僕が小説を書く理由のための小説 2章
2章
1
目覚めると、祐一郎は独りで、病院のベッドに横になっていた。四人部屋で、白い壁と水色のカーテンで周りを囲われている。点滴の針が左肘の内側につながれていて、無色透明な薬剤がぽたぽた落ちて流れこんでくる。
部屋のなかがうす暗いから、夕方か夜だろう、と気がついて、祐一郎は急いで上体を起こす。あの翌日だろうか。何度目の夜なんだろうか。衝動的に、だけどゆっくりと布団をはいでスリッパを履き、点滴台を引いてカーテンの外に出る。
右手に病室の扉、左手に窓があったので、祐一郎は窓に近寄り、窓ガラスに触れながら外を眺めた。
空に夕日が真っ赤に燃えていて、見覚えのある成関駅のホーム看板を照らしてた。ということは、ここは成関駅前の総合病院だろうか。病室に戻って考えたけど、カレンダーも時計も置いていないので隣のカーテンのなかの人に聞いてみることにする。
「はあ、成関総合病院です。……日にち? 十二月七日ですよ」
と右足をひざ上までギプスで覆われている中年の男性が、眠そうな声で教えてくれた。
ということは、三日も経ってるってことだ。男性は、ここが成関総合病院で、時刻は五時五分前とも教えてくれた。祐一郎は礼をいい、疲れを感じてベッドに戻った。点滴の残りがもう少ないので、もうすぐ看護師がやってきて詳しい話が聞けるだろう。そう考え、天井を見つめてぼーっとしていた。紙もペンも、携帯も本もテレビカードも飲み物もないので、ぼーっとするほかになかった。気がぬけていたのでちょうどよかった。
麻衣と花の会話が思いだされてくる。あいつらはなんていってたっけ? ……そう、ワクチンだ。
――「麻酔入りの『ワクチン』だよ」
――「『ワクチン』ってことは、あたしも元に戻せるの?」
ワクチンを打たれたから、僕も、まだ、生きてるのか。
祐一郎はため息をつく。と、入口の方のカーテンが揺れて、見覚えのある少年が姿をあらわした。
「あ……どーも」
剣治がちょっと驚いたように整った眉を動かし、片手をあげて白い歯をみせる。
「花ちゃんかと思いました?」
「まさか。点滴が終わりそうだから、看護婦さんが来ると思ってたんだよ」
「ああ、そうっすね」
「きみは、その……」「お見舞いっす」「なんだって?」「お見舞い。……花ちゃんをいまウチで預かってて、それで頼まれるんすよ」
祐一郎は信じられないという顔で少年を見た。
「生きてるか死んでるか見てきて、って」
「なんだそりゃ」
といって祐一郎が笑うと、少年もつられて笑った。
「どこも、骨折してないって聞きましたよ。不死身っすね」
「……そうなのか」
祐一郎はベッドに座ったまま手足をぶらぶら振ってみた。たしかに、彰良にこっぴどく殴られたはずの箇所もふくめて、どこを動かしてもあんまり痛くない。
「僕が不死身なんじゃない。サトリって生き物の生命力がすごいんだろ?」
といい、祐一郎は迷いながら、なにが起きたか知ってるかと聞いた。剣治が少しのあいだ病室のぴかぴかした床に視線を落としてから、顔をあげてうなずいた。
「先生がやらかしたってことは聞きました」
「花からか?」
「いや。彰良から」
「またか。きみ……っていうか、きみたちは一体なんなんだい? 秘密なのかもしれないけど、僕はずいぶん首をつっこんじゃったんだし、ちょっと教えてよ」
「彰良は個人的な知りあいなんすよ。アレっす、友だちっす」
「ウソだろ」
「信じてくださいよ。『信じるものは救われる』」
といい、剣治が胸の前で十字を切ってみせる。
「もっと寛容に、信じるものも信じないものも平等に救えば良いのに。……きっと僕は神様に救ってもらえるほど信心深くない」
「まじめな話をすると、まだ先生は、首をつっこむところまでは踏み込んでないんすよ。せいぜい鼻がぶつかってるくらいっす」
彰良が短く刈っている頭を片手で撫でた。
「花ちゃんには、いま、事情を説明して、俺たちの側に来るようにって説明してるんすけど。あいつはそれを拒否してるんで、先生に説得してほしいんですよ。『祐一郎と一緒にいる。そうでなければ死ぬから』……って言うんです」
剣治の言葉が意外だったから、祐一郎は何度かまばたきをした。
「なんだそりゃ」
花の口がどう動いたら、そんな言葉が出るんだろう。反応を伝え聞いて、喜んでしまう自分がいるのが、情けない。
――それに、『俺たちの側』っていうのは、結局なんなんだろう。
どういうことで何が起きてるのか、祐一郎には剣治の話を聞いただけではわかりそうでわからない。
そこへ中年の看護師がやってきて、目を丸くしながら点滴の針を抜き、気まずそうに急いだ様子で出ていった。後を追うように、剣治も来たときと同じく片手をあげて行ってしまう。別れ際、住所と電話番号を書いた紙を残していった。
しばらくして、祐一郎は医師の部屋に呼ばれ、説明を受けた。あしたには退院できるという。服や鞄や財布は三日前に倒れたときのものがそっくりそのまま保管されていた。
自由をとり戻して最初に、祐一郎は小銭を握りしめて病院に併設のドトールコーヒーに入り、カウンターの席の小さな椅子に腰かけた。自分には考えることがある。出来るだけ良く考えるために、熱いコーヒーが飲みたかった。運ばれてきたブレンドに口をつけると、びっくりするほど苦かった。
2
翌日の午前中に退院すると、祐一郎はアパートに帰って荷物を置き、昼過ぎのバスに乗って成関高校にむかった。校長と教頭、同僚教師にと、会う人ごとに頭を下げ、快復を報告する。祐一郎としては、午前中の無断欠勤を詫びるつもりでいたのに、学校で出会った人はみんな、祐一郎が交通事故で入院したと信じてた。
昨日のうちに、祐一郎の友人を名乗る人物から連絡があったそうだ。
「きみが怪我をして明日休むかもしれないって話でさ。電話を受けたのはあたしなんだけどね。……ありゃ、一年の狩野君だと思うよ」
剣治のクラスを受け持っている野々原先生が、人通りの途切れた廊下の端で祐一郎をつかまえ、そういって目を細めた。
「……本当ですか?」
「ウソだよ。……にらむなよ、おい!」
祐一郎は頭を抱えながら投げやりに礼を言う。
「はあ。ありがとうございます。その、悪いですね」
「気にするな。愛は年齢や立場や性別の障害を乗り越えてこそ光り輝くんだ」
野々原先生の目が光り輝いていた。
「勘違いです」
「またまたまたまたまたまた」
「じゃ、言いふらしてもいいの?」
「マジ勘弁してください」
「うん。じゃあ英世一枚で勘弁してあげよう」
「……はい、はい。あげますから、もう」
祐一郎は財布を取り出し、冗談だよとか何とかいう女教師に無理やり千円札を握らせると、背中をむけて声だけでさよならを言う。それから業務連絡のプリントを鞄にしまい、校門をくぐって、また駅前行きのバスを待った。
バスの最後尾のシートに深く腰掛け、祐一郎は昨日もらった紙切れを取り出し、スマホの
液晶画面に地図を表示する。成関町○番地△△番と書いてあるここが、狩野剣治の家なんだろうか。千円を渡した野々原先生によれば、少年は昨日から体調不良で欠席ということだった。
剣治に渡された住所を調べ、行ってみると、古びた小さな教会が建っていた。白っぽい三角屋根とごちゃごちゃした模様のステンドグラスが、庭に生えた木々の隙間から覗いている。鉄製の門は開け放されていて、インターホンがついてない。祐一郎は二、三分、立ち止まって迷い、敷地に足を踏み入れた。
「こんにちは。……なにか、お困りですか?」
