蘭陵王伝 別記 第八章 桃花の小径
長恭の奔走により、青蘭は顔之推邸で、個別の講義を受けることができるようになった。しかし、開国公夫人となった青蘭には、様々な困難が待ち受けていた。
★ 女人と学問 ★
四月に入り、青蘭の医術の師匠である崔叔正が、将作大匠から侍中に昇進した。かつて東魏の時代には黄門侍郎を務めた叔正であってみれば、やっとふさわしい職責にもどったのだ。
ほどなく、顔氏学堂で青蘭と紫雲を対象とする別室での講義が始まった。教授は顔之推と崔叔正、そして南朝からたまたま来ていた儒学者の石曜であった。
長恭は榻牀に座ると、所在なげに『史記』を開いた。夕餉の後に沐浴をすませて、すでに戌の刻(午後八時~十時)である。蝋燭を交換するために内官の吉良が入って来た。
「吉良、その、青蘭は、何している?」
「奥方様は、・・・東殿で、・・・その学問をなさっているかと」
「学問?」
「はい、明後日顔家に行くので、それに間に合わせると仰って」
何と言うことだ。仕事を早々に片付けて夕餉も早くすませたのに、昏くなってから学問に取り組んでいる。そろそろ、止めさせなければ夜中までやりかねない。
「青蘭は、何をしているのか」
長恭は立ち上がると東殿に向かった。心を静め隙間から房の中をのぞいた。
東殿は、榻牀が取り払われて化粧房兼書斎になっている。中をのぞくと、青蘭が蝋燭の灯りの中で書冊を睨んでいる。
「青蘭、暗い灯りの中で書冊を読むと、目が悪くなるぞ」
長恭は苛立ちを気付かれないように、目を心配して見せた。
「昼は時間があるだろう?こんな遅くにやらなくても・・・」
「昼間は、宝物庫の品の帳簿整理をしなければならないし、庭の見回りをしたら終わってしまったわ。『易経』を予習しなければ・・・」
「宝物庫の帳簿など、急ぐ必要はない。・・・明日は侍中府から早く戻るから、予習を手伝おう。お子様はもう寝る時間だぞ」
長恭は冗談に紛れて、ため息をついた。青蘭は課せられた屋敷の経営に追われて、学問をする時間がとれないのだ。
「師兄は、先に寝ていていいわ」
長恭は青蘭から筆を取り上げると、その手を握り北殿に向かった。
★ 恋しい気持ち ★
隣から、青蘭の規則正しい寝息が聞こえる。昼間の屋敷の仕事と学問との疲れからすぐに寝てしまったのか。婚儀を挙げてから、まだ半月だ。臥内に戻るなり青蘭は倒れるように寝てしまったのだ。
「青蘭、寝ている?」
長恭は我慢ができずに、肩をつついた。
「ええ、・・・もう寝たわ」
寝ていれば、答えるはずもない。
「青蘭、私を嫌いになったのか?」
長恭は今度は青蘭の頬をつねった。婚儀の前は、会えるときが限られていただけに、会っているときは親密で青蘭の気持ちを感じることができた。しかし、開国公府で暮らしてみると、青蘭は家事にかまけて気もそぞろだ。そして、学堂に復帰した四月からは、屋敷に戻ってからも話す暇もない。
「師兄を、嫌いになるわけない」
青蘭は衾で顔を隠すようにして、小さな声で言った。
「なぜ、そんなに全部やろうとする?」
「御祖母様が、・・・正室の務めは屋敷を完璧に切り盛りすることだと、・・・」
自分が知らない間に皇太后に呼ばれて、そのような指導を受けていたのか。
「自分でなんでもやろうと思うな。屋敷には優秀な女中頭や家宰もいる。仕事をまかせて君は確認だけでいいだろう?」
青蘭は、頭の上まで衾をかぶった。
「でも、母は仕入れから帳簿の整理まで何でもやっていたわ。それでこそ、商賈の信用は維持できると言っていたもの」
長恭は衾の中の青蘭の腰に腕を回すと抱き寄せた。
「鄭賈が、豪商である理由が分かったよ。・・・君はいつでも完璧であろうとする。でも、人の力には限度があるんだ。・・・私は、君が君でいるだけで、満足だ。だから、無理しないで・・・」
長恭は衾の中で青蘭の頬に唇を寄せた。
