そう、今でも灰
人事異動を言い渡された翌日、低レベルなボイコットのように、幼稚なデモのように、会社を休んだ。窓を見ると洗濯物越しに雨が降っている。「こんなもんさ、自分」と思って笑った。
起きてから上司が出社する時間まで適当にダラダラして部署に電話を入れた。「体調を崩してしまって……」2分間だけ神妙な声色を使ったらそれから後はもうデタラメだ。中学生の頃の怠惰な夏休みと一緒。ベッドでスマホみて眠くなって眠ったり、冷蔵庫をあけて「何もないこと」を確かめて袋麺を食べたり、また横になってスマホしたり、電気代が気になるからエアコンを付けたり消したり。はたまた、次から次へと思い浮かぶことをググったり。
薄暗い雨の日のアパート。湿気で決まらない髪型のような部屋。ブルーライトに照らされたリビングデッド。
私は心がすさんでいる時いつもする『大嫌いな人間のSNS監視』を実行した。以前、最後にチェックした日から今日までのそいつの投稿をざっと見た。そして「気持ち悪いなあ」と心の中でそうつぶやいた。
私は、これまでの人生、ばかすかと他人の悪口を言うことで、精神のバランスを保っていたように思う。友達と話していて、きらいな人の悪口を軽く叩いてみる。相手が「そうだよね」と共感してくれたらもう止まらない。溢れ出す、吐き出す。悪口、陰口。
当時の私はそれに対する罪悪感もなく、また悪口を言っているにもかかわらず、悪口を言っている自覚もなかった。ただの話題の一つのつもりで「昨日のテレビ」がねという調子で、ほとんど無意識に悪口を言っていた。「子供は残酷」という言葉があるが、そんな感じに近いかもしれない。
そんな私なだけに、将来が思いやられたが、悪口は人生の一時的なものだった。子供ゆえの未熟さからきたもので、年齢とともに次第に悪口を言わなくなった。無事成長して悪口を言わなくなったとさ。めでたしめでたし。
____いや違うか。成長したから、大人になったから、悪口を言わなくなったわけじゃない。自分の所属する場所が学校から次の学校、その次の学校から会社へと変わっていき、次第に悪口が言えない環境になっただけだ。「生産性」「笑顔」「ポジティブ」それらにそぐわないネガティヴを言ったら浮いてしまうから。悪口を言えば今度は自分が「かつての悪口の対象」になってしまうから。そんな気がしたから言わなくなっただけだ。…………なんだ私は、結局、自分のために、悪口を封印しただけじゃないか。ただの保身かよ。にしても、人生が進むにつれて「正義」の力がつよくなってきて生きづらいや……。悪口くらい言ったっていいじゃん。ばーか!
大嫌いな人のSNSで「やっぱり生理的に気持ちわる……」という確認作業の後、冷蔵庫にあるビールを飲んだ。「プシュ」と開けて「ぷはあ」とドラマのようにつぶやいてはみたが、味がしない。小麦粉の味。空虚な味。なんだかくさい。子供の頃にマズすぎて逆にテンションが上がり感動すら覚えたビール。いつかの夜に公園で友達と語り明かした際に飲んだものと同じと思えん。とにかくマズかった。けれど今日はもう酒を飲もうと決めたから。蓄えである安いウイスキーをシンクから出す。まだ昼だがどうにかなるほど飲んでしまおうと思った。気の進まない部署への人事異動の事実が、存外、私の思考回路を侵食していて、何をしていても気が滅入るから、この際どうにでもなってしまいたかった。「酔っ払いたい」よりもっと、もっと病的な願望。『自失願望』というやつに近い。酩酊して認知もままならない状態になってしまいたかった。この自宅アパートというゼロ地点にいながら、今とはまったく違う場所へ行きたかった。
私は自分のタガを外そうと試みる。今日はどれだけタガを外せるかの人体実験。ウイスキーを水や炭酸で割りながら飲みつづけた。飲みながら、音楽、ゲーム、お笑い、などを、雨の日の薄暗い部屋で、電気もつけずに、ブルーライトをいっぱいに浴びながら視聴した。本当に体調がすぐれなくてツイてない日はつまらない動画をぼんやり眺めているうちに一日が終わってしまうこともザラだけど、アルコールでリラックスしたおかげか、面白い検索を次から次へと思いつく。いろんな楽しい動画を視聴していった。
そんな中、動画サイトの「あなたへのおすすめ」にでてきた、ジェットコースターの動画を視聴した。世界でいちばん恐いという外国のジェットコースターの動画。一番前の座席にカメラを設置して撮影したもので、酔っているせいもあってか本当にコースターに乗っているような錯覚と、臨場感だった。見終えて、ふと画面の端っこを見ると、また「あなたへのおすすめ」で、そこには私の生まれ育った街の遊園地のジェットコースターがあった。小さく表示されたそれを押した。