と教会の建物に入る手前で、横から声をかけられた。庭の花壇の前で、水色のプラスチックのじょうろを右手に持った女性が、祐一郎のほうを向いている。
「こんにちは。あの、僕は日々野といいまして、成関高校で教師をやってる者です。狩野剣治くんのお宅はこちらでしょうか?」
祐一郎は会釈しながらそう聞いた。
顔をあげて頷いた女性は、襟ぐりの狭い長そでの黒のワンピースと、黒くて平らな革靴を身に着けた、若いか年寄りかわからない顔立ちをしていた。祐一郎の挨拶を聞くと、大股でこちらに近づいてきて、黒く細長い両目で祐一郎の目のなかを覗き込むように見つめてくる。それから女性はもう一度小さくうなずくと、この教会のシスターだと名乗り、驚いたことに狩野剣治の保護者だとも言った。
「あの子は孤児で、身寄りがありませんから。ご存知ありませんでしたか?」
「いや、その……すみません。ぼく、非常勤だったもので」
祐一郎がきまり悪い顔をして認めると、シスターがにこやかにほほえみ、黙って両開きの扉を開いてくれた。
「どうぞ、中へ。お話を伺います」
教会へ足を踏み入れると、冷たく湿っぽい空気が祐一郎の頬をヒリヒリと刺した。うす暗い礼拝堂を、修道服に包まれた背中について歩く。正面にある説教壇のほうへは行かず、壁伝いに進んで隅っこの細い通路をくぐり抜け、6畳ほどの角部屋に案内される。
小さな白いドアを押して女性に続くと、白い漆喰の壁で囲われた暖かい室内で、花と彰良が丸い木製テーブルについていた。彰良が座ったまま片手をあげて会釈をし、花が立ちあがって祐一郎を見た。
祐一郎は両腕をだらっと下げて少女を見つめる。二人のあいだをシスターが靴音を鳴らして通り過ぎ、テーブルの奥の流し台で水の音をさせ、ほどなくシューっという湯の湧く音が聞こえてくる。
少女と向きあったまま乱れた呼吸を繰り返したあとで、祐一郎は乾いた唇をゆっくり動かした。
「生きてたんだね」とバカみたいな言葉があふれる、「えっと、その……よかった」
「バカ、みたい」と立ったままの少女も言う。
祐一郎は片手をあげて顔をおおった。生ぬるい涙が手のひらと指を濡らす。花が音もなく近寄ってきた。小さな手のひらが震える背中をさすってくれる。部屋の奥でシスターが動いていて、コーヒーのいい香りが漂ってきた。
四人分のコーヒーを淹れると、シスターが二人を椅子に誘った。祐一郎は一個、花は二個、彰良は4個もの角砂糖を入れ、それぞれスプーンでかき混ぜた。シスターはブラックで飲むといった。
「私と彰良さん、それから剣治は――人間でない者のための組織に属しています」
女性は天木海理と名乗った。明るい部屋のなかで見ると、髪の毛に白いものが混じり、口元には細かい皺が浮いている。初めの印象より、年を食ってるみたいだ。それにしても、『人間でない』という雰囲気はまとっていない。
「人間でないって、そのう……彰良と、天木さんも?」
「私はただの変わり者の人間です。彰良も、人間ではあります。彼は天才ですけど」
「海理がただの変わり者で、俺が天才なわけねえだろ。嫌味のつもりか」
といって彰良が甘くしたコーヒーを半分ほど一気に飲む。天木さんが微笑みを浮かべて彰良の目を見た。
「嫌味じゃなくて、おだてたんです、私」
「余計にタチが悪い。おい……祐さんも海理には気をつけなよ」
「まあ失礼な」微笑んだままそういうと、天木さんが音もなくコーヒーを口に含む。
祐一郎はおずおずと口を挟む。
「すると、ふ、二人は人間なんですね。それで、なんていうか、二人が入ってる組織っていうのは、どういう……?」
「そうですね」シスターが唇を薄く開けたまま漆喰の壁を眺めて聞いた。「祐一郎さんは、神を信じますか? 神様がいると思いますか?」
「ええ? 僕は、その、あんまり。すみません」
「例えばの話ですが、この世に神も悪魔も天使も実在するとして、彼らが勝手気ままに振る舞うとしたら、社会はどうなるでしょう?」
「そりゃあ、そういうことがあったなら、何もかもが混乱する、でしょうね」
「理解が早くて助かります。わたしたちはその混乱の予防と収束のため、戦国時代に結成された『当事者団体』なんですよ」
シスターと彰良が荒唐無稽で実際的な話を始めた。 三人と同じテーブルに並ぶと、祐一郎は、まわりとの差を意識してしまう。シスターもまた、人間とは別の雰囲気をまとって見え、ひどい気後れを感じた。
主にしゃべるのはシスターで、彰良が時々、大きな体を窮屈そうに揺すりながらうなずいたり、合いの手を入れたりした。
「花さんや、渉さんのような、人間とは異なった能力を持った存在は、人間社会で、排斥されずに生き延びることが困難な場合があります。ただ生きていくだけのことが、ね。そして、だからこそ、誰よりも神と祈りを必要とする存在なのです」
「海理の言うことは話半分に聞いてくれ。コイツは理想主義者だからな」
シスターが否定せず、目を閉じてほほえんだ。
「ええ、しかも、理屈っぽい……ね。でも、彰良だって理想主義者のくせに。ね、私たちは、現状に留まることを諦めたのでしょう?」
「そういうことじゃない、俺が言いたいのは、部外者を困らせないよう、わかりやすく話したほうがいいってことだ」
といって、彰良が海理を制して説明しだした。昔々、少数の化け物たちは、気ままに暮らしてた。ところが人間たちが共同体を形成して数を増やし始めると、状況が変っていった。共同体は少数の例外を見つけ出し、利用するか、排斥するか、どちらかの方向に力を振るい始める。
「少数の化け物たちが、圧倒的多数の人間連中に一方的に利用されないよう、団結して交渉を始めたってことさ」
彰良の話を聞いて、祐一郎の頭のなかで渉の最期が繰り返された。
「だったら、あなたたちはなんで、渉を、その……ほっといたんです?」
無意識に、喉の奥から非難の声が上がる。
「ごめんなさい。我々も、『サトリ』がどの程度の存在か、計りかねていたんです」とシスターが声の調子を落とす。「もっと迅速に介入するべきでした」
うなだれた海理の胸元の肌がハッとするほど白くて、祐一郎は息をのんだ。今さら何もならないって気がついて、いたたまれなくなって口をつぐむ。
――渉は、死んだ。僕が見殺しにしたんだろ。
シスターと彰良の話は荒唐無稽に思えたが、しだいに祐一郎は内容を理解していった。 すでに渉と花に出会っていたという経験が大きかった。剣治が現れたことや、彰良の忠告など、予備知識があったおかげで、腑に落ちる点もいくつかあった。
二人の話の要点は、三つあった。一つ目は、彼らの組織のことで、規模が大きく全国にまたがっているうえ、海外の同じような組織とも交流があるそうだ。二つ目は、海理自身のことで、元々は医者だったけど、明らかに人間ばなれした患者の治療に関わるうち、その存在をもっと理解したい、救いたいという気持ちが芽生えたのだという。そうして、非公式に人でない者たちの治療を始めてから数年後、その組織にスカウトされ、現在は千葉県支部長を務めているという事だ。
そして、三つめは、彼女らの組織が花を引き入れたいということ。
「わたしたちが何者なのか、はっきり明かせないのは残念ですが……共に行動するのが、あなた方にとって最善だと思います。例えば、花さんが怪我をしても、病気にかかっても、診てくれる病院はありません。しかし、我々なら助けられます。そういった、お二人の安全の確保と、生活の保障のために、です」
とシスターがいう。ほかに方法は無いと言いたそうな口ぶりだった。
「人間にも、そうでない者たちにも、等しく安らぎと祈りが必要だと、私は思うんです」