長恭に相応しい伴侶となるためには、全てを完璧にこなさなければならないと気を張っていたのだ。しかし、実際に生活してみると、公府の仕事は膨大でいつ終わるとも知れないのだ。
「御祖母様は、完璧を求める。小さいときから、御祖母様は厳しくて、何でも完璧にできないと叱責を受けた。祖母は肉親と言うより、君主なんだと思い知らされた。肉親だからと言って、甘えてはならないが、全てを受け入れる必要も無い。だから、私はできることは聞いて、できないことは聞き流していた。私は悪い孫かな?」
長恭は青蘭の顎に唇を付けた。師兄は幼きころからそのような苦労をしてきたのか。
「師兄が、悪い孫だったら・・・この世にいい孫はいない」
「いいえ、師兄はいい孫よ」
青蘭は長恭の首に腕を回すと、ゆっくりと口づけをした。
★ 恋文の罠 ★
青蘭は長恭の官服の袖から見つけた紙片をもう一度読み返した。
『明々として月の如し、何れの時にかとる何けん』
明らかに恋文である。
「これで、三通目だわ」
朱塗りの櫃から取りだした紙片を並べてみる。ぜんぶ筆跡がちがうから別の女子だ。
数日前、長恭の官服の袂から偶然見つけたのだ。それ以来、袂の中や衿などを探ることが習慣になってしまった。まるで嫉妬する女子の所業だ。
「奥方様、旦那様にお訊きになってはいかがでしょう?」
女中頭の昭華が、心配顔で訊いてきた。
嫉妬は女人の三悪の筆頭である。堅く戒めた皇太后の言葉が重く響く。
「嫉妬をしていると思われたくない」
「これは嫉妬心などと言っている場合ではありません。奥方様、最悪の場合、謀反の嫌疑を掛けられ死罪の恐れもあるのですよ?」
昭華は母親の鄭桂瑛が特に付けてくれた経験豊かな侍女頭である。北魏の宮女を母に持ち、妃嬪に長く仕え、後宮の事情に通じた侍女である。
「まさか、恋文で謀反だなんて・・・」
「奥方様、皇宮ではすべての宮女が、陛下の女なのです。先の清河王の件をご存じでしょう?」
高敬徳の父清河王高岳は、北斉建国の功臣であったが、今上帝高洋に薛嬪との密通を疑われて斬首されている。その発端は、二人の間に交わされたと言われる恋文であった。のちに、それが偽造であることが分かったが。多くの女人に慕われる長恭にとて皇宮は危険な場所なのである。
「どうすれば長恭を守れるかしら、・・・」
長恭を危険に晒すわけにはいかない。
「こんな話を聞いたことがあります。北魏に見目麗しい皇子がいて、女子からの恋文に困っていたそうです。その妃が考えた策は・・・」
青蘭は、昭華が話した方策を聞いて目を丸くした。そこまで警戒しなければ、長恭の命は守れないのか。
「・・・でも、そんなことをすれば、私は嫉妬深い悪妻だと言われるわ・・・」
「恐れながら奥方様、ご自分の評判よりも、旦那様のお命が大切でしょう。覚悟をお決め下さいませ」
青蘭はため息をつきながら紙片を小櫃にしまうと、長恭を説得する算段を考えた。
★ 妻の覚悟 ★
沈丁花の薄紅色の花が、後苑の睡蓮池の周囲を彩るころになった。長恭と青蘭は、皇后李祖娥に呼ばれて後宮を訪れた。皇族が妻を娶った場合、皇后への挨拶をするのが慣例である。
中朝から後宮に入り、叔景殿の回廊を進む。乾寿殿の西側偏殿の回廊を北に向かって進むと、茶器を捧げ持った三人の宮女が持を低くして道を譲った。
長恭がその前を通ったときだ。宮女の一人が捧げ持った茶器が落ちて、大きな音を立てて割れた。茶のしぶきが、長恭の長衣の裾を濡らした。
「お前たち、何をやっているのだ」
「も、申し訳ありません」
近くにいた宦官の怒声が響き、宮女が長恭の足元にはいつくばった。宮女は、長恭の長衣に取り付くと、手巾で拭こうとした。
「大丈夫だ。・・・もうよい、たいして濡れていない」
長恭は屋敷の侍女に対しても、決して声を荒らげることはしない。青蘭は、宮女を立ち上がらせると笑顔を作った。
「開国公、申し訳ありません。お召し替えを・・・」
宦官は、酷薄な眼付きで謝罪した。濡れた装束で皇太后に会うことはできない。長恭と青蘭は着替えの手配を命じると、宮女に案内されて小さな房に入った。