私はそれを疑似体験する。あたかもそれに乗っていると思いこんでジェットコースターを楽しむ。ちいさな頃からよく行っていた遊園地の見慣れたコースター。一番前の座席。高所からみる私の町。後ろのカップルの会話とさけび声。身体が一瞬浮くかのようなあの感じ。横に何かぬくもりを感じる。誰だ?お父さん?お母さん?ああ、そうだ。昔、恋人とこのコースターに乗ったんだ。
過去の恋は美しい。みんなそう言うけど、記憶の捏造だ。思い出はたいてい実際より美しくなるから。たしかに好きだったけど、学生の恋。学生の恋。学生の……。
________何、酔っ払ってまで、自分を隠しているんだろう________
気がつくと朝から降っていた雨はもう止んでいた。アパートの三階の私の部屋には西陽が刺している(西陽しか射さないんだ、うちは)。ハイボールのコップ片手にベランダに出た。斜向かいのラブホテルをぼんやり眺めていると高校生らしき若いカップルが入り口で立ち止まっている。「どうしよう」「どうしようって行くしかないでしょ」とそんな声が聞こえてきそうな様子。やがて意を決して中に入って行った。けどすぐに二人して赤面顔で出てきた。どうやら店員に追い返されたらしい。「ふふふ」と思わず笑ってしまう。____あれはいつかの私たちだ。酩酊のなかで私の思考は素直になっている。あの頃のことをもっと思い出したい。そう思った。私は数年ぶりに以前やっていたSNSにログインを試みた。何年か前にすごく流行っていたSNS。私はその中で、非公開の日記に自分の内面を綴っていた。その多くは当時の恋人が忘れられないという内容だった。いわゆる黒歴史だけど、怖いもの見たさで見返したくなった。今の酩酊状態なら見るのが怖くなかった。
日記一覧
9月15日『せせせせ』 非公開
9月7日『半分の人生』 非公開
9月2日『新学期!』 公開
8月25日『、、、、』 非公開
8月17日『そう、今でも灰』 非公開
8月10日『あ!』 公開
『そう、今でも灰』
あれから一年経ったけど
あの日々のことばかり考える
自室のブラインドには埃が積もっている
あれはきっとあの日死んでしまった私の灰だ
そう、今でも灰
____と書いてあった。これはようするに失恋してしばらく経ったのに元恋人が忘れられないということ、当時、振られてしまってズタボロにくたばった日々の中、私が書いた、ポエム、手記。振られてからしばらく、頭の中で思いを巡らすことの殆どは、その元恋人のことだった。辛かったな。
けれど、あれからしばらく経って、いいことかわるいことかわからないが、今の私にはもう、この時の感情があんまり思い出せないんだ。当時あれだけショックを受けて「運命だった。もう恋はしない。最後の恋人だ」と深く絶望したはずなのに。結局私は普通の人間で、しばらくしたらふつうに恋をした。それはけっこう楽しい恋をした。それは良いこと。喜ばしいこと。きっと素晴らしいこと。
問題は何なのか?「あの頃の私が救われないということ」だ。
失恋してどうしようもない暗黒の毎日を過ごすあの頃の私が、記憶の中で今の私を睨むのだ。のうのうと会社で働いていて、あの日々のことを忘れて、何もなかったかのように感受性も丸くなってしまった今の私を。そしてその睨みがまっすぐに私に刺さり痛いのだ。正直私は、あの当時の私にたいして優しさを持てそうにない。目の前にいても助けてやろうと思えない。その過剰なセンチメンタリズムにちょっと引いてしまう。どうしてひとつの恋愛でそれほどまでに感傷的になるのか、わからない。
これは過去の私の問題ではなく、現在の私の問題だ。失恋でくたばった私は正常で、今の私が薄情すぎるのだ。当時のどうしようもない気持ちで『そう、今でも灰』をしたためたあの頃の自分を「思春期ゆえの繊細さと自意識過剰」で片付けて、まるで人ごとのように同情の眼差しを向けているのだから。私は最低だな。あの時の切々とした私に対して、私自身が優しくできなかったら、あの時の私は本当にひとりぼっちになって孤立して、このままじゃ過去の中で死んでしまう。それじゃいけない、絶対に。
私は衝動的に「だっ」と押入れに駆け寄った。厚手の布の袋を取って、カーペットの上に、洪水のように過去の写真やらアルバムをぶちまけた。その中の、あの人との手紙や写真が入ったアルバムを、しらふでは見ることをしないアルバムを、意を決して開いた。
付き合いたての頃の写真。
____世界でいちばん人工的な距離感。下校時。先輩の目。先生の見回り。かっこいい人/かわいい人。君は笑うと目がなくなってね。私のことをかっこいい/かわいいだなんて、神様はイカれた魔法をこの人にかけてくれたね____
修学旅行の写真。
____修学旅行の後日談。撮った写真の見せ合い。旅館の廊下ですれ違って5分だけ話したこと。酔っ払いの先生とすれ違ったこと。友達が告ったこと、フラれたこと。ごはんを一緒に食べるようになった。キスもした____
お祭りの写真。
