、祖父の墓参りを済ませたら、明後日から通えると思う」
どちらかと不遜に思えた眼光が、すっかり弱ってため息をついている鏡玄の姿は、別人のようだ。
「部屋にあった菓子を持ってきたの。食べて」
紫雲が櫃から料紙に包んだ菓子をとりだした。青蘭が持っていった桂花羹である。
鏡玄は驚いたが、大人しく口に入れるともぐもぐと食べ始めた。
「ねえ、美味しいでしょう?」
何てお節介な奴らなんだ。女子二人で居房に押しかけてくるなんて、不躾で道理に反している。でも、なぜか涙がにじんできた。
「鏡玄師兄、あまりのおいしさに感動した?涙がこぼれた?」
腕組みをした紫雲が、からかった。
「何が感動だよ。・・・あまりの無礼さに驚いたのさ」
鏡玄は、戯けたように口をとがらせた。
★ 藍田公の受難 ★
書房の几案で、長恭は祖母から借りた王羲之の『蘭序亭』の臨書(極めて似せて書いた書)を開いた。王羲之は、『書聖』と言われ、書を確立した人物である。王羲之の真筆は極めて貴重で、たとえ臨書であっても
貴族の間では珍重されていた。長恭は書法の手習いのために、婁皇太后から借りていたのである。
「王羲之は、筆の流れを生かして・・・」
青蘭は、筆を持つ長恭を支えるように手を添えた。もともと流麗であった長恭の書は、弛まぬ修練の結果、漢人官僚と互するまでに上達していた。
「兄上、昼間から仲のよいことで・・・」
聞き覚えのある声に驚いて、青蘭が手を離すと、書房の入り口に笑顔の延宗が立っていた。
「何だ延宗、どこから入って来たのだ」
長恭は筆を置くと、延宗を睨んだ。
「兄上、話があるの・・・」
延宗の目が、なぜか泳いでいる。言い淀んだ延宗が、下を向いて唇をかんだ。
何があった?何事もあけすけな延宗が、口に出せないなんて・・・。
長恭は青蘭に目配せをした。席を外して欲しいとの合図だ。
「延宗が来ては、臨書は無理ね。・・・茶と菓子を持ってくる」
「頼むよ」
青蘭が立上がると、長恭はほっとした笑顔を見せた。
延宗の話とはなんだろう。青蘭は回廊の曲がり角まで行くと、静かにもどって扉の蔭に隠れた。延宗の話とはなんだろう。王家や鄭家に知られては困る内容なのか?
貴族の夫婦は、その尊貴に関わらずそれぞれの家門の利益を代表している。夫婦であると同時に、互いの家の秘密を探る間者の役目も果たしているのだ。生家の存亡に関わる秘密に接すれば、実家に通報することは通常のことだ。どれほど愛し合う夫婦であっても、互いに知らせられない秘密があるのは当然なのだ。そうとは知っていても、内密で話そうとする長恭の気持ちが悲しく感じられた。
「兄上、高徳正が昨夜亡くなった」
延宗は、腹の底から絞り出すような声を挙げた。
「えっ?・・・先日、尚書右僕射になったばかりの高徳正殿がか?」
高徳正は皇族ではないが、高歓、高澄、高洋の三台に仕え、相府掾、黄門侍郎を歴任した寵臣である。長らく侍中を勤め、二か月前には、尚書右僕射に抜擢されたばかりである。病気のはずない。
「なぜ、高徳正殿が亡くなった?まだ、若いはずだが・・・」
「陛下の勘気をこうむって、・・・殺された」
延宗は虚ろな瞳で、言葉を吐き出した。旬休(十日に一日の公休)を取っていた長恭は、徳正の死の話が届いていなかった。
先日の崔叔正に続いて、清廉な臣下が陛下の怒りを買い罪に落とされたのだ。斉の朝廷には、常に血生臭い出来事がつきまとう。
尚書右僕射に就任した高徳正は、斉国の将来に不安を感じて高洋に対してたびたび諌言を行った。
あるとき、宴で徳正に酒を強いる高洋に、徳正は皇太后を引き合いに出して諫言した。素面の時の高洋は、よく母后への孝養を口にしていたからだ。
必死の思いで忠言を呈する徳正に、高洋は皮肉な言葉を投げつけた。絶望した徳正は、病と称して出仕しなくなった。やがて、道灌に籠もって外部との連絡を絶ったのだ。
