祝福について
わたしたちを、なんと滑稽なと笑う人もありましょう。
なんと不遇であることだと憐れむ人も。前世での罰を受けたのだと訳知り顔で吹聴する人も。
でもけして、わたしと旦那様は不幸ではなく、むしろ幸せだと、そう思うのです。
――ごく普通の夫婦であるとは、言い難いけれど。
こうなる前のわたしは、とある国のとある王城で下働きをしておりました。城内のありとあらゆる布類、そして衣服の洗濯を担うその仕事はたいへんに辛いものでしたが、辛いのはどのような勤めであっても同じではないかと、そんな風に思います。
偉い人はいつだって自信に満ちた顔をしていなければなりません。どんなに苦しい時も、またどんなに悲しい時であっても。そして、自分の心とは別の判断を下さねばならぬことも、下働きよりうんとおありでしょう。それを思うと、水は冷たく、濡れた布は重く、お給金は決して高いとは言えないけれど、一日の終わりに神様へ感謝を述べ、くたびれた体を横たえればすぐに眠りにつける自分は幸せ者に間違いありません。ただ、それを仕事場で口にすると『おまえは欲がないね』と皆に笑われましたが。
恋人は作らないのかと、周りからは幾度も聞かれました。わたしは、いつだってその問いには悩む隙なく首肯するものですから、やっぱり笑われてしまいます。
わたしには身よりがないため、お相手を強引に勧めてくるような親戚も、面倒を見なければいけない親もなく、真に一人でした。寂しくないと言ったら嘘になりますが、こればかりはどうしようもないことです。健康な体で生んでもらえたこと、そして物事を悲観的にとらえない気質であったことに、ただ感謝するばかりです。
身よりはなく、殿方に頼って生きるような技量もなく、毎日こうして働いて一生を終えるのだと思っておりました。――旦那様に出会った、あの日まで。
「あ、」
物干し場として利用していた裏庭でいつものように洗濯物を取りこんでおりましたら、そのうちの一枚が洗濯紐から落ちてしまいました。籠をいったん地面に降ろし、取ろうと手を伸ばしますが、布きれはあと少しのところで風に煽られ、ひらひらふわふわと芝生の上を滑るように転がっていきます。これが物語の中のことであればわたしもくすりと笑えましょうが、残念ながら冴えない現実です。まずは布きれを捕まえて、また洗い直さねばなりません。それにしても、なんと自由な布でしょう。まるで生きているかのような気まぐれな動きに、ついてゆくのがやっとでした。
結局、裏庭の隅にたたずんでいらした殿方の靴先で止まるまでそれは転がり続けました。拾い上げられて「どうぞ」とこちらに差し出されたので、わたしも下働きながら王城に勤める者の最低限の礼節として教え込まれた礼らしき形をこしらえました。
「ありがとうございます。どうしても追いつかず、難儀しておりました」
「ああ、それならよかったが……」
そこで言葉を切ると、その方は突然おかしそうにくつくつと笑い始めました。
「てっきり、あんな風に遊んでいるのだと思ってしまったから」
「……仮にも二〇の娘が、いまさらそんな遊びなど致しません」
「これは失礼を」
そう謝りの言葉を述べると、わたしの取った礼よりも何倍も何十倍も綺麗な、思わず見惚れてしまうほどのお辞儀を一つ残して、その方は裏庭から立ち去りました。
彼の人のどこにも身分を示すものは見当たらなかったのですが、身に着けていたものの質の良さ(わたし自身は教養などまるでございませんが、洗濯の仕事をしていくうちに布地や仕立ての良し悪しだけは分かるようになっておりました)から、身分の高い方なのだろうということはおぼろげながらに推測出来ました。本来であれば、関わることのない階級の方。けれど、また会えるといい。異性に対してそんな風に思ったのは、初めてでした。
「あら」
「おや」
例の『お辞儀の方』とは、さほど日時を置かないうちに午後の裏庭でお会いすることが出来ました。
