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セピア9 想いあふれて

作者: 山本哲也

 一年前―。

 夕日の差し込む教室で、一人、制服姿の亮太は、大量のスプーンやフォークを片づけていた。

 遠く、校庭の方からはフォークダンスのBGMとおぼしき呑気な音楽が微かに聞こえてきていて、それが、面倒な後かたづけを、それもたった一人でやっている亮太の立場を、より一層虚しく感じさせる。

(…ったく…何で一人でこんな事しなくちゃなんないんだよ…)

 今頃はどこかで楽しく祭りの余韻にでも浸っているであろう、クラスメイト達に心の中で悪態をつきながら、それでも亮太はまだ水気の取れていない大量のスプーンやフォーク、皿やティーカップをタオルでぬぐい、ケースに詰めていく。頼みの綱の典子もテニス部の方で忙しいらしく、午後はずっと姿を見せなかった。今日中に―それも後二時間以内に―レンタル屋に返しに行かなければもう一日分のレンタル代がかかってしまう。

(…そもそも何で俺はこんな事やってるんだ…?)

 不意に、虚しさが亮太の全身を襲い、亮太は手を止めて溜め息と共に夕日を見上げる。オレンジ色をした太陽が投げかける光は、それでなくとも沈みがちな亮太の気分をさらに沈ませるのには十分だった。

 全ての始まりは、文化祭のだしもので『喫茶店』が決まった事だ。

 そして、亮太がファミレスでバイトしている事が話題になり、それがそのまま『じゃあ亮太に任せておけばいい』になり、そのままズルズルと…。

 藤ヶ谷高校では原則的にバイトは禁止されているため、(隠れてやっている者はともかくとして)バイトをしている者は珍しいのだ。亮太の場合は父親の転勤に母親も付いていってしまい一人暮らしになっており、またバイト先が亮太の叔父の店である事などから特別に許可をもらってやっているのだが、そのバイト先も学校からそう遠くないので時折からかい半分に店を訪れる者もいるくらい、よく知られていた。

 おそらく、『喫茶店』を提案した男子生徒には最初からそういう流れにする意図があったのだろう。

 何しろ、提案した本人は『喫茶店』を提案した直後、『武内君はファミレスでバイトをしているのでそういう事は全て任せて大丈夫だと思います』と言ったのだから。

 そして、提案した男子生徒というのは真吾だった。

 もっとも、一番の問題は亮太自身がそれを断り切れずに引き受けてしまった事なのだが。

(真吾の奴、結局自分は雲隠れしやがって…)

 文化祭の間中、持ち場を離れられなかった亮太だが、噂によると真吾は他校の女子生徒と一緒にいる所をあちこちで目撃されたという。

 未だ誰にも恋愛感情を抱いたことのない亮太にはそれ自体はあまりピンと来ない事だったが(もちろん、真吾ばかりがモテモテなのは少々面白くはなかったが)、自分ばかりがやっかい事を押しつけられ、真吾は楽しくデート、というのは非常に腹立たしい。

(しっかし、あいつもいい加減疲れないのかねぇ)

 亮太は真吾とは中学二年の時からの付き合いだ。それ以来、何度も目の前で見せられた真吾が女の子達と仲良くなる時の様子を半ば呆れて、半ば感心しながら思い出す。冗談を巧みに織り交ぜながら女の子達の中に入っていく真吾の話術は、確かに大したものだと思う。だが、亮太はそれを習得したいとは思わなかった。

 おそらく、亮太が同じ事をやっても上手くいかないだろうし、第一全然楽しくない。時々真吾のおこぼれで(というより、二人組の女の子の一方を押しつけられて)女の子と二人で暫く過ごす事もあるのだが、それは亮太にとっては苦行でしかなかった。

 気疲れするし、時にはおごったりもする羽目になるし。

 別に女の子に興味がないわけではないが、そんな苦行をするくらいだったら家でゲームでもしているか、男友達とつるんでいた方がよっぽど楽しいと感じてしまうのだ。

 そんな自分をガキだとも思うが、それはそれで気楽で楽しいものでもあった。

(ま、俺にゃ当分先かねぇ)

 そう思いながら再び作業を開始する亮太。もたもたしていると本当にレンタル屋がしまってしまい、一日分余計に払わなくてはならなくなってしまう。

 それから暫くして、ようやくミカン箱ぐらいの大きさのケースに二箱分の食器類をしまい終えた亮太は、片手に一つずつ、ケースを持つ。ケースには取っ手がついていて、蓋さえキチンと閉めていればアタッシュケースの様に持てる仕組みだ。

 レンタル屋までは自転車で二十分程。持ってくる時は亮太と、もう一人別の自転車通学の生徒に手伝ってもらってケースを自転車の荷台にくくりつけて自転車を押して運んだのだが、今回は一人で行く羽目になりそうだ。

(くそーっ、真吾めーっ!)

 いよいよもって気分が沈んでしまいそうな道行きの事を考えて、亮太は心の中で悪態をつき、ケースを持ち上げる。

 と。

 ガッシャーン!!

 人を呪わば穴二つ、という事でもあるまいが、派手な音と共に片方のケースのロックが外れ、中身が床にぶちまけられる。

「うっわーっ!!」

 亮太は慌ててぶちまけられた中身を拾い集める。ぶちまけてしまった皿が奇跡的に割れなかったのが、せめてもの幸いだった。

(くそーっ! くそーっ! 何で俺ばっかりこんな目に…)

 泣きたい気分で皿や、スプーンなどを集めていく亮太。

「はい、これ」

 不意に、鈴を振る様な声が聞こえ、亮太の目の前に皿が差し出される。驚いた亮太が顔を上げると、目の前に見知らぬ女の子の朗らかな笑顔があった。

 横の部分を三つ編みにした、腰にまで届く様な長いストレートの髪。

 大きな、キラキラとした瞳。

 濡れた様に艶やかな、ピンクの唇。

 そして、それらが調和して創り出す、朗らかな笑顔。

 不意に亮太の視界に飛び込んできたそれは、フラッシュの光を直に見た時の様に、一瞬で亮太の網膜に焼き付いていた。

 どこかで見たことのあるような顔なのだが、どこだったか思い出せない。同じクラスの生徒ではないのは確かだったし、一体どこで見た顔なのだろうと亮太は必死に自分の記憶を探る。

「…あ、あの…あたしの顔に、何かついてます?」

 ややあって、その女の子は頬を赤く染めて目を伏せる。そう言われて初めて、亮太は自分がその女の子の顔をじっと見つめていた事に気がついた。

「あ、い、いや…その…あ、ありがとう」

 亮太は俯いた顔を真っ赤にしてモゴモゴと答えると、彼女から皿を受け取ってケースにしまう。

 二人がかりなら、散らばっていた物もすぐに片づいてしまった。

 こういう言い回しは本来おかしいのかも知れないが、亮太の心情から言えば、『片づける事が出来た』ではなく『片づいてしまった』なのだ。

「あ、ありがとう」

 しっかりとケースをロックした事を確認した亮太は、立ち上がってもう一度お礼を言う。彼女の身長は典子よりほんの少し低いくらいだろうか。少し亮太の顔を見上げる様にするその仕草が、またかわいかった。

「どういたしまして。…でも、一人で大丈夫ですか?」

 両手に大型のケースをぶら下げた亮太の姿を、彼女は心配そうに見つめる。

「い、いや、これ実は見た目程重くないんで。ほ、ホントにどうもありがとう!!」

 亮太は引きつった顔でそう答えると、そそくさとその場を後にする。

 心臓がドキドキいっていた。顔の辺りがかーっと熱くなっていて、血が上っているのも分かる。きっと、真っ赤な顔をしている事だろう。そんな自分に気付かれるのが恥ずかしくてそうしてしまったのだが、それを後悔しているのも事実だった。

 オレンジ色の夕日のせいで彼女がそれに気付かなければいいと、亮太は思っていた。


「…はぁ…」

 出来上がった弁当を見て、パジャマ姿の典子はため息をついていた。

 時刻は午前六時を少し回ったあたり。外では雀のさえずる声が聞こえている。台所の窓から差し込んでくる強い日差しが、今日も一日暑くなりそうだと告げていた。

(何やってるんだろ、あたし…)

 窓の外から再び手元の弁当箱に目を落とす。そこには、いつも通りの亮太用の弁当がある。だが…。

 果たしてこれは渡せるのだろうか。

 渡してもいい物なのだろうか。

 典子はいつぞやの花火大会の後での亮太との会話を思い出す。

『…あ、そうそう、め、飯なんだけどさ、忙しかったら、無理に作りに来なくても良いよ。俺、バイト先で食べる事も出来るし…』

 何を思ったのか、言い辛そうにしながら突然そう切り出した亮太。一体、あの夏祭りの夜に何があったのだろうか。美雪と、亮太が二人きりで行動している間に…。

 胸が、きゅっと痛む。

(ダメ…そんなんじゃ友達の資格ない…)

 典子はぶんぶんと首を振って頭の中にわき上がる想像を打ち消そうとする。

 亮太と浴衣姿の美雪が、夜の公園で一体何をしていたのだろうとつい想像してしまう自分が、なんだか覗きをしているような気がしてたまらなく嫌だった。

(ごめんね、美雪…ごめん、亮…)

「典子? どうしたの?」

 不意に、母親が台所に入ってきて、典子のもの思いを破る。典子は反射的に顔を上げると、ぎこちなく微笑んだ。

「え、ううん、何でも。ちょっと眠かっただけ」

 典子は咄嗟にあくびをして目に溜まっていた涙を誤魔化す。

「で、今日のお弁当は?」

 そう言いながら母親は弁当箱の中身を覗き込む。

「ふむふむ、定番のタコウインナーにご飯はチキンライス? それに…」

「もーっ! いちいち見なくても良いでしょ!?」

 気恥ずかしくなって典子は弁当箱を取り上げると、布で包んでそそくさと台所を後にする。亮太の話をされるのが辛かった。突っ込まれるとボロが出かねないからだ。それに、あくびで誤魔化したとはいえ、今にも瞳からこぼれ落ちそうになるほど涙がたまるハズもない。

 そして何より、もし涙が一滴でもこぼれたら、そのまま泣き出してしまいそうだったのだ。

(ごめんね、亮太…)

 部屋に戻った典子は頽れるようにベッドに倒れ込み、枕で声を押し殺してすすり泣く。

 ずっと、亮太の側にいたいと思っていた。

 いられるものだと、半ば思っていた。

 亮太が他の誰かと付き合うなんて、想像した事もなかった。

 だから、亮太から美雪への想いを聞かされた時には心底驚いた。

 だけど、亮太がそう望むのなら、それで良いと思っていた。

 亮太の想いが通じたらいいと、思おうとした。

 だが…。

 未だに、そうできない自分がいる。そればかりか、亮太への想いは募るばかりだ。

 それは、亮太、そして美雪に対する裏切りであるように、典子には思えるのだった。


 夏が、終わろうとしている。

 授業を続ける先生の声をBGMに、ぼんやりと遠くの空を眺めながら亮太は思った。

 鮮やかなコントラストをなしていた空の青さと雲の白さが次第に色褪せていき、やがて、秋から冬へと季節が移ろっていく。

 一日一日では何も変わらないように見えても、毎日、何かが少しずつ変わっているのだ。

 だが、大抵の人はそれを見落としている。人が、移りゆく季節の中で暮らしているという事を。

 そして、ある朝、風の冷たさに驚き、急に秋が、そして冬が来たように思うのだ。

(ちょうど、あの時の俺のように)

 そこで、亮太の思いは一ヶ月前のあの夜に飛ぶ。

 あの、夏祭りの夜に。

 木陰で寄り添う真吾と典子。その横顔を花火が照らし、潤んだ典子の瞳がキラキラと輝く。

 ドキリ、と亮太の胸が痛む。

 綺麗だ、と亮太は思った。

 心の底から。一瞬自分が今どういう状況にいるのかすら忘れていた程だ。

 そして、その典子に寄り添う真吾を見て、お似合いだと思った。

 自分なんかよりずっと。

 キーンコーンカーンコーン…

 チャイムが、亮太のもの思いを破った。

 学級委員の安藤の号令で亮太は反射的に立ち上がり、形ばかりのお辞儀をする。そして、そのまま教室を出て、そそくさと学食へと向かう。

 新学期初めての授業の日。それは、亮太にとっては典子との新しい関係の始まりの日でもあった。

 あの夜、亮太の部屋の合い鍵を返して以来、典子は亮太の部屋に来て食事を作らなくなっていた。そして、これからは昼食も学食なり、購買なりで済まさねばならない。亮太は、購買ではなく学食へと向かう。学食なら、教室に居なくても済むからだ。