高洋は、冀州刺史に任じる勅旨を宦官に持たせて道灌に遣った。徳正は、この勅旨を受けると、直ぐに起き上がって拝命した。しかし、これを聞いた高洋は怒りに駆られ、徳正の屋敷に乗り込み徳正を滅多差しにしたという。その類は家族だけにとどまらず全ての一族郎党に及んだ。
「何ということだ。尚書右僕射を惨殺するとは、・・・陛下の酒毒は、そこまで極まったか」
長恭は、椅に座ったまま頭を抱えた。
「高徳正は、建国の功臣であろう。そんな忠臣一族を無残にも殺してしまったのか。陛下は・・・」
長恭は、『狂っている』と言おうとして、口をつぐんだ。例え自分の屋敷であろうと、最愛の兄弟であろうと、迂闊なことを言えば、無残な死が待っているかもしれないのが、この北斉の国なのである。
「でも、それだけではない」
いきなり、延宗が長恭の耳に唇を寄せてきた。
「四兄上、もっと恐ろしい事が起きるかも知れない。・・・先日、高楼で昼寝をしていたら、陛下と彭城公が来て、話しているのを偶然聞いてしまったのだ」
「彭城公とは、あのおべっか使いの元韶か?」
元韶は元氏一族でありながら、長恭の伯母の夫であることもあって高洋の粛清を逃れていた。惰弱な遊び人で、高洋におもね歓心を買うことに務めていた。
高楼から鄴の街を見下ろしながら、高洋が元韶に尋ねた。
「漢の光武帝は、なぜ漢を再興できたのであろう」
「それは、・・・王莽が、新王朝を建てながらも、劉氏を皆殺しにしなかったからです」
儒学を信奉していた王莽は、禅譲により皇位を得たため、儒者の批判を恐れて劉氏一族の粛清をためらったのである。
「なるほど、卓見よのう」
高洋は、笑いを浮かべて得心したように頷いていた。前皇帝の中山王府の者をほぼ皆殺しにしたが、多くの元一族は高官として生き残っている。皆殺しにはほど遠い状態だ。
皆殺しという言葉を聞いて、柱の陰で聞いていた延宗は血の気がひいた。高楼は、幼き頃より孤独な延宗の遊び場だった。時々見回りの衛士が来る以外、登ってくる者などは皆無であった。そんな高楼であのような言葉を聞いてしまうなんて・・・。
うかつに他人には話せない。しかし、胸の中にしまっておくには、あまりにも重大な秘密だった。
「陛下は、酒が入ると急に人が変わるのだ。いつか・・・元氏が皆殺しに合うのではないかと心配で・・・」
「延宗よ、・・・今の話は本当なのか?」
延宗は、皇帝寵愛の皇子として後宮や中朝にも自由に出入りしている。そこで、元韶と高洋との戯れ言を聞いてしまったのだろう。いくら子供だと言って、うかつに口にすれば死罪は免れない。長恭は青ざめた顔で、延宗の肩をガチッと掴んだ。
「延宗、今のこと、決して口にしてはならない。命に関わる。御祖母様にも、許嫁にも、絶対だ」
延宗は、最近李皇后の姪李氏と婚約したばかりだった。来年婚儀を挙げれば、戚里(高官の屋敷街)に屋敷を賜り後宮を出ることになっていた。そうすれば、危険な高洋の足下を離れることができる。
「延宗、婚儀を早く挙げるように、皇后様にお願いしたほうがいい」
延宗はいまだ子供で、朝廷の思惑などに無頓着である。正気を失った皇帝の傍に住まうのは、無鉄砲な延宗にとって危険極まりない。長恭は、弟の頭を乱暴に撫でると、延宗の頭に自分の頭をこすり付けた。
「四兄上、婚儀なんて・・・」
遊びたい盛りの延宗は、口を尖らせた。
「お前の身の安全のためだ。早く後宮を離れるのだ」
★ 夫婦のきずな ★
夕暮れも迫り、長恭が正殿の奥の居房に入ると、榻に座った青蘭が、『荀子』を熱心に読んでいる。
「青蘭、遅くなった」
長恭が前から声を掛けても、微動だしない。
長恭は夜着に着替えると、榻牀に腰掛けた。何を怒っている?御祖母様に叱責を受けたか?それとも、崔家への援助が思ったより少なかったか?
もしや、延宗と話したとき席を外させたことを気にしているのか?