説明の途中で、そういって海理が胸の前で十字を切る。
「それで、つまり?」
とそれまで一言も発しなかった花がたずねた。
「……我々と、一緒に行きませんか、花さん?」
シスターが花に提案と微笑を投げかける。
祐一郎は花の反応をうかがう。少女の顔は表情に乏しく、どんな風になっても成りゆきに任せると達観してるみたいに見えた。そんな無表情で、花が首を横に振った。ゆっくりと弱々しい動作だった。
――例えばこいつは、シスターの言う組織のせいで死ぬようなことになっても、受け入れちゃうんだろうな。
祐一郎も花が死ぬのがいやで、まだ側に居たいから、同じように首を振った。
二人の気持ちを受け取ると、シスターがコーヒーカップを静かに置き、数秒間、祐一郎の顔をまっすぐに見つめてから、ニッコリ笑った。それが返事だった。祐一郎は場違いに顔を赤くして頷く。シスターの笑顔がすごく可愛かったからだ。
「何か困ったことがあったら、いつでもいらしてください」
別れ際、シスターがそういって差し出した手を、祐一郎はおずおずと握った。見た目に反して大きくて硬い、働き者の手のひらだった。
「私たちはあなたの味方とは限りません。ですが、私は、助けになりたいと思っています」
教会の入り口で、四人は二人ずつに分かれて向きあう。静かになってる彰良に、祐一郎は聞く。
「……彰良さんは?」
彰良が眉をあげ、小さく鼻を鳴らす。
「俺がどうかしたかい?」
「うん。どう思うかな、と思って」
と祐一郎があいまいに言うと、声を出さずに笑い、体を揺らす。
「海理がいうことなら、俺も文句ない」
「へえ」
「逆らうと怖いんだよ」
祐一郎は思わずシスターの顔を見た。
「ふふ」
海理、と名前で呼ばれたシスターが、またさっきみたいに可愛く笑う。髪には白髪が多く交じっているが、表情が若々しい。歳は四十近いだろうけど、それを感じさせない。
それじゃあ、と手をふって、祐一郎と花は連れだって歩きだす。少女がダウンコートのボタンを一番上まで留め、冬なのにサングラスをかけ、黒い毛糸の帽子をかぶってる。祐一郎は片手を伸ばし、帽子を引っ張って脱がせる。頭のうしろでまとめた銀色の髪の毛があらわれ、教会の庭で木漏れ日を浴びてきらきら光る。花が立ちどまり、両手で頭を隠して祐一郎を見あげる。
「もう、いいんだよ。誰かに見られても、外国人と間違うぐらいで済むよ」
「ほんとうに、そうおもう?」
祐一郎は奥歯を噛んでうなずき、花の帽子を自分のバッグにしまって歩きだす。乾燥した冬の風が、コートの背中に吹き付ける。行先は祐一郎が渉や花と暮らす前に住んでいて、借りたままになっている1Kのアパートだ。
3
真っ暗な駐輪場に、原付代わりに買った自転車を停め、階段を上ってアパートの二階のドアを開ける。狭い玄関で靴を脱ぐ、祐一郎の目の前で、花が湯気の立つ鍋をかき回してる。小柄な体ごとくるりとこっちを向いて、口から赤い舌を出した。
「ごめん、失敗しちゃった」
といって、失敗したらしいパスタを花が皿に盛りつけていく。
祐一郎は泣きだしそうになって、脱いだコートを玄関のフックに掛けながら、ばれないように目元を拭いた。花の優しさがウソみたいで、胸が苦しくなる。
「なに、失敗したの?」
「パスタがすっごく塊になった!」
皿の上を見ると、もうミートソースをかけた後でよくわからなかったけど、麺の端が三本くらい束のままくっついてしまってるのがある。
味に変わりないだろうから気にしなくていいよ、と祐一郎が慰めると、花が唇を尖らせた。
「祐一郎はわかってないね。パスタの味はね、微妙なさじ加減で決まるんだよ!」
そういって、花が芝居っぽく、灰色のパーカーに包まれた胸を反らしてみせる。……なんでこいつ、失敗したのに偉そうなんだ?
祐一郎は取り合わないことにして、返事の代わりに笑い声をあげる。水色の台布巾を手に取り、四畳の部屋の真ん中にある黒いちゃぶ台の上を丁寧に拭いた。
「ありがと」と台所のほうで花が首をかしげる、「でも、着替えないの?」
「ちょっと、出かけるんだ」
「これから?」
花が目を丸くした。その赤い目で、祐一郎の心を読み取り、口にする。
「あー、麻衣と会うんだね。久しぶりじゃない?」
祐一郎は笑ったままうなずき、冷蔵庫から麦茶を出して透明なグラスに注ぎ、クッションを二つ、フローリングの床に並べる。心を読まれたおぞましい感触を消し去りたくて、笑いを顔に貼りつけていた。
ミートソーススパゲティは美味しかった。深皿の底に残った最後のひき肉をフォークで口に運び、祐一郎は腰を浮かせる。二人分の食器を重ね、流し台の前に立つ。
花がお礼をいい、クッションをずらして壁際に移動すると、壁に寄りかかって『ハーモニー』の文庫本を開いて読みはじめる。
「その本、前にも読んでなかった?」
「うん、読んだよ。いま四回目。この本、おもしろいけど、あたしには難しいからさ」
花が目だけを祐一郎にむけて答えた。視線を宙に漂わせて、つづけて言う。
「あたしさ、小説家になりたかったな。そしたら、あたしみたいなのでも、生きていけたかもしれないのにね」
唐突な告白に虚を突かれて、祐一郎はよく考えないで返事を言う。
「今からでも、書いてみれば、いいんじゃないか?」
「出来なかったんだよ。何べんも書きはじめたんだけど、いっつも途中で話が脱線していっちゃってさ。どうしても、おしまいまで書き上げられなかった」
祐一郎はあいまいに頷いた。それ以上の言葉が出てこなかったからだ。
二人は声を出さずに笑いあい、祐一郎は歯磨きしてコートを羽織った。それから挨拶して玄関のドアを閉めて、『アンカー』に向かって冬の夜道を歩きだす。花は見送りなんてせずに、壁に寄りかかって文庫本を読みながら、爪の短い指をひらひらさせてた。
金曜の夜だというのに、アンカーの店内は静かだった。スクリーンとプロジェクターが設置され、見たことのない海外のSF映画が流され、マスターがカウンターの中から体をねじってそれを見てた。
「八十三番は、ほとんど私が殺させたんだ」
と麻衣は世間話をするみたいに、あっさり白状した。アンカーの薄暗い照明の下で、表情は陰になってて、祐一郎にはわからない。
「もちろん、一〇〇パーセント死ぬという保証はなかったが、私としては、『ワクチン』が仮説どおりに働けば、助からないことは予測してた」
といって、麻衣がウイスキーのロックをひと息で半分くらいあおった。
「彼の脳は、ほぼ完全にウイルスと融合してたから」
怒りより先に、祐一郎の頬を一筋の涙が流れる。悲しい、悲しみといっしょに、泣きながらいろいろな疑問が胸のなかで渦巻きみたいに巡る。それはもう、きちんとした質問の形にならず、酒で濡れた唇からあふれ出す。
「なんで、いまさら? どういうこと、です?」
「……八十三番が死んだ理由を今さら明かす理由、ということ?」
麻衣が間を置いて、質問の内容をたしかめる。祐一郎は深く二度うなずいた。うす暗く、涙でぼやけた視界で、声だけが鮮明だ。
「実験体が死んだ時点では、彼の死が確実に『ワクチン』によって引き起こされたかどうか、まだデータが不足してたから」
理論的な答えを聞いて、流れる涙が止まり、すぐまたどっとあふれる。頭では納得できたけれど、心がそれを許さないんだ、と祐一郎は他人事みたいに自分の反応を観察する。麻衣が黙ってタバコに火をつけ、煙を宙に浮かべ、祐一郎の涙が止まるまで待つ。
祐一郎は涙を手のひらでぬぐい、手では足りずにバーのおしぼりでごしごしと拭いて、顔をあげる。麻衣が頬杖をつき、こっちを向いて目を細めてる。