 正直言って、これから典子とどういう風に付き合っていけばいいのか、亮太には分からなかった。だから、なるべく教室に、典子と一緒の場所に、居なくても済むようにしたかったのだ。


「あ…」

 そそくさと教室を出ていく亮太の背中に声をかけそびれ、典子は言葉を飲み込んだ。

 そして、机の脇にかけてある弁当箱の入った袋に視線を落とす。

(…やっぱり…迷惑だよね…)

 あの夏祭りの夜、亮太と美雪の間に何かあったのだとしたら、典子がしゃしゃり出てきて『はいお弁当』などとやられては亮太にとって迷惑だろう。だから、亮太はそそくさと逃げるように教室から出ていったのだろう。

 典子には亮太の行動は明白な『拒否』だと感じられた。

 胸が、締め付けられるように痛む。心のどこかにぽっかりと穴が開いてしまったかのような、そんな喪失感が押し寄せてくる。

 そんなの、分かっていたはずなのに。

 あの日から、覚悟していたはずなのに…。

 亮太から美雪への想いを打ち明けられた(?)あの日。その日以来、いつかこんな日が来る事を、覚悟していたつもりだった。耐えられると、自分に言い聞かせていた。

 だが実際は、ツンと痛みだす鼻と、こみ上げてきそうになる涙を堪えるだけでも一苦労だった。

(…でも…これどうしようかな…)

 少し経ち、ようやく気分のおさまってきた典子は別の方向に思考を向ける。このまま持って帰ったら母親に理由を聞かれるだろうし、かといって捨ててしまうのもどうかと思う。女友達に分ければどうして亮太と食べないのか聞かれるのは必至だろうし、美雪に渡すのはそれこそイヤミだ。半ば途方に暮れ、ぼんやりと弁当箱の入った袋を見つめる典子の側を、今まで眠り込んでいたのか、真吾が髪を掻き上げながら通り過ぎていく。

「ね、真吾」

 気がつくと典子は真吾の制服のベルトを掴んでいた。

「んぁ?」

 半ば寝ぼけているような声をあげながら、真吾が振り返る。

「あの…これなんだけどさ、良かったら食べてくれない?」

 そう言って典子は弁当箱を取り出す。

「…サンキュ。じゃどこかで一緒に食べるか?」

 その弁当箱と典子の様子を見つめ、ちょっと何かを考える風だった真吾はややあってそう答える。

 典子は少し辺りを見回した後、頷く。真吾の気遣いが、嬉しかった。


 久しぶりに来る学食は、亮太の予想以上に混んでいた。暫く待たされた後、どうにか日替わりランチを手にした亮太は一人席に着き、もそもそと食べ始める。

(…しっかし、これがカツ定食かよ…)

 湿気たハムカツをまじまじと見つめ、亮太は内心溜め息をつく。油が悪くなっているのか油臭いし、色は悪いし、しかもハムは何か得体の知れない原料から合成された物ではないかと思うくらい毒々しい色と、不気味な食感をしている。学食はそれなりに安い事は安かったのだが、その分質はひどいものだった。まぁ、学食も時折利用していたのでそれを知らないわけではなかったが、最近までは典子の作ってくれる弁当を食べる事が多かったので余計にマズく感じてしまうのだろう。空腹なのに食べる気があまりしないというのはかなり久しぶりの経験だった。

「何だよ武内、今日は弁当なしか?」

 そう声をかけられて顔を上げると、同じ日替わりランチを持った高瀬が怪訝な顔で見下ろしている。

「ああ、まあね」

 亮太は曖昧に誤魔化した。別に毎日典子の弁当だったわけではないのだか、夏休み前の頃にはほぼ毎日のように典子の弁当を食べていたのでその印象が強いのだろう。

「ふうん。喧嘩でもしたか?」

 そう言って高瀬はニヤリと笑う。

「べ、別に」

「ふーん。お前はうらやましいよなー、加藤さんなんていう、美人で、料理も上手なしかも幼なじみの恋人が居てよー」

 高瀬はそう言いながらハムカツをかじり、顔をしかめる。

「うぇ…何だこりゃ…」

「だから、恋人でも何でもないってば」

 半ばうんざりしてそう答え、亮太は残っているご飯をかき込み、立ち上がる。高校一年の頃から言われ続けていた事だったので、もうこの手のからかいには慣れっこではあったが、今はこれまでとは違う、痛みのようなものを感じていて、それがたまらなくイヤだったのだ。

 それに、高校一年の頃には真吾がいて、二人に対するからかいの度合いが強くなってくると必ずかばってくれていた。

 だが、今はその真吾も…。

 そんな事を思い出すのもイヤだった。


 一方その頃、典子達は人気のない中庭で弁当を食べていた。食べている間じゅう、真吾はぽつりぽつりと他愛のない事を話していたが、どうして亮太と弁当を食べないのかについては一切触れなかった。

「美味かった。サンキュ」

 食べ終わっても真吾はそう言うだけだ。それが真吾流の気の使い方なのは分かっていたのだが、話したくもあり、話したくもなしという複雑な気分の典子にとって、亮太との事を話しかけるきっかけが作れずに困ってもいた。

 典子がそうやって暫く俯いたままもじもじしていると、

「…何か言いたそうな顔してるけど、こっちから聞いた方が良い?」

 不意に、真吾がそう切り出す。自分の心の中を見透かされたようで驚いた典子が顔を上げると、真吾はわずかに顔を向けて、典子の方を見ていた。

「…亮太がね…もう、お弁当作らなくて良いって…」

 俯いてそう切り出した典子だったが、それ以上言葉を続けると泣き出してしまいそうで、言葉を紡ぎ出せなかった。

 ぐにゃりと、視界が滲む。

 真吾は、ただ黙って見つめたまま、何も言わない。もちろん、典子自身も真吾が何か言ってくれる事を期待しているわけではなかった。ただ、自分一人の胸にとどめる事が出来なかっただけなのだ。

「…余計な世話だとは思うけど、言わないでいるより、言ってしまった方が…」

「止めて」

 暫くの沈黙の後、そう言いかけた真吾を典子が制止する。

「そんな事言われたら、気持ちが…溢れちゃう…」

 俯いた典子は自分の身体をぎゅっと抱きしめながら、そう呟いた。

 そうすれば、溢れそうな心を押しとどめる事が出来るとでもいう様に。

「…悪い」

 そう謝る真吾に、典子は俯いたまま首を振る。

 二人は暫く無言でそうしていた。

「…ゴメンね、あたしの方から話したのに」

 ややあって、気分が落ち着いたのか、典子がポツリと呟く。真吾はポンポン、と典子の肩を軽く叩くと、

「そろそろ行こうぜ。昼休み、もう終わるだろ」

 と返す。典子は黙って頷き、二人は教室に戻った。


 その後も亮太は学食や購買に行き、典子は真吾と弁当を食べ、と、二人は次第に離れていった。一部では『亮太振られた説』がまことしやかに語られていたようだが、内容が内容だけに本人達に確認しづらかったのだろう。それが二人の前で話題に上ることはなかった。

 ただ、興味津々な様子で二人の様子に注目している視線に出会う度、亮太は『いっそ聞いてくれた方がいい』と思っていた。そうすれば、自分たちが今まで付き合っていたわけではないときっぱりと言ってやれるのだから。


「ね、あの二人どうしちゃったのかな? 綾瀬さん、何か聞いてない?」

 西村に不意にそう声を掛けられ、美雪は慌てて意識を現実へと戻す。

「え? な、何?」

「ほら、あの二人」

 西村が視線で指し示す先には、亮太と典子がいる。

「最近、加藤さんって武内君にお弁当作ってきてないでしょ? 考えてみると夏休み後からなんだよね」

 そう言ってから、西村は悪戯っぽく微笑んで続ける。

「さらにさらに、加藤さん、最近は真吾君にお弁当作ってるみたいだし。ね、綾瀬さんって加藤さんと仲良いんだよね? 加藤さんから何か聞いてない?」

「う、ううん、何も…」

 興味津々な西村の視線を真正面から受け、美雪は俯き加減で答える。

「ちぇっ、そっか。ま、武内君よりは真吾君の方がかっこいいもんねー。でも、あの三人って確か中学からの同級生だから…一人の少女を巡る親友同士の愛憎劇…なんちって…」

 何やら女性週刊誌の見出しの様な事を呟きつつ、亮太達を好奇の目で見つめている西村を見て、美雪は微かに溜め息をつく。

(…ホントに、何かあったのかしら…)

 美雪は、あの夏祭りの夜の事を思い返しながら心の中で呟く。

 確かに、典子と真吾は抱き合っていた。その様子に、失礼な事とは知りつつも、暫く見つめてしまった程だ。あんな雰囲気は、何でもない二人に醸し出せるものでもないだろう。

 しかし、亮太がその事を知って、何故典子達との関係が気まずくなるのだろうか。それは、亮太の気持ちが…?

(そんな事考えたってしょうがないじゃない。止め止め)

 際限なく暴走し始めようとする自分の思考を、美雪は無理矢理断ち切った。


 そうこうしているうちに、中間テストの時期がやって来ていた。

 亮太もこの時ばかりは一応勉強しているフリぐらいはする。今日も自室で教科書のページを気休め程度に眺めてはいた。

「ふー」

 溜め息と共に亮太は教科書をぱたんと閉じ、絨毯に寝転がる。と、何かが頭に当たった。

「いてっ!」

 顔をしかめて起きあがった亮太が見てみると、数日前に食べたコンビニ弁当の空き容器の入ったコンビニの袋だった。そのゴミをどかしながら改めて辺りを見回してみると、今や台所には洗い物が堆く積み上げられ悪臭を放ち、埃にまみれた洗濯物があちこちに散らばり、ゴミがゴミ箱からあふれかえり、小バエが大発生しているという荒れ様だ。典子が定期的に来ていた頃の、片付いていた面影は最早皆無だった。

 典子が来なくなってから一ヶ月ちょっとしか経っていないのにこの荒れようとは、さすがに自分自身でもあまりのひどさに呆れてしまう。

(…試験終わったら少し片づけるか…)

 そう思いながら、亮太は典子と一緒にこの部屋で勉強した、一学期の頃をふと思い出す。

 あの時、二人して眠り込んでしまい、結局典子はこの部屋に泊まることになった。亮太は机に突っ伏して寝ていた典子をベットに寝かせる際の、寝ぼけた典子の幸せそうな顔と、ちらりと見えた白い項と、甘い髪の香りを思い出す。

 そして、そんな典子の無防備な笑顔と様子に、自分が妙にドキドキした事も。

(確か、あの後可奈ちゃんにチケット買わされて…)

 不意に、亮太の脳裏を何かがよぎる。だがそれはしっかりと捉えようとする亮太の意識の手をするりとくぐり抜けてしまい、再び記憶の奥深くに潜っていってしまう。

 結局、それが何であったのか、亮太には分からなかった。


 そして、赤点すれすれのすさまじい超低空飛行という結果で中間テストも過ぎ、文化祭が近づいてきていた。藤ヶ谷高等学校では三年生になると基本的に文化祭には参加しないので、これが高校生活では最後の文化祭となる。そのためか女子については一丸となって文化祭に取り組むクラスが多く、亮太達の二年C組も例外ではなかった。

 しかし、男子については様々で、女子に追従して盛り上がるクラスもあれば、我関せずを決め込むクラスもある。C組はどちらかと言えば後者の方だった。

 C組では先程から学級委員の安藤と坂本女史を議長として、HRが進められている。

 今回のHRでは文化祭で何をやるかを決める事になっていて、活発な議論が交わされていた。もっとも、活発なのは女子の方ばかりで、大半の男子は(そしてもちろん亮太も)例によって『我関せず』を決め込んでいたが。