これまでは、皇宮の事情についても、青蘭には包み隠さず話してきた。しかし、王琳と鄭賈の賈主を両親に持つ青蘭に、皇宮の秘密の全てを明かせるわけではない。昼間の時は、深刻そうな延宗を見て青蘭を下がらせたのだ。
すでに亥の刻(午後十時~十二時)だ。臥内に入ってこないのは、私を避けているからだ。長恭は居房に行くと青蘭の横に腰掛けた。
「青蘭、何を怒っているのだ」
青蘭は、いじになって書冊から目を離さない。
「特に何も・・・」
「いや、・・・やっぱり怒っている。・・・もしや、延宗と話をしたとき、席を外させたことか?」
長恭は、書冊を取り上げると卓子の上に置いた。
「何のことかしら?」
青蘭は、口をとがらせると横を向いた。長恭は、青蘭の夜着の袖をつかんだ。
「すまなかった。・・・知っての通り、高家には様々な醜聞がある。だから、延宗の顔色で、何かよからぬ事だと深読みしたのだ」
長恭は、溜息をついて青蘭の顔を覗き込んでささやいた。
「高徳正殿が・・・殺されたのだ」
それは表情を失った残酷な響きだった。
「まさか・・・」
高徳正は、侍中になったばかりの高官だ。高官がいきなり殺されるなんてあるだろうか?
「本当だ、陛下への忠言で怒りを買い、一家が誅殺された」
誅殺とは、なんと都合の良い言葉だろう。どんな血生臭い殺戮でも、君主の命があれば誅殺になってしまうのだ。
「もし、それが本当なら・・・忠義の士は、この斉にはだれもいなくなる」
長恭は青蘭の肩に腕を伸ばすと、引き寄せた。
命に逆らいて、君を利するは忠という。長恭は、『荀氏』の臣道篇の言葉を思い出した。斉では聖臣や功臣は粛清され、態臣や簒臣のみが残るのだ。
『命に従いて、君を利せざるは、これを諂という』
「徳正殿は、国への忠義を貫いたのだ。しかし、ひるがえって私はどうだ。日々職務に励んでいるつもりでも、徳正殿に比べたら、日々、君主に諂っているようなものだ」
理不尽な斉国の政道に、異議を唱えたい。しかし、散騎侍郎の自分は、朝儀での発言権もない無力な存在なのだ。長恭は青蘭の身体を引き寄せると、肩に頭を付けた。
「師兄、自分を責めないで・・・師兄は侍中府で力を尽くしているし、崔家のことでも力を貸してくれる。できることを精一杯やっている師兄は、いい人だわ」
青蘭は長恭の頭を引き寄せると頬に唇をつけた。
★ 忠義の代償 ★
次の日、長恭は侍中府を早退すると清河王府を訪ねた。高徳正の死について詳しく知るためである。箝口令が敷かれているのか、高徳正の死の真相は侍中府の官房にいては聞けなかったのである。
清河王府は、父高岳が、財力に飽かせて造営した壮麗な屋敷である。父母が亡くなり、姉が嫁いだ敬徳は、そんな屋敷に一人で住んでいた。
侍従に案内されて長恭が書房に入ると、敬徳は榻に沈んでいた。小卓の上には、酒瓶と酒杯が乱雑に置かれている。こんなに酔っている敬徳を目にするのはめずらしい。
「敬徳、酔っているのか?」
長恭が、横に座った。
「ううん?・・・長恭か。どうしたのだこんな時間に」
敬徳は長恭の言葉で、うつろな目を開けた。勤勉な長恭が、日が高い内に退庁するとは珍しい。
「どうしたも何も。・・・今日は、早退した。・・・高尚書のことを聞いたか?」
敬徳は弱々しく目を閉じると、鼻をすすった。
「ああ・・・今日、藍田公府(高徳正の屋敷)に行ってきた。・・・徳正殿も奥方も、息子も一族郎党全部が惨殺された。前庭は血の海だった・・・」
敬徳は、杯に酒を注ぐと、一気にあおった。藍田公府の光景が頭から離れない。宮中では箝口令が敷かれ、事件の詳細は分からない。しかし、様々なところから聞こえてくる噂をまとめると、おぼろげながら全体像が見えてくる。長恭は小卓を引き寄せると、横になった酒杯と酒瓶を直した。
太白星(大きく輝く金星)が出ることは、政治が大きく動く前兆とされていた。無軌道な振る舞いを重ねていた高洋であったが、東の空に太白星が出て以来その躁狂さを増していった。一方尚書右僕射に就任した高徳正は、斉国の将来に不安を感じて高洋に対してたびたび諌言を行った。
あるとき、宴で徳正に酒を強いる高洋に、徳正は言った。
「陛下、私は暇をいただきたい。陛下の酒毒は酷くなるばかり、これでは斉国はどうなるのでしょう。皇太后がお許しになると思いますか」