「ごめんなさい。――私は非人道的な研究者かな?」
不意に評価を求められ、祐一郎は麻衣と目を合わせてうなずいた。
「はい」
返事を聞いた麻衣が、苦笑いしてタバコを灰皿に押しつけて消す。
「だけどもし、僕が今回のことを責めたとしたら、所長は反省しますか?」
麻衣が首を横に振り、ウイスキーのグラスを空けた。マスターがすぐにお代わりを作り、麻衣は受け取った茶色い液体をそのまま赤い唇につける。
いつもよりペースの早い所長とは反対に、祐一郎は酒がすすまなかった。ひどい気分で、いまにもまた涙が湧いてきそうな気がする。
祐一郎もタバコを取りだした。ショートホープに火をつけて煙を吸うと、波打っていた気持ちがいくらかおさまる。渉が意図的に殺されたという事実と、それに伴う虚しさと悲しさを胸のうちで噛みしめる。殺されちゃったけど、渉は人間じゃないけど、文句をいう相手も権利もないけど。やっぱり悲しいから、祐一郎は麻衣より先に口を開く。
「これからのこと、なんですけど」
といいながら、口の中が乾くのを祐一郎は感じた。
「今、花が、ぼくの家に来ています」
「初耳だな。そっか、そうなのね。……良かったんじゃない」と麻衣がグラスを置いて上をむき、「あなたたちどうするの。結婚でもする?」
「いやいや。結婚は、まだ」
と祐一郎がいい、二人は一拍おいて乾いた声で笑いあう。悪質な冗談だとわかったけど、笑えないほどひどくはなかったからだ。麻衣がタバコを出して火をつけ、ライターを祐一郎の口もとに持って来たので、祐一郎もショートホープを吸った。タバコはいつでも変わらずに美味しい。涙がもう乾いていて、祐一郎は気分が落ちついてきたのに気づいた。
互いのグラスが空になるまで、二人はアンカーで飲み、同時に席を立った。
店の前で麻衣と別れるとき、祐一郎はさっきの質問の返事をした。
「僕らがどうするのかって、聞きましたけど」と酒臭い白い息まじりに切りだす。
「僕は、ただその、いっしょに居て……あいつが、死ぬまで。僕はなにもできないから、なにもしません。ただ、もうどうにもならなくなるまで、アパートで一緒に暮らそうかなって」
「カッコいいじゃない」
麻衣が夜風よりもまだ冷たい皮肉を言う。
ただカッコつけたいだけなんだろうか、と祐一郎は自問する。
「でも……ただカッコつけではじめちゃったこの状況で、何も終わらせないで元の生活に戻ろうとするよりも、どんな形でもいいから一回だけ終わらせて、そのあとで戻ろうと思うんです。たとえばその結果、戻るのが遅くなったせいで年をとってダメ人間になっちゃったとしても、別にいいから」
「それで何も残らなくても、いいの?」
「はい。……僕はただ、僕がちゃんと終われば、良いんです」
「きみとあの実験体は、似てるんだな」
「僕と、花が、似てる? それって、どういう……」
「似てるよ。こういう場合も、お似合いって言うのかな」
麻衣がぎこちない笑みを浮かべて、祐一郎に背中をむけ、白っぽいタイル張りの舗道を歩いていく。祐一郎は店の前に突っ立って、麻衣が道を曲がって見えなくなると、ようやく歩きだした。自分に似てるらしい少女が、布団で横になって眠ってる頃だ。
4
翌日は、午前中だけ高校に行き、祐一郎は休んでいた間の書類を片づけた。アパートに帰ると、いつもなら散らかっている玄関の靴が綺麗に並べられていた。
「誰か、来た?」
「うん。海理さん」
祐一郎は体がこわばるのを感じて、意識して息を深く吐いた。
「大丈夫だよ。連れて帰るとかそういう話じゃないから」
「待ってるから、いつ来ても歓迎するとか、そんな話だった」
「そっか」と祐一郎は胸をなでおろしたけど、聞かずにはいられなかった。
「行くの?」
花が首を振る。部屋の隅っこで、ほつれた畳の上で、白い髪を揺らして、こげ茶色のちゃぶ台に両肘をついて、声を出さずに唇の両端をあげるだけで、笑う。優しい顔だと、祐一郎は思う。
「うれしい?」って花が聞く。
祐一郎は素直にうなずく。
「でもいつかは、行っちゃうんだろうな、って思うから、悲しいんだ」
「大丈夫だよ。だって、きっとあたしは居なくなる前に死んじゃうから」
花が諦めたようにいい、祐一郎は少女と目を合わせる。少女が赤い舌を出した。
「いつだよ、それって」
「わかんない」
あっさりとそういって、花が壁に手をついて床から立ち、「買い物に行ってくるね」っていって玄関から出ていく。
花は生活必需品以外は買わないし、それもコンビニでなくいちばん近いドラッグストアへ行って、なかでも一番安い奴だけを買ってくる。あたしが稼いでるわけじゃないじゃん、ってよく言う。
小さい背中を見送り、祐一郎は湯を沸かしてコーヒーを淹れる。花が帰ってくるまでに、美味しいやつを淹れたい。花がなにを考えてるのかわからないんだ。死んでしまうかもしれないって、それが嫌だってことはわかってる。どうしたらいいのか、わからなくって、コーヒーを淹れて、昼飯の準備を始める。今日が過ぎてゆくことに、むなしさだけを感じてしまう。
考えた挙句、祐一郎はサラダとトーストだけの昼食の後で、映画館に行こうと花を誘った。なぜなら、一日の残り半分を無駄じゃなくするために、誰かと一緒に居たかったからだ。意外なことに、花が少しうれしそうな顔でうなずいた。
成関駅から電車に二十分ほど乗ると、JR千葉駅に着く。中央改札を出て、雑然とした繁華街を線路伝いにしばらく歩いてゆけば目的の映画館だ。
土曜の午後なので、人通りが多く、チェーンの居酒屋やファーストフード店の並ぶ中途半端に賑やかな道を学生や若いカップルが大勢歩いてて、乾いた空気に若さと熱気が混じっていた。
雑踏のなかで花とはぐれないように、祐一郎は普段よりゆっくり歩き、斜め後ろを黙ってついて来る花の姿を何度も横目で確認した。二人の横を、幾組かの若いカップルが手をつないですれ違ったり追い越したりしていった。
「映画、どれにする?」
「うん。……あれがいい。祐一郎は?」
花がハリウッドのアクション大作のポスターを指さす。
「じゃあ、あれで」と祐一郎もうなずき、チケットを二枚買い、ラウンジの窓際の椅子に腰かける。上映開始まで待ち時間が三十分もあったからだ。窓の外の舗道を、通りですれ違った少年少女の一組が歩いて行く。どれぐらいの時間を過ごせば、自分たちもあんな風になる可能性があったかと、祐一郎はぼんやりと想像する。花が隣の席で腕枕をして顔を埋めてた。
映画館から出ると、辺りはもう暗くなっていた。二人はどちらからともなく、併設しているフードコートに入り、祐一郎は牛丼、花が親子丼を手にして、端っこのテーブルに座った。
映画はすごく面白かった。大勢の筋肉質な男女が、バイクや巨大な車を走らせて追いかけっこをしながら、殴ったり撃ちあったりする、それだけの内容だけど、どのシーンも激しくて迫力があり、祐一郎は圧倒されっぱなしだった。
「面白かったね」
と花が親子丼をつつきながら言う。灰色のパーカー、濃紺のスキニーデニム、膝上まであるグリーンのダウンジャケット、黒いニット帽。おもちゃみたいに大きなサングラス。
祐一郎は少女の感想がうれしくて、それが本心かお世辞なのか気に留めず、「すごかったね」と顔を上げずに頷く。それからしばらく二人は黙々と夕飯を食べた。
丼の中身をひと口だけ残して空にすると、花が顔をあげてこっちを見た。サングラスの向こうはどんな表情をしてるかうかがえない。
「ねえ」声音は湿っていた、「あたしがどんな風に死ぬか、祐一郎は知ってるんだよね」
唐突な言葉に、祐一郎はうろたえてすぐには返事ができなかった。
