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僕たちは暗闇の中へ埋もれるようにして歩いて行った。
人間の目は暗さに慣れると言っても、それこそ猫みたいに平気で歩けるわけじゃない。閉園した遊園地はやっぱりとても暗かった。ペンライトなんて気休めにもならない。それでも、僕の隣でヒサは歩いていた。
道なんて知らない。ただ、何にもぶつからないからまっすぐ歩いていただけだ。
そんな時、声がかかった。ヒサの声じゃない。もちろん僕のでもない。ふざけた調子の場違いなほどに陽気な声。
「おやぁ? こんな時間に子供がいる。イケナイ子供だなぁ」
間延びしたその口調は、暗闇の中では奇妙なくらいにブキミに響いた。ハッとして振り返ると、そこにいたのは一体の着ぐるみだった。長い耳に茶色と白の体、大きく開いたままの赤い口。二本足で立っているその下半身には縦縞のパンツをはいて、それを星のバックルのついたベルトで止めている。
まるで舞台の上のように、その着ぐるみにスポットライトが当てられていた。そのスポットライトがどこから発せられているのか、他が暗すぎてそれはぼんやりとしかわからない。
うさぎのピエロとでも言うべきか、その着ぐるみはおどけた仕草で頭を掻いてみせる。
ヒサに訊ねるまでもなくわかった。閉園したこの浦野ドリームランドのマスコットキャラの着ぐるみだ。
そんなことはわかる。でも、問題は中身だ。着ぐるみが自動で動くはずがない。中に誰かが入っている。それが誰なのかが問題なんだ。
僕はそれを考えた瞬間に背筋まで凍るような恐ろしさを感じた。あの着ぐるみが今にも大きな包丁を構えて襲って来るかも知れない。そんな風に思ってしまった。それくらい、貼りついた着ぐるみの笑顔が怖かった。闇が僕の思考をそういう風にマイナスにしてしまうのかも知れないけれど、この着ぐるみが無害だとは思えなかったんだ。
僕は後ずさる前に隣のヒサに視線を落とした。そうして、愕然としてしまった。
僕の隣には誰もいない。ヒサはそこにいなかった。
着ぐるみはあはは、と腹を抱えて明るく笑った。
「どうしたの? 君は一人だよ。君は一人、このランドに迷い込んだ仔羊さ」
「そ、そんなはずない! 僕は友達と一緒で――」
震える声で、それでもやっと言い返した。
闇の中、何も見えずに歩いた。隣にいたヒサはその途中で攫われてしまったんだ。僕はそれに気づかず、隣にヒサがいるものと思い込んで歩いていた。
ヒサも今、一人で恐怖と戦っているんだ。そう思ったら、僕の恐ろしさは少しだけ薄れた。
早くヒサと合流してここから脱出しなければ。
僕は自分のやるべきことを冷静に考えた。怯えている場合じゃない。手遅れになる前に急がないと。
噂なんてと馬鹿にしたものじゃなかった。子供が消えるという噂は本当だった。
犯人はこの着ぐるみ。それと共犯者がいるんだろう。
ここから逃げたら警察に駆け込もう。夜間外出を叱られはするだろうけれど、そんなことを言ってもいられない事態だ。
「トモダチねぇ。トモダチ。君が何を言おうと、まあいいんだけどさ――」
そこで着ぐるみは胸に手を添え、僕に向けて深々とお辞儀をした。慣れた仕草に感じられたのは、たくさんの来園者をこうして迎えて来たからだとぼんやり思った。着ぐるみは顔を上げると、今度は白手袋の両手を広げて言った。
「ようこそ、裏野ドリームランドへ! 今宵はお客様を退屈させない素晴らしい時間が訪れることをお約束します! さあ、素敵な夜の始まり始まり!」
パァン、と着ぐるみが合わせた手から発せられたとは思えないような甲高い音が鳴った。
その途端、着ぐるみの背後からメロディが聞こえて来た。楽し気に弾むような音楽。誰でも知っている、有名なオルゴール曲。
メロディが響いた理由がわかった。それはメリーゴーラウンドの音だった。着ぐるみの背後に、七色のシャボンみたいな光をまとったメリーゴーラウンドが出現した。もともとそこにあったのに、周囲が暗くてライトアップされるまで僕が気づかなかっただけなのかも知れない。