「洗濯姫にふたたびのお目通りが叶うとは」
「……それはわたしのあだ名なのでしょうか、『お辞儀の方』」
わたしが礼をしながら不遜にもそう言い放つと、その方は大きな声で笑いました。先日も感じましたが、どうやらこの方は明らかに自分より格下の、それも最下層の下働きの人間にこのような物言いをされても怒らない性質をお持ちのようです。
「お互い、同じような事をしていたのだね」
「その点については同意いたしますが、わたしは本人を目の前にして勝手に付けた名前を呼ぶ気はありませんでした。つい先ほどまで」
「だって、私はあなたの名前を知らないから」
「どなたかに訊ねればすぐにお分かりになったのでは?」
高い身分の方だとすぐに分かる衣服とふるまい。その持ち主であれば、それくらい造作もないはずなのです。
けれど。
「私は自分で聞きたかったのだよ」
そう言うと先にご自分の名乗りをし――想像以上に身分は高く、そして長いお名前でした――、その上でどうか教えていただけますかと丁寧に問われ、こちらも名乗らざるを得ませんでした。
よくある花の名前。なのに、その方は「あなたによく似合っている。いい名だ」と褒めてくださいました。
「……ありがとうございます」
髪や眼の色、顔立ち、名前。それだけがわたしが親から受け継いだものです。たった三つのうちの一つを褒められて、嬉しかったことは言うまでもありません。
けれど、『お辞儀の方』は、本来であればわたしがお声を掛けるなど天地がひっくり返ってもあり得ない、高貴なお方。誰かに二人でいるところを見つかればわたしは叱責だけではすまないでしょうし、また畏れ多くてお名前を聞いてからはろくに目も合わせられませんでした。けれど、その方はそんなわたしの態度に気を悪くした風でもなく、穏やかなままの口調でこう言うのです。
「私の持っている饒舌すぎる名前はどうか気にしないで。私は、あなたとここで話をしたいだけなのだから」
「殿下にお聞かせ出来るような話など思いつきもいたしません。どうか、」
許しの言葉を舌に乗せる前に、その方は「ではこれは『王子からのお願い』だとしたら?」と、ご自分で身分を気にしないようにと口にしたそのすぐあとで、身分を笠に着た命令をしてきました。
理不尽です。
つい先日、思い出話の折に今更ながらそう苦情を申し立てますと、『あの時の私はあなたが欲しくて必死だったからね』と苦笑されていましたけれど。
結局、『お辞儀の方』とはそのあと幾度も夕刻前の裏庭でお会いすることとなりました。その時間のその場所であれば、洗濯物を取り込みながら『お願い』にも対応出来るからです。早く仕事を済ませられた日は、芝生に座ってお話しすることもあります。
これが、『お茶会に出る』『舞踏会に出る』などといった『お願い』であったなら、わたしはすぐに王城から逃げ出していたことでしょう。けれど、庶民にはただただ堅苦しいだけの形式ばったやりとりはなく、また自分と『お辞儀の方』のほかには気配を気取らせることのない護衛の方数名がいるばかりで、わたしは拍子抜けしながら請われるままに会い、お話をしたのです。
こんなどこにでもいる娘の、つまらぬ日常の話のどこが面白いのか、わたしには見当もつきません。けれど、その方――王子は『王城に古くからある毛織物に穴が空いた話』や『壊れた壺をそ知らぬふりで飾り続けている話』を、お腹を抱えて笑うほど楽しんでくださいます。
「で? 今話してくれたそれらは、一体どこにあるんだい」
「公になってしまうと困るから、皆で口をつぐんでいるのです。お察しください」
「なるほど。美しい連携だね」
では私もその美しい庇い合いの輪にくわえておくれと、その方はいたずらっぽく笑います。
わたしとこうしている時の王子は、いつも笑みを湛えていらっしゃいます。わたしが失敗話をすれば、堪えきれず豪快に笑いもします。その姿は、その辺りにいる若者とまるで同じです。