「最近の宮女は質が落ちた。よく茶をこぼされる」
よく使う手だ。高貴な貴公子に話しかけ、着替えを口実に密会を装うために、茶をこぼしたりするのだ。あまりにもうっかりしている。青蘭は長恭を睨んだ。
ほどなく屋敷から着替えが届けられた。手伝おうとする宮女たちを青蘭がさえぎった。
「私が手伝うゆえ、下がれ」
青蘭が着替えの袂を探ったが、付け文はない。
皇后のいる昭陽殿は、後宮の正殿たる乾寿殿の北に位置する壮麗な宮殿である。朱華門を入ると前庭がある。前庭には花園が造られ引き込まれた清流には石橋が掛かっている。
石橋を渡った時、青蘭は長恭から小さな紙片を渡された。
「長衣の衿の中から出てきた」
屋敷から届けられた着替えの衿に入れられたに違いない。なんと巧妙なのだ。
「預かっておくわ」
青蘭は、うなずくと懐にしまった。
昭陽殿に入ると、正殿の堂では多くの侍女を両側に従えた李祖娥皇后が待っていた。李祖娥は幼少のころから美女の呼び声高く、その美貌は広く知られていた。太原公時代の高洋に望まれて公妃となったのである。高洋が北斉を建てたとき、立后をめぐって高徳正たち鮮卑族と楊丞相たち漢族がはげしく対立した。高徳正や婁皇太后がの推す段妃を押しのけて、今上帝は寵愛する李祖娥を皇后としたのである。
これが、今上帝と皇太后の深い怨恨の始まりであった。
「皇后様に、高長恭と王青蘭がご挨拶を申し上げます」
長恭に続いて青蘭も拝礼をした。
「皇后さまに、ご挨拶が遅れて申し訳ありません」
長恭は、すべての女人の心を溶かすような清澄な眼差しを李祖娥に向けた。
「そのようなこと、気にせずともよい」
李皇后は、牡丹の花弁のような妖艶な唇をほころばせた。
「そなたは、皇太后の秘蔵っ子、どのような女子であったら気に入るのかと思っていたが、王琳将軍の娘とはな・・・」
李皇后は、長恭から青蘭に視線を移すと、侮るように顔をしかめた。どれほどの美女が現れるのかと期待していたが、王青蘭は黒目がちな瞳の少年のような小娘であった。美女とは言えない平凡な娘を押し付けられた長恭が哀れに思われた。
「確かに、陛下は梁と斉の同盟を重要視している。王琳の娘であるそなたは、斉のために多いに働いてもらいたい」
李皇后は、お気に入りの長恭が受け入れたこの婚姻が、あくまでも政治的な政略結婚であると強調した。
「王青蘭、そなたに婚儀の贈物がある」
皇后は、螺鈿を施した小櫃を持ってこさせた。中には翡翠を飾った豪華な簪が一対入っていた。
「そなたの黒髪に、良く似合うであろう」
青蘭は二歩進みでて、簪の入った櫃を押し頂いた。
「皇后様の、御厚意に感謝いたします」
翡翠の簪は、李皇后のような成熟した女人にこそ相応しく、どちらかというと年若い青蘭には不似合いである。長恭には、この簪が似合うような艶やかな美女こそ長恭の夫人に相応しいと言いたいのである。
青蘭が翡翠の簪が入った櫃の蓋を閉めると、今上帝高洋が宦官を引き連れて現れた。酒の匂いをさせている皇帝を前に、長恭と青蘭は再び拝礼した。
高洋は、顔を上げた長恭をしげしげと見た。
『兄上に似ている』
母の婁氏に付いてきた幼少の長恭を見たことはあった。しかし、散騎侍郎として出仕したものの長恭は朝議に出席する立場ではない。長恭の大人になってからの容姿を高洋が間近で見るのは初めてであった。
『その目、その唇、兄上によく似ている。なんで、それに気づかなかった』
高洋は、唇を噛んだ。文武に秀で容姿端麗な長兄は、母の婁氏に愛され高洋にとって羨望の的であった。その花顔を見るたびに、論議に負けるたびに、高洋は劣等感に打ちひしがれたのだ。
「長恭、宮女がそなたに付け文を渡したという醜聞が耳に入ってな」
長兄によく似た息子に、一泡吹かせてやりたい。高洋は、尊大で皮肉な笑みを浮かべた。
このようにして、敬徳の父親は罪に落とし入れられたのか。長恭は、警戒するときに浮かべる笑みの下から、高洋を観察した。