「それだけやったらどこにでもあるやん。やっぱこう、なんかガツーンとパンチ効かしたらへんと」

「ちゃうちゃう…」

 漫画雑誌のページを繰る亮太の耳に、断片的に西村の声が聞こえて来ている。その声を意識の片隅にとらえながら、亮太はほっと安堵する。

 あれだけ活発な議論がされていれば、去年の文化祭の様な悪夢が繰り返される事はないだろう。何より、西村がいるのなら喫茶店などと言う大人しいモノにはならないハズだ。関西風お好み焼きとか、たこ焼きとか、ネギ焼きとか…とにかくその辺になるだろうと亮太はアタリをつけた。そして、亮太にとっては自分が関わらなければ別に何でも良かったのだ。

 人、それを希望的観測という。


 暫く亮太が漫画の内容に没頭していると、不意に辺りがドッと沸く。

 キョロキョロと周りを見回してみると、みんな口々に何か囁き合っている。そして、黒板には『浪漫喫茶』と言う文字が。亮太は言い知れぬ不安に襲われ、思わず身を引いた。

「せや、武内はん、ファミレスでバイトしてるんやったろ?」

 いつの間にか教壇の所に立って、坂本女史と共に議長をやっている西村が亮太の方を見て尋ねてくる。

「い、いや、その…」

 このままでは去年の悪夢の再現だ、と、どうにかして言い逃れようと思うのだが、なかなか言葉が出てこない。

「確か、チーフみたいなことやってるんじゃなかったっけ」

 間の悪いことに、西村の隣にいた安藤が言う。安藤は学校帰りに一度寄った事があるのだ。

(この裏切り者め〜)

 亮太が安藤の方を睨み付けるのと、安藤の側で黒板に板書していた坂本女史が顔を上げるのが同時だった。

「学校帰りの寄り道は禁止だったと思うけど?」

 女史がメタルフレームの眼鏡の奥から冷たい視線で安藤を睨み付ける。

「あ、いや、も、もちろん、学校が休みの時で…」

「そうだっけ? 確か、平日で制服姿だったけど…」

 ここぞとばかりに亮太は仕返しをする。その言葉を聞いて女史の視線の冷たさが一層増していた。

「え? い、いや、俺、制服が好きで日曜でも制服を…」

「ちょっとお話があります」

 そう言うと、女史は安藤の耳を掴んで廊下に引きずっていく。

「た、武内〜っ! この裏切り者〜っ!!」

(やりすぎたかな…)

 だんだん小さくなっていく安藤の悲鳴を聞きながら、亮太は少し後悔した。相手が相手だけに、シャレでは済みそうにない。

「さて、武内ハン?」

 そう言われて顔を上げた亮太のすぐ脇に、ニコニコと上機嫌の西村の笑顔があった。

「な、何!?」

 その笑顔に言いしれぬ恐怖を感じ、亮太は咄嗟に漫画雑誌を片づける。

「こっちの話やケド、かまへんよなぁ? 接客の方任せて」

「い、いや、俺…」

 このままでは悪夢再び、だ。何としても抜け出さなくては。

 そう決意した亮太がどう断ろうかと思案しているところに、意外な西村の答えが返ってくる。

「ま、イヤならエエケド」

「そ、そう? 悪いね…」

 ホッとしてそう言いかける亮太に西村が続けた。

「ところで、武内ハンに接客の方の指導してもらうって言うの、坂本ハンのアイディアやったんやケド…ま、しゃーないわな。坂本ハンには別の人考えてもろて…」

 西村はそう言いながら廊下に出ていこうとする。

「わーっ! 待った、やるよ、やれば良いんだろ!」

「いや、無理にとは言わへんで。そないやけくそで引き受けられてもやる気が出ないやろ? さーて、坂本ハン…」

 半ばやけくそで答えた亮太だったが、西村はそう答えて廊下に出て行こうとする。亮太の生殺与奪権は、完全に西村に握られていた。

「よ、喜んでやらせてもらいますっ!!」

「そう? ムリにとは言わへんけど? 武内ハンも色々忙しいやろしなあ…」

 西村は意地悪な笑顔を浮かべて聞き返す。

「やらせてくださいっ!!」

 心で泣きながら、引きつった笑顔で亮太は答えた。

「ほな、決まりやな。恨みっこなしやで?」

 無言で頷き、溜め息をつく亮太。

 その時、ドアが開いて坂本女史が戻ってきた。女史はそのままぴしゃりとドアを閉め、何事もなかったかのように続ける。

「で? どうなったの?」

「ばっちりや。武内ハン、喜んでOK出したで」

 女史の視線が自分に向けられたので、身の危険を感じた亮太は引きつった笑顔で激しく頷いてみせる。

 いつまで経っても安藤が帰ってくる様子がないのだ。

「そう。じゃ、そっちの方はいいとして、他には?」

「料理の方や。ま、こっちも候補は決まってるんやけど」

 手帳をのぞき込みながら西村が答えた。

「加藤さん?」

 女史が尋ねる。

「ご名答や。加藤ハン!」

 そう言って西村が典子を呼ぶ。そしてそのまま典子を加えた三人での話し合いが始まった。西村に押されてさすがの典子も旗色が悪そうだ。

「あ、あの〜」

 暫くその様子を黙って眺めていたのだが、ふと亮太はある事を思い出して申し訳なさそうに尋ねる。

「何か?」

 典子の説得に忙しい西村の代わりに、女史が眼鏡の奥の冷たい目を向けて答えた。

「い、いや、その〜、結局、俺って何をすればいいのかな〜と思って…」

「…」

 無言で亮太を見つめる女史の視線が、酷く痛い。

「『浪漫喫茶』ゆうのはな」

 そこへ、典子の説得を終えたのか、西村が割り込んでくる。その思わせぶりな口調に、亮太もゴクリと唾を飲み込み、次の言葉に身構えた。

「大正時代風の格好をした、喫茶店や」

 亮太は思わずコケそうになってしまう。

「た、大正時代風の格好〜?」

 大正時代風の格好、といっても亮太にはせいぜい矢絣の着物に袴をはいて、髪を上げ髪にした女学生の格好くらいしか思い浮かばない。自分が矢絣模様の着物に行燈袴を着た姿を想像してしまい、亮太は素っ頓狂な声を上げる。

「安心しぃな、誰も武内ハンにはいからさんの格好せぇとは言わへんから」

 そんな亮太の心中を察してか、西村が手をハタハタと振りながら呆れたように言う。

「そ、そう。でもどうして喫茶店なの? 西村さんだったら絶対、『お好み焼き』とか、『たこ焼き』とか、例の『ネギ焼き』かと思ったんだけど」

 ホッと安堵した亮太は、思い切って疑問をぶつけてみる。あわよくばそちらの方に誘導できないかという期待も少々あってのことではあるが。『ネギ焼き』に『例の』という冠詞(?)が付くのは、日頃から西村が関西のネギ焼きのおいしさを事ある毎に説明しているためだ。確かに、亮太はまだネギ焼きというものは食べた事がないし、見た事もない。

「まぁね。ウチも最初は、『関東もんに本場の味教えたる!』って思てたんやけど。でもよく考えてみると、その辺って定番やん? せやったら、別のもんやった方がエエか思て」

「それで喫茶店? それも結構定番だと思うけど…」

 何とか説得できないものかと亮太は食い下がる。

「まぁそう馬鹿にせんと、最後まで聞き。ええか、こういう学園祭なんかであるんは、喫茶言うてもティーバックやインスタントがせいぜいや。そこでウチらはちゃんとしたお茶と、挽きたてのコーヒーを出すんや。それと」

 そう言って西村は典子の方をちらっと見る。

「加藤ハンの作る料理も。でもそれだけじゃ目立たへんから、女学生の格好をして給仕したり、あちこちで宣伝したりするワケや」

「はぁ…」

 言いたいことは何となく分かるのだが、わざわざ女学生の格好なんかしなくても…。

 未だピンと来ない顔をしている亮太の耳元で、西村が囁いた。

「考えてもみぃ、学園美少女コンテストのランキング上位に位置しとる綾瀬ハンや加藤ハンが女学生の格好して給仕やで?」

「…」

『いらっしゃいませ』

 亮太の脳裏に、女学生姿にエプロンをした美雪の姿が浮かぶ。

 確かに、それならきっと人気が出る事だろう。しかし…。

(西村…同性を売るなんてアンタは…アンタは…)

 感情の高ぶりにつれて、ぎゅっと握った亮太の拳に力が入る。

(なんていい根性してるんだ!!)

「…分かった」

 小躍りしたくなる様な心を努めて抑え、亮太は精一杯重々しく呟く。だが、顔がニヤけてしまうのをどうしても抑えることが出来なかった。

「おおきに。武内ハン、話分かるわ」

 全てを見透かしたような意地の悪い笑みを浮かべて、西村が答えた。


 こうして、学園祭の準備が始まった。

 西村を中心にして何人かの女子達で衣装調達隊が組織され、放課後、あちこちの貸衣装屋や写真館などをあたっていく。女子全員が衣装を着るわけではないが、それでも五〜六着は必要になるだろう、とのことで、なんとか団体割引(?)で安くならないかと交渉中らしい。どうもそういう発想は亮太には理解できないが、さすがに西村はそのへんに慣れているというか何というか。

 また、典子を中心としたグループはメニューの検討をしていて、現在、家庭科室を借りて試作をしたりしているらしい。

 坂本女史を中心としたグループは内装を検討。デザイナー役の女子と実際の設計、施工を担当する男子の間で喧々囂々の意見が交わされていた。ここには大量の男子が労働力としてあてがわれてもいる。

 そして、亮太率いるサービス部隊。ここでは、放課後、手の空いている女子に挨拶の仕方や注文の取り方、テーブルセッティングの仕方、果てはトラブルへの対処の仕方までを教えていた。まぁどれも実際にバイト先のファミレス、『ジョックス』でやっていることをそのまま流用しているようなものなのだが。

 放課後の教室で一列に女子を並べて、亮太は大きな声で挨拶をさせている。その女子の中には、当然美雪も混じっていた。

「いらっしゃいませ」

「ありがとうございました」

「少々お待ち下さい」

「申し訳ございません」

 にこやかに微笑み、深々とお辞儀をしながら美雪が言う。お辞儀をした時に長い髪がさらさらと音を立てて広がり、それと共に甘い香りがふうわりと漂う。

 亮太だけでなく、ギャラリーをしている男子達からも溜め息が出た。確かに、美雪ににっこりと微笑まれて『いらっしゃいませ』等と言われたらそれに抗うのには相当の意志の力がいる事だろう。

 それらを何回か繰り返した後、今度はテーブルのセットの仕方、トレンチ(お盆)の持ち方、品物の運び方などをレクチャーする。

「えー、テーブルにシルバーをセットする際は外側から順に…」

 バイト先で新人相手にやるのと同じようにやっているのだが、相手がなまじ知っている人間だけに何となくやりづらい。しかも、側で見物しているクラスの男子達が時折茶々を入れたりするのでなおさらだ。

「はーい、質問、シルバーって何ですかー?」

 見物していた男子の一人が女子の声色を真似て手を挙げる。

「…あのなぁ、高瀬、邪魔するなよ。さっき説明したんだから」

 溜め息混じりに亮太が答えると、

「えー、順子(高瀬は順二と言う名前だ)、わかんなーい」

 とニヤニヤしながらしなをつくる。

 周りにいた男子達がどっと笑い出す。

「…シルバーってのはナイフとかフォーク、スプーンのことだよ」

 こんな調子でなかなか進まない。高瀬はなおもニヤニヤしていた。まぁ、いちいち相手をしなければそれで良いのだろうが…。

「高瀬君? 随分暇そうじゃない?」

 突然背後からそう声をかけられ、高瀬の表情が凍り付いた。

 声の主は、言うまでもなく坂本女史だ。先程まではインテリアデザインのグループの方にいたのだが、周りがどっと沸いたので何かと思ったのだろう。

「い、いえ、その〜」

「ちょっとお話ししましょうか? 廊下で」

 そう言うと、女史はばたばた抵抗する高瀬を引きずっていく。

「すごいな…」

 その様子を見て、亮太は思わずそう呟いていた。肉付きは良くても小柄な安藤と違い、高瀬は結構長身なのだ。その高瀬を苦もなく引きずっていける女史の腕力は相当なもののはずだ。