素面の時の高洋は、よく母后への孝養を口にしていた。高徳正は、国家の存亡と母の皇太后を持ち出すことにより、反省を迫ろうとしたのである。しかし、酒毒に侵された高洋には、母の婁皇太后の話は泣き所であるとともに、逆鱗であった。
「徳正は、朕よりも偉いつもりらしい。いつ皇帝に説教できる身分になったのだ」
必死の思いで諫言を呈する徳正に、高洋は皮肉な言葉を投げつけた。その言葉に絶望した徳正は、病と称して出仕しなくなった。やがて、寺に籠もって外部との連絡を絶ったのだ。身の危険を感じたのである。
しかし、高歓の遺臣たちの勢力を削ごうとしている楊宰相にとっては、これは徳正を排除する好機であった。
「徳正の病は、詐病にございます。その証拠に、冀州刺史に任命すれば、きっと嘘のように元気になりましょう」
と、誣告をしたのである。
それを信じた高洋は、冀州刺史に任じる勅旨を宦官に持たせて寺院に遣った。床に臥せっていた徳正は、この勅旨を受けると、直ぐに起き上がった。命の危機が去ったと思いほっとしたのである。
しかし、それを間者に聞いた高洋は、激怒して直ぐに徳正を呼び出した。
「病を治すために、朕自ら針を打ってやろう」
そう言うと、高洋はヒ首を取り出し徳正を滅多差しにしたという。その後、皇帝自ら藍田公府(徳正の屋敷)に押し入りその妻と子の高伯堅など一族郎党を惨殺したという。
「徳正は、鮮卑族を除き漢人を用いるべきだと言っていた。元氏一族の処刑も徳正の勧めだ。元氏一族の敵を取ったのだ」
高洋は、徳正を殺した理由をこのように述べたが、全く酒毒による妄言としか言いようがない。むしろ、高徳正は、鮮卑族として漢族の台頭を危惧し、鮮卑族の安寧を図ろうとして楊宰相と対立していたのだ。
やがて、高洋は酒が切れると、徳正を殺したことを悔やんだ。その後、高徳正に太保と冀州刺史を追贈し、唯一生き残った孫の高王臣に藍田県公の爵位を継ぐことを許したという。
「徳正殿とは、ついこの間、昇進祝で一緒に酒を飲んだのだ。尚書右僕射になるからには、陛下に諫言を呈したいと言っていた」
「陛下にか?・・・酒毒がまわって正しい判断のできぬのに・・・」
そうだ、諫言を止めるべきだった。弟の常山王高演でさえも、飲酒を誅して重傷を負っている。単なる家臣に過ぎない徳正が、諫言をするなど無謀なことだったのだ。
「高徳正は、楊韻と共に斉建国の立役者だ。陛下を即位させたことに、責任を感じていた。どうにかして、陛下の暴走を止めないと、この国は危ういとな、国を守るためには・・」
「君主が自ら、妻子まで殺すとは、聞いたことがない。・・・歴史に残る蛮行だ」
長恭は額に手を遣ると、苦悩に唇を歪めた。
君主が、政治的な立場の違いから毒酒を与えたり、斬首を命じたりすることはよくある。しかし、自ら屋敷に乗り込み手を汚すとは、天を恐れぬ行いである。わが高一族には、暴虐の血が流れているのか。
「三日後の葬儀が許された。後悔した陛下は、大保の位を追贈するそうだ。唯一残された孫の高王臣に後を継がせるそうだ」
敬徳が藍田公府を訪れた時には、すでに遺骸は片付けられていたが、邸内は血の海で惨殺の形跡は隠すことができなかった。まったく父の時と同じだ。敬徳は杯に注いだ酒を、一気に飲み干した。
「長恭、俺は高帰彦を敵だと思ってきた、しかし、本当の黒幕は、楊韻だ。楊韻が余計な事を言わなければ、徳正殿だって・・・」
今まで、高帰彦を敵と狙ってきたが、正気を失った皇帝を利用してこの国を牛耳っているのは、佞臣の楊韻だ。そして、一番の元凶は万乗の君である・・・。酒毒に犯され、痩せさらばえた皇帝の姿を思い浮かべて、敬徳は首を振った。
敬徳は、二つの酒杯に酒を注ぐと一つを長恭に差し出した。
「俺は、必ず高帰彦と楊韻を倒して、政道を正す」
敬徳は、杯を夕日にかざすと一気に飲み干した。徳正の死を無駄にしてはならない。
三日後、弟の高徳叡により、高徳正の葬儀が執り行われた。建国の重臣の葬儀にもかかわらず、陛下の悋気を恐れたのであろうか。高敬徳と高長恭が参列した葬儀は、参列者が少ない寂しいものであった。
「徳は孤ならずと言うが、何と寂しい葬儀であろう」
敬徳と長恭は線香を上げると、三度拝礼した。
天象の変異に恐れる高洋は、佞臣の誣告により、忠臣を排除していく。長恭と敬徳は、北斉の腐敗に危機感を募らせていた。