「わかってるんだけど、わかってんだけどさ」
少女が細い声でつづける。
「祐一郎は治せたけど、あたしはもう、治せないってね」
祐一郎は言葉が出ない。右手に持っていたワリバシを握りしめた。
「だいじょうぶ。あたし、あきらめてるよ。最初っから、あきらめてたんだし。祐一郎に会ってから一週間じゃん。この一週間ね、ずっと考えてた」
「なにを?」
「どうしてあたしみたいのがあるんだろって」
「いいだろ、あったって」
「嫌だよ。嫌だから、消えなきゃいけない。渉くん、だっけ? ……あんなふうに死ぬ前に、消えたいから」
「あ」と祐一郎の喉の奥から潰れた声がでる。また、渉の死に方を思い出した。
「だから、あたし、きちんと消えるね。祐一郎をあんな目に合わせたくないし」
花がそういって、箸を置いた。
「消える、って」祐一郎は聞いた。「ちゃんと消えるって、だって、いつ、どうして?」
ダウンジャケットの下の肩が揺れるのを、祐一郎は見た。黒いレンズに覆われた顔が笑ってるみたいに見えた。
花から先に席を立ち、祐一郎も後に続いて二人は食器を片付け、千葉駅に戻って電車に乗った。時々ひどく揺れる各駅停車の車内で、空いていた二人掛けの座席に並んで座る。少女が居眠りを始めた横で、祐一郎はフードコートで言われた事を考える。
――花が、死期を知るには、もっとサトリについて調べなければならない。だけどきみは、もう、研究対象から外れたんだ。それじゃあきみは、どう生きたらいいのかな。いつああなるか分らないのが、きみにとってどれほど恐ろしいことか。ぼくは想像することしかできない。
ガタン、ガタンと音を鳴らして電車が成関駅に停まった。祐一郎は少女を起こして、あわただしくプラットホームに降りる。
改札を抜けると、花がアパートと反対の出口を向いて歩きだした。
どこに行くの、という祐一郎の質問に答えないで、花が先に立ち、国道沿いの夜道を歩いて行く。
「祐一郎は、あたしがサトリだからそばにいてくれるのかな。あたしがそうじゃなくなっても、いっしょに居れるのかな」
というと、横断歩道がない場所で不意に道を渡り、すぐ次の角を左に曲がる。二車線の広い道路の先に白くずんぐりした成関市民病院が建っている。花の足は病院の敷地目指してずんずん進み、隣を歩いていた祐一郎を五メートルほど引き離す。
置いて行かれないように、祐一郎は少女の背中を頼りに夜道を歩いた。病院の白い門柱が見えてくる。敷地内に入るとすぐ、少女が右へ曲がり、門と塀の陰に小さな体が隠れた。小走りに追う祐一郎の目に、すでに建物の裏手へとまわっている花の姿が映る。
祐一郎は駆けだした。ひどく嫌な予感がしたからだ。この一週間余りで、両足は子供の頃みたいに全力で走ることを思い出している。
成関市民病院は五階建てで、高さは二十メートル余りあるだろう。
祐一郎が遅れて病院の裏手にまわったとき、もう少女の足は建物の外側の非常階段を昇りはじめていた。カンカンカンカン、階段の鉄板が乾いた音を規則正しく響かせる。
非常階段の入り口の錆びついた太い南京錠は折れ曲がって外れてた。祐一郎は三段とばしで階段を駆け上がる。
――あれ?
ふと、上を見ても少女の姿がないことに、祐一郎は気がついた。二階と三階の中間の踊り場で足が止まる。踊り場の隅で小さな影がうずくまっている。それがじぶんの追いかけていた少女だと気づいたとき、体の芯に鈍い痛みが走った。花が手のひらで祐一郎の胸を突き飛ばし、祐一郎の体は宙に投げ出され、仰向けの姿勢のまま、落下してく。
ドン、っという音をたてて祐一郎は非常階段の脇のアスファルトに落下し、痛みに丸まった。頭を打たなかったのが幸いだった。最初に背中を襲った激痛を歯を食いしばってやり過ごすと、どうにか動けるようになったので冷たい地面に手をついて立ちあがった。
頭上では、またカンカンという音が鳴ったかと思うと消えていく。祐一郎は非常階段の手すりにしがみつき、もう一度ゆっくりと昇りはじめる。
花はもう最上階まで昇りきったんだろう。その後に少女が取る行動が祐一郎にはわかるから、痛みでおぼつかない足取りで昇るのを止めない。
「ま……て、よ」
自分の喉から出た声に驚き、祐一郎は病院の屋上を見あげる。黒ずんだコンクリートの四角い屋根が張りだしている。少女がそこから飛び降りるまで、あと何秒あるだろう。汚いコンクリ屋根の縁に、白い人影が見え、それがひょい、と呆気なく暗い空に跳びだした。
「待てよーっ!」
昇っていく祐一郎と、降りてゆく少女の視線がすれ違いざま、交差する。赤い眼が見開かれていた。花が頭を下にして真っ逆さまに落ちる。
鈍い音を鳴らして地面が揺れた。
祐一郎は非常階段を引きかえして降りる。階段の入り口から五メートルぐらい離れたところで、血液をまき散らして少女の体が潰れていた。血液だけじゃなく、肉も骨も散らばっている。血だまりの真ん中で祐一郎はしゃがみこみ、まだ温かい肩に触れる。ぬるぬるした感触が手の平にひろがった。鉄の匂いがした。
一目見て、少女がこと切れてるのは間違いなく思われた。頭蓋骨に割れ目ができて、血が滴り落ち、崩れた脳みそまでがこぼれている。落下の衝撃で、顔はむごたらしく壊れてしまって、眼球が潰れ、舌が飛び出し、唇と歯がちぎれて転がっている。
少女の肩に手を乗せたまま、祐一郎はがっくりとうなだれ、泣きだした。自分の心の一部分が引きちぎられるような痛みを感じる。嗚咽とともに、涙が次々と頬を流れた。
花を守れなかったための激しい悲しさと、予感していたことを防げなかった無力感があった。同時に祐一郎が感じるのは、抱えきれない荷を降ろせたような、ほっとした気持ちだ。さらに、その気持ちを許せないという自己嫌悪までが湧いてきて、胸を深く刺した。
何分か、何十分か分からないけど、祐一郎は膝をついてすすり泣いていた。不意に、何か引きずるような音が聞こえ、異様な予感を覚え、目をコートの端で拭ってあたりをそっと見回した。
裕一郎と花の周囲で、小さな物体がうごめき、地面を這っている。散らばっている肉と骨と歯と脳みそから、赤く細い糸状のものがのびて、アスファルトの上をゆっくりと進み、寄り集まった肉片たちが、絡みあいながら花の体に寄り添ってくる。
集まってきた赤と白のものが体をよじ登り、潰れて輪郭だけの顔を埋め、へこんだ頬や目のくぼみが盛り上がり、失われた血液が流れ込んで元の場所へ戻る。すべて一瞬の出来事だったけど、またひどく長時間みたいにも祐一郎には感じられた。やがて花が両手でほとんど血だまりの消えたコンクリートに手をついて、崩れかけた上半身を起こしていく。
少女が修復される様子を目の当たりにして、祐一郎は時間が急速に巻きもどされていくような印象を受けた。
花は、飛び降りる前と寸分変わらない顔をして、赤く染まった服を片手でつまみ、残念そうにため息をついた。
「あーあ」
祐一郎は少女の声が聞こえても、返事なんてできなかった。それはさっき、花が死んだと感じた瞬間と同じく、いくつもの感情がいっぺんにやってきてまとまらず、どれを口にしたらいいかわからないからだった。黙っていると、花が立ちあがってこちらを赤い目で見おろした。
「心なんて、読んだって、なんにもならないね」と花が言う、「祐一郎の言葉が聞けなきゃ、意味ないんだって、もっと早く気づいてたらよかったんだ」
花の目には涙がにじんでた。祐一郎は手をついて立ちあがり、両手を握ったり開いたり、少女の服にこびりついた血液と赤い目の間で視線をさまよわせる。
――どうして何も言えないんだろう。