「何だ、知らないの?」

 女史に引きずられていく高瀬を驚いて見つめていた亮太に、安藤が耳打ちする。

「…坂本さん家、合気道の道場なんだよ」

「…納得…」

 そう呟きながら、引きずられていく高瀬を、二人は手を合わせて見送る。

「たーけーうーちー…」

(ご愁傷様…)

 二人の姿が廊下に消えた後、聞こえてきた高瀬の悲鳴に、亮太は思わず身震いをした。


 それから暫くして、亮太達が一息ついていた頃、どこからともなくカレーの香りが漂ってきた。

(典子達か…)

 他の人達も気が付いたようで、男子達はみんな鼻をヒクヒクさせている。女子も息を大きく吸い込んだりしていて、教室中がそわそわしはじめる。

「ちょっと、みんな!」

 そこへ、教室のドアを開けて制服の上にエプロン姿の女子が一人飛び込んできた。家庭科室から走ってきたのか、ぜいぜい息を切らせている。みんなは何か起こったのかと色めき立つ。

「取り敢えず試作品が出来たから、味見してみて!」

 彼女は、嬉しそうにそう叫んだ。


 家庭科室は、カレーの香りが充満していた。

 おいしそうなその香りに、何となくお腹が空いてきたような気がして、亮太は思わずお腹を押さえる。

 一台のガスコンロの周りにエプロン姿の女子が集まっていて、その中心に典子がいる。典子は味見用に小皿に盛ったカレーを手に、西村となにやら真剣そうに話をしていたが、亮太達、教室にいた人達が来たのを知ると顔を上げ、小皿に少しずつよそう。

 みんなで、それを味見してみた。

 うまい。

 さすがに典子が指導しているだけのことはある、と亮太は思う。

 しかし…。

「ところで、どうしてコレがメニューに? ただのカレーのようだけど…」

 亮太は疑問を口にしてみる。何だか色々凝った事をやっているワリに、ただのカレーというのはいかにも芸がないように思えたのだ。具材も、ざっと見たところ牛肉、にんじん、タマネギ、ジャガイモとオーソドックスなものだけだ。カレーの風味にも癖はないし、いかにも市販のカレー粉を使いましたと言わんばかりだった。いつもの典子ならもう少し凝った感じにすると思うのだが…。

「何言うてんの。コレ、ただのカレーちゃうで。コレ、海軍割烹術参考書ゆう明治の本にあったレシピを再現したカレーやねん」

 そう言って西村はえっへんと胸を張る。

「…でも、ウチのコンセプトって『大正浪漫』じゃなかったっけ…?」

 大正浪漫と言いながら明治? 何だか納得したような、しないような気分で亮太が呟く。

「男は細かい事は気にしない! どっちも昔には変わりないやろ」

「でも、私ももう少しなんか手を加えてみたいんだけど。スパイスをちょっと加えるとか…ダメかな?」

 典子自身もこの内容には納得していないのか、躊躇いがちに西村に尋ねる。

「ま、ええケド。他のメニューの事もあるから程々にしたってや。あとな…」

 再び西村と典子は相談を始める。典子の真剣な様子に、やはり典子らしいなぁ、と亮太は妙に納得してしまう。

「武内ぃ」

 不意に、背後から声をかけられ振り返る。と、そこには高瀬と野田が怖い顔をして立っていた。

「な、何…?」

 その異様な雰囲気に、亮太は思わず後ずさる。

「コレが『ただの』カレーだと?」

 高瀬がぼそりと呟く。

「い、いや、あの…そういうカレーだとは知らなかったから…」

 もしかして、高瀬達がレシピを調べたりしたのだろうか? それで、馬鹿にされたと思って怒っているとか…?

「十分美味いじゃないか! 貴様、さらっと『ただのカレー』とか言いやがって!! 今までこんなモン独り占めしてやがったのか!!!」

 そう言って高瀬が詰め寄る。野田も続いた。

「くーっ! 貴様一人だけいい思いしやがって!! 何でいつもお前ばっかり…少しは俺たちにもお裾分けしやがれ!」

 どうやら二人は亮太が典子の手料理を食べ慣れている素振りを見せた事に対して腹を立てているらしい。

「い、いや、そりゃ誤解だって」

 確かに、夏休み前まではそうだった。

 だが、今はもう…。

 二人に詰め寄られながら、亮太は複雑な気分だ。

「あら、暇そうじゃない? 高瀬君、野田君? 少し、お話ししましょうか?」

 冷たい女史の声が響き、途端に亮太は二人から解放される。

「あ、い、いや…け、結構ですっ!!」

 先程『お話』したばかりの高瀬はその言葉を聞くと真っ青になって逃げ出した。

「い、いや、どうせなら手取り足取り腰取りで色々教えてもらいたいなーなんて…」

 しかし、止せばいいのに野田はつまらない冗談を言って笑う。こう言えば女史は恥ずかしがって相手にしないと思ったのだろう。

 だが。

「いいけど? 手取り足取り腰取り、ね?」

 意外にも女史はそう言って妖艶に微笑み、眼鏡を外す。そして、指をバキバキ鳴らしながら野田に近づいた。

 亮太は初めて眼鏡を取った女史の顔を見たが、少しきつい感じはするが結構美人だと思った。状況が違えば見とれていたかもしれない。

「い、いや、やっぱりその…」

 虎の尾を踏んでしまったことをようやく悟った野田が逃げようとするが、既に手遅れだった。

「さあ来なさいな、色々教えてあげるわ」

「ご、ごめんなさい、許してー」

 半泣き状態の野田を引きずった女史はそのまま廊下に出ていき、暫く後、

「うっぎゃーっ!!」

 すさまじい悲鳴と派手なドシーンという音が辺りに響き渡る。

「…雉も鳴かずば撃たれまいに…」

 安藤がぼそりと呟いた他は、男子も女子も皆無言だった。

「さて、それじゃ料理部隊以外は戻って続きしましょう」

 暫く後、戻ってきた女史が何事もなかったようにそう告げると、それまで凍っていた辺りの空気が急に活気づく。

「え、えと、じゃあ次はオーダーの取り方を…」

 明日は我が身かもしれない。亮太は気を引き締めて、続きを始めた。


 それから暫く、女子達に挨拶の仕方やトレンチの持ち方、皿の下げ方等をレクチャーしていた亮太だったが、ようやく(?)、今日の練習は終わり、解散となった。

「お疲れ様ー」

「お疲れ」

 挨拶しながら次々に帰っていくクラスメイトをぼんやりと見ながら、亮太は思わず自分の席に座り込み、溜め息をつく。いつもバイト先でやっているので慣れているハズなのだが、違う環境で、しかも一度にたくさんを相手にしていると変に気疲れしてしまうようだ。

「お疲れさま。大丈夫? 武内君」

 そんな亮太に、美雪が笑顔で声をかけてくる。

「あ、う、うん。学校だし、良く知ってる人達相手だったから変に緊張しただけだから」

 亮太は曖昧に微笑んだ。

「すごいね、あんなに教えるのが上手なんて」

 美雪は素直に感想を述べる。美雪達に教えている時の亮太はいつになく自信に満ちていて、男らしく見えたのだ。普段知らなかった亮太の一面が見られて、嬉しかった。

「いや、いつもやらされてるから…」

 照れているのか、亮太は苦笑いしながらぽりぽりと頭をかく。そんな亮太を見て、美雪はぽつりと呟く。

「…そうしている方が武内君らしいかな」

「え!?」

「あ、う、ううん、何でも。あ、そろそろ部活行かないと」

 驚いた顔の亮太を見て、美雪は慌てて誤魔化す。顔が真っ赤になりそうだ。

「あ、う、うん。お疲れ様」

 キョトンとした顔のまま、亮太は答えた。そんな亮太から逃げるように、美雪は部活へと向かう。

(…危なかった…つい…)

 ドキドキする胸を抱えて、美雪は思う。

(…でも…いいんだよね…)

 美雪の脳裏には、夏祭りの夜、真吾と抱き合う浴衣姿の典子の姿がフッとよぎっていた。


 それから数日経った、ある日の事。

 いつものように放課後の指導を終えた亮太は、息抜きのため(本当は、ずっと教室にいると次々に仕事をやらされそうだったので)しばらく校庭を散歩していた。

 時折吹いてくる風が、少し肌寒い。制服が長袖に替わってからまだ二週間ほどしか経っていないのに、風にも、周りの景色にも、もう確実に冬の気配がしていた。

(…あれから、もう一年近くにもなるのか…)

 ふと、亮太は去年の文化祭の事を思い出す。

 あの、後夜祭の日、教室の床にぶちまけてしまった食器類を拾ってくれた髪の長い女子。

 それから暫くして、亮太はその女子の名前を知る。

 綾瀬美雪。それが、その女の子の名前だった。

(あれが、始まりだった…)

 自分でもバカバカしいとは思うが、本当に、そんな単純な事がきっかけだったのだ。

 美雪に対して、好意を抱くようになったのは。

 それから、もう一年が経とうとしている。そしてその一年の間に、その時は自分にもう一生は縁がないだろうと思っていた美雪と一緒に体育祭の特訓をしたり、図書館で勉強したり、夏祭りに行ったりしている。そう考えると、人生とは全く予想がつかないものだと亮太はつくづく思った。

 一体、これからどうなっていくのだろう。そして、自分はどうしたいのだろう。

 真吾と典子に対しては、今の、何だかわだかまりのあるような状態はイヤだった。出来れば昔のような関係に戻りたい。今の所、真吾と典子の亮太に対する態度はさほど変わってはいないのだから、亮太がこのまま二人の事を知らない振りをしていればあるいは…。

 そんな考えが脳裏をよぎる。

 一番簡単なのはそれのハズなのだが、それでは亮太の心が納得しそうにない。

 頭では分かっていても心のどこかにしこりが残り、そして、それがある限り、以前のような関係にはなれないだろう。

 悩みなど無かった、昔の様には。

「どうしたの、亮太君?」

「うわっ!!」

 不意に、背後から声を掛けられて飛び上がる亮太。振り返ると、さつきがびっくりしたような顔で立っていた。

「あ、ゴメンゴメン、驚かせちゃった? 何だか怖い顔してたから…」

 さつきがひきつった表情で謝ってくる。

「い、いや、ちょっと考え事を…」

 亮太はそう言ったきり、俯いて黙り込んでしまう。さつきとは夏休みの遊園地での一件以来だったので、何となく気まずいのだ。

「あの…この前は…その…」

 ようやく口を開きかけた亮太を、さつきが遮った。

「こっちこそ、嫌な思いさせてゴメンね。ところで亮太君、もしかしてあれがあずさとのデートだって…分かんなかった?」

「…実はその…そうなんです…」

 さすがに今になってみると何故あの時気が付かなかったのかと思うが、観覧車であずさの涙を見るまではそうとは思っていなかったのだ。そもそも、あずさが自分に対してそんな気持ちを持っているなんて考えても見ないことだった。そして、そのせいで随分酷いことを言ってしまった自分を後悔していた。

「あずさちゃんには…酷いことを…」

「気にしないで。あの子、今はそんなに落ち込んでないみたいだし。それに、恋愛ってそういうモノでしょ? 悲しい思いも、悔しい思いもするから想いが叶った時にはそれだけ嬉しいわけで」

 亮太は無言でさつきを見つめる。そう言われても、やはりあずさを傷つけてしまった事は後味が悪かった。それも、自分が鈍感だったせいでより深く傷つけてしまったのだとすればなおさらだ。

 そんな亮太の思いを見抜いたのか、さつきはちょっと寂しそうな目をして言う。

「…優しいのね、亮太君。でもね、その優しさは、ただの弱さでしかないのよ。より深く相手を傷つけるだけ。時には人を傷つける勇気も持ちなさい」

 それから、さつきは急に明るい表情に戻ってポンポン、と亮太の肩を軽く叩くと、

「それより亮太君達のクラス、文化祭で何か面白そうな事やるんだって? 期待してるわよ?」

 と言って悪戯っぽく微笑むと行ってしまう。

「人を、傷つける勇気…」

 その後ろ姿を見つめながら、亮太はぽつりと呟いていた。


 暫くして教室に戻った亮太は、すぐに教室内の異様な雰囲気に気付いた。教室に残っている者が典子を中心に集まって、何やら真剣な表情で話をしているのだ。

「あ、武内君」

 教室に戻ってきた亮太に気づいた数少ない一人、美雪が声をかけてくる。

「ど、どうしたの?」

 亮太は少し身構える。こういう雰囲気の時は、大抵良くない話と相場が決まっているのだ。

「うん…お料理のことで…」

 美雪の話はこういう事だった。

 料理を当日作るのは現実的ではなく、前日に作る必要があるのだが、あてにしていた家庭科室は別の部活が使用することになっているため前日は使用できないというのだ。教室内の飾り付けなどの準備を終えてから料理を作るのも現実的ではなく、結局誰かの家に集まって作るしかない、という事になり、その誰かの家として典子の家が決まったところまでは良かったのだが、今度は典子の家から学校まで運ぶのが問題になっているらしいのだ。典子の家は学校と同じ街にあるので電車を利用したりする必要はないが、それでもカレーの入った深さ四十センチもあるような大型の深鍋を二つ、持って来れる距離でもない。