____お祭りの日。君の家。遠くの方で聞こえる祭囃子。下の階にいるおかあさん。君____
遊園地の写真。
____待ちくだびれたとっておきの日。行きの道中、木々から燦燦と刺していた陽。実は発熱して参加している私_____
……なんかもう、細部まで浮かんでくるや。
____真夏のコースターで気持ち悪くなってしまって芝生で横になったっけ。そうして見上げたら君がいた。光のなか、そんな情けない自分を見て、愛おしそうに微笑んでいるから。もう死んでもいいとおもった。この日々はきっとずっとは続かないけれど、永遠になるんだとおもった。けどならなかった。世界一幸せだった日々も、世界一つらかった日々も、生活に追われているうちに、記憶の底に沈んでしまって……。
全部思い出した。ぐわんぐわん涙出てくる。ほんとだいすきだった。頭がおかしくなるぐらい好きだった。君の声も君の輪郭も、自分の恋人なのが不思議でたまらんほど、うつくしかった。心にそれまで存在しなかった部屋ができて、そこで体育座りしながら二人でずっとおしゃべりした。毎日毎日飽きもせず二人してパジャマ姿でプラトニックにいつまでも寄り添っていた。けれどいつからか君はいなくなって、そのうち部屋も消失して、やがてその部屋が存在したという記憶も、君のことさえも……もう何もかも忘れていた。
_____私たちは、本当にいろんなことを忘れてしまうな。大好きだったのにだんだん感情の再現ができなくなっていく。修学旅行で起きたささいな事件、おばあちゃんがふるえた文字で書いてくれた年賀状、幼い頃に猫と本気でいがみ合ってお母さんの一番をとりあった、あいつと過ごした日々。大人になる前に死にたかったこと/本当は死にたくなかったこと。そういう、日常のどうでもいいけどいちばん大事なこと、すべてすべて思い出せなくなっていくから(何が哀しいのかもわからんけど)さみしかった。でも今こうして思い出せて(きっとまた忘れてしまうけど)うれしい________
写真を一通り見たあと私はそのまま眠りについた。そして夢をみた。夢の中で私は17歳だった。真夏だった。神社へと通じる森林の中の長い階段をずっとずっと登っていた。
お盆の親戚の集まり。いたたまれないから、抜け出してきた。セミも太陽もお母さんも親戚もみんな滅茶苦茶にうるさいな。汗も蚊も、うっとうしい。夏なんて大嫌いだ。夏とはしばらく距離を置きたい。けど生きている限りまた会うハメになるんだ。うざい酔っ払いの親戚とともにまた夏はやって来る。あと何回だ?10回?20回?わかんないけど。
そんなふうに頭の中で愚痴をこぼし、苔まみれの階段を登った。鳥居が見えて、ホッとして足を踏み入れると、境内の空気はしんとしていた。さっきまでのまとわりつく夏の不快感が嘘のように、そこはただひたすら綺麗だった。塵も、空気も、大樹も、小鳥も、入道雲も、蝉の声も、何もかも、境内の中は外とはちがう速度でスローモーションのように、宝石の粒のように、散らばっていた。不思議でなつかしい気持ちがする。大きな風が吹いて、少し遅れて木々が揺れた。私は石畳を踏みしめてお賽銭箱へ歩いた。ポケットに入っている全部のお金、10円玉3枚と、1円玉2枚を入れた。ガランガランガラン。
そしてさあ帰るかと後ろを振り返ると、さっきまで誰もいなかったはずの、お賽銭箱と階段の中間地点に、大人がいた。さっきの親戚の集まりにいた、私によく似た顔の若い人だ(誰だっけ?)息を切らして、神妙な顔して私に向かって何か言いたそうにしている。お酒クサい。ほらみろ。さっき言った通りだ。やっぱり夏はうざい親戚を引き連れてやって来る。
その人の「はあはあ」という息づかいが、蝉の声とともに境内に響いていた。私はその人に対して軽蔑の眼差しを向けた。ひどく冷たい目を作って刺すようにその人を睨んだ。それを受けて、その人は眉を寄せて困ったような顔したが、しかし、息を吞んで口を開いた。
「君はただの高校生にみえるけど……。大人の私では想像できない辛い日々を生きているんだ。けど、大丈夫だから。うまく言えないけど……大丈夫だから。どうせ何もかも過ぎていくから。今の日々をやり過ごして生きて」
「____今日はこんな状態でごめんね。今度はしらふで会いに来るから。また同じこと言いにやってくるから」
私の言い分も聞かずに消えてしまった。うざい親戚。あたりを見回すと、さっきまでのしんとした美しさはもう消えてしまっていて、また不快な暑さで、蝉がけたたましく鳴いていた。額の汗をぬぐった。ずっと登ってきた階段を今から降りるんだ。さっきよりかマシだ。眼下には、愛しているのにうざったい私の町がどうしようもなく広がっていた。