2章:オフィスに懐かしいお客さん
会社に来客があれば、お茶を出すのが幸希の役目。自然とそういうことになっていた。
別に男尊女卑というわけではない。
ほかの社員が営業職なので、来客が同業者であれば商談に入るし、客であればすぐに接客に移るし。仕事がパソコンへの打ち込みであり、少し手を離したとしても別段困ることもない幸希がおこなうのが効率的だというだけだ。
まぁ、女性が出したほうがウケがいいという理由は少しあると思うのだけど。
ときはまさに、夏の折。出すお茶も冷たいものにしていた。
朝、お茶を沸かして、事務所の冷蔵庫に入れて冷やしておく。来客があれば、それを注いで出すだけだ。簡単な仕事。
事務職である幸希は、昼休み以外ほぼずっと事務所に居るのだが、営業職の社員は外出も多いため、暑い暑いと愚痴りながら帰ってくることも多かった。そしてストックしてあるお茶を遠慮なくぐびぐび飲んだりするので、幸希はたまに辟易するのである。
それはお客様用です、なんて思っても店長クラスのひとには言えないのだし。
そしてそのような横暴なことをするのは、店長か副店長と決まっていた。そのたびに幸希は、まったく、と思いつつも再びお茶を沸かして、早く冷やすために無理やり冷凍庫に突っ込むのだった。
夏場は部屋を借りたいという客も少ない。よって、来客の半分ほどは同業者だった。
同業者というのは、賃貸物件の管理者、つまり持ち主であったり、別の会社の営業職の人であったりした。
同業であるので一応ライバルということになるのだが、協力し合うこともままあった。管理している鍵の貸し借りや、客との書類の仲介など。表面上はうまくやっていかねばならないのだ。
今日の来客も、同業者だった。
「こんにちは」
ちりん、とドアベルが鳴って誰かがやってくる。
あら、来客ね。
幸希のいる事務所からは、すぐには入り口が見えない。でも出迎えた営業の社員の会話でどんな人が来たのかはわかる。きたのは同業者のようだ。
「こいつ、今度店舗移動してきたやつです。よろしく」
「戸渡といいます。よろしくお願いします」
冷蔵庫からお茶のボトルを取り出しながら、ん?と幸希は引っかかるものを覚えた。
どこかで聞いたような名前、そして声だ。どこで聞いたのだっけ。
うっすらとした記憶ではわからずに、そのままお茶を淹れて事務所を出て、来客のためのソファのある場所へ向かったのだが。
『彼』を見てやはり引っかかるものがあった。知っている気がする。
ああ、どこで会ったのだろう。
しかし向こうは幸希のことがわかったようだ。ぱっと顔を明るくした。
「鳴瀬先輩じゃないですか!」
「え?」
暗めの茶色の髪は、襟足まであって、やや長め。たれ目の優し気な風貌の青年であった。
「ん?知り合いか?」
彼の横にいた、上司だか先輩だか……多少上の立場の者であろう男性が不思議そうな声を出した。
彼は「はい!」と元気よく答えて、そして自分を指さした。幸希が「知っているような気がするけど、思い出せない」という顔をしたのがわかったのだろう。
それは人によっては失望するような案件かもしれないのに、自分を指さしアピールする彼はひたすら嬉しそうであった。
「僕です!高校のときに、茶道部で後輩だった、戸渡 志月!」
「……あっ!途中入部してきた……」
そう言われてやっとわかった。高校時代、確かにこんな子がいた。
「そうそう!そうです!あー、そうですよねぇ、先輩とは半年も一緒に過ごせませんでしたし、忘れちゃっても……」
そうだ、彼は幸希が三年生のちょうど今頃の季節に入部してきた。どうしてこんな時期に入部してくるのだろう、と不思議に思ったことを思い出す。
でも忘れていたなんて失礼だろう。彼のほうは覚えていてくれたというのに。
「あっ、ご、ごめんなさい」
「いえいえー、仕方ないですよー」
彼はまるで気にした様子もなく、ただにこにこ言った。そこへ当たり前のように上司が割り込む。
「運命的な再会みたいだが、想い出話はあとにしろよ」
「あっ、す、すみません!」
彼は「あちゃあ」とばかりに髪に手を突っ込んで小さく頭を下げた。
「じゃ、じゃぁね」
「はい!」
動揺しながらも幸希は戸渡の上司にも小さく礼をして、その場を退散する。こんなところで高校の後輩に再会するなんて思わなかった。
まぁ、ありえないことではないだろう。
幸希の実家は、千葉。高校を卒業して大学を卒業したあと、就職のために都内へ出た。現在では都内で一人暮らしだ。
千葉から都内へ出るのはそう難しい距離ではない。つまり、通っていた高校と極端に離れてはいないといえる。実際、高校時代の女友達もまだ近くに多いのだし。
でも驚いた。
薄い壁の向こうの事務所の自分のデスクに戻りながら、ついつい聞き耳を立ててしまった。
戸渡ははきはきとした口調で「これまで恵比寿店にいましたが、この度、日暮里店へ配属となりました!」と自己紹介している。
へぇ、日暮里。あのへんだと扱っているのは日暮里、西日暮里、それから巣鴨とかかしら。
職業上、幸希はあのあたりの物件を思い浮かべた。
幸希の居る駒込店とはかなり近い。行動範囲も重なるかもしれない、と思った。
そのあとは自分の仕事に戻って、かたかたとキーボードを叩いていたのだが、話はほんの三十分もかからず終わったらしい。
「では、このへんで」という声や、がたっと席を立つ音が聞こえてきた。
