屋敷を飛び出して……
「侯爵夫人。わたしのこと、知っているわよね?」
フェリクスの愛人が突進してきた。が、わたしは身動き一つ出来ない。
「わたしのこと、フェリクスからきいているわよね? だから、自己紹介なしで大丈夫よね?」
彼女は、手を伸ばせばすぐ届く位置で急停止した。両手を腰に当ててわたしを見おろすその姿は、迫力と威圧感満載である。
「フェリクスのことよ」
彼女は、わたしを見おろしながら言った。
その圧をひしひしと感じつつ、フェリクスのことなのは当然よねと思った。
「彼のことで、あなたに話があるの」
彼女は、勝ち誇ったように続ける。
彼女とわたしは、容姿は正反対。おそらくは、性格も真逆のはず。
名前はたしか……。
そうだわ。アンヌ・リヴィエール。フェリクスがそう叫んでいたわね。
「というか、警告したいことがあるの」
(警告……)
内容は、きかなくてもわかっている。
ここに乗り込んできて彼の妻であるわたしと対峙し、警告することといえばひとつしかない。
『フェリクスと別れなさい』
この一語に尽きる。というか、それしか考えられない。すくなくとも、書物の中では愛人はそう叫んだり怒鳴ったりする。あるいは、脅したりすかしたりするものである。
「アイ様、このレディはだれなのですか?」
「ラングラン侯爵家の屋敷に乗り込んできて、アイ様にエラそうに言うこのレディはだれなのですか?」
かたまったままのわたしに、ヴェロニク、それからロマーヌがきいてきた。
(こんな場面、だれでも驚くだろうし不思議に思うわよね)
他人事のように考えてしまう。
「こちらの、こちらのレディは……」
口を開きかけた瞬間、エントランスの大扉が勢いよく開いた。
「バタンッ!」
その突然の音が大きすぎて、反射的に飛び上がってしまった。
「アンヌッ! いいかげんにしろ」
フェリクスの巨躯が、目の前にそびえ立った。
「そのレディは……」
彼は、わたしに太い指を向けた。
「そのレディは関係ない。そのレディは、無関係だ。だから、近づくな。そのレディは、おれとはなんの関係もない」
彼は、表向きでさえわたしを無関係呼ばわりした。しかも、三回も。
「旦那様、ひどい」
「そうよ、ひどすぎる」
すぐうしろから、ロマーヌとヴェロニクの涙声がきこえてきた。
その涙声に触発されたのか、かろうじて保っていたなにかがプツリと切れてしまった。それこそ「プツッ」と、脳内で音が響き渡った。
その瞬間、フェリクスに突進していた。それから、巨躯の彼を押しのけ屋敷から飛び出していた。
「アイ様っ」
「アイ様っ」
エントランスのすぐ外に、パトリスとピエールが立っている。その彼らのことも、両手を突き出して押しのけていた。
「アイ様っ」
「アイ様っ」
複数の声がわたしを呼ぶ。それを背中でききながら、足をフル回転で動かした。
「アイッ、待ってくれ」
ひときわ野太い声もまた、背中にあたった。
それでもなお駆け続けた。気持ちに足がついていかず、何度も転びそうになった。その都度踏ん張って耐え、さらに足を動かす。
「アイッ、待ってくれ」
野太い声がうしろから追ってくる。
さらに速度を上げる。
「アイッ」
そのとき、まるで子ども向けのお話に出てくるように眼前に白馬が現れた。その背に騎士をいただいて。
そう。なにかに追い詰められたいまのわたしには、まさしくそれが騎士に見えた。
「さあ、乗って」
奇蹟にも近いグッドタイミングで現れたジョフロワは、わたしに右手を差し出した。
考える暇があるわけがない。また転びそうになったこともあり、それこそすがるような思いでその右手を取った。取ったというより、がっしり握ったという方がより近かったかもしれない。
彼の手に力がこもったのがわかった。
(わたしをこのまま馬上に引き上げるの? ムリにきまっているわ)
わたしが太ったかどうかは別にしても、けっして軽くはない。それを片手で引き上げるなんて、とてもではないけれどムリである。
巨躯のフェリクスだったら出来るでしょうけれど。
が、不意に体が宙に浮いた。
「キャッ」
その浮遊感に驚きの叫び声を上げたときには、彼の前におさまって彼のキラキラ顔を見上げていた。
「もう大丈夫ですよ、アイ。行きましょう。本来、あなたがいる場所に」
謎めいたジョフロワの言葉は、わたしの頭と心に深く侵入してきた。
「アイッ、アイーッ!」
はるかうしろから飛んでくるフェリクスの叫び声とともに……。




