14章:甘やかさないで
翌朝目が覚めて、鏡を覗き込んで。
寝不足でくっきりできてしまったクマを見ながら、幸希はためいきをついた。
泣いてはいないので目は腫れていない。けれどひどいありさまであることに変わりはなかった。
今日はアイメイクを少し念入りにしなければ、と思う。濃いメイクは好きでないけれど仕方がない。
コンシーラーを使って、ファンデーションも少し厚めに……。
考えながらまずはキッチンへ向かう。
しかしこちらも問題があった。食欲がないのだ。
おなかがすくわけもないではないか。クマができるほど眠れなくて、悩んでしまったのだから。
でも一日仕事をするのだから食べないわけにはいかない。
ちょっと悩んで、幸希が取り出したのはダイエットシェイクのパウチパックだった。牛乳と混ぜるだけで、おいしいシェイクができあがる。
ダイエットをしようと思っていた時期があったので、そのとき買い込んでいた。チェックすると賞味期限もきていない。冷やしていないのでひんやりおいしい、というわけにはいかないが、別段味が変わるわけではない。問題ないだろう。
このシェイクは名前のとおりダイエット用だが、もともとの目的は『摂取カロリーを減らすこと』。
そしてそれだけではないところは、『必要な栄養素をカットしないこと』だ。
つまり、必要な栄養を摂りつつ、軽く食べたいときにも向いている食べ物でもあるのだった。
牛乳は買い置きがあったので取り出して、用量を測ってシェイクと混ぜる。
選んだシェイクは白桃味。
何味でも良かったのだけど。味を選んで楽しむ余裕などないのだから。
シェイクは数十秒で出来上がる。それを持って居室へ戻って、起きたときにつけたテレビの前に座った。
もったりしたシェイクをスプーンですくい、口に運ぶ。
一応、おいしかった。そのくらいはわかる。
しかしそれで心が明るくなるかはまた別問題。
このダイエットシェイクを食べるのが久しぶりであるように、ここのところ、ダイエットもさぼりがちだった。
もともと太っているというわけではないけれど、ダイエットはいくつになっても女子の重要項目だ。立派な女子であるなら、体型維持のために、痩せようとしなくても体型や体重を気にすることは欠かせない。
さぼりがちになってしまった理由は、志月とあちこちおいしい店に行っていたこともある。
それが楽しくて、幸せで。
体重計に乗るのもご無沙汰だった。
そしてそれは示していた。
体重や体型を気にしないくらいに、気を抜いてしまっていたことを。今まではこんなことなかったのに。
いかに彼氏に好かれ続けるか。
そのために綺麗な自分でいられるか。
綺麗であれば愛してもらえる、なんて自分に言い聞かせていたから。
志月に対してそれ……体型に気を遣ったりそういうこと……つまり『愛してもらう努力』がなかった理由は明白だった。
心配しなくても、向こうから与えてもらっていたからだ。
溢れるくらいに、たっぷりと。
それに慢心してしまっていたこと。今ならわかる。
その思考は断片的に幸希の頭に浮かんだけれど、なるべく深く考えないようにした。
反省はしなくてはいけない。
けれどそれは今じゃない。
今必要なのは、感情を殺して、日常をこなして、会社へ行ってきちんと働くこと。昨日のことをどうこうするのはそのあとになってしまうが、社会生活をする以上、仕方がない。
これも言い訳だけど、なんて内心呟いて、次にまた、心の中だけでため息をついた。
そんなことを考えながらも黙々とシェイクを食べて、ごちそうさまでした、と呟く。
シェイクを食べたカップとスプーンを洗ってしまったら、次は顔を洗って、メイクだ。
いつもより丁寧に顔を洗って、そのあといつもより丁寧にメイクをした。
下地を塗ったあとにクマの上にコンシーラーのペンシルを慎重に乗せながら思う。
今までの恋を。
恋をしてこうなったこと、クマを作るくらいに眠れなくなったり、もっと悪くして泣いたせいで目を腫らしてしまうようなこと。今までにもあった。
というか、好きであった彼氏に何度も振られていたのだから当たり前かもしれない。
当然のようにそのたびに傷ついて、泣いて。
振られたそのときだけではない。
彼氏が自分を見ていない。
自分に飽きた。興味がなくなった。
それを察知した時点でもうクマを作るくらい心を痛めてしまったものだ。
でも志月にはそれがなかった。
だって、向こうから言ってくれたのだ。
優しくされることを教えてあげます、と。
だからその言葉に、気付かないうちに甘えすぎていたのだろう。