普段来客があっても、別段機会がなければ見送りなどしないのだが、知り合いに会ったのだ。幸希も席を立って、社内へ出る。
幸希を見て、戸渡はまた嬉しそうな顔をした。
「鳴瀬先輩!お会いできて良かったです」
「びっくりしたけど、私もよ」
会うのが随分久しぶりとはいえ、後輩なのだ。敬語は使わなかった。
「またお邪魔することもあるかもしれないですから、よろしくお願いしますね!」
「はい、こちらこそ」
なんか、ワンコみたい。
思っておかしくなった。
ふわふわの髪と、長身の体躯。
高校時代とは変わってすっかり大人になった彼は、たれ目がちな顔立ちと明るい物言いのために、どこか大型犬のような印象になっていた。
「かわいい先輩に再会できて良かったな。じゃ、失礼します」
「失礼します!」
挨拶をして、戸渡とその上司だか先輩だかは帰っていった。ポーン、とエレベーターが音を立てて、二人は扉に消えていった。
「偶然だなぁ。高校時代の後輩とか、昔、付き合ってたとか?」
店長にからかい半分にだろう、言われたが幸希は「ただの部活の後輩ですよ」と答えたのだった。事実、そのとおりだったので。
しかし驚いた。事前に連絡も取らず、約束もせずに知人に会うことなどそうそうないだろう。
すぐに来客の空気は消え失せて、幸希は仕事に戻った。またキーボードを叩きはじめる。
でもなんだか嬉しかった。高校時代を懐かしく思い出してしまって。
戸渡との思い出はあまりない。
なにしろ幸希が高校三年生の夏休み前に入部してきて、半年も経たずに幸希は受験のために部活動を終えてしまったのだから。
幸希は今年二十八なのだから、きっかり十年前になるのだろう。十年前は制服を着て高校に通っていたなど、懐かしいが過ぎる。
戸渡の入部は唐突だった。部長の友達の女子が「新しい部員が入るから」と言ってきたのだ。「え、今?」と幸希やほかの部員の女子は言ったはずだ。
「そう!しかも男子よ!」
「へー。変わった子だね」
誰かが言った。
茶道部は極端に小さい部活ではない。男子部員もいるが、たった二人である。しかし彼らは二年生であったため、彼らのあとを継ぐにはちょうどいいのかもしれない、などとそのとき思った。
「なんか、やってた部活を辞めて新しいとこに入りたかったんだって」
「ふーん。それで茶道ねぇ、やっぱ変わってるわ」
そのように、部員からの評価は最初から『変わり者』であったのだ。
しかし戸渡が入部してしまえばその評価はすぐに薄れた。別に極度に変人というわけではなかったのだ。
明るくて、先輩の言うことはよく聞いた。
雑務も進んでこなした。
二年生の男子の先輩にも懐いたようだ。
溶け込むのは早かったのだが、いかんせん二学年も下で、そして幸希は特に部長や副部長などの役職にもついていなかった。単なる一部員だったのだ。
よって、世話をする機会も、そうなかった。なので「後輩の一人」くらいに思っていたし、向こうもそう思っているだろうと思っていた。
ただ、肝心の茶道の腕は悪くはなかった。
「叔母さんが茶道教室に通ってるんです」などと言っていたので、見よう見まねくらいはしていたのだろう。飲み込みも早かった。
しかし後輩としては、強いていうなら『多少優秀』くらいであったほかは、突出した印象も無かったのである。
そんな後輩と出会うなんてねぇ。
その日の夜。仕事を終えて、一人暮らしの自宅でまったり一人酒をしながら幸希は思わず高校時代のアルバムを取り出していた。
酒豪というわけではないが、気が向けばたまに缶チューハイ一本を開けたりする。それは疲れていたり、嫌なことがあったりしたときが多いのだったが、今日はなんとなく良い気分でチューハイの缶を開けた。
アルバムを見たところで、写っているのは同級生が過半数だった。
当時はケータイもそれほど普及しておらず、カメラ付きのケータイなど最新型で、持っている者などほとんどいなかった。ほとんどの者が持っているケータイの画面だってモノクロだったのだ。その後数年でケータイは目覚ましい進化を遂げたのであるが、まぁそれはともかく。
そのために、ケータイに懐かしい写真が残っている、ということもなく。高校時代の想い出を見るのであれば、古風ではあるがやはりアルバムなのであった。
ただ、そのうちの一枚に幸希は、ふと目を留めた。
それは部活で撮った集合写真だった。三年の秋、だったと思う。写真の人物は秋冬の制服、つまりジャケットスタイルであったから。
『当時の部員の想い出に』と集合写真を撮ったことをなんとなく思い出した。そしてその中に、ちゃんと戸渡は居た。
写真のメインは三年生で、彼は当時一年生であったので、はしっこに立っている。
その顔を見ればすぐにわかった。髪は少し長くなったし、染めたのだろう、ダークブラウンになってはいたが、顔立ちはほとんど変わっていない。少し精悍になったとは思うが。たれ目気味の優しい眼をしていた。
しばらくその写真を眺めて、幸希はぐびりとチューハイをひとくち煽った。
グレープフルーツのチューハイ。そのほろ苦さが、幸希を『今』に連れ戻す。
お酒などを、しかも一人で飲むような大人になっているのだ。
十年前。
私はこの子となにを話したろう。
考えたけれど、あまり思い出せなかった。部活の連絡や、単なる雑談しかしなかったのだろう。そのくらいに、彼の印象は希薄だった。