しかしながら、わたしは彼の方の表の顔も存じております。裏庭で護衛の方と話す時などに時折見せるのは、にこやかで、けれどひやりとした貌をお持ちの、いつだって少し寂しく思えてしまう、遠いお方。
けして手には入らない、望んではいけないお方。
この奇妙な会合はいつまで続くのでしょう。きっとあの方がわたしという物珍しい玩具に飽きるまで。けれどいつまでも熱が醒めた様子を見せず、季節を跨いでそれは細々と続いたのでした。
あの日も、それまでと同じようにあの方はごろりと芝生の上で横になり、目をつむっていました。思いのほか早くに仕事を済ませたわたしはその横に座り、自身の手巾に刺しゅうを施します。おしゃれ心ではなく、小さく生まれていた綻びをごまかすためです。
出来上がりはお世辞にも綺麗とは言い難いものでしたが誰に差し上げる訳でもありません。不格好ながらもなんとか仕上がったものを仕舞おうとした矢先、それはあの方の優美な手によってあっさりと奪われました。
「何をなさるのですか」
「これを私にいただけないかと思って」
「もっと上等で綺麗なものを、たくさんお持ちでしょう?」
「まあね。でも、これがいい」
頑として聞き入れないところはさすが人の上に立つお立場の方、というところでしょうか。憤慨しているわたしへ、王子は何でもないようにそれを口にしました。
「実は、北方の魔女から『祝福』を受けてね」
「――!」
この世界に数多いる魔女の中でも、最強と畏れられている北方のその方は、祝福と称して気まぐれに呪いをかけることで有名です。どういった『祝福』を王子が受けたのかは分かりませんが、伝え聞いてわたしが知っているかぎりでは、人ならざるものに姿を変えられたり、明ける気配のない眠りに閉じ込められたり、おおよそ祝福からはほど遠いものばかりです。とびきり強力で、何人たりとも逃れられないそれは、今までどんな術師にも解けたことはありません。
そんな恐ろしいものが、この方の身の内に。
そう思っただけで、世界が昏く、冷たく感じるほどでした。
「幸い、兄や弟たちは無事だった。けれど、『祝福』を受けた存在が傍に居ると不幸が及ぶと、まあ、そんな風に考える年寄り連中が多くてね。協議の結果、私は旅に出ることになったというわけだ。手巾はその餞別にいただくよ」
「……お帰りは、」
「いいや、帰らない」
きっぱりと、そうおっしゃいました。
「帰れないというのが正しいのだろうね。たとえ命が尽きてただの骨になったとしても、私はおそらく一族の墓には入れまい。幸い、一生遊んで暮らせるほどの財産は分けていただけたのだから、せいぜい放蕩の限りでも尽くすとしよう」
「無理でしょう、あなた様には」
「おや、どうして?」
「……無理だと知っているからです」
辺境に住む者が飢えてしまわぬよう、地域に根差した農業を発展させたのはこの方です。
国のあちこちに存在する、細かな細工を施す職人の技が一代限りで消えてしまわぬよう、弟子を持たせ工房を作るよう支援したのはこの方です。下働きの人間にも、それらの話は有名でした。この王子の働きかけで故郷が救われたとわたしに熱っぽく話してくれた仕事仲間は、一人や二人ではございません。
決して驕ることなく、いつも民のことを考え、向き合ってくださる王子。
そんな方が、血税を意味もなく棄てるような使い方なぞ、やけになったとしても出来るはずがないのです。
「……まったく、あなたは」
王子は顔を手で覆うと、くつくつと笑います。ひとしきりそうしたあと、こちらを向いた王子の表情は、先ほどまでとはまるで違っていました。
夕空に夜の色がほんのひとさじ混ぜられ、端の方から徐々に染められてゆくのが見えます。その紫色の侵攻を止める手立てがない、そう諦めているような、静かに凪いでいた目は、今らんらんと輝いています。
