7章:告白は戸惑いと
戸渡と打ち合わせをして決めた、今回の食事はイタリアンだった。
チェーン店ではなく、ちょっと良いお店を提案されたので驚いた。初めて一緒にご飯を食べたときは気軽なアメリカンなピザ屋だったために。
まるで、これはデート。
思ってしまって幸希は自分を諫める。
そういうものではない。
単に、自分は先輩で、そしてあちらから近くに来る用事があって。
それだけ。
それでもその日はいつもよりも少しかしこまった格好をしてしまった。
普段から職場には制服がなく、オフィスカジュアルで良いことになっているのだが、ちょっとだけ休日にも着ているようなかわいいものを取り入れた。デートなどでなくても、ただの後輩でも、男性と一緒に食事に行くのだから、という理由付けで。
「お疲れ様です」
予定通り定時退社ができて、幸希が外に出るとそこに戸渡が待っていた。
「どこかに入っていて待っててくれてよかったのに」
一応駅前なのだから、近くにカフェなどもたくさんあるのだ。暑い折、こんな道路のそばで待っているのは暑かったろう。
「いえ、そこまで時間なかったですから。五分くらいしか居ませんでしたよ」
確かに18時に定時だから、その10分後くらいには出られる、とは言ったけど。本当に五分だけだったのだろうか、と思いつつも確かめるすべはない。
「ごめんね、きてもらっちゃって」
二人で歩きだしながら言うと、戸渡はさらりと否定する。
「そんなことないですよ。むしろお付き合いありがとうございます」
「ううん、……」
ちょっと言うか迷った。
けれど、口に出してみる。
「誘ってもらえて嬉しかったよ」
「本当ですか!」
戸渡は、ぱっと顔を輝かせた。
ああ、また褒められたワンコのような顔をする。
無邪気で人懐っこい顔だ。
「僕も先輩とご飯食べたかったんですよ。今日行くところですね、パスタの種類がとても豊富で、麺の種類、あ、太さとかですね、そういうのから選べて……」
今から行く店について色々と話しはじめる。
戸渡は話も上手い。そもそも新木課長から助けてくれたあたりから、コミュ力も話術もあるようだ。
彼女はいないと言っていたけれど、どうしてだろう。
背の高い横顔をちらりと見上げながら思った。
これほど性格も良くて、顔もなかなか。彼女の一人や二人すぐできるだろうし、早ければ結婚などしていてもおかしくないのに。むしろそのほうが謎だと思う。
「ここです」
細い道を入った先。
洗練された印象の、ちょっとかわいらしくもある外観の店だった。
「素敵だね」
「そうでしょう」
幸希が褒めるとまた嬉しそうな顔をする。
中も外観と同じだった。
白い木のテーブルと椅子。まさに女の子が好みそうな店だった。
こういうところ、男の人は普通は彼女とくるんじゃ。
思ったけれど、戸渡に「飲み物はなににします?」と訊かれて考えるのをやめておいた。
「飲みますか?」
お酒にしますかと訊かれたのはわかったけれど、明日も仕事だ。
「今日はノンアルにするよ」
それは普通の返事だったと思うのだが、戸渡も「じゃあ僕もそうしましょう」と言った。
「いいんだよ?飲んでくれて」
飲みに行ったことも一度あるのだし、そのときも複数杯飲んでいた。それなりに酒は好きなのだろうと思ったのだが。
「実は車なんですよ。駅チカのパーキングに停めてて」
言われたことに納得する。それでは酒は飲めない。
ここのお店は少し街中で入り組んだところにあって、停めづらいので駅前に停めたのだろう。
「そうだったんだ。あ、営業車?」
「いえ、今日は自分の車で」
あれ?内見で直帰って言わなかったかな。
なのに自分の車で?