何か言わなければ、と思うのに、何といったら正解なのか分からないから、ただ黙ってることしかできない。それでもどうにか立ちあがり、「大丈夫?」とだけ聞いた。花が泣き笑いでうなずいて歩きだし、祐一郎は慌てて後を追う。花の歩みは、病院の屋上まで来たときと反対にゆっくりで、疲れてしまった祐一郎が追いつくのを待っていてくれる余裕があった。
死ななかった花と、何もなかったように肩を並べて帰宅し、少女がシャワーを浴びてる間、炊飯器に残っていた白いご飯と温めた冷凍ギョーザをリビングの机に並べ、静かな音楽をかける。
パイプ椅子に腰かけて一息つくと、祐一郎の頭にさっきの光景が蘇ってきて、吐き気をこらえるためにアパートの壁を一度、握り拳で叩いた。なぜなら、生き物としての二人の違いがむごい形で浮き彫りになってしまい、嫌悪感がぞわぞわと肌を粟立てるのを抑えないといけなかったからだ。
花がシャワーからあがってきた。はじめ不審そうに、やがて物悲しい目で裕一郎を見る。それは本当にひどく少女を傷つけるであろう、祐一郎の感情と思考を読み取ってる目だった。
そうとわかっても、祐一郎の脳裏に浮かぶ景色は変わらない。飛散した花の肉体が再生される様子、それがあまりにもグロテスクで耐えられない自分への叱責、どうにもならないない交ぜの記憶を、少女はどんな風に受け止めてるだろう。
耐えきれずに、祐一郎は口を開いた。
「花、あの」「うん」「僕は、さ」「うん」
「花が、怖いんだ。花は……?」
花が首を振り、石鹸の匂いをさせて祐一郎の前に立つ。
「かわいそう。あたしなんかに、関わるから、そうなるのに。まだ、いっしょに居るつもりでいてさ。それがホントに、かわいそうでさ、ごめんね」
パソコンのスピーカーが安っぽい音で、売れないバンドの悲しい歌を奏でてる。祐一郎は椅子に座って下をむき、紙パックのコーヒーをストローで吸う。コンビニで買ったいつものコーヒーの味が、いつもよりずっと不味い。
花が上から近づいてくる気配を感じた。温かい、ほっそりした両腕がのびてきて、祐一郎の肩を抱く。そんなに近くに花のぬくもりを感じたのは初めてで、少女の体温がこれまで祐一郎が出会ってきた女性たちと同じなのが嬉しいけれど怖くもあった。
祐一郎は下腹部に欲望を感じた。だけど、その欲を表現することが出来なかった。出来たことといえば、ただ片腕をあげて少女の肩にまわすことで、反対の手はコーヒーのパックを持ったまま、祈るような気持ちでやわらかい背中をただ撫でた。それ以上は手も足も動かずに、あいまいな力加減で少女を撫でまわすことしかできない。すると、涙が出てきたので、祐一郎は目元を花の黒いセーターになすりつけ、じっと震えて動きを止める。
男の腕のなかで少女が動き出し、もう一度、男を両腕で抱き直して力をこめた。力の入りすぎで、背骨と肋骨がきしみ、祐一郎の顔が痛みにゆがんで、乱れた呼吸といっしょに声が漏れる。
「う、うう……」
苦しかったけれど祐一郎はそれを口にするのを堪えて、暴力的な抱擁が過ぎるのを待った。少女の力がじぶんを壊してくのを感じる。五分か十分か分からないけど、腕の力が緩んだころ、祐一郎はのろのろと少女の体を自分から引き離した。
男は少女が恐ろしくなった。そんな自分を少女が見て、心を読み取ってる。少女の指が男の手首に絡みついていて離れない。悲しいけど、どうしようもない。
「僕はさ、ぼくも花もかわいそうとは思わないよ」「どうして?」「なぜなら、僕らはさ、他にどうしようもなかったんだから」
言いながら、涙は出なかった。切れ切れの言葉が、自分でも驚くほど次々に湧いて口からあふれる。
「こういう風にしかできなかったんだ。もっとうまくやったりできたら、そうしたんだろうけど、こうなった以上、このままで行くしかないじゃないか。かわいそうなんて、言ったって、言われたって、なんにもならないんだよ。だって、ぼくらはここまで来ちゃったんだから」
じっと聞いていた花が、祐一郎の耳元に口を寄せてかすれ声でささやく。
「だったら、あなたとあたしはさ、どこかへ行けるの? 行けないの?」
「ぼくら、は」男の指が机の下でふるえながら閉じたり開いたりを繰り返す、「僕たちはこのままだっていいんじゃないかな」
涙声で、「別に死んでしまうことなんて、無いんじゃないのかな」
「やっぱり、やさしいんだね」
祐一郎はずっとうなだれたまま。
「そう思うのは、花のほうが優しいからだと思う」
花が掴んでいた祐一郎の手首を解き、椅子から立って、くるっとまわって台所にむかう。白い髪の流れる背中を見ながら、祐一郎はゆっくりゆっくりコーヒーを飲みほした。花が顔を見ずに、心を読まないようにしてるのがわかる。
それから二人は何事もなかったような顔で、冷え切った夕飯を温めて、食べて、布団を二組並べて横になった。布団の中の温かい暗がりで目を閉じると、少女の手が伸びてきて男の手を握った。祐一郎は緊張して身を硬くしたけど、それ以上のことはなく、やがて隣の布団から寝息が聞こえてきた。規則正しい音を聞きながら、目覚まし時計をセットして祐一郎も眠りに落ちる。エアコンの蛍光イエローの運転ランプだけが、闇のなかの染みみたいに浮かんでた。
深夜、祐一郎はエアコンの音で目を覚ました。暖房を切り忘れてたんだ。
布団から這い出して、隣を起こさないようにスイッチを切って、元通りに横になって布団をかぶる。目を閉じて眠りに戻ろうとしたとき、隣が動く気配を感じた。
するすると、花が祐一郎の布団に入ってきた。
はじめ、少女が寝ぼけてるのかと祐一郎は思った。花は祐一郎の布団の中でこちらに背をむけ、丸まった背骨を祐一郎の胸にくっつける。
「嫌?」と聞く声で、花が自分の意志でそうしてるんだって気づいた。
「嫌じゃないよ! うん……うん」
祐一郎は目の前にある花の頭を、片手で何度も撫でた。暗がりに目が慣れてくると、花の髪だけが青白く光ってるように見えた。花の髪の毛はしなやかで硬く、背中は温かくて柔らかい。
しばらく撫で続けてると、花がまた聞いてくる。
「祐一郎、ねえ。する?」
「ええ? ……しないよ。なんで?」
「……ううん。なんとなく。やっぱり、嫌なんじゃない?」
「嫌とか、良いとかじゃないだろ、するのって」といって祐一郎は聞こえないように浅くため息をつき、「好きだからだろ」
花の体がふるえ、笑う気配がした。断られたのに安心した様子で、やがて寝息をたてはじめる。
祐一郎は緊張して寝付けない。もう覚えてしまった少女の匂いが鼻腔にひろがる。怖くなって仰向け寝して、片腕だけでぬくもりを感じてた。そんな調子で、日曜日の夜が更けていった。
翌日の夜、少女の体を抱きしめたのは、興奮してたからじゃないと思う。仕事で疲れた体を寝床に横たえ、おやすみなさいを言って部屋を暗くした直後、隣の布団から移ってきた花の体が、温かかったからだ。抱き方だって、ただ身を寄せて腕を回すだけで、力をこめたりしなかった。久々に他人のぬくもりを感じながら眠るのが、うれしい。
前の彼女とは、製薬会社を辞めて半年後に別れたから、もう二年近くになるんだろう。なのに欲望を感じないのは、自分が不能になってしまったのか、それともやっぱり花が人間じゃないからなのか。どっちだっていいしどうだっていいように、祐一郎は思う。
――セックスしたくなるかどうかなんてさ、どっちだっていいんだよ。
と自分に言いきかせて、火曜日も水曜日も、寄り添ってきた花とくっついて眠った。目覚めが良くなく、一人で寝るより疲れが残ってしまう。