わたしはその力強さに圧倒されたまま、逃げ出すことも出来ずただ見つめ返すのがやっとでした。
「ああ、私はね、さっきまでほんとうに手を離そうと思っていたのだよ。でも、もう無理だな」
「……なんのお話ですか」
「決めた。手巾だけでなくあなたもいただくとしよう」
「!」
そう宣言すると、こちらの返事も聞かれないまま、わたしはそのかいなに閉じ込められてしまいました。
「愛しい人、私のものになってはくれまいか」
「……それは、命令ですか」
「魔女の祝福を受けたが故、生まれ育った地を追放される哀れな男の、たった一つのお願いだよ」
おどけた態ではありましたが、分かっております。この方はわざとこんな言い方をしているのだと。
このような、――おっしゃるとおり『追放される』身であるご自身の唯一の望みでさえ当初は口にする気もなかった方です。軽妙な物言いをされたのは、おそらくこの方流の気遣い。わたしがお願いを断ったとして、その時に必ず抱くであろう王子への罪悪感を少しでも軽くしようと、そういう考えがおありなのでしょう。
なんて不器用な方。なんて、いとおしい方。
今にも涙がこぼれてしまいそうなわたしが、ただかいなの中でじっとしておりますと、「返事を」と短く促されました。通りかかる人が少ない場所だとはいえ、下働きのわたしが王城の裏庭で身分ある方を抱きかえす訳には参りません。かわりに王子の服の胸のあたりを握りしめることでそれをわたしからの返事としました。
「やはり離してはやれぬな」とほっとした様子の滲む声がすぐ近くに聞こえます。同時に、閉ざされていたようで拘束力の緩かった――抗ってみせれば、簡単にその拘束から逃れられたかもしれません――かいなが、遠慮のない強さで私を抱きすくめたものですから、今はいささか苦しさを覚えるほどです。
「そのかわいらしい返事もいいけれど、どうか言葉でも示しておくれ」
「私にはこれが精いっぱいです」
「あなたはどのみち私に攫われるのだから『はい』と言ってくれてもいいじゃないか」
「……それでは『はい』とわたしが答えたら、いやいや口にしたようではありませんか」
「いやいやではないと是非とも表明して欲しいものだね」
話している間に、裏庭を橙に染めていた夕日はすっかり紫色へと飲み込まれ、もうじきに沈んでしまいそうです。影はどんどん深くなり、あっという間に夜のとばりが王城と街のぐるりを囲みました。
「わたしは、あなた様のものです」
ようようそう告げた時、先ほどまでわたしを包んでいた王子の姿はなく、かわりにあの方と同じ黒い目をした青毛の馬があの方の立っていたところに佇み、じっとこちらを見ていました。――それで、わたしにも分かりました。太陽が沈むと馬に姿を変える、これこそが、魔女からの『祝福』なのだと。
けれど、わたしの気持ちに変わりはありません。
「お慕いしています」
こちらからも見つめ返して再び告げると、馬になった王子は嬉しそうにわたしに鼻先を擦りつけてきました。
わたしたちを、なんと滑稽なと笑う人もありましょう。
なんと不遇であることだと憐れむ人も。前世での罰を受けたのだと訳知り顔で吹聴する人も。
でもけして、わたしとこの方は不幸せではありません。二人の未来を決定的に絶っていた身分は、魔女の呪い――ほんとうに、祝福なのかもしれません――によってうばわれましたから。
ここにはいられなくなった代わりに、王子はもう自由なのです。どこへ行こうと、誰と愛し合い、どのような生き方をしようと。
青毛の馬が、高くいななきました。わたしの耳にそれは、姿を変えた王子の心からの喜びとして聞こえました。
いつも裏庭では遠巻きに警護されていた方の一人がわたしの傍へやって来て、初めて「そろそろ出立いたしましょう」と声を掛けてくださいました。どうしても携えてゆきたいものなど持たないわたしは、躊躇せずに「ええ」と頷きます。そして青毛に近付き、そっと声を掛けました。
「さあ、参りましょう」