思いあがっていた自分が嫌になる。最初はあれほど優しくされることを恐れていたのに。
人間の順応性がうらめしかった。
ほしかったもの。
手に入ってしまえばあって当たり前のことなんだと誤解して、思いあがってしまうようになる。
おまけに『嫉妬した』と指摘されて恥ずかしくも怒ってしまったのも、志月に甘えていたのだろう。近しい友達や家族にするように声をあげてしまったことが、それを示していた。
優しい志月はそれを許してくれるだろう、なんて無意識に思って、また甘えて。
謝らなければいけなかった。全面的に自分が悪い。
最初からわかっていたけれど、いや、口に出してしまう前から嫉妬の感情なんて感じたことすら自分が悪いとわかっていたけれど。
ああ、ほんとに最悪の事態、負の連鎖。
思いながらもベースができたあとはいつもどおりの手順でメイクをした。
オフィス用の、控えめなメイク。もう意識しなくても簡単に作れる。
朝ごはんもメイクも終わって、あとは着替えだけ。もう随分寒いのだからカーディガンの上に、薄手のコートも必要。何故か今日はいつもより余計に寒く感じた。
こんな気持ち抱いていたら当たり前か。
思って、カーディガンをいつもより少し厚手のものにしておいた。体だけでも冷やさないようにしないと、と思って。
支度ができて、誰もいない家だけど一応「いってきます」を呟いて。
そのあとの一日は流れ作業だった。
オフィスに着く。
掃除をする。
出勤してきた同僚に挨拶をする。
事務所で席について、毎日の入力作業。
こなしながら、こんな無為なこと、まるで志月と再会する前のようだ、と思った。
いや、志月と再会する前だったら、今より日々は楽しかった。彼氏が居なくても「まぁいいか」と思ってしまうくらいには。
でも今はそんなこと思えない。
それは志月がたっぷりと愛をくれたから。
優しくされることも愛されることも、そこからえられる幸せも教えてくれたから。
ああ、もう自分は彼無しではいられないんだ。
思ったときは流石に胸が痛んだ。
涙が込み上げて、でもオフィスだったので無理やり飲み込んだ。パソコンの液晶を睨みつけて。
謝らないと、と思う。
仕事上がりにラインをしてみようと思う。
スマホの画面越しではなく、実際に会って「ごめん」とは言うつもりだ。
けれどその約束だってあらかじめとりつけなければいけないし、でも志月が「はい」とか「いつにしますか?」とか言ってくれるとは限らない。
「頭を冷やしたい」とか……最悪「もう別れましょう」と言われるとか。
しまいにはそんなネガティブな思考すら浮かんだ。自分の心が弱ってしまっていることを思い知らされる。
ダメ、そんなことは悪い妄想だから。
嫌なことを思ってはそのように自分に言い聞かせながら過ごす一日は、嫌な意味でとても長かった。
「お疲れ様でした」
退勤して外に出るなり、幸希はスマホを取り出した。
本当は、心のすみで少しだけ期待していた。志月のほうから連絡してくれるのではないか、と。
そんなことはやはり甘えであるので、それも自己嫌悪に繋がったのだけど、浮かんでくる思考としてはどうしようもなかったのだ。
それはともかく、しかし志月から連絡はなかった。
スマホは沈黙したまま。家族や友達からすら連絡がない。今日はそれがちょっと寂しかった。
でも連絡がないなら、こちらからするまで。
ちょっと悩んだけれど、オフィスから少し歩いたところにある公園へ入った。ベンチに腰掛ける。
歩きスマホは危険な上に、入力する内容をよく考えられない。
かといって、カフェに入る気分でもない。
それよりは少しだけ真剣に考えたあと、もう家に帰ってしまいたいという気持ちだった。
ベンチの頭上には綺麗に色づいた黄色いイチョウが葉をつけていたけれど、それを見る余裕は今の幸希にはない。
画面を見つめて、ゆっくり入力していく。画面の活字に丁寧もなにもないのかもしれないが、少しでも真摯にできるように。
『昨日はごめん』
まずはそれだ。
今はスタンプで誤魔化していいところではない。
『会って謝らせてくれる?』
悩んだものの、最終的に選んだ言葉はそれだけだった。
でも、それだけでいいような気もする。色々言い繕ってもただの言い訳であるし、大体スマホでやり取りをしたくないと思っていたので。
数秒悩んで。
てい、と内心つぶやいて、送信アイコンをタップした。
しばらく画面を見つめていた。心臓がどくどくと騒ぐ。
けれどすぐに既読がつくことはなかった。
まぁそうだろう。営業の志月はまだ仕事中だろうから。
