第1章 エステレル
第一部 旅立ち
ラリサの住むメルス村は、警護のため、村の周囲をぐるりと外壁で囲っていた。
壁の外には森が広がり、小高い丘へと続く、ちょっとした里山になっている。
彼女は見晴らしの良い丘の上に、居を構えていた。
これもメルス村を守る「バルテオ」としての、役割であった。
丘を取り巻く森の中。
「シド! 待ちやがれテメー! あンだけ砂糖を舐めるなっつーたろーが!!」
おたまを振り回し、逃げまどうシドを追うラリサ。
「砂糖は高価で貴重な医薬品なんだぜ! 舐めるなら安い蜜にしとけっつーの!」
「だって、お砂糖のほうが甘くて美味しいんだもんー!」
トロウルの子供、シドは、森の中を逃げ回る。
だが、この森はラリサの庭も同然。地の利に長けたラリサの相手ではない。あっという間に捕まえられ、頭をおたまでしこたま殴られた。
木製の楽器を叩くような、カポーンという良い音が森にこだました。
えぐえぐ泣きじゃくるシドを連れて、「いいから帰るぞ!」と再び丘へ向かおうとするラリサ。
しかし、魔法的な何かが、シドの心の奥に触れた。
(何の気配?)
シドは緊張で、体を硬直させる。がさがさと草むらを何かが移動している。
獣ではない。獣は、こんな気配を放たない。
「やあ、ご無沙汰しています」
どこからか、男性のような声がした。シドは草むらから覗く、黒い目を見つめていた。
――小さなウサギに見えた。黒い目の小ウサギは、あっさりとシドに捉えられ、やはり硬直していた。
「おうよ。今日も薬草摘みか?」
「はい。いつも快くご許可をいただき、有難うございます」
ラリサは会話の途中で、ウサギを捕まえて困惑しているシドに気づいた。
「何やってんだ? 客人はこっちだぜ、シド。初対面だろ、挨拶しろよ」
ハッと気づくと、シドはラリサの隣に、見たこともない人物の姿をとらえていた。
長身痩躯の……性別が良く分からないや。不自然な山吹色の長いばさばさした髪に、犬みたいに白目が見当たらない緑の目。ぞろりと引きずるほど長い、白地に緑の模様のローブを着ている。
「私は薬師のエステレルと申します。ラリサにご許可をいただいて、この森で薬草を摘ませていただいています」
差し出された骨ばった蒼白の手には、幾つも指輪が光っている。
――怖い。死神の手みたい。
咄嗟にシドは身を引いた。
「こいつ、ニセモノだ! ラリサ、こいつは生きた人間じゃない! ツクリモノだよ!」
シドは警告のつもりで叫んだ。
再び、ラリサのおたまが振り下ろされ、パカーンと良い音が森に響いた。
おそるおそる見上げると、ラリサは少し怒っているようだった。
「シド、見た目で安易に人を判断するな。変わった眼をしていたら、人間じゃないのか? ニセモノなのか? エステレルは俺のダチだ。外見がどうであろうと、俺はこいつの人間性を、心を信じる」
ラリサはそう言って、少し哀しそうなエステレルに、シドの非礼をわびた。
だが。
「……ラリサ。とっても言いにくいのですが、シドくんは呪われていますよ」
エステレルから、意外な言葉が飛んだ。
シドは(何言ってるんだ、こいつ)と思い、ラリサは(まさか)と言った顔で、エステレルを見た。
「シドくんの手にしているウサギを見てください。先ほどまで小さかったのに、今では立派な大人ウサギです。ラリサも身長が少し伸びましたよね。シドくんには、時の呪いがかけられていると思います」
なんだってー!!
ラリサとシドは同時にそう胸中で叫び、シドは慌ててウサギを放した。
「それって解除できるのか?」
「やってみましょう」
「お前がか?」
「……私は、机上の魔術師です。解呪の魔法の理屈だけなら、知っています」
「ちょっと待て。理屈だけ、って、理屈で魔法って使えるもんなのか?」
「さあ? 何しろ、やったことがありませんし……」
魔術師ってみんな、魔法が使えるわけじゃないんだ! シドは2人の会話に驚いた。
と同時に、不安が募ってきた。
「私は、魔術師といっても、研究専門ですからね。だから薬師と名乗っているわけで……」
「うるせえ! いいからシドをとっとと解呪しろ!」
ラリサに首根っこを掴まれ、ずるずると連れていかれるエステレル。
シドは後を追いながら、自分の身にこれから何が起きるのか、心配で胸が潰れそうになっていた。