「付け文など、何のことかわかりません」
「衣の中に持っておろう。出すのだ。そなた、懐の中を探られたいか?」
高洋の言葉には、嗜虐的なすごみがある。仕方がなく、長恭は袂や衿を探る真似をしたが、出てくるはずもない。
「これではないでしょうか?・・・回廊で拾いましたが、何かわからなくて持っておりました」
青蘭が、折りたたんだ紙片を指先に挟んで示した。紙片を宦官が取り付いて皇帝に渡した。高洋は、紙片の文字を読むと不機嫌に卓子に叩きつけた。正室の王氏が持っていたのでは、罪に問うこともできない。
「朕に、偽りの報告をしたのは誰だ」
皇帝の怒声に、その場にいた内官や宮女が一斉に平身低頭した。
「長恭、そなたは、今まで付け文をもらったことがないと言うのか?」
長恭は、高洋の粘りつくような敵意に身を固くした。
『陛下は、何としても私を清河王のように陥れるつもりなのか』
その時、青蘭の声が響いた。
「陛下、夫の長恭は、婚儀前はいざ知らず、婚儀の後に付け文をもらった時は、迷惑ゆえ速やかに私に渡してくれると約束してくれました」
「ほう、付け文を・・・そなたが、みな持っていると?」
高洋は鋭く言葉を遮った。
「はい、夫への付け文は妻として許せぬことです。夫立会いの元、私が直ぐに燃やします。そして、憎い燃え殻ゆえ私が保管します」
青蘭の自信に満ちた言葉は、昏さに落ちた高洋の心に明るく響いた。
「長恭、誠か?」
「恐れながら、私は婚儀に当たって、妻以外の女子を娶らないと誓いました。誠にございます」
貴族は、正妻の他に側室や側女を複数持つのが普通であった。一人の妻を守るなどと言うのは、貧者か恐妻家以外の何者でもない。
「その様な誓いをするなど、長恭、そなたは父に似ず。恐妻家よのう。・・・なさけないわ」
高洋は蔑むような笑みを、長恭に向けた。
「恐れ入ります。どうも妻には一生勝てぬようです」
兄に似た容貌を持ちながら器の小さい奴だと、高洋は舌打ちをしながら長恭を満足そうに見下ろした。
★ 妻の秘策 ★
皇宮の横街の東の端、建春門を出て馬車に乗り込むと、長恭は青蘭の肩を笑顔で抱き寄せた。
「危うかった。・・・君が付け文を見付けたら直ぐに、渡すように言わなかったら、どうなっていたか」
昨夜、付け文をめぐって珍しく諍いがあったのだ。長恭が読書をしていると、いきなり入って来た青蘭が三つの紙片を見せた。
「師兄、これは何かしら」
青蘭はいぶかしむ長恭に、紙片を示した。
宮中にいると、いきなり近寄ってきた宮女に恋文を押しつけられることがある。そんな文は細かく破いて持ち帰るのだが、始末に負えないのは気が付かないうちに袂に入れられる恋文である。そのような恋文を、青蘭は見つけてしまったのか。
「師兄の衣をたたんでいたら、袖や帯の間から出てきたのよ」
青蘭は唇を結んで長恭を見詰めた。明らかに怒っている。
「知らぬ。・・・身に覚えがない。誰かが勝手に袖に入れて来たのだ。・・・信じてくれ」
長恭は、書片を置くと青蘭の手を握ろうと手を伸ばした。青蘭は、唇を尖らせると手を払った。
「知らぬうちに、袂に入っていたなんてあるはずがない」
青蘭が、嫉妬の感情を露わにするのは珍しい。青蘭は背を向けると、肩を落とした。
「恋文をやり取りしていたなんて、ひどい誤解だ。何者かが謀ったに違いない」
青蘭は、振り向くと長恭の両手をにぎった。
「師兄を、信じるわ。・・・でも、このようなことがこれからもあったら許せない。・・・これから恋文はすぐに私に渡すと約束して」
十五歳で加冠して、皇宮に出入りするようになって以来、長恭に思いを寄せる宮女や令嬢は後を絶たなかった。しかし、恋文は、邪魔以外の何物でもない。
「恋文なんて、うっとうしいだけだ。気づいたらすぐに君に渡す。しかし、そのような物を見たら君は不愉快ではないか?」
