13章:ほころび
「銀行までおつかい頼むよ」
良く晴れた日のことだった。
店長が依頼してきた、何気ないおつかい。銀行で通帳を記帳してくる簡単な仕事だ。
営業を駆り出すまでもない。事務の幸希が、ちょちょっと行ってくるだけでいいのだ。
それどころかオフィスに閉じ込められているのを堂々と抜け出せるので、たまに頼まれる『おつかい』……今日のように銀行とか、あとはちょっとした備品が切れたとか……そういうたぐいのものは、幸希にとってまるで負担になるものではなかったといえる。
よって「はーい」と通帳をミニバッグに入れて銀行へ向かった。
銀行はオフィスから歩いて10分ほど。通り道にスタバがあるので、帰り道にたまにはおいしいコーヒーでも買ってオフィスに戻ろうかと幸希はうきうきとした気持ちで道を歩いていった。
そして帰りに寄ろうと思ったスタバが見えてきたのだけど。
しかしそこで目に入ったのは、よく知った人物であった。
昨日も会った。志月だ。
ああ、そういえば今日は休みだと言っていたっけ。お茶でも飲みに来たのかな。
ちょっと声でもかけてみようと、恋人として当たり前のことを思ったのだけど。
幸希の足はとまってしまった。
志月はスタバから出てきて、外のオープン席に向かっていく。手にふたつカップを持っていて、どうやら誰かと待ち合わせかなにかのようだ。
その先に何気なく視線を遣って、幸希の胸がざわりと騒いだ。
視線の先に居たのは、女性だったもので。同年代の女性に見えた。
「戸渡くん、ありがとう」
小さく声が聞こえた。
戸渡くん、と呼んだ。
それは志月と交際する前、幸希が呼んでいたのとまったく同じだった。
いや、目上の立場の人だったら名字に『くん』をつけて呼ぶくらい、当たり前かもしれないけれど。
早く行ってしまわなければ。
なんとなく、このままここにいてもあまり良いものを見ない気がしたので自分に言い聞かせたのだけど。
好奇心が勝ってしまった。そのことをあとから幸希は、盛大に後悔することになる。
「ミルクだけでしたよね」
志月の声も小さくだが聞こえた。
「うん。よく覚えてるね」
やりとりはまるで恋人同士。
え、まさか二股。
一瞬そう思ったけれど、すぐにそれは無いと否定した。
志月はそんな不誠実な男ではない。そういう信頼関係はしっかりあったし、大体こんな幸希の職場の近くで堂々とほかの『そういう関係の』女性に会うはずがないではないか。
そんな馬鹿なことをするはずもない。だから違うのだろうけれど。
二人は向かい合って席に座って、お茶を飲みはじめた。
数十秒、見ているだけでも楽しそうだった。
ごくりと幸希は唾を飲み込んでしまった。気分が悪くなりそうだったので。
あそこに座れるのは自分だけだと思っていた。
志月とあのようにお茶ができるのは自分だけだと思っていた。
でも違ったのだ。
それなりに仲のいいであろう女性とならば、あんなふうに向かい合って座って話すのだ。そんなこと、いい大人としては当たり前のことなのだけど。
大体、あの『仲の良さそうな』女性でなくても、たとえば亜紗など、そのくらい近しい相手であればああいう様子になるだろう。
それでも嫌だと思ってしまうのは仕方ないと言いたい。大好きな人に対してという意味であれば、やはりそれも当たり前のこと。
数秒、見てしまっていたけれど幸希はくるりと身をひるがえした。
スタバの前を通る気にはなれなかった。
志月に気付かれて「幸希さん」なんて呼ばれてしまったら。
こんなことを考えてしまっている姿、見られたくない。
だって絶対に、あの女性に対して嫌な態度を取ってしまうだろうから。
なんて心の狭いことだろう、と思う。
嫌なオンナ。こんな彼女、志月くんだって嫌だと思うかもしれない。
思ってしまってことがぐるぐると頭を渦巻いて。
わざと遠回りした銀行で用を済ませても、もちろんコーヒーどころではなく、同じく遠回りした道を通って、さっさとオフィスに帰ってしまった。
オフィスに戻っても、仕事を再開しても、幸希の気持ちは晴れなかった。
一瞬でも『二股』なんて思ってしまったこと。
そして志月がほかの女性と仲良くしていることを嫌だと思ってしまって、自分の心の狭さを思い知らされたこと。
そんなことを心に抱えていては楽しい気持ちになれるはずもないではないか。
もやもやとした気持ちのまま家に帰って、適当に食事を作って。
テレビを見ながらちまちまと紅茶をすすっていたところへ、スマホが鳴った。
電話だ。ライン通話。
『戸渡 志月』
名前を見てぎくりとした。
別に電話をかけてきたってなにもおかしくない。
おかしくないけれど。
今、あまり話したい気持ちではなかった。なんだか余計なことを言ってしまいそうだったから。
でも無視もしたくない。話したい気持ちも確かにある。
ちゃんと確かめたい。志月は昼間見た女性のものではなく、自分の恋人なのだと。
どうしようか、迷って、迷って。
十秒以上が経って、待機時間も切れそうになって幸希は観念した。スマホをタッチして、電話を取る。
「はい」
『ああ、幸希さん。すみません、取り込みでした?」
「ん……うん、ちょっとね」
なかなか幸希が出なかったからだろう。ほっとしたような志月の声。
それを聞いても幸希の心は晴れなかった。
おまけに『取り込み中だったか』なんて気を使ってもらったのに、返事を濁してしまう。
でも志月は特に奇妙にも思わなかったらしい。
『今度のデートなんですけど、二週間くらい空いちゃってもいいですか?ちょっと予定が立て込んでて』
現状予定は立っていなかったので、なにも問題はなかった。