「自転車二台使って、二人がかりで…」

 典子はそんな話をしているが、それは無理というものだ。中身が入れば重量は十キロを超える。そんな物を自転車の荷台にくくりつけられるわけがないし、そうかと言って籠に入るような大きさでもない。

「自転車じゃ無理よ。せめて台車」

 坂本女史が即座に答える。

 とはいえ、典子の家から学校まで、延々台車で運ぶというのもまた、出来ないわけではないだろうが、現実的とは思えなかった。

「それも無理ちゃう?」

 案の定、その提案も西村に否定されてしまった。ここまできての難題に、皆黙り込んでしまう。

「…ウチ、使えば」

 ぽつりと呟くと、みんなが一斉に亮太の方を見た。

「…え、いや、だからさ、典子ん家ほど設備は整ってないけど、ウチなら歩いて五分くらいだし、一人暮らしだから遠慮も要らないし。ただ、狭いけど」

「…どう? 加藤さん?」

 女史が典子に尋ねる。

「そうね…ちょっと狭いけど、道具は…あれはあってあれもあるから…」

 典子は亮太の部屋の様子を思い浮かべて何があるか考えているらしいが、やがて

「だ、大丈夫そう。道具も大体そろってるし」

 と答える。

「んじゃ」

 亮太はポケットから合い鍵を取り出して差し出す。例の、黒猫のキーホルダーの付いた奴だ。自分用にはちゃんと別の鍵があるのだが、いつも持っていたのだ。

「…でもいいの? 亮太」

 その合い鍵を見つめ、何やら躊躇う様子の典子。

「何だよ?」

 頬をほんのりと染めて何か言いづらそうにしている典子に、亮太が尋ねた。

「…その…あたしだけじゃなくて女子何人かで行くから…」

 ようやく、典子が言わんとしている事が分かった。最近は典子も来ていないのでかなり散らかっているし、洗濯物も干しっぱなしだ。大体、肝心の台所の惨状と言ったら…。

「…前日だよね? それまでに何とかするよ…」

(とてもじゃないけど見せられないよな…)

 他の女の子は論外、典子でさえあの部屋に入ったら発狂しかねない。

「あたしも手伝おっか? 亮太だけじゃ終わりそうにないし…」

「どーいう意味だよ」

「だって…」

 典子はそこでふと周りの興味津々と言った様子の視線に気がつき、俯いて頬を赤らめる。亮太は気まずそうに咳払いをした。

「と、とにかく、これは渡しとくよ」

「う、うん」

 亮太が手渡すと、典子はそれを大事そうに胸の前で包み込むようにして受け取った。

 その様子に、何故か亮太はホッとしてしまう。

 かつての様な平和な世界が、戻ってきたような気がしたから。


 こうして、着々と準備は進んでいた。

 そして、それから数日経った日の放課後。

 今日は、手の空いている者が何人か残り(残され、とも言う)、グループになって一部ずつメニュー作成していく。

 メニューも他と同じく凝っていて、茶色い布貼りの分厚い表紙、中には羊皮紙風の紙を使い、凝った書体でメニューが書かれている。メニュー自体はコピーだったので、実際の作業は布に厚紙二枚を張り付けて二つ折り出来るようにし、その内側にメニューの書かれた紙を貼り付け、後は表紙になる部分に凝った書体で書かれた「メニュー」というラベルを貼り付ける、というものだった。

 亮太は(幸いにして)その作業への参加は免除されていたが、その代わりシフト決めをやらされている。そして、それは予想通り厄介な作業だった。

(…この時間は坂本女史が空いてるから…他には…)

 たった二日分とはいえみんなそれぞれに他の用事などがあり、ある程度の人数を確保して埋めていくのは大変だ。亮太が心底うんざりしかけた所で、真吾が側を通りかかった。

「ごくろーさん。んじゃ」

 真吾は亮太が色々書き込んでいる方眼紙をちらりとのぞき込み、帰ろうとする。

「ちょっと待て。親友が苦しんでいるのに見捨てる気か」

 そう言って亮太が真吾の制服の袖を掴んだ。

「親友? 誰の事だ?」

「そうかそうか、なら俺が、どの位おまえが暇してるかを坂本女史に進言しても恨みっこなしだよな」

 亮太はそう言って立ち上がり、メニュー制作部隊の中の坂本女史の所へ行こうとする。

「わーったって、これからちょっと用があるから、それ終わったら戻ってくるよ」

 今度は真吾が亮太の制服の袖を掴んで止めた。

「…鞄を持って? 信用できねーな」

 亮太は真吾が鞄を持ったままでいるのをめざとく見つけ、仏頂面でそう返し、続ける。

「逃げ出さないように付いてく」

「…別にいいけど…」

 ちょっと迷ったのか、一瞬間をおいて真吾が答え、続ける。

「信用ないねぇ、俺」

「あるわけないだろ! さ、その『用事』とやらをさっさと済ませに行こうぜ」

 亮太が仏頂面のままそう言うと、真吾はオーバーに肩をすくめて見せた。


 だが、亮太は付いていったことをすぐ後悔することになった。

 真吾の言う『用事』とは、告白してきた女の子に返事をすることだったのだ。

 付いていった先で、落ち着かない様子で誰かを待っているらしき髪の長い、大人しそうな女の子の姿が見えた時、さすがに鈍い亮太にも何となく事情が飲み込めたため、途中で

「お、俺、ここで待ってるから。逃げるなよ」

 と言って分かれたのだが…。

 失礼な事とは知りつつも、何を話しているのか、少々気になる。

 向こうでは真吾と女の子が何か話しているらしい。話し声が直接聞こえはしないが、女の子の俯いた様子と、真吾のいつもと違う、真剣な様子から何となくどういう話をしているのかは察しがつく。

(ま、そりゃそうだよな、真吾には典子がいるもの…)

 亮太はあの花火の情景を思い出す。

 やはり、もう戻れないのだ。

 悩みなど無かった、あの頃の様には。

 こういう経験を積んでいく事が、大人になるという事なのだろうか。

 なんだか寂しいような、胸が締め付けられるような気分だった。

「どした? 怖い顔して」

 そんな事を考えている間に、真吾が戻ってきていた。

 亮太はそれには答えずに歩き出す。

「…しょうがない事だけど、かわいそうだよな…」

 ややあって、亮太がぼそりと呟く。別に、真吾を責めているわけではなかったが、やりきれない気分だったのだ。

「…まぁね。でも、相手が自分の真剣な気持ちをぶつけてきてくれたんだったら、こっちも真剣に答えてやらないと失礼だろ? それが、どういう答えだったとしても、さ」

 多分、それは真吾にも分かっていたのだろう。真吾は亮太の方をちらっと見て呟く。亮太は何も言わなかった。

「そう言えば、最近典子とはどうしたんだよ。喧嘩でもしたか? 飯、作ってもらってないみたいだけど」

 今度は真吾が尋ねてくる。

(俺が何も知らないと思って…)

 その惚けたような、いつもと変わらない様子に亮太はカチンときた。

「…お前は自分が付き合ってる相手が、他の男に飯作ったりしてそれで良いのかよ」

 立ち止まって、俯いたまま亮太はそう言った。

「何が? 誰と誰が付き合ってるって?」

 きょとんとした様子で、真吾が訊き返す。隠しておくつもりなのだろうか。

 少々意地悪な気分になり、亮太はとっておきの切り札を持ち出す覚悟を決めた。

「…隠さなくてもいいよ。俺、見ちゃったんだ…あの花火大会の日、お前と典子が抱き合ってるの…」

 言ってから、何だか自分が覗き見していたことを打ち明けたようで決まりが悪い。まぁ、実際そんなようなものなのだが、別に覗くつもりだったわけではないし、第一あんな所で抱き合っているのが悪いのだ、と、亮太は自分を正当化しようとする。

「あちゃ…見られてたのか…」

 その答えを聞き、さすがに真吾も観念したのだろう、と思った亮太は、次の真吾の言葉に自分の耳を疑った。

「でもな、そりゃ誤解だぜ。別に付き合ってなんかない。あれはちょっとした…弾みだったんだ」

 何だか亮太は馬鹿にされたような、仲間外れにされたような気分だった。

 さっきは冗談で『親友』と言ったのだが、本心ではもちろん親友のつもりだった。

 何しろ、中学からの付き合いなのだから。

 真吾だって、『親友? 誰のことだ?』とは言っていたが、もちろん冗談のつもりだと思っていたのに…。

 そうではなかったのだろうか。

 亮太だけの、勝手な思いこみだったとか?

 もちろん、いくら親友とはいえ、踏み込んで欲しくない領域だってあるだろう。でも、付き合っている相手が、二人の知っている相手だったら別にその事実を隠すことはないではないか? ましてや、亮太が見たと言っているのだから。それとも、相手が亮太の幼なじみの典子だから、亮太に遠慮して隠すのか? だとしたら、それは見当違いだ。せめて、認めてくれた方がすっきりする。

 今までの真吾との付き合いが、全て偽りだったような、そんな気がした。

「…弾み、ねぇ。ふーん、そういう事にしたいんだったらそれでもいいよ」

 傷つき、取り残された気分の亮太は、俯いたままそう答える。

「何言ってるんだよ、別に嘘なんかついてないって」

 何とももどかしそうな様子で、真吾が言う。

「いいよ。分かったよ」

 これ以上言ってもしょうがないと思い、亮太はそう答えて歩き出す。

「分かってないだろ!!」

 だが、その亮太の胸ぐらを掴んで、真吾が怒鳴った。

 今まで何度か喧嘩をしたこともあったが、かつてない程の剣幕だ。

「典子がどんな気持ちでいるのか、どうしてそんな事も分かんねーんだよおまえはっ!! 何にも知らないで、勝手に自分がのけ者にされてた、なんて拗ねやがって! 典子が俺と付き合うワケないだろ! 典子は…」

 そう言いかけた真吾は途中で口をつぐみ、顔を逸らす。そして、

「勝手にしろ!」

 と吐き捨てるように言うと、亮太を突き飛ばし、行ってしまった。

 今度は、亮太がきょとんとした顔をする番だった。


(何なんだよ一体…)

 すっきりしない気分のまま、亮太は一人教室に戻る。これでは何のために真吾に付いていったのかまるで分からない。

 それに…。

(『典子の気持ち』って、一体…)

 真吾が一体何を言いたかったのか、何を言おうとして止めたのか、亮太にはさっぱり分からなかった。

(ったく、ただでさえ色々考えなきゃいけないのに…)

 教室に戻った亮太は、机の上に置かれているメモを見て、溜め息をつく。

 メモは、『この時間は部活だからハズしてね』等という、女子達からのリクエストの追加分だった。

(…また決め直しか…)