丸く、天辺が尖った屋根。中央の柱、床の縁、どこも綺麗に闇夜に浮かび上がる。
数頭の白馬の中に大きな車輪の二人乗りの黄金馬車がひとつ。明らかに飾りの華奢な車輪。それらがゆっくりと廻る。廻る――。
幻想的で見惚れてしまうような光景。
ぼんやりとメリーゴーラウンドを眺めてしまっていた僕は、その時になってようやく気づいた。本来、メリーゴーラウンドの馬には、その腹から背中に貫通するような棒が、床から天井まで伸びているんじゃなかっただろうか。その棒が白馬を上下に動かしていた。
僕はあの単調な動きが少しも楽しそうに思えなかったから、学校行事でよその遊園地に行った時でさえ乗りたいとも思わなかった。横目で通り過ぎただけだったけれど、確か支えの棒はあったはずだ。
あの棒がないのはどうしてだろう。そもそも、あの白馬、作り物にしてはリアルだ。今にも息遣いが聞こえそうなくらいに。すべてが眠っているみたいにまぶたを閉じているけれど、作り物の馬にまぶたなんてあるものかな。
そんなことを考えてしまった僕は、再び着ぐるみが手を打った音で我に返った。その音は僕に向けられたものじゃなくて、メリーゴーラウンドの馬に向けられていた。そのうちの一頭がメリーゴーラウンドの枠の外へ出た。軽やかに後ろ足で跳んで、そうして僕の前に着地した。音はほとんどしなかった。
子供が乗る馬だから、仔馬くらいの大きさだ。白いけれど、その白さはペンキだろう。生き物のぬくもりが少しも感じられない体だ。それなのに、機械仕掛けとは思えないような滑らかな動きで、生きた馬のようにそこにいる。小さく、ブルル、と鳴いた後、硬そうな歯の音がした。
この馬はどうやって動いているんだろう。そんなことよりも、今にも僕に襲いかかるんじゃないかと思う。開いた目は赤く、危険信号みたいに光っていた。その赤色に僕が身震いしたのは不思議なことじゃないはずだ。
なのに、着ぐるみはさも可笑しそうに腹を抱えながら笑った。
「あはは、なんだ、怖いの? こんなところに自分からやって来たくせに怖がりだねぇ」
「そ、それはっ」
僕が来たかったんじゃない。来たがったのはヒサだ。
「でも、この馬が君の命を預かってくれるんだよ。この馬に乗って見事出口まで駆け抜けてごらんよ。そうしたら君のことは逃がしてあげる。それくらいのチャンスはあげるよ」
着ぐるみは大きく開いたままの口に手を当て、ふふふ、と笑った。灯りに照らし出される目が、少しも笑っていない。着ぐるみなんだから当たり前だけれど、それでもとても怖い。
命――。
そのひと言に僕の心臓が縮んだ。手足が冷たくなる。汗が、噴き出したというよりも塗りたくられたように感じられた。
この着ぐるみが口にすると、命がとても軽いもののように思えてしまう。でも、そうじゃない。
なくしたらそれまでだ。僕は二度と生き返らない。
なんだろう、この状況は。僕はそんな場合じゃないってわかっているのにほうけてしまった。着ぐるみはつまらなさそうにぼやく。
「ほらほら、ぼんやりしてる場合じゃないでしょ。もたもたしていたら、君、死んじゃうよ?」
あはははは――。
楽し気なメロディの中で着ぐるみのくぐもった笑い声が響く。僕はその声にゾッとして、目の前の白馬にしがみつくようにして不格好に、それでも足をかけつつやっと乗れた。馬はひんやりと冷たくて、やっぱり生き物の熱も臭いもしなかった。
「よし、じゃあスタートだね。健闘を祈るよ」
パァン、とまた甲高い手を打つ音が馬の前足を上げさせた。この作り物のどこから声が出るのかわからないけれど、耳元に聞こえた声は確かに馬の鳴き声だった。
蹄がアスファルトを蹴る。ふわっと、最初の一歩は空にも浮かぶほどに高く跳んだ。僕は悲鳴を上げる間もなく馬の首にしがみついて着地の衝撃に備えたけれど、思ったほどの衝撃はなかった。本当にメリーゴーラウンドに乗っているみたいだ。
馬の上から僕は一度だけ後ろを振り返った。あの着ぐるみはその場で灯りに照らされながら僕に向けて手を振っていた。
――ヒサは無事だろうか。
僕はただ逃げるだけじゃいけない。ヒサを探さないと。
この狂った園から二人で無事に逃げ出すんだ。