普段ならば「うん、いいよ」と答えていたはずのそのこと。
今はそんな言葉、出てこなかった。だってあのような様子を見てしまったから。
『予定』とは。
『誰と会うのか』。
そんなことが気になってしまって、だめだ、だめだと思ったのにぽろっと口から出てしまった。
「……誰と会うの?」
『……?後輩ですけど』
志月は不思議そうな声を出した。幸希がそんなことを聞くとは思わなかったのだろう。
そうだ、こんな束縛するような言葉。今まで言ったことはない。
「水木くん?」
志月の後輩として知っている水木の名前を挙げたけれど、志月はそれを否定した。
『いえ、違いますけど』
しかし『違う』としか言ってもらえない。
具体的な関係や名前を挙げて貰えないことに、妙に気分が揺れた。
不安感や疑い、おまけにいらだちの方向へ。
ああ、こんなことつまらない女しかしないことなのに。
『……なにかありました?』
それには志月も流石に不審を抱いたらしい。ちょっと黙ったあとに訊かれた。
気付かれてしまったことでさらに自分が嫌でたまらなくなって、幸希は濁すようなことを言う。
「……なにかあったっていうか、……ごめん。ちょっと」
『……僕がなにかしましたか』
また、沈黙。
そのあと志月が言った。
幸希の胸がずきりと痛む。
志月はこういうひとだ。すぐに自分になにか非があるのではないかと心配してくれる。
けっして幸希が悪い、なんて責めたりしないのだ。
いくらおかしな様子を見せても。
不安がっても。
そんな弱さを見せたとしても。
だから今回も幸希が見てしまった、志月にはなんの非もないことに勝手に苛立っている、なんて疑いもしないのだろう。
年下だというのに志月のほうがずっと大人、というか人間ができているではないか。
思わずくちびるを噛んでいた。くちびるの薄皮がはがれる。
ちり、と小さな痛みが生まれた。けれど胸に詰まったたくさんのみにくい感情に比べればそんなこと、ささいすぎる。
「なにもしてないよ」
『でも幸希さんらしくありません』
言われて、今度こそはっきり苛立ってしまった。
私らしい、ってなに。
ほかの女の子と話しててもスルーできるような優しい彼女でいてってこと?
理不尽な怒りがこみ上げる。
その感情が幸希にその日見たことを言わせてしまった。
「今日、女の子とお茶してたでしょ」
幸希の言ったことで、幸希の思いを一瞬で理解したのだろう。
でも志月の声のトーンは変わらなかった。数秒の沈黙だけがそれを伝えてくる。
『……ああ。大学の先輩です。偶然会って』
「そう」
そっけない返事をしてしまう。
教えてくれたというのに満足できないなんて。
思ったものの、とまらない。胸の中が痛すぎて。
吐き出してしまいたかった。
本人にこんなこと言ってはダメだ。
わかっているのにここまで追い詰められては。
「優しそうだったね」
私にだけじゃないんだ、と云いたかったのは流石に思いとどまった。
そんなことを言うのは最低すぎるから。
ここまで言って今更かもしれないけれど。
『だって、女性ですよ。それなりに優しく接さないとでしょう』
当たり前のことを言われた。
「それはわかってる、わかってるけど……」
そんなことわかっている。
けれどどうしようもないのだ。だって抱いている感情は。
「……妬いてくれるのは嬉しいですけど」
はっきり言い当てられて、顔と頭の中が熱くなった。
それはふたつの感情。
羞恥と怒り。
志月に知られたくなかったし言われたくはなかった。
そういう気持ちをそんなふうにはっきり言うなんてひどい。
思ったとしてもはっきり言わないでほしかった。
言わせたのは自分のくせに。
そう思わせることを言ったくせに。
それなのにまだ自分を良く見せたいなんて。
このあとのことは志月の言葉に対してだけではない。自分に苛立ってしまったのもある。
「そういうふうに言わないで!」
幸希が志月に対して声をあげたのは初めてだった。
というか、これまでの彼氏にもしたことがない。家族や友達と喧嘩したり、そのときくらいだ。
「だってそうでしょう」
でも志月の声は落ち着いていた。
それがまた幸希の気に障る。
つまらないことをしている。嫌な女なのは自分だ。
非のない彼氏にこんなこと、こんな口調で言うなんて。
「ごめん。切るね。おやすみ」
やっと、それだけ言った。
こんなところで会話を終わらせるのはまるで逃げるようだった。事実その通りなのだが。
通話終了アイコンをタッチして、スマホを放り出して、ぼすんとベッドにダイブする。
やりきれない。
涙は出ないものの、枕に顔をうずめた。ふんわりした枕の感触も、今は幸希を慰めてはくれない。
志月ははっきり言わなかったけれど、そして幸希も具体的には言わなかったけれど、『ほかの女性とのやり取り』に幸希が気分を害したことは伝わってしまった。
そこから露見したであろう、自分の嫌な部分。言わなければ良かった、と今更思う。
一度は言うまいと思ったのに、衝動に負けて口に出してしまったことが悔やまれる。
でも。
このまま抱えていたら直接言ってしまったかもしれない。それよりはましだろうか。
思って、しばらく沈黙して。
幸希はごろんと転がって今度は枕を抱えた。壁に向き直って、うう、とうめく。
ましだとかましじゃないとか、そういう問題ではない。
嫌な感情はひとつではなくて、嫉妬だとか自分への嫌悪感だとか……たくさんありそうで頭の中はパンクしそうだ。
夜はまるで眠れなかった。
それはこれまで平穏な関係を続けてきた志月との、初めてのいさかいだった。