既読がつくのを見るか、それとも返信がきたとき、また心臓が高鳴ってしまうのは確実だったけれど、とりあえず帰ろう。
一応の『やること』はなしとげて、幸希は家へ帰るべく駅へ向かった。
混んでいるホームへ上がって、電車を待って、乗り込んだのだけど。
そこでぶる、とスマホが振動した。予想していたように、幸希の心臓は跳ね上がる。
やってきたのは幸希の望んでいたように、志月からの返信だった。
そしてもうひとつ。
予想していたのと同じ。
志月からの返信のはじまりも『僕もすみませんでした』でした。
謝らないで。
思って胸が痛んだ。
責めてくれていいのだ。
別れる、とは言ってほしくないけれど。
でも、『幸希さんが悪いです』とは言ってほしい。
図々しかった自分を諫めてほしい。
なんてまた勝手なことを思って。
『早いほうがいいですよね?今日、ご飯一緒にしませんか。定時であがれますから』
続いてやってきたメッセージを見て、今度こそ、幸希の目の前がじわ、と滲んだ。
これを見ただけでわかる。
志月は「別れましょう」なんて言わない。許してくれるつもりなのだ。
『ごめん、ありがとう。予定は大丈夫』
『良かった。じゃ、場所は……』
素早いやり取りで、時間も場所も決まった。
幸希の家の方向ではないので、電車に乗りなおさなければいけない。けれどそんなことは些細なことだった。
幸希は次に止まった駅で電車を降りる。逆側のホームへと向かった。
そして進んできたのと逆方向、つまり戻る方向への電車に乗った。
待ち合わせは30分後。まだ遠くまできていなかったので、じゅうぶん間に合う。
都内のほうへ向かう電車だったので、それほど混んではいなかった。けれどそれなりに人はいて、座席は埋まっているし、立っている人もちらほらいる。
それらに交じってつり革を握りながら、幸希は暮れつつある車窓の風景を眺めた。志月からメッセージをもらったことで、少し落ち着いたのだ。
それでも思う。
今回のこと。
忘れないようにしなければいけない。
志月が許してくれたって、それに甘えてはいけない。
嫉妬するのは仕方がないにしても、ゆがんだ形で出してはいけない。
素直に伝えるか、別のところで消化するか。そうするべきだったのだ。
そうして、次はもう繰り返さないように。
とりあえず明日はダイエットシェイクを買いに行こう、と思った。
「……こんばんは」
待ち合わせをしていた駅前の広場で会って、顔を合わせるのは非常に気まずかった。再会してから、志月に対してこんな気持ちを抱いたことはない。そしてそれは志月も似たような表情だった。
「お疲れ様です」
言われて、はっとした。仕事上がりならばこちらの挨拶のほうが適切だ。
「あ、お疲れ様!……です」
言ったあとに、なんだか気まずくて「です」など付け加えてしまった。
志月がそれに、ちょっと困ったように笑った。
「行きましょうか」
でも言われたのはそれだけ。なので幸希も「うん」とだけ言って、志月の隣に並んだ。並んで、志月の行くほうへついていく。
会う前に駅のトイレでメイク直しをしてきた。クマだってもう一度コンシーラーとファンデーションを塗って隠しなおしたし、アイシャドウとリップも少し濃くした。
厚化粧ではないけれど、オフィスメイクよりは一歩進んだメイクを。恋人に会うのだから。
歩く間、手は繋がなかった。
一緒に歩いて、毎回手を繋いでいるわけではない。
けれど、会った日は一回は手を繋いでいる。今日は右手が妙にすかすかして感じた。
志月もそう感じてくれているだろうか。左手を寂しく思ってくれているだろうか。
でも幸希から手は伸ばさない。
ちゃんと謝って、許してもらって、元通りの関係に戻れるまで。
それをする資格は自分にはない、と思う。
志月が幸希を連れて行ったのは、小さなイタリアンのお店だった。
定時後だ。おなかは空いている。緊張でそれどころではないというのはあったけれど。
それでも食べるものは欲しかった。お茶では足りない。
「なににしますか?」
メニューを差し出してくれて、志月は言った。
けれどその内容は幸希の頭にちっとも入ってこない。なんだかどれも同じに見えてきてしまって。
実際、そうだったのだろう。
今重要なのは、なにを食べるかではない。
なにを話すかなのだから。
結局無難に「ナポリタンのセットで」などにしてしまって、志月も「じゃあ僕も同じで」などと言った。
そしてそこで、一応の準備は整ってしまう。
ちゃんとしないと。