内見ということは、普通は会社の車を使うものだと思う。ちょっと不思議に思った。
「なににしますか?」
流されてしまった。
意図的なのかそうでないのかはわからないが言われて、引っかかったことは置いておくことになってしまう。
それでも店にきているのだからとりあえず注文しないと。
思った幸希は「飲み物はジンジャーエールで……パスタはどれにしようかな」とメニューを見た。
「コースにしますか?そうするとパスタが二種類選べますよ」
やりとりをする。
戸渡は自分のメニューを幸希に見せて、色々指さしてくれた。
もう夕ご飯の時間。ダイエットをしていてお昼を控えめにしているので、おなかはずいぶん空いていた。
今日だけはダイエットのことは忘れて食べてもいいかな。せっかく人と食べるんだし。
思って幸希は「このコースにしようかな」と決めた。
すると戸渡は「じゃあ僕もこれで」と言う。
「え?好きなの選んでいいんだよ?」
男の人には少し少ないかもしれない。
思って言ったものの、戸渡はさらりと言った。
「同じものが食べたいです」
その言い方はかわいらしかったけれど、言われた内容にはどくりと心臓がざわめいた。
一体どういう意図なのかさっぱりわからない。
食事に誘ってくれたことから、外で待ってくれていたことも、ノンアルに付き合ってくれたことも、ほかにも色々と。
勿論幸希とて子供ではないのだ。それが示すこともなんとなくわかる。
でもこれほど優しい気遣いを受けたことはない。
わかる、けれど実感としてはわからないし信じられない。
だというのに、どきどきしてしまっている幸希をよそに、戸渡はなんでもない話をしてくるのだ。
「今日見てきた物件、なかなかおもしろいところだったんですよ。半地下になってて、ちょっと隠れ家みたいな」
「内見っていっても身内だったんです。親戚で……来年大学に入る子なんで下見も下見ですけどね」
「なので、まぁ……ちょっと遊び的なやつで」
幸希はそれに相槌を打つしかなかった。普段、積極的に話ができていたことはもう飛んでいた。
しかしそれもご飯がくれば落ち着いた。とても綺麗に盛り付けられていて、おいしかったので。
「このパスタ、もっちりしていてとてもおいしいね」
幸希が言葉少なだったのは気付いていただろう、戸渡はほっとしたような顔をして同じようにパスタをフォークで巻き取った。
「お店で作っているそうですよ。生パスタだそうです」
「そうなんだ。道理で」
前菜、サラダ、スープ、パスタ、そして肉料理。
一番品数の少ないコースだったのでそれだけだったけれど、幸希にはじゅうぶんでおなかいっぱいになった。食後の紅茶を飲みながら、「とってもおいしかった!」と満足の笑みを浮かべてしまうくらいには。
「気に入ってもらえて良かったです。先輩と一緒に食べられて嬉しかったですから」
こうやってまたどきどきさせてくるのだ。
困る、と思う。
嬉しいけれど、どういう反応をしていいのかわからないから。
お会計は割り勘だった。「ワンコイン以上ですからね」なんて茶化したことを言いながら、それでも端数を少し多めに払ってくれた。
「車で来たって言ったよね。どこに停めたの?」
店を出て、さぁ帰ろうと幸希は言った。
そして戸渡も「駅前の、ちょっと裏の道で……そこしか空いてなかったんです」と答えたのだけど。
歩き出そうとしたとき。
不意に右手になにかが触れた。それがあたたかかったものだから幸希は仰天してしまう。
思わず、ばっとそちらを見たのだけど、戸渡はただ微笑んだ。
「行きましょう」
そのまま歩き出したけれど、幸希はパニックに陥っていた。
右手があたたかい。戸渡の大きな手にすっぽり包まれてしまっている。
手を繋いでいる?
いや、繋いでいるとはいえないかもしれない。
幸希からその手は握り返せなかったのだから。ただ握られるままになるしかない。
今までの彼氏はやはり、こんなことをしてくれなかった。
抱きしめることはされたし、することだってされたけど、手を繋ぐということをしてくれたひとはいなかった。
つまり、そのくらいには大切にされていなかったのだろう。
こんなことはある意味、初めてのデートのようなものであった。
どうしよう、どうしたら。
そこで初めて思い至る。
帰るつもりだった。
でも戸渡がそんなつもりでなかったら?