 心底うんざりした亮太は、椅子の背もたれにもたれかかり、天井を振り仰ぐ。

 力が抜けてしまい、もはや溜め息すら出てこなかった。


 そして、とうとう学園祭の前日。

 その日は午前中は授業で、午後から設営だった。

 亮太達男子は内装部隊の指揮の下、机を移動させたり、ベニヤ板で壁を作ったりと力仕事をこなしていく。

 何でサービス係もやらなきゃならない俺まで、とも思うが、どうせ周りのみんなが忙しく働いているなかでは落ち着いていられそうにもない。

 暫くそうやって皆が忙しく働いていると、突然、入り口の辺りでざわめきが起こった。

 ベニヤ板を補強用の角材に打ち付けていた亮太はひょいと顔を上げ…次の瞬間、自分の手を叩いていた。

「!!」

 声にならない声を上げて亮太はぴょんぴょん飛び跳ねる。だが、誰もそんな亮太には注意を払わない。皆、入り口の辺りに集まっていた。

 サービス係の女子達が、例の女学生姿に着替えてきたのだ。

 薄紫の矢絣模様の着物に、濃紺の袴の美雪を筆頭に、水色の矢絣模様の着物にエビ茶色の袴の坂本女史、はては薄ピンクの矢絣模様の着物に、深い緑色の袴の典子までいる。皆着物の色は見事にバラバラだったが、かえってそれがそれぞれの個性を出していた。そして、着物の上につけているお揃いの白いエプロンがまたフリルひらひらで亮太のツボにはまっている。

 典子を入れた総勢六名は皆恥ずかしそうに俯いているが、

「どや? みんな? やる気出てきたやろ?」

 一人、制服姿の西村だけはそう言って胸を張る。

「何で典子も?」

 ようやく親指の痛みが収まった亮太は西村に尋ねた。予定では、典子は料理の方のハズだ。

「何言うてん。加藤ハンの女学生姿、カメラに収める機会逃しますかいな。ま、これからまたすぐ着替えてもろて、料理の仕込み、やってもらわなあかんけど」

「か、カメラ?」

 典子が素っ頓狂な声を出す。何かイヤな予感がしたのだろう。

「せや。これ見てみぃ。いっくら安く着物借りたゆーてもまだ足出てるんや。せやからこうして稼がんと」

 そう言って得意げに西村が見せたチラシにはこう書いてあった。

「写真撮ります―ブロマイドは一枚五百円、二ショット写真は一枚千円〜」

「…」

 さすがと言うべきか、女の敵、と言うべきなのか…。

 阿漕な商売だとは思うが、亮太も何となく(いや激しく)欲しくなってしまう方なのでそれ以上は何も言えない。

「ち、ちょっと、写真ってそんな…」

 案の定、典子達が抗議する。

「大丈夫やて。Hなのとかは撮らへんから。さーて、続きや続き。ちんたらやっとったら終わらへんで」

 西村は全く取り合う様子もなく、手をぱんぱん叩きながらそう言って皆を促す。

 さすがと言うべきなのか、どうなのか…。半ば呆れ、半ば感心しつつも、亮太はブロマイドは全種類手に入れておこうと密かに誓っていた。

「…あ、あの…武内君」

 典子達が西村になにやら詰め寄っているのをぼんやりと見つめていた亮太に、着物姿の美雪がためらいがちに声をかけてくる。

「え? あ、ど、どうしたの?」

 そう答えつつも、亮太はつい美雪を見つめてしまう。いつもの制服姿とは違う、見慣れていない美雪の姿は亮太の視線を釘付けにするのには十分だった。 

「その…お、おかしくない?」

 美雪は恥ずかしそうに頬を桜色に染め、落ち着かない様子だ。

「全然。よく似合ってるよ」

 即座に亮太は否定する。

「…そ、そう? でも、あんまり見つめられると、恥ずかしいな…」

「あ、ご、ゴメン」

 亮太は断腸の思いで視線を逸らした。確かに、いつまでも見つめていられては居心地が悪いだろう。

「ううん。でも、そう言ってもらえるとなんだか嬉しいな。武内君も準備色々と大変だろうけど、頑張りましょうね」

 美雪は朗らかに笑ってそう言うと、典子達の方に戻っていく。

 ドキリ。

 息が詰まった。

(…今の笑顔って…)

 それは、間違いなく、一年ほど前に亮太が最初に見た美雪の笑顔だった。そしてそれこそが、亮太が美雪を好きになるきっかけでもあったのだ。

(久し振りに見たな、綾瀬さんのあの笑顔…)

 亮太は手を休めて一年前を思い出す。

「そこっ! 何サボってる!!」

 途端に、西村から叱責が飛んだ。

「うへーい」

 亮太は肩をすくめて作業を再開した。


 設営は夕方と言うより夜までかかり、亮太がくたくたになって部屋へ戻ってきたのは既に七時を回っていた。

 バタバタしていたため埃を吸い込んだのか、喉が少し痛い。

 部屋の前に来ると、何となくカレーのいい香りが漂っている。まだ作っているのだろうか? だとしたら入らない方がいいのだろうか…。

 亮太はそっとドアを小さく開け、玄関に制服の赤いローファーが一足しかないのを見てホッとする。制服の靴なんてみんな同じなので靴では見分けがつかないが、たった一人で残っているとしたら典子以外には考えられない。

「ただいま…」

 そう呟きながら亮太が玄関にあがると、案の定、典子がひょいと顔を出す。亮太の部屋はワンルームだなのだが、よくあるようにキッチンが廊下の部分になっているのではなく、部屋の部分にくっついているタイプなのだ。

「あ、お疲れさま。ゴメンね、もう少しで終わるから」

「気にしなくていいよ、ゆっくりやれば」

 そう答えた亮太は暫く忙しく流しの後かたづけをしている典子の様子を見ていたが、やがてガス台に近づいていって鍋のふたを取る。

 カレーのおいしそうな香りが湯気と共に辺りに広がる。深呼吸してその香りを吸い込んでいた亮太は、今度は入れたままになっているお玉でゆっくりとカレーをかき回し、少しすくい上げ、そのまま口に…持っていこうとしたところで、後ろから典子にはたかれた。

「何考えてんのよ!」

「…いーだろちょっとくらいー。味見だよ味見」

「いいわけないでしょ! 亮太の分はちゃんとこっちに作ってあるの!」

 そう言って典子は二つの深鍋に半ば隠れている小さな鍋を指さし、続ける。

「…ついでに、作っただけだけど」

 典子は俯いて何となく恥ずかしそうだった。

「…サンキュ。…典子も、食べてけば?」

「え、でも…」

「いいだろ? それくらい。俺がよそうからさ、座ってろよ」

 半ば強引に典子をローテーブルの脇に座らせると、亮太はご飯をよそい、カレーをかける。

「ちょっと亮太、いくら何でもそんなに食べられないって」

「カレー、こぼれる!」

 とその度に典子に言われながら。


 疲れて、お腹が空いていたせいもあるのだろうが、久しぶりの典子作のカレーはおいしい。それに、こうして二人で食べるのも久しぶりだ。

 束の間、亮太は昔に戻ったような錯覚すら覚える。

 あの、夏の日以前に。

 再び典子とこんな時間を過ごす事が出来るようになれるのだろうか。真吾の言うように、二人が付き合っていないのだとしたら。

 そうだったとして、では、あの日のあれは一体何だったのだろう。

 暗がりで抱き合う二人の姿を思い出しながら、亮太はぼんやり思う。

 それに、『典子の気持ち』とは…?

(…聞いてみようか…)

 カレーを食べ終え、洗い物をしている典子の背中を見つめ、ふとそう思った。

 だが、何と言えばいいのだろうか?

 それに、もし、二人が実際に付き合っているのだとしたら?

 自分は、どうするのか?

 それはつまり、真吾が自分に対してウソを付いていた、と言うことであり、同時にこの時間が再び失われると言うことなのだ。

「なぁ、典子」

 暫く黙って考えていたが、意を決して亮太は言った。例え、真吾がウソを付いていたのだとしても、このまま中途半端な気持ちでいるよりはいい。

 そう思ったからだった。

「何? もうちょっとで洗い物終わるから、ちょっと待ってて」

 典子は洗い物を続けつつ、首だけ亮太の方に向けて答えた。

「いや、そのままで良いから聞いてくれ」

 面と向かってしまわない方が亮太にとっても都合が良い。言いづらくて、ともすれば気力がくじけそうになるからだ。

「…あのさ…」

 洗い物を続ける典子の背中を見つめて、口を開く。胸がドキドキいっていて、喉がカラカラに渇く。舌が貼りついたようになって動かない。

「うん?」

 典子は洗い物をしていた手を止め、振り返った。その典子のにこやかな笑顔を見て、亮太の意志がたちまちしぼんでいく。

「…や、やっぱいいや…」

 俯き、ローテーブルに『の』の字を書きながら亮太はゴニョゴニョと呟く。

「ちょっと何よそれ? 自分から言い出しといてー。言いたいことあるなら言いなさいよ。あ、もしかしてカレー、おいしくなかった?」

 たちまち典子の顔が曇る。

「い、イヤ、違うよ。カレーはおいしかったよ。そうじゃなくて…」

(言え。言うんだ。『お前、真吾と…その…付き合ってるの?』たったそれだけ言えばいい。時間にしたら十秒もかからないじゃないか。一体、何を躊躇ってる?)

 亮太は自分を叱咤する。

「どうしたのよ? 何か変だよ?」

 典子は相変わらずキョトンとした顔で亮太を見つめている。

(そんなに見つめないでくれ…そんなに見つめられたら…)

「その…」

 俯いた亮太は拳をぎゅっと握って口を開こうとする。だが、それは額のあたりに感じた柔らかな感触によって中断されてしまう。

「な!?」

「顔赤いよ、亮太。大丈夫?」

 気がつくと、典子は亮太の額と自分の額に手を当てて熱を測っていた。

「…熱は…ないと思うけど…」

 上目遣いに自分の額の方を見つつ、典子は呟く。

「そ、そんなの無いよっ!!」

 亮太は思わずそう叫んで後ずさる。顔が真っ赤だ。そして、半ば無意識に自分のしていた事に気づいた典子もまた、顔を赤くして恥ずかしそうに俯いてしまった。

「…ご、ゴメン…帰るねっ!!」

 そう言うと、典子はそそくさと荷物をまとめて部屋を出て行く。

 後に取り残された亮太は気が抜けてしまいその場にへなへなとへたり込んだ。


(ダメじゃない…あんな事しちゃ…)

 帰り道、半ば小走りに走りながら典子は心の中で呟く。亮太の呼吸が荒く、顔も少し赤かった上にどことなく調子が悪そうだったのでついやってしまった事だったのだが、ふと気がつくと亮太と十数センチの距離まで接近してしまっていた。もし美雪と亮太の間に何か進展があったのだとしたら、これは親友である美雪に対する裏切りになってしまう。

 それに。

 そのまま一緒にいたら、自分の想いがあふれて言葉になってしまいそうで、怖かった。

(ゴメンね…美雪…ゴメン…亮太…)

 心の中で何度も呟く典子の視界が、ぐにゃりとゆがみ、暖かいものが頬を伝っていった。


 そして、翌朝。

 とうとう学園祭の朝がやってきた。

 その日は朝から良く晴れていて、気持ちの良い一日になりそうだった。

 結局、典子の事などを考え、あまりよく眠れなかった亮太は、普段よりだいぶ早い時間に登校する。いつまで行っても堂々巡りのような事を考えるよりは、手や身体を動かした方が気が紛れると思ったからで、シルバーなどの数や手順、動線(人が動く時のライン。回り道しなくてはならなかったり、狭い場所を通る事になったり、途中で動線どうしがぶつかり合っていたりするとそこで動作効率が落ちてしまう)をもう一度チェックするつもりだった。特に動線は図面上では何度か確認していたが、実際に自分で動いて確認したのは昨日一度だけなのでもう少ししっかりと確かめたいところだ。

 教室に着くと、まだ誰もいなかった。教室にはまぶしい朝の光が差し込んでいて、亮太は目を細め、昨日一日でどうにか仕上げた内装を見回す。生徒用の机をいくつか組み合わせ、それに白い布をテーブルクロス代わりにかぶせたテーブルが数卓。机をいくつも並べ、それにチョコレート色に塗装したボール紙を貼り付けたカウンターにも椅子が数脚。さらにカウンターの上にはこれからサイフォン式のコーヒーメーカーと、ティーセット(これらはどうやら坂本女史の私物らしい)が置かれる事になっていた。

 実際の所、どうせあり合わせの物でしか出来ないので『どの辺が大正浪漫なのか』と問われれば返答に詰まってしまうだろうが、そこはかとなくレトロな雰囲気を感じさせなくもない…かもしれない、というのが亮太の正直な感想だった。まあ『あの格好の』美雪達がいれば雰囲気もまた変わってくるだろうし、第一、そんな事に文句を言う奴など(少なくとも男子生徒には)いないだろう。亮太はさらに、昨日の内にレンタル屋から借りておいた食器やシルバー、トレンチを確認する。皿は白いプレートが主体で、シルバーはそのまんま銀色。トレンチは円い銀色の物をレンタルしていた。

 動線や、シルバー類の確認を終えると、亮太は学ランを脱ぎ、黒いベストに着替え、さらに黒の蝶ネクタイをつける。

(…ホントにこれが大正時代風の格好なのか…?)