木曜の朝、朝食を終えてコーヒーをすすりながら、祐一郎は片手で肩をもんでいた。花が温めなおしたじゃがいもスープを飲み干し、唇を赤い舌で舐めると、机に片肘をついて手のひらに顎をのせ、真面目な声を出した。
「祐一郎はさ、あたしのこと、好きじゃない?」
「なんだそりゃ」
びっくりしてコーヒーをこぼしそうになり、祐一郎はマグカップを机に置く。
「『なんだそりゃ』じゃないよ。好きだったら、とっくに、してるじゃん?」
そういう花の視線が、キッチンの窓のほうをむく。祐一郎の心を覗かないようにしたのかもしれなかった。
自分が花を好きじゃないのか、だから何もしないのか、分からないから、祐一郎は答えに詰まって聞きかえす。
「だったら花はさ、僕を好きなの?」
「うん。どっちかっていうと、好き」
と花が食べ物の好みでも答えるみたいに言う。
「なんだそりゃ」
「けどあたしは、どっちだっていいし、たぶん、どうだっていいよ」
というと、机の上の空の食器を重ねて持ち、花が立ちあがる。
「あ……りがと」とそれきり祐一郎は何も言えない。かちゃかちゃと、片づける手際のずいぶんよくなった花の背中を、黙って見てた。
水音が止むと、花が祐一郎の隣へ椅子を持って来て、もたれかかるように座る。残り少ないコーヒーをまたこぼしそうになり、祐一郎は慌て、両手で包むようにカップを持ち直して、花の重みと体温を肩で受け止める。
「ねえ、ホントに、どうして、花は死にたくなるの?」
祐一郎は目を閉じてそう聞き、コーヒーをひと口舐めて、ねばねばした唾液といっしょに飲み下す。
「あのね、死にたくなるんじゃないよ。死なないといけなくなる。だってあたし、とっくに死んでるようななもんだから」
と花が答えてくれたけど、祐一郎はその理由が知りたかったので、重ねてもう一度聞いた。
「じゃあ、どうして、そんな風に思うの?」
「五年前、あのとき、あたしは死にぞこなったんだと思う。あたし以外はみんな死んで、いまだって、まだ生きてるけど、こんな風になってまで、あたし、生きてなくてよかったのに」
祐一郎はそれ以上の質問を止め、アパートの壁を見る。頭が混乱していた。
――五年前。
花が人間から『サトリ』になった年だ。五年前、少女に何かが起こった。それを祐一郎は今の今まで、そういうもの、として深く考えることもなく受け入れてきた。渉が死んで花を引き取ってから、事件が絶え間なく起こり続けて考える余裕もなかったのかもしれないし、花が悲惨さを感じさせるそぶりを見せなかったからかもしれないけど、花がなぜ、どんなふうにサトリになったのかということは、もっと真剣に検討しなきゃいけない事だったんじゃないか。
隣に座る少女は、男の戸惑いをすばやく感じ取って、ふふふ、と下手くそに笑った。
「なんてね」
少女が立ちあがり、男を見下ろして両手を腰に当てる。
「遅刻しちゃうよ。せっかく常勤になったんだから、無駄にしないほうがいいと思う」
祐一郎も立ちあがり、飲み残しのコーヒーを流し台に捨てた。腕時計を見ると、普段の出勤時刻を過ぎてしまいそうで、ためらった挙句、玄関で靴を履きながら、膨らんできた疑問を口にした。
「結局のところさ、五年前、なにが、起きた?」
「……行ってらっしゃい」
花が手をふって、また笑顔を作って玄関の戸を閉める。あべこべみたいだ、と祐一郎は思った。自分はいま、家から外に出たはずなのに、ほっとしているし、帰ってきたみたいだ。花が居ない、っていう現実に戻ったみたいだな。
遅刻したくないので、早足で駐車場にむかい、エンジンキーをまわす。買いなおした中古の原付が、寝ぼけた音をたて、またがった祐一郎の体を職場にむけて運んでいく。踏切待ちの車の列を追い抜かし、ごみごみした住宅地のなかの小道を原付ですすみ、踏切があがるのを待ちながら、帰ったら、どんな話をしよう、と祐一郎は考える。
その日はほとんど一日中、花のことばかりを考えてた。
5
翌々日の土曜日、花が今度は首を吊った。
二人の住むアパートを出て、広い通りを二三分歩くと大きなドラッグストアが建っていて、店の裏手の住宅街の隅っこに、小さな公園がある。せいぜい十メートル四方の敷地しかないけど、滑り台と砂場があって、昼間は子供たちでにぎわう。何て名前の公園なのか、祐一郎は知らない。
公園の真ん中、赤と青と黄色のペンキで塗られた滑り台の足場の鉄柱に、太い白のロープを掛けて、花が首を吊っていた。
真夜中、祐一郎は布団から花が抜け出ていく気配で目をあけた。トイレだろう、そう思ったけど、なかなか帰ってこないので、落ちつかずに寝返りを打ったとき、玄関ドアの閉まる音を聞いたような気がした。
枕もとの目覚まし時計を見ると、深夜二時五分過ぎだった。一度布団をかぶったけど、花が飛び降りた光景が思いだされて、祐一郎は片手でじぶんの胸を押えながら上体を起こす。
玄関の電気をつけてみると、花のスニーカーがなかった。祐一郎はパジャマのトレーナーのうえからいちばん暖かいボーダーのセーターをかぶり、コートをひっかけて外へ出た。
街は静まりかえっていて、アパートの前の道に人影一つ、車の姿一つもなく、花がどこへ行ったか手掛かりも勿論なかった。ただ胸騒ぎに足を突き動かされ、始めに成関総合病院へ小走りで向かった。晴れていて空気は冷たかったけれど、月の出てない空は真っ黒だった。
病院の屋上にも地面にも花が居ないのを確かめると、もう探す場所は残ってなかった。それでもこのまま家に帰っても花が戻ってるはずがないと感じて、足に任せてさまよい歩いていたら、路地に並んだ庭付きの建物の隙間から、公園のなかで揺れる人影が見えたんだ。
祐一郎が彼女を発見した時、花の体はビクビクと波打っていて、釣り上げられてもがく魚に似てた。あるいはクリーム色の照明の下のそいつは、のたうつ蛾にも似てて、振り乱す白髪が鱗粉みたいだった。
祐一郎は芝生を一歩一歩踏みしめ少女に近づいて行く。怯えてしまって、何度か体に震えが走った。こっちに背中をむけて、左右に激しく揺れる少女の体が、滑り台の縁にぶつかり、支柱にぶつかり、そのたび濁った音をたてる。少女が人間だったなら、今まさに死んでいくところだ。でも花は人間じゃないから、のたうち続ける。
花に近づく途中でふと、祐一郎の胸にひどい考えが浮かぶ。少女を放っておいたら、どうなるのだろう、サトリという生き物は、どんな死にかたをするんだろう。それは残酷な知的好奇心と、いっそのことその方が良いんじゃないかという諦めみたいな気持ちで、祐一郎は首を振ってそれらを打ち消し、少女との距離を詰めた。あと数十センチで花に触れられる。
手足をばたばたさせている花の体を後ろから抱え、首にかかる重みを除いてやり、浅黒い首に巻き付いているロープに指を這わせる。白いロープは皮膚をちぎり、首の骨にまで食い込んでいて、簡単には動かせない。一ミリ、また一ミリと、絡みあったロープを解いていく。
意識のない体は重たくて、作業を終えるころには祐一郎はコートの下にびっしょりと汗をかいていた。
少女の体を地面に横たえ、死ななくてよかった、そう一安心すると、祐一郎の目から涙があふれてきた。花のすぐ横に正座して、しばらく顔を腕で覆って祐一郎は泣いた。
禿げかけの白い芝生に横たえた少女が目をあける。
ものの数分で、巻き戻しの映像みたいに、喉元の皮膚がはがれてめくれ上がった傷跡が閉じてゆき、首の黒い痣が薄くなる。
「ああ……あ。祐一郎」
少女の声にがっかりした調子が含まれてて、祐一郎は苛立ちを抑えられなかった。
――どうして、また、こんなことするんだよ?