待ち合わせをして、食事をして、そのあとこんなことをされたら。『行くべき場所』だってあるかもしれない。
それを想像した瞬間、頭の中は沸騰してしまう。経験がないわけでもあるまいに。
男として見ていなかったわけでも、彼氏候補として見ていなかったわけでもあるまいに。
そこまで考えが及んでいなかったのだ。
もう戸渡のほうは見られなかった。
俯いて悶々とするしかないのに、戸渡の口調はまるで変らなかった。少なくとも、変わらないように聞こえた。
「今度は中華とかどうですかね」
「恵比寿でおいしいお店を見つけたんです」
「上司に連れてかれたんですけどね、はじめは面倒だと思ってたんですけど……」
などなど。
でもなにを言われているのかわからなかったし、なにを言われているかなどどうでもいいことだったのかもしれない。取られている手がすべてだ。
駅のほうへ向かい、裏の道へ入り、人通りが少なくなってきた。
良かった、本当に駐車場へ行くのだろう。
幸希は少し、ほっとした。
けれど『ほんの少し』だった。
なにか言われるのだろう。それがなんなのかはわからないにしろ、恋愛的ななにか、違っても男女の仲に関連することであることははっきりしていた。
駐車場が見えてきて、幸希の心臓は破裂しそうになる。
結局ここまで手は握り返せなかった。
戸渡はそれをどう取っただろう。拒絶に感じただろうか。振り払いはしなかったけれど、明確な受け入れでもなかったのだから。
駐車場の、前。不意に立ち止まられた。
戸渡がこちらを見ているのがわかる。
そして一瞬あとには、幸希が想像したことが身に降りかかった。
取られていた手を離されて、伸ばされる。
あっと思ったときには胸に抱きこまれていた。心臓が一気に冷える。
喜びではなかった。そうでないとも言い切れないのだが、ただ一番大きいのは、戸惑い。
「鳴瀬先輩」
言われた声はとても近かった。耳元まではいかないが、頭のすぐ上から降ってくる。そのくらい背が高いのだ。
ぎゅう、と幸希を抱く腕に力がこもって。
「先輩が好きです」
言われた言葉はシンプルだった。
だというのに幸希の胸を今度は熱くする。
もう胸の中は熱いのだか冷たいのだかわからなかった。
不安、戸惑い、そしてきっと多少は嬉しい気持ち。ごちゃごちゃに混ざってどうしたらいいのかわからない。
どうすればいいのか。
本当はわかる。
「嬉しい」と言えばいいのだ。
彼に対する感情はまだ、はっきりとした恋心ではないかもしれない。しかしほんのりとそれに近いものはあるくらいは自覚していたし、それに彼と付き合っていけばもっと好きになれるかもしれないではないか。
だから受け入れてしまえばいいのだ。
絶好のチャンスだ。
だというのに、幸希はなにも言えずにいた。
「僕と付き合ってくれませんか」
幸希の返事を促すように、もっとはっきり言われたけれど。
やっぱりなにも言えなかった。喉が凍り付いてしまったようだったのだ。
自分がどうしてこんな反応をしてしまうのかすらもわからずに。
沈黙が落ちていたのはどのくらいだったか。
幸希がなにも言わないために決まっているだろうが、戸渡の声のトーンが落ちる。
Noの答えかもしれない、と思ったのかもしれない。
「嫌、ですか」
そういうわけではない、違う、断りたいわけじゃない。
けれどやはりなにも言えやしない。今までこんなことはなかった。
「嫌じゃ、ない、けど」
やっと言った。
けれどそれはなんの意味もない言葉だった。
そんなことしか言えなかったのは、それは彼があまりに優しいから。
ああ、そうだ。
今までは幸希から好きになったことばかりだったのだ。これほど誰かに好意を向けられたことはない。
きっと今まで付き合った彼氏たちには、その好意を察されて、そしてそこに付け込まれていたのだ。だから向こうはすぐに飽きたのだろうし、用が済めばさっさと幸希の前からいなくなった。
でも今、幸希を抱きしめている戸渡は違う。純粋に彼から好意を抱いて、それを伝えようとしてくれているのだ。
急に恐ろしくなった。自分から誰かを好きになることは知っていても、本当の意味でアタックされたことはなかったのだと思い知ってしまったゆえに。