 鏡は持ってなかったのでトイレに向かい、トイレの鏡で見てみたが、どう見てもバイト先の格好と変わらないように見える。良くてもバーテンぐらいが関の山だ。

(ま、いいか。俺がそうしたワケじゃないし…)

 そう自分を納得させつつ、亮太が教室に戻ると、ちょうど入り口の所で、カレーを運んでくる典子達に出くわした。重そうに二人がかりで一つの鍋を運んでいる典子達を見て、亮太はしまったと思う。

(あちゃ)

 せっかくだから持っていくのを手伝えば良かった、と後悔した。そうすれば、多少なりとも話すチャンスがあったかも知れないのに…。このままでは典子と顔を合わせるのがイヤで早く出たと思われかねない。

 そんな亮太の考えを補強するように、典子は一瞬亮太の方を見てすぐに目を逸らす。亮太も、何となく気まずい気分になって俯いた。

「手伝うよ」

「ダメ」

 亮太が手伝おうとするのを、典子が止める。典子はショックを受けたような顔をしている亮太に向かって、慌ててこう付け加えた。

「ゴ、ゴメン、変な意味じゃないの。それが汚れちゃったら今日明日困っちゃうから…」

「ああ」

 黒ずくめの自分の格好をみて、亮太は典子が言いたかった事を理解する。そうしている間にも典子達はカレー鍋二つを無事教室内に運び込んでいた。

 カレー鍋を運び終え、食器類を確認している典子を見ている亮太の頭の中で、昨日、間近で見た典子の顔が甦る。

 亮太の事を心底心配してくれているらしい、真剣な表情。

 その表情は、昨晩から亮太の脳裏に焼き付いていた。

「あ、武内君おはよう。なかなか、決まってるじゃない」

 教室の入り口に立ったまま、亮太がぼんやりと考え事をしていると、美雪が笑顔で声をかけてくる。そういう美雪は今登校してきたようで、制服姿で鞄も持ったままだ。

「お、おはよう…」

 にこやかな美雪を見ているのがどうしてか辛くて、亮太はぶつぶつと返事を返し、そそくさと教室の中に入った。

 教室ではいつの間にか西村や坂本女史も来ていて、チェックリストに目を通している。

「あ、武内ハン、おはよう。どや? 身ぃ引き締まる思いやろ?」

「はぁ…まあ…」

 亮太は曖昧に答え、先程終えていた動線の確認や食器の点検をもう一度する。何かやっていないと手持無沙汰だったのだ。

 動線の確認をしつつちらりと厨房の方を見やると、典子と目が合った。

「!!」

 お互い、目を逸らして俯く。だがこのままでは、と思った亮太が声をかけようとすると、典子は

「じ、じゃあ、あたし、着替えてくるね」

 と周りの女子に言って、そそくさと教室を出て行く。

(…やっぱ、避けられてるんだろうな…)

 亮太は心の中で溜め息をついた。

 その後、西村と動線と手順の最終チェックをする。特に変更点はなさそうだったが、実際にトレンチを持って動くとまたどうだかは分からない。実際に動かしてみて改善すべき所があったら自分の判断で変更する、と言うところで話がまとまる。

 そうしている間に着替えに行っていた典子達が例の女学生の格好で戻ってきて、一気に教室内が湧いた。典子達は皆恥ずかしそうに頬を染め、コソコソしている。

「どないしたん?」

 一度、試しに着てみた際に、注目されるのは経験済みのハズなので今になってコソコソしているのが不思議に思えたのだろう、西村がきょとんとして尋ねる。

「あちこちに貼ってあるポスター見たらしくて、みんな、廊下ですれ違ったりすると『アレが例の』って噂してて…」

 その話を聞いて、西村が得意げに微笑んだ。

「よっしゃ、手応え有りや。ほな、これから手ぇ空いとるもんでチラシ配りや。バリバリ行くでぇ!」

 こうして、学園祭が始まった。


『浪漫喫茶』はなかなか好評で(特に男子生徒に)、客がひっきりなしに訪れていた。さらに、シフトはそれなりに余裕を持って組んでいたのだが、写真撮影のために人員を割かれてしまい、当初の予定ではサービス方面の指揮官として位置するはずだった亮太までオーダー取りなどにかり出され、目の回る様な忙しさだ。しかも、亮太がオーダーを取りに行くと、

「ちっ、武内かよ。綾瀬さん連れて来いよ」

 等と言ってオーダーを言わなかったりする始末。ようやく午後になって休憩が取れそうになった時にはもうヘロヘロだった。

 だが。

「加藤ハン、ちょー来てや」

 先に休憩を取り、今戻ってきて交代するはずだった典子に、無情にも西村からの呼び出しがかかる。

「あ、あの、西村さん、でも今ようやく亮太が休憩を取ろうとしたところで…」

 西村の出現にあからさまに落胆した亮太を気遣ってか、典子が遠慮がちに言う。

「大丈夫、武内ハンなら商売の事分かっててくれるハズや。そう言うわけで、武内ハン、よろしゅう」

 じゃ、とばかりに片手をあげて挨拶すると、西村は典子を連れて行こうとする。

「ああ…」

 そんな典子の後ろ姿を見送りつつ、亮太ががくりと肩を落とした時だった。

「結構評判みたいじゃない、亮太君」

 さつきがそう言いながら入り口のドアから中をのぞき込んできたのだ。

 さつきの顔を見て、西村の動きがぴたりと止まった。

「さつき先輩…」

 ググウ〜

 亮太が何か言おうとする、それに合わせたかのようなタイミングで、亮太のおなかが鳴った。朝、カレーの残りを少し食べただけで、まだお昼ご飯を食べていないのだ。しかも、バイトでもこれほどの忙しさは体験した事がないという位の忙しさ。それに加えて周りではおいしそうなカレーの香りが始終漂い、そして客がおいしそうにカレーを食べている。

 亮太にとって今までの時間は拷問にも等しかったのだ。

「…お疲れみたいね」

 たまらずそのままへたり込んでしまった亮太を見て、さつきが言う。

「実はそうなんです」

 と、不意に西村が話に割り込んでくる。

「ここにおる武内ハンは朝からずっと働きづめでまだお昼も食べとらへんのです。あたしも何とかして休憩取らせたろ思てるんですけど、何しろ忙しゅうて…」

 よよ、としなをつくって泣き真似をする西村。ほんの一瞬前まで亮太の事などまるで歯牙にもかけていなかった人物の行動とはとても思えない。

「で? あたしにどうさせたいの?」

 そんな西村を見て、さつきが引きつった笑顔を浮かべて尋ねる。

「さすがに、お見通し言うワケやね」

 さつきの反応を見て、西村はフッと笑って肩をすくめて答える。

「ほんなら話早いわ、武内ハンに休憩取らせたかったら、栗本ハンが代わりになる、と。ウチが言いたいのはこんだけ。簡単な事やろ?」

「…西村…」

 あまりの挑発的な態度に呆れ果てた亮太が何か言おうとした時、さつきが口を開いた。

「いいわよ、それくらい。もっとも、ジョックスでバイトしてる亮太君の代わりが務まるかどうかまでは保証しないけどね」

「…決まりやな? コレ、着てもらうで?」

 西村はニヤリとほくそ笑みながら、矢絣の着物と袴を見せる。

「どうぞ? 最初からそのつもりでしょ?」

 さつきは不敵に微笑んで答えた。


「ふう…」

 賄いとしてカレーを食べた後、未だに人でごった返している教室を出て、亮太は中庭のベンチに座ってぼんやりと空を見上げる。

埃っぽい中で声を張り上げたりしていたせいか、喉が少し痛い。

 校舎内の喧騒に比ベると、校庭は比較的静かだった。多分、明日の後夜祭まではこのままだろう。

(…後夜祭か…今年も無理そうだな)

 去年の事を思い出しつつ、亮太は思う。だが、それは決してイヤな思い出ではなかった。何しろ、それのおかげで美雪の事を知ったのだから。

「おい、武内」

 しかし、亮太の物思いは聞き覚えのある甲高い声で遮られる。顔を上げると、目の前に短く刈り上げた髪にゲジマユ、そして太い黒縁のメガネをかけた男子生徒が手に竹刀を持って立っていた。

 新庄だ。

「…」

 亮太は隠そうともせずにあからさまにイヤな顔をする。

 だが、新庄はもちろんそれぐらいでひるむような相手ではない。まるで何事もなかったかのように続けた。

「聞く所によると、お前のクラスでは何やらけしからん事をやっているそうじゃないか」

「知らないよ。学校側に計画書を出して許可はとってあるハズだろ」

 亮太はぶっきらぼうに答える。

「書類に書いた事と違う事をやってるかも知れん。案内しろ」

「んなの一人で行け」

 そう言って亮太は立ち上がる。

「コラ待て! ドコへ行く!?」

「教室。休憩は終わり。来たけりゃ勝手に来いよ」

 掴もうとする新庄の手を振り払い、亮太は吐き捨てるように言った。


 教室は、亮太が休憩を取る前よりもさらに混雑していた。廊下に行列が出来ているほどだ。もちろん、男子生徒の。

 教室内では、何かオークションのような事が行われているらしい。教壇のあったあたりに即席に設けられたステージで、西村が木槌を手に何やら男子生徒達をあおっていた。

(大正ロマンとやらはどこ行ったんだ…)

 男子生徒と西村で異様な盛り上がりを見せている教室内に、亮太は少々呆れてしまう。

「何だ、もう戻ってきたの? 早かったじゃない」

 新庄を連れて戻った亮太を出迎えたのは、誰あろうさつきだった。そして、さつきの姿を見た途端に、新庄はその場で硬直していた。

「…く、くくく栗本先輩…一体どうして…」

 ギョロギョロした目を見開き、ぽかんと口を開けて立ちつくしている新庄。それは、滑稽と言うよりはむしろ異様ですらあった。

 と、それまでステージにいた西村が、スッと新庄の元に寄ってきて囁く。

「どや? 新庄ハンも。栗本先輩とツーショット写真が撮れる権利のオークションしてるんやけど」

 それを聞いた新庄はブツブツ何事か呟きながらワナワナと身体を震わせる。

「…お、オークション…ツーショット…いやしかし、風紀委員としての威厳が…」

「もしもーし? どないするー?」

 そう尋ねる西村の声も、今の新庄には届かないようだ。

「さつき先輩、オークションなんてOKしたんですか?」

 せっかく自分が作り上げていた上品な雰囲気がぶちこわしになり、何となく釈然としないものを感じていた亮太が尋ねる。

「やだな、そんな事するわけないじゃない」

 即座に否定すると、さつきは苦笑いして続ける。

「でも写真撮影希望者が殺到したらしくてね。亮太君を捜し出して連れてこいって話になってたから、あたしは部外者だから一枚だけしかOKしないって言ったらこうなったのよ」

「…あ…すみません、気を遣ってもらったのに…」

 さつきとしては休憩中の亮太を守る数少ない手段だったのだろう。亮太はそんなさつきの気遣いも分からずに不機嫌になった自分を恥じる。

「別に気にしないで。写真撮られるのよりこれ着て女給やってる方が楽しいだけだから」

「…武内…」

 と、そこへ地の底から響いてくるような不気味な声が響く。気がつくと、新庄が鬼の形相でこちらを見ていた。亮太は身の危険を感じて反射的に後ずさる。

「おのれ武内めっ!! 成敗してくれるわ!!」

 そう叫ぶと、新庄は竹刀をブンブン振り回す。

「ち、ちょっと待てよ、どうして俺が…」

 亮太はそう言いながらとりあえず逃げる。

「栗本先輩の事を『さつき先輩』などと馴れ馴れしく呼ぶのは我慢ならん!!」

「そんなのお前に言われる筋合いないだろうが!!」

「問答無用!!」

 大声で叫びながら追いかけっこをする二人を、さつきと西村が呆れた様子で眺める。

「…元気やね、あの二人」

 西村がボソリと呟いた。

「ホントに。実際の所あの二人って結構合ってるのかも」

 そう答えると、さつきはクスリと笑って付け加える。

「亮太君には迷惑だろうけど」


 こうして、学園祭の時間は瞬く間に過ぎていった。

 ビラ配り作戦が功を奏したのか、次の日は前日以上の忙しさで、亮太も、典子も、美雪も、そして西村や安藤、坂本達も目の回るような忙しさで仕事に追われ、気がついた時にはカレーをはじめとして全ての品が売り切れとなり、大盛況のウチに幕を閉じる事になった。

