1章:マイペースでいい?
奢りは百円。もしくは五百円。
コインひとつ。
それが、彼との取り決め。
ルーティンワークは楽しいものではないけれど、つまらないとも言い切れない。新しい資料を渡されるたびに、幸希はその中からおもしろさを拾うことができていた。
小さなビルの5階、そこにあるやっぱり小さなオフィスが幸希の仕事場。
渡される資料は大概、部屋の物件情報。人気が無いのか、それとも物件自体になにか問題があるのか、何度も賃貸募集に出されて「またここか」と思う部屋も多いのだが、新築などの資料はおもしろい。
対面カウンター、豊富な収納など、キッチンの充実した設備。
寝室とリビングの間仕切りが屏風のように開閉できて、客が増えたときにはそこを解放して一時的に居室を拡げられる、便利な寝室。
写真もいくつか載っているので、それを見て「こういう部屋に住めたら便利で楽しいだろうなぁ」と妄想してみるのである。これらの物件資料をパソコンに入力していくのが、幸希の仕事である。
幸希こと鳴瀬 幸希の勤めているのは、賃貸を主に扱う不動産会社。いわゆる事務として勤務している。
本社はそれなりに大きくてそれなりに有名のだが、店舗自体は小さいものだ。
営業している会社としては『シルキー不動産』という名前。都内に10近く店舗を抱えている。
不動産会社にありがちなことに、ほかにこの店舗に常勤しているのは営業職の男性ばかりだった。それも若い男性が多い。一番上でも三十を少し越したばかりである。
この業界、それほど年齢のいっているひとは多くない。出世の早い業界であるために、早いと三十代半ばで役職持ちになって本社へ移転してしまうのだから。
幸い、会社の同僚も現在は、それほど悪いひとたちではなかった。一時的、社員の一人に、下ネタなどを振ってくるような軽いセクハラに悩まされたこともあったのだが、そのうち当の本人は別の店舗へ移転となった。
セクハラの件が本社かどこかへ伝わったのかはわからない。この会社は移動が多いので、単にそのせいかもしれなかった。が、もちろん幸希はそれにほっとしたものだ。
現在の同僚は比較的まともでおとなしいタイプが多い。
そして家庭持ちであったり、彼女がいたり。女性関係も落ち着いている者が多いようだ。そんなわけで、現在はある意味平和なものである。
とはいえ、幸希本人はあまり『落ち着いている』という分類には入らないのかもしれない。なにしろ、同僚の男性とは違って、決まった相手、つまり夫や彼氏がいるわけではないのだから。
幸希は今年、二十八になった。適齢期真っただ中だ。実際、友人たちはどんどん結婚していき、早い子であれば子供まで産んでいる。
が、幸希には雲の上の話であった。まともに男性と交際したこともないのだから。
結婚し、子供を考えるのであればそろそろ相手を定めて結婚していなければ、こころもとない。
一応、彼氏が居たことが無いわけでもない。二人ほど付き合った男性はいたものの、両方半年も持たなかった。あちらから振られてしまうのだ。
理由はわからない。ほかに好きな子ができたからだの、曖昧に濁されていた。
それでも相手を見つけなければと、友人に誘われて街コンなどに顔を出したこともある。けれど積極的に話しかけてくるのはちゃらちゃらした男性ばかりで辟易してしまって、それ以来、行くのをやめてしまった。
幸希はどちらかというと、おとなしい性格であるといえた。
外見も、あからさまに清楚というわけではないのだが、派手好みではない。肩より少し長めの髪を、ダークブラウンに染めていて、普段は毛先を少し巻くくらいで仕事をしている。
服装だって、量販店のお手ごろな値段のものと、時折ちょっとしたブランドのものを組み合わせている、雑誌に載っているような『着回ししやすいスタイル』である。見た目が悪いとは思わない。
『ごく普通の、どこにでもいそうな事務職の女性』。そのイメージ通りだろう。
なので『声をかけやすい』と思われるのかもしれないが、そう思うのはどうやら軽いタイプの男性ばかりのようで。幸希の好みとはかけ離れていた。
幸希の好み。
それは意外かもしれないが、ちょっとクセのある男性であった。
別に、変人が好きだというわけではない。ただ、なにか不思議な趣味を持っていたり(過去に交際していた男性は、大きなトカゲなどを飼っていた)、思い立ったからというだけで、ふらりと身一つで沖縄まで飛行機で飛んでしまったり。そういうひとのほうが「おもしろいな」「もっと知ってみたいな」と思ってしまうのであった。
けれどそういうひとにはなかなか出会えないし、前述のとおり、出逢ったとしてもうまくいかずに終わってしまうのである。こういうのは高望みなのかなぁ、と友人に相談したこともあるのだが「そうでもないんじゃない?」などと言われて終わる。
「結構そういうひと、いると思うよ」
「イベントとかだったら会えるかもよ」
「サークルとか入ったら?ちょっと変わった趣味のさぁ」
そう勧められるのだが、あまり気も進まない。貴重な休日をつぶしたくなかった。
つまり、恋愛に関してあまり積極的ではないのである。こんなことではいけない、とは思うのだが。結局なんの出会いもない、会社との往復になってしまっていた。
出会いはないけれど、幸希が『貴重な休日をつぶしたくない』と思うような趣味はある。
それは和服に関すること。たとえば和服で出掛けたり和雑貨のお店に行ったり、あるいはアンティーク着物を見に行ったりすることだ。
アンティーク着物に関しては、専門に取り扱っている店のほか、小さな催事やイベントなどがおこなわれることもある。
アンティークだけあって、もちろん気軽に購入などはできない。けれど、眺めているだけで楽しいものなのだ。
着物は十代の頃から好きで、頻繁には着ないのだがたまに着ることがあった。
夏場、つまり浴衣の季節は着る頻度も多い。祭などが特にない日でも、街中で着ていてもそれほど浮かないためである。
あまり目立つのは好きでなかった。なので友人と連れ立って出かけるときくらいしか着る機会もない。
そしてこの趣味はもちろん、男性とはなんの関わりもない。「着物を見るのが好きなの」と話したこともあったが、大概の場合「へぇ。今度会うときに着てきてよ」くらいの反応で終わってしまう。つまり、恋愛にはなにも役立たないのであった。
幸希が着物に興味を持ったきっかけは、高校時代、茶道部に在籍していたことだ。
それまでは友達同士で行く祭の浴衣くらいしか着たことがなかったが、高校に入学したばかりの頃。部活見学でたまたま覗いた茶道部を素敵だと思った。
きりっと着物を着こなし、お茶をたてる。幸希はどちらかというと、お茶よりも『着物を着てそれをおこなう』ほうに興味を持ってしまったのだったが。
なのでいくらか茶道はたしなんだものの、卒業以来は特にお茶の教室に通おうとも思わなかった。現在は疎遠である。
そして、日々は冒頭のとおり、ルーティンワーク。出勤して、パソコンに向かって打ち込みをして、そして会社の備品のチェックや発注といった雑務もおこなう。
そんな日々では、特に大きな事件も起こらない。平和なのでこれでいいような、なにか行動を起こして現状を打破しなければいけないような。
周りの友人たちを見ると焦りを覚えることもあるのだが、まだまだ結婚に至っていない子も多い。なのでずるずるとそれに甘えてここまできてしまった。結婚に至っていなくても彼氏がいる子が大半なのだし、本当なら焦らなければいけないと、わかっているのだけど。