「後輩としか、見られませんか」
訊かれても「そうじゃないけど」としか言えない。
曖昧過ぎる。
もういっそ、はっきり「ごめん」と言ったほうがましなのかもしれないほどに、煮え切らないことしか言えない。
「……すみません」
どう動いたら良いのかもわからなくなっていることだけは、わかってくれたのだろう。謝られる。
自分が情けなくてたまらなくなった。
先輩なのに。
恋をしたことがないわけでも、付き合ったことがないわけでもないのに。
こんなことは、初めて告白される学生にも劣ると思ってしまう。
「唐突すぎたかもしれません」
謝ったのは、告白をしたことにではなくその点についてだった。幸希が動けなくなった理由をそこだと思われたようだ。
こうしていても仕方がないと思われたのか、そっと身を離される。
戸渡に抱きしめる腕をほどかれて、幸希は思わず顔をあげていた。彼を見上げる。
どうしたらいいかわからない、けれど。
なにも言葉が出てこないけれど。
このままなにもなくなってしまうのは嫌だった。我儘が過ぎるというのに。
くしゃりと顔が歪むのがわかった。
「……そんな顔、しないでください」
戸渡は困ったように笑う。
そしてまた、沈黙。
どうしたらいいかわからないのは、きっと幸希ばかりではない。望みがあると思ったからこそ戸渡からも告白してきたのだろうし、それがこのような妙な空気になるとは想定外だっただろう。
「もう一軒、行きませんか」
不意に沈黙は破られた。
おまけにその言葉は想定外だった。てっきり「送っていきます」のたぐいのことを言われると思っていたゆえに。
もう一軒?どこへ?飲みに?それとも。
「帰せませんよ。そんな顔をされたら」
戸渡からの言葉はとても優しかった。言葉のままに、表情も。
告白してきたのだ、彼からも緊張しているだろうに、幸希を安心させるように笑みを浮かべてくれる。
優しくされている。
身に余るほどに。
あまりにたくさん与えられたそれは、幸希の心から零れてしまう。
そして外に出てきた。ぽろっと涙が零れる。
幸希がそれを自覚したのは、戸渡のほうからまた困ったように笑われてからだった。
「……やっぱり、帰せません」
「……あ、……ご、ごめ……」
謝る言葉すらすべて言えやしなかった。
「行きましょう」
もう一度手を取られて、引っ張られる。
幸希はやはり、その手を握り返すことはできなかった。そんな自分が嫌でたまらずに、ひとつぶ零れた涙が続いて出てきてしまう。
俯いた幸希に今度はなにも言わずに、車へ連れていかれて、そして助手席に乗せられた。
「駐車代、払ってきます」とだけ言って、戸渡は出ていく。幸希は乗せられた助手席で、ぎゅっとスカートを握りしめて見つめていた。
ぽたりと涙が落ちる。
もうどうでも良くなっていた。
妙なところへ連れこまれようとも。そうすることで彼になにか返せるのならば。
ただ悲しいのは、好意を素直に受け取れない、あまつさえ拒絶されたと思われても仕方のない反応しかできないことだ。
戸渡はすぐに戻ってきて、そして車を発進させた。
幸希はなにも言えずに車が走るままになっていた。
だというのに戸渡は、落ち着いた声で話す。
ただしそれは普通すぎる、なんでもない話だった。
「暑いですか?クーラーつけましたけど、効くまで少しかかるかもしれません。すみません」
「この間、芳香剤を買ったんですよ。営業車にも取り入れたんですけど、香りが強すぎなくていいなと思って……でも気に入らなかったら言ってくださいね」
車がどこへ向かうのかはわからない。
やはりどうでも良かったけれど。自分の思考だけでいっぱいになってしまっていて。
暗い中、二人の乗った車はスムーズに進んでいった。
どのくらい走っただろう。三十分くらいだったかもしれない。
車はどこかへ着いたようだ。駐車スペースらしきところへ入っていく。
ここはどこだろう。
思ったものの、すぐその思考は吹っ飛んだ。
「実は先輩とご飯ですから家まで送らないとと思ってて……それで自分の車で来たんですよ」
最後に言われた言葉。
たまらず幸希は顔を覆っていた。