普段は素振りにも出さないが、青蘭の嫉妬が何より恐ろしい。もし女子の存在を疑ったら、何も言わずに出て行ってしまいそうな気がするのだ。
「憎い付け文は、私が師兄立ち会いのもと燃やしてやるわ」
長恭は、いつになく強い口調で言う青蘭の手を握った。
建春門を出て馬車は、戚里に走り出した。
昨夜の約束は、今日のこの事態を予測していたのか?鄭賈の情報網だったら、十分あり得る。長恭は隣の青蘭の手を握った。
「陛下の企みの事を事前に知っていたのか?」
「私にそんな力があると?」
青蘭は、長恭への恋文を見付けてからのことを話した。
「付け文により、死罪を賜ることもあると言われた。だから、十分警戒する必要があると考えたの」
青蘭が嫉妬心に駆られたように恋文を渡すように迫った謎が解けた。
「私がうかつだった。・・・まさか、私に愛想尽かしはしないだろう?」
「もちろん、これも全て師兄のためよ。・・・でも、これで私はますます嫉妬深い妻と悪口を言われる」
「言いたい者には、言わせておけ。私には一番優しい妻だ」
長恭は、笑顔で青蘭を抱き寄せると手の甲に唇をつけた。
★ 木香薔薇の残心 ★
木香薔薇の赤い花が後苑に咲き、長恭の住む開国公府の蓮池に睡蓮が青々とした丸い葉を伸ばしていた。百日紅の下に据えられた的の中心の僅か上に、鋭い音を立てて矢が当たった。続けて射られた四射の矢が、赤い的の中心を捉えた。
緊張していた長恭の瞳が、温顔に変わった。
「最近、鍛錬を怠っている。・・・腕が少しなまってしまったか」
長恭は、溜息をつきながら傍らの青蘭に微笑むと、矢を抜きに向かった。二人が四阿に戻ると、侍女が茶杯を運んできた。
「敬徳に探ってもらった。例の恋文は、昭陽殿の者の罠だった」
「昭陽殿?」
「昭陽殿は、皇后府のことだ」
皇后府の者に、そのような事をさせることができるのは、もちろん今上帝の他にいない。
「君の助けがなかったら、私は今頃、命がなかった。先の清河のようになっていた」
「でもそのせいで、私は鬼のような妻と言われているのよ・・・なぐさめて・・・」
青蘭は、頬を膨らませて不機嫌そうに横を向いた。長恭の恋文の話と共に、恐妻の噂はまたくまに広がったのだ。
「気にするな。君の優しさは私が知っている」
長恭は、青蘭の手を引くと膝に上に座らせた。上襦の浅葱色と長裙の珊瑚色の鮮やかさが、長恭の膝の上で初夏の涼風にそよいだ。青蘭が首に腕を回すと、青蘭の白い首筋に長恭が優しく唇を当てた。
★ 志の理由 ★
高敬徳は、新任の侍中である崔叔正を喬香楼に招待した。崔叔正は、爵位こそ低いがその官吏としての経験と経歴は、敬徳を凌駕している。
敬徳は、酒瓶から杯に酒を注いだ。
「崔侍中、こたびは昇進おめでとうございます」
敬徳は酒杯を掲げると、口に持って行った。
「叔正殿は、清廉な御仁だと、亡き父より聞いています。若輩者の私に政についてご教授願いたいのです」
「高洪略(岳)殿は、武勇に優れた斉建国の功臣だ。斉のために大切な大忠であったのに、何とも惜しい人物を亡くしてしまった。北辺で聞いたときには、しばし立ち上がれなかった」
崔叔正は、高澄旗下の東魏では四貴と言われるほど権勢を誇っていたが、高澄が暗殺されると誣告を受け北辺に流刑となったのである。高岳の冤罪は、その間の出来事であった。
「私はかねてより崔殿を手本にすべき廷臣として尊敬しておりました。しかも、琴棋書画の他に医術にも詳しいとか」
崔叔正は、名門博陵崔氏の出身で、高官を歴任してきた人物である。文人としても一流だが、医術に精通し、北辺では長史として働きながら民を病から救っていたという。
「ああ、かつて北辺にあったとき、病に悩む民の姿を目の当たりにした。官吏の仕事の傍ら病に倒れる民を助けた。その時、思ったのだ。内紛に明け暮れる朝廷で官吏としていることに何の意味があるのかと」
叔正は酒杯を持ちながら、目を伏せた。
「直接民を助る事の方が、重要なのではないかとね。・・・お蔭で、我が家の銀子は減って、書庫には医学書が増えたがね」