自分に言い聞かせて、すう、と幸希は息を吸い込んだのだが。
「幸希さん」
その前に志月がなにか言おうとした、のだと思う。幸希の名前を呼んだ。
ぎくりとして幸希は思わず言っていた。
ちょっと大きめな声をあげてしまって。
「ストップ!」
幸希の勢いが良かったからか、声が大きかったからか。
志月はわずかに身を引いた。
「……なんですか」
1、2秒黙ったあとに、志月は言った。
ちょっと不満そうだった。彼は彼で、言おうとすることを決めてきたのだろうから。それを遮られれば不本意だろう。
「志月くん、謝るつもりでしょ」
でもそれを言わせるわけにはいかない。
幸希は言った。
志月が「遮られるとは思っていなかった」という表情で、返事をする。
「え、……いけませんか」
その返事に対する態度は決まっていた。
今日一日で思い切ってしまった幸希は、きっぱり言う。
「ダメ。だって、悪いのは私だから」
志月はなにも言わなかった。
なにも言えなかった、のかもしれない。幸希がそのような言い方をするのは初めてだったので。きっと想定外だったのだろう。
今まで通り優しく接して、「いいんですよ」なんて許してくれる気だったに決まっている。
でももうそれには甘えられない。
「……そういうところ、甘やかさないで」
一拍置いて、幸希はそのとおりのことを言った。
志月がごくりと息を飲んだのがわかる。
数秒黙り。
でも言ってくれた。
「……わかりました。ではもう謝りません」
幸希は、ほっとする。
そこへサラダが運ばれてきた。
けれど食べているどころではなかった。幸希はフォークに手を伸ばさなかったし、志月も同じだった。
サラダはテーブルに放置されたままだが、幸希は、ばっと頭を下げた。
「ごめんなさい。なにから謝ったらいいか、わからないけど」
言った。
志月はしばらく黙っていた。
なにを言ったらいいのかわからないのだろう。彼にとっては想定外の展開になっただろうから。
「でも、一番謝りたいのは、……嫌な言い方して、ごめんなさい」
それでも志月はなにも言わない。
事実なのはわかってくれるだろう。
嫉妬したことより、声をあげたことより。
嫌味を言うような言い方になったこと。
それが一番。
「……それは、僕もですよ」
やっと、という様子で志月は言った。
今度はそれが幸希の想定外であった。
きっと「そこはそうですね」などと言われると思っていたのだ。
志月は笑みを作った。『作った』といえるくらい、努力した、という様子ではあったが。
「幸希さんの気持ちを考えないような言い方をしました。そこは全面的に幸希さんが悪いんじゃありません。幸希さんにそういう言い方をさせたのは僕です」
「……またそうやって」
志月の言ったことはやはり優しすぎた。
幸希は思って、言う。なんだか拗ねたような言い方になってしまった。
そこで志月はまた笑顔を作って、だろうが、少なくとも笑顔を見せてくれる。
「いえ、事実です。甘やかしじゃありません」
「……志月くんは、優しすぎるよ」
幸希はそう言うしかなかった。志月が『甘やかし』たり、もしくは幸希の機嫌を取るためなどではなく、本気でそう思っているだろうことがわかったから。
このやさしいひとに大切にしてもらっていること。有り余る幸福だったのだ。
志月の言い方ひとつ、表情ひとつ。
でもそのすべてから幸希に伝わってくる。
「言ったでしょう。好きなひとには優しくしたい、と」
それは幸希に告白してくれた日に、あたたかいカフェラテを前に言ってくれたこと。
「僕はそういう気持ちを忘れたくありません」
きっと志月の気持ちはあの日と同じなのだ。
忘れたくない、なんて思わなくてもこのひとは変わらないと、幸希は思った。だって、そこが彼の根幹なのだから。
「幸希さんにも悪いところはあったかもしれません。でも僕の態度だって完璧じゃなかったんです。だから、……仲直り、しましょう」
言われて、幸希の表情は崩れた。
泣きたい気持ちになって。
でもそれは、嬉しさから。
泣き笑い、というのだろうか。涙はこぼさなかったけれど。
「それは私が言うべきだったんだよ」
「あ、取っちゃいましたか……すみません」
志月は言って、そしてくすっと笑った。
今度は作った笑顔ではなく、本当の笑顔だ。幸希にはわかった。
心の中が熱くなって、すぐにでも志月に抱きつきたくなったけれど。
それはすべてディナーを食べ終えて、店を出てからにしておいた。
「食べましょう」
「僕たちの仲直りを祝って」
と言ってくれた志月とパスタをおいしく食べたあとに。