 亮太がようやく一息つけたのは、文化祭そのものが終了した後夜祭の時間帯になってからの事だ。

(…ふぅ…むちゃくちゃだよ。バイトなんか比べものにならないほど忙しかったじゃないか)

 心地よい疲労を感じながら、校庭の方から微かに流れてくるのどかな音楽を聞くとはなしに聞く。そうしながら、亮太は一人、レンタル屋に返す食器類の数を確認していた。

去年と全く同じ理由ですぐに返しに行かなければならないのだ。

 亮太の予想した通り、去年と全く同じパターンだ。だが、一つだけ違っていたのは、全員での後片付けが一段落した後、食器類を返しに行くのを亮太自身が進んで申し出た事だった。

 そうする事によって今までやってきた事にけじめがつけたかったし、なにより、その作業にはいろいろと思い出があるから。


「何だよ美雪、後夜祭行かないのか?」

 校庭へと向かう、ゆっくりとした人の流れに逆らうように、反対方向へと向かう美雪に、柳井が声をかけてくる。柳井は相変わらず数人の後輩(もちろん、女子だ)を衛星のように引き連れていた。そう言えば、文化祭の最中、一度も教室で顔を見た覚えがない。

「あ、う、うん。ちょっと、忘れ物。先に行ってて」

 美雪はそう誤魔化す。

「ふうん。忘れ物ね。俺も探すの手伝ってやろうか?」

 柳井がそう言うと、衛星達が何か言いたげな視線で柳井の顔を見つめた。

「ううん、平気。その子達にも悪いし」

「そう? そう言えばさ、似合ってたぜ、袴姿。ブロマイド予約しちった」

 そう言いながら柳井はニカッと笑う。

「もう。何時の間に。大体柳井君、クラスにちっともいなかったじゃない」

 美雪が頬をぷくっと膨らませて抗議する。

「ま、色々と忙しくてね」

 柳井はそう言って肩をすくめた。

「はいはい。『色々と』忙しかったようですね。じゃ、行くから」

 美雪は『色々と』を強調して言い返し、踵を返す。

「…見つかるといいな、その忘れ物」

 歩き出す美雪の背中に、柳井がぽつりと呟いた。

「え? あ、うん。ありがと」

 振り返り、キョトンとした顔をする美雪を後目に、柳井はにぎやかな衛星達と共に校庭へと向かう。

(…変なの)

 その柳井の後ろ姿を見送った後、美雪は再び歩き始める。何だか胸がドキドキいっていた。

(…変なの)

 美雪は今度は自分に対してそう思う。

 別に、何かをしようというつもりではない。

 ただ、見ていたかっただけなのだ。

 亮太の姿を。

 たったそれだけなのに、胸をときめかせてしまう自分がいる。そして、そんな自分の事を『変』だとは思うが、どうにもならない。

 でも、『たったそれだけ』なのは今に始まった事ではないのかも知れない。

 一年前、美雪が亮太を好きになったのだって、他人が聞いたら呆れるくらい、『たったそれだけ』な事なのだから。


 ちょうど一年前、生徒会の用事を終え、後夜祭の行われている校庭へ向かおうと廊下を歩いていた美雪の耳に、カチャリ、カチャリという金属同士がぶつかるような音がどこからともなく聞こえてきた。

(何かしら…)

 その音が気になった美雪は、立ち止まって辺りを見回す。どうやらその音はすぐそばの教室の、開けっ放しになったドアから聞こえてくるようだ。

(…?)

 何となく教室内をのぞいてみた美雪の見たものは、オレンジ色の光に包まれた教室で、一人食器類を片づけている一人の男子生徒の姿だった。

「…綺麗…」

 黙々と片づけをしている姿を見つめて、美雪は思わずそう呟いてしまう。そして、そんな自分に気づき、慌てて顔を引っ込めた。

(危なかった…)

 幸い、あの男子生徒には聞こえなかったようだったし、辺りには誰かいる様子もない。ほっと安堵した美雪がその場を離れようとした時だった。

 ガッシャーン!!

 という派手な音が響き、同時に悲鳴が上がる。何事かと再び教室の中を覗いた美雪が見たものは、先程の男子生徒が床にぶちまけてしまった食器類を必死に拾い集めている姿だった。

 それを見た美雪はじっとしていられなくなって思わず拾うのを手伝いに行ってしまう。

「はい、これ」

 突如差し出された美雪の手に驚いたのだろう、その男子生徒は顔を上げて美雪の方を見つめ、ポカンとしている。

「…あ、あの…あたしの顔に、何かついてます?」

 あまりにその男子生徒が見つめるので気恥ずかしくなった美雪が尋ねると、その男子生徒はややぶっきらぼうな調子で

「あ、い、いや…その…あ、ありがとう」

 と答え、スプーンを受け取る。

 その時に差し出された手が、綺麗だと美雪は思った。

 それから後は、二人して散らばった食器類を拾って、少し喋って、おしまい。

 たったそれだけの事だった。

 だが、たったそれだけの事があってから、美雪は彼の事が忘れられなくなっていたのだ。

 それまで、美雪は誰かを好きになった事はなかった。周りの友人達はそういう話に興じたりはしていたのだが、美雪自身はそれほど興味もなく、また、部活動も、学校生活も楽しかったのでそういう事に興味を持とうとも思っていなかった。

 むしろ、友達や、時折美雪に告白してくる男子生徒達はどうしてそういう事にばかり夢中になるのかと思ったりもしていた。

 それが、その日から一変してしまったのだ。

 そんな自分がおかしくなってしまい、美雪はクスリと笑う。そして、足早に教室へと向かった。


(…綾瀬さん、か…)

 窓から差し込んでくる夕日でオレンジ色に染まる食器類を一つ一つケースに詰めながら、亮太はぼんやりと思い出す。ちょうど、一年前の事を。

 あの時、亮太に向けられた笑顔。

 それは、今でも亮太の脳裏に焼き付いている。あの笑顔で、誰かを好きになるという事を知ったのだ。

 美雪の姿をちらりと目にしただけで、高鳴っていた鼓動。何気ないしぐさや表情の一つ一つに胸をときめかせ、そして美雪が他の男と話しているのを見ては感じていた胸の痛み。

 それらは皆、亮太にとって初めての経験だった。

 もちろん、楽しい経験ばかりではない。というより、嫉妬したり話しかける事も出来ずに悶々とする事の方が楽しい経験よりはるかに多かったのだが。

 一体、この先どうなっていくのだろう。

 そして、自分はどうしたいのだろう。

 真吾や、典子との事は…?

(…っかんねーよな…)

 しばらく考えていた亮太だったが、軽く首を振ると食器類を詰め終わったケースを両手に持って立ち上がる。と、間の悪い事に少し咳き込んでしまった。

 ゴホゴホ

 ガッシャーン!!

 その振動でキッチリ閉まっていなかったロックが外れてしまったのが、派手な音と共に片方のケースが開き、せっかく今詰めたばかりの食器類が床に広がる。

「…」

 あまりの事にもはや言葉も出ない亮太は、どうしてロックを点検しておかなかったのかと自分自身を問いつめたい気分で一杯になりながらしゃがみ込み、辺りに散らばった食器類を片づけていく。

「はい、武内君」

 と、不意に亮太の目の前にひょいっと皿が差し出された。

「あ、綾瀬さん…」

 驚いた亮太が顔を上げると、すぐ目の前には去年と同じ笑顔を浮かべた、美雪がいた。

(俺は、夢を見てるのか?)

 美雪の笑顔を見つめたまま、亮太は自問する。

「…あの…武内…君?」

 ややあって、頬を桜色に染めた美雪が躊躇いがちに声をかけてくる。

「あ、は、はい?」

「…その…あんまり見つめられると、恥ずかしいなって…」

「ゴ、ゴメン!」

 その声で我に返った亮太は、慌てて視線を逸らし、食器拾いを再開する。心臓がドキドキいっていた。

 美雪は、去年の事を覚えているだろうか? その事を聞いてみたかったが、一体何と切り出せばいいのか分からない。

(一体なんて言えば…)

 必死に頭の中で言葉を組み立てようとするが、心臓の鼓動が気になってしまい言葉にならない。そうするウチに気持ちばかりが焦り、余計頭の中がパニックになっていくのだ。

「ね、武内君、覚えてる? 去年の事…」

 だが、亮太が切り出すより早く、美雪がそう尋ねてきた。

「え!?」

 まさか美雪から尋ねてくるとは思ってもいなかったので、一瞬亮太は戸惑う。

「う、うん」

 ぎこちなくそれだけ言ってから、しばしの沈黙。しかし、さすがにそれだけではいくら何でもぶっきらぼうすぎる。亮太は慌てて話題を探す。

「そ、そう言えば、去年も綾瀬さんの顔見つめてて言われたよね、『顔に何か付いてますか』って…」

 亮太が苦笑いしながら言うと、美雪もクスリと笑って頷いた。

「だって武内君、あたしの顔をずっと見つめるから…」

 笑顔のまま美雪が答える。その笑顔は、一年前のあの笑顔と同じだった。亮太はその笑顔がまぶしくて視線を逸らす。

「そ、それは、その…誰もいないと思ってたんで…」

 顔がカーッと熱くなっていくのが自分でも分かる。そして、心臓のドキドキいう音がだんだん速く、大きくなっていってる様な気さえする。

(一体、どうすりゃ良いんだ…)

「そ、そういえばさ、よく似合ってたよ、綾瀬さんの袴姿」

 ドクン

「そ、そうかな…」

 頬を染め、俯いて美雪は答えた。先程柳井に言われたのと同じ台詞なのに、これ程ドキドキするのは何故だろう。胸が苦しいくらいだ。美雪は胸をぎゅっと押さえる。

(…ダメ…このままじゃ武内君に聞こえちゃう…)

 何とか静めようとするのだが、そうすればする程かえって大きくなっているような気さえする。それにつれて、自分の中の想いが、どんどん外にあふれてきているような気がした。

(…お願い…)

 とにかく食器拾いに集中して気を紛らわそうと、近くのスプーンに手を伸ばした時。

 ちょうど、同じスプーンを取ろうとしていた亮太の手が、美雪の手に触れた。

 ドクン

 ひときわ大きく、鼓動がこだまする。気が付くと、息遣いが感じられるほどの距離に、亮太の顔があった。

 ドクン

 亮太以外の周りの景色が見えなくなっていく。美雪の視線は、亮太に釘付けになっていた。

 ドクン、ドクン

 辺りの雑音が聞こえなくなっていき、自分の心臓の鼓動だけがずっと響いている。熱い物にでも触れたかのようにすぐに引っ込めた手は、それだけが別に熱を持っているような熱さだった。

 ドクン、ドクン、ドクン

 目の前には、驚いて美雪の方を見つめる亮太の顔がある。差し込む夕日に照らされてオレンジ色に染まる亮太の顔は、一年前に美雪が見て、心を奪われた、あの顔だった。

 そのまま時が止まったかのように、見つめ合う二人。

(…ダメ…)

 美雪はわき上がる自分の想いを必死に押しとどめようとするが、少なくともそれは亮太の顔を見ている限り、不可能な事だった。そしてまた、亮太の顔から視線を逸らす事も、出来なかった。

 あふれかえる想いに押し切られるようにして、美雪の唇がゆっくりと開いていく。

「…好き」

 そして、その唇から、言葉が―美雪の想いが―、ゆっくりとあふれ出す―。

 



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― 新着の感想 ―
[一言] セピア1から読ませて頂きました。 主人公が誰と結びつくかは判りませんが、典子ちゃんや真吾君の気持ちにも感情移入できる素晴らしい作品だと思います。 できれば、セピア1から一つの連載小説とし…
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