崔叔正は、自嘲気味に笑うと酒杯を空けた。
「私も父を失って以来、毎日が悩みの中です。時々自分の官吏としての仕事が空しくなるのです。そんな時は、私の場合は、ただ酒を飲んで時間を浪費しているだけですが・・・」
崔叔正は、高敬徳を凝視した。高敬徳は放蕩者だと噂を聞いたことがあったが、実際に会ってみると容貌は端正で、決して酒色で身を持ち崩しているようには見えない。戦での武功を考えると、高敬徳は遊び人を装いつつも武芸の鍛錬もしているに違いない。
「しかし、最近の若者は、捨てたものではない」
崔叔正は顔家で学ぶ青蘭たちの顔を思い出しながら、魚の煮物を口にした。
「最近、医術を学びたいと言う意欲的な若者がでてきたのだ。それも女子だ。そのお蔭で、我が息子も学問をやる気になってな・・・」
鮮卑族の高敬徳に、顔家で医術を教授していることは明かせない。
「ご子息は?」
「まだ、学堂で学んでいる最中だ」
「崔侍中のご子息なら、優秀なのでしょうな」
崔叔正のような清廉な漢族の官吏が増えれば、北斉の政もまともになっていくのだ。
敬徳は酒瓶を取ると、叔正の杯に酒を注いだ。
★ 清河王からの結婚祝い ★
高敬徳は、成婚の祝の宴を開くといって、長恭と青蘭を邯鄲の別院に招待した。かつて、敬徳が高帰彦に敵討ちをするために、侍衛を集めて調練していた別院である。
「この『八月帖ー玉煙堂帖ー』は、青州の司馬氏から手に入れたのだ」
高敬徳はそう言うと、張芝の紙本墨拓を几案の上に広げた。
張芝は、後漢時代の書家である。字は伯英、敦煌の出身である。太常を務めた張渙の長子で幼い頃から学問に励み、文武に秀で人の模範となる人物であった。二世紀の後漢は、隷書から草書が誕生する時期で、張芝のよくした字体は、章草と称された。
青州の司馬氏は、晋王朝の皇族司馬氏の末裔である。
「張芝の筆蹟は、有名で法帖として残っているけれど、本物と言えるのはほとんど無いということよ」
「敬徳、なかなかすごい物を手に入れたな」
青蘭は墨拓に顔をつけてじっくり眺めた。墨拓とは、石碑に彫られた筆蹟を、拓本にした手蹟である。
「張芝は、優れた学識を持ちながら、仕官はせずに書法の研究に一生を捧げた『草聖』だ。隷書から草書に移る前の新しい書体を創造しようとする意気込みが感じられるだろう?」
敬徳は、張芝について調べていたことを一通り披露すると、青蘭を横目で見た。
「青蘭、君の母上は、鄭道昭や鄭述祖の一族だと最近知った。君の手蹟が優れているのも、納得したよ。だから、君の書法の研究に・・・婚姻の祝にこれを贈ろうかと・・・」
すでに、敬徳からは成婚祝として真珠や玉など過分な贈り物をもらっているのだ。
「すでに祝の品はもらっている。これは、貴重すぎてもらえない」
「借金のカタとしてたまたま手に入れたのだ。大した額じゃない。俺のところにあっても宝の持ち腐れだ。だから、二人に贈りたい」
敬徳の手を離れたら、いつ見られるとも知れない貴重な法帖だ。しかし、過分な贈り物は災いの元だ。青蘭は、几案に手を置くと、舐めるように法帖を眺めた。
「長恭、我々は友達で、いろいろ協力してもらってきた。・・・これからの協力への賄ということで、受け取ってくれないか?」
「賄?」
「そうだ、俺の計画には信頼できる同胞が必要なんだ。だから、・・・前払いしておく」
敬徳は偽悪者の傾向がある。美辞麗句を並べるよりも、自分の悪事を白状する方が、真心が通じると思い込んでいるのだ。よだれを垂らしそうな青蘭の顔を見ると、受け取らざるをえない。
「賄なら、仕方が無いな。もらっておく」
「よかった、よかった。これで、苦労した甲斐があったというものよ。さあ、食事にしよう。青蘭の好きな、江南の料理を用意したぞ」
敬徳は笑顔になると、となりの居房を指さした。
長恭を陥れる計略から救うため、青蘭は嫉妬深い妻という悪名を着ることになってしまう。