なんなの、あれ?
「アイ、です」
一瞬、「アイ・ジャックミノー」と旧姓で名乗りそうになった。そこで、慌てて「アイ」に止めた。
「ああ、いたのか?」
わたしの名は、初対面のわたしの夫フェリクスの不機嫌そうな問いにかき消された。
(はい? いま、『いたのか?』って言った?)
きき間違えてしまったのかしら?
「まさか、まだいたとはな。とっくの昔に帝都に戻ったのかと思っていた」
彼のごつい顔には、はっきりと不機嫌そうな表情が浮かんでいる。
「帝都に戻る理由がございませんので」
魅惑的な翡翠色の瞳など、どこかにふっ飛んでしまった。
「ああ、そうか。まぁ、いいだろう」
彼は、プイとよそを向いた。
まるでわたしには関心がないとでもいうように。
「あの、旦那様?」
「坊ちゃん、いくらなんでも……」
モルガンとマルスランが気を遣ってくれ、間に入ってくれようとした。
彼らにこんなことで気を遣わせてしまい、申し訳なさすぎる。
「さすがに疲れたな。風呂に入って腹ごしらえをし、眠りたい。話は、明日ゆっくりしよう」
「かしこまりました。旦那様、ご案内いたします」
モルガンは、わたしに視線を走らせてからフェリクスを屋敷内に導いた。
これが、夫とわたしの初対面である。
「あれは、いったいなんなのよ?」
「『あれ』ってなんてことを言うのよ、ロマーヌ」
「だって、そうでしょう? アイ様があまりにも気の毒すぎるわ」
ロマーヌとヴェロニクがわたしの部屋にやって来た。
部屋に入ってくるなり、ロマーヌは地団駄踏んで怒り始めた。
それをヴェロニクがたしなめたけれど、ロマーヌはますます怒っている。
「まぁ、そうよね。『あれ』呼ばわりはひどいけれど、たしかに旦那様のアイ様への態度はひどすぎるわ」
それどころか、ヴェロニクまでそんなことを言い始めた。
モルガンとマルスランは、フェリクスとわたしの関係に気がついている。
フェリクスやわたしが、わざわざ彼らに告げたわけではない。しかし、手紙はすべてモルガンやマルスランに宛てたものばかりだし、わたしはいっさい手紙を出さない。そういうことから、二人が気がつかないわけがない。
だけど、ロマーヌとヴェロニクは気がついていない。
とはいえ、二人は常日頃から「旦那様は、アイ様を構わなすぎます。いくら将軍だからといって、新婚なのに一度も会いに帰ってこないなんてありえません」なんて、話をしている。わたしのためを思って言ってくれているので、まさか「愛するつもりはないし、愛されるつもりもない」と宣言されているとはとても話せないでいる。
「二人とも、ごめんなさいね。どうやら、フェリクス様はこの結婚そのものに賛成じゃないようなの。親どうしが決めた結婚だから。いまは軍のことで精一杯らしいから、わたしという存在が重荷でしかないみたい」
軍のせいにしておいた。
とてもではないけれど、「ほんとうに愛する人がいる」と宣言されたとは言えない。
「なんですって? そんなのおかしいです」
「そうですよ。いくら親どうしが決めたことでも、アイ様のことをなにも知らない内から気に入らないとか、妻は必要ないとか、そういうのはただのワガママです。思いやりがなさすぎます」
せっかくの言い訳は、ロマーヌとヴェロニクの怒りを増しただけだった。
「アイ様は、ずっとこのラングラン侯爵家を支えてらっしゃるんですよ。そういうことも知らないのに違いないわ。あー、もうっ! 考えただけで腹が立つ。わたし、旦那様に直談判してきます」
「ロマーヌ、待ちなさい」
「止めないでよ、ヴェロニク」
扉のノブに手をかけたロマーヌをヴェロニクが止めた。
「だから、待ってよ。わたしも行くから」
なんてこと。いつも冷静沈着なヴェロニクまで直談判に行くというの?
「ちょちょちょ、ちょっと待って。二人とも、ちょっと待って。ほんとうにごめんなさい。それから、わたしのことを心配してくれてありがとう。フェリクス様には、わたしから話をするつもりなの。だから、いまはまだそっとしておいてくれないかしら」
おもわず、口からでてしまった。
まったくの嘘ではない。いつか話はしなければならないと考えている。
だけど、それがいつなのか? なにを話せばいいのか?
それらがまったくわからないだけ。
「アイ様がそうおっしゃるのでしたら……」
「ですが、アイ様。わたしたちは、アイ様の味方です。旦那様が理不尽なことをしたり言ったりしたら、わたしたちぜったいに許しません」
「ヴェロニク、それからロマーヌ。ほんとうにありがとう。大丈夫。フェリクス様は、いまは疲れていらっしゃるだけ。そして、戸惑っていらっしゃるの。わたしのことだって、話をすればどうにかなると思うから」
不承不承ながら、二人は引き取ってくれた。
フェリクスにどれだけ話をしようが、わたしのことを知ってもらおうが、事態が好転するとは思えない。
彼とわたしの関係が、ちゃんとした夫婦の関係に発展するとは到底思えない。