祐一郎は涙が出てきて、思わず、片手をあげそうになった。だけど、少女の冷めた赤い目で射抜かれて、思いなおした。両手をだらりと脇に垂らして、涙交じりの声で疑問を呟いてた。
「なんで、なんで……なんで、そうまでして死にたいんだよ?」
「祐一郎なら、わかってるかと思ってた」
と花がいった。おたがいに、独り言みたいだった。
「分かんないよ。ごめん、やっぱり、わかんない」
「うん。しょうがないよ。別に、いいよ」
花があきらめの言葉をくちにする。祐一郎は悲しくてまた泣いて、しばらく座ったままでいた。自分のすすり泣きのほか、物音一つ聞こえないし、通りを走る車の気配も感じない。クリーム色の細い月と、よく似た色の公園の電灯が、控えめな光で、小さな公園の真ん中で死に損なった少女とその同居人を照らしてる。
祐一郎は涙が枯れると、花を抱き起し、小柄でやわらかい体を背負って立ちあがろうとした。花の体はまだぐにゃぐにゃしていて重たかった。重さと寒さで震えながら、ドラッグストアの駐車場を横切り、アパートまでの暗く短い道のりを戻っていく。
アパートの建物が見えてきたところで、祐一郎は切り出した。
「今日、分かったことがあるんだ」
花の返事はない。眠ってしまったのかもしれない。それならそれでいいと開き直って続ける。
「僕は花が嫌い……なんだ。嫌い。たぶん、大っ嫌い、なんだけど、死ななくっていいじゃん、って思っちゃうんだ」
花の体が動いたかと思うと、くぐもった笑い声が聞こえてきた。
祐一郎は空をあおいだ。さっき公園のなかで一度は枯れた涙がまた込みあげたが、泣く価値さえないことだと言いきかせた。
仮説を証明する方法が、一つだけある気がした。祐一郎は、渉に行われてた『実験』の内容と強度を知ろうと思った。必要なのは泣くんじゃなくって、花っていう少女のこと、『サトリ』という存在のことをきちんと把握することだ。本当に今さらで、ずいぶん手遅れのやりかたかもしれないけど、祐一郎はようやく知るための行動を起こすと決めた。
花を布団に横たえ、祐一郎は彰良に、至急会いたいという文面のメールを打ち、送信した。そうして少女のとなりで身を横たえたが、寝つけずに何度も寝返りを打った。
少女の首にできた痣を思い出し、あれも朝には消えかかってるのだろうと、祐一郎は布団の中で浅黒い首筋を想像した。
三十分ほど経ったころ、彰良から返信が来た。いま『アンカー』に居るけど来られるか、というメールに、了解、と短く返事して、祐一郎は再び玄関に向かった。
明け方近い店内には、彰良一人しかいなかった。マスターはタバコを買いにコンビニにいっているそうだ。
「客が来るんじゃ、まだ店を閉められないって、ぼやいてたよ」
といって彰良がグラスの中身を傾けた。もう祐一郎は研究所に近寄っていない。彰良に会うのは先週殺されかけて以来だけど、不思議と恐怖を感じないのは、もうずいぶん、ひどいことが起こりすぎて、開き直りの心境が生まれかけてるんだろう。
マスターが戻るのを待たず、店の隅の冷蔵庫を勝手に開けて、祐一郎は輸入物のビールを一本持ってきて栓を開け、一息で半分ほど飲み干した。そうやって景気をつけると、彰良を見つめ、渉が生きてた頃から聞きたかった質問を浴びせた。
「きみたちは渉と花に、危ない実験をしてたのか? してたなら、どれぐらいか?」
「今さらな質問だな」
彰良が鼻白んだ声を出した。いま初めて祐一郎という人間を見たような、怪訝そうな表情をしてる。
「ああ、彰良さんが言いたいことはわかる。もっと早く、聞いてりゃよかったんだ。だけど、相手は子供じゃないか。そこまで激しいことしないんじゃないかって、思い込んでたんだ」
「……呆れるね」と彰良がいう、「きみはあの所長の性格を知ってたはずだ。だったら、彼女がどこまで『やる』人間なのか、想像がついたろ」
と彰良に嫌味を言われても、祐一郎はひるまず、重ねて聞く。
「実際のところ、どんなことをしてた?」
「所長には聞いたのか?」
「いいや、聞いてない。僕は彼女のことが、信じられなくなってるから」
彰良が店の床をにらんで、腕組みした。
「最高のやつと最低のやつ、祐さんはどっちを知りたい?」
「両方だよ。ぜんぶ、教えてほしい」
入り口のドアが開いて、お客さんらしい若い男が顔だけ出して店内を覗いたが、マスターが居ないことに気づくと扉を閉めて立ち去った。彰良がそれを見て苦笑いし、カクテルをひと口飲んでから祐一郎の質問に答えた。
「最高のやつは、切断だ。指と腕と足をやった」
酒混じりの胃液が喉までせりあがってきて、祐一郎は顔をしかめる。手足を切断された渉の姿と、あの触手が再生する様子を想像する。指と腕と足――というのは、胴体と首以外のぜんぶ、ということになるんじゃないだろうか。痛みと恐怖はどれほどだろうか。そんな目にあった後で、アパートではいつもと同じに、笑ってたのか。
「最低のは、毒とか電気ショックとか、そういうのだ」
「毒だって? 二人に毒を盛ったのか?」
「いや、盛るなんて回りくどいことはしない。薬品名と効果を説明して、飲んでもらうんだよ」
「……たとえば?」
「青酸カリ」「嘘だろ」
「本当さ。ごく微量の投与から始めるんだ」
「……最終的には?」
「致死量。安全は確認しながらだ」
祐一郎は、瓶に口をつけてビールをがぶがぶ飲んだ。分かってるさ。俺だってあそこにいたんだから。自分を責めて気が滅入りそうになりながら、祐一郎は質問をつづける。彰良が率直に答えてくれるのも、罪悪感を感じてのことなのか、わからないけど、藁にもすがる気持ちで聞いた。
「だけど、そんなことまでするのか、君たちの、その、『組織』ってやつはさ。実験体が死ぬリスクを冒してまでやることなのか?」
彰良がめずらしく饒舌に答える。
「おれは『組織』に所属してはいるが、完全に仲間に入れてもらえてるわけじゃない。結局、おれは人間でしかないから。あの『組織』は人間のための物じゃない。人間でない連中が、人間と折り合いをつけてくために設立したんだ。だから……貴重な実験体に関しても、データが豊富にある。祐さんが想像するよりはるかに昔から、連中は自分たちのことを研究してるのさ。人間社会で生き残っていくためにね」
「それじゃあ、あのシスターって言ってた女性も……?」
「あの人は人間だけど、例外中の例外だ。元々は医者だったんだが、生命に変りは無えって、人間以外の連中を治療するんだって奮闘してたところ、『組織』のほうからスカウトされたって経歴の持ち主さ。おれなんかは、自分自身の金とキャリアのために『組織』を利用してるだけだからな」
祐一郎はあっけにとられて、言葉が出てこなかった。彰良の顔は冗談めいた雰囲気はなく、事実を言ってるとしか思えない。
「じゃああの子は、剣治は?」
「もちろん、おれたちとは別物だ。生物学的には人間だけどな。俺たちじゃあ、百人以上束になってかかったって相手にならない怪物だよ」
剣治の制服姿を思い浮かべる。怪物という単語には不似合いに親切で、祐一郎と花を助けてくれた。
祐一郎は、ビールを飲み干し、酔った手つきで空き瓶を回す。彰良が呆れたような目でこっちを見ながらタバコに火をつける。
そこへマスターが帰ってきて、祐一郎の空き瓶を見て驚いた様子で笑う。祐一郎は二本分の金を払ってもう一本ビールをもらった。二本目は、アルコールの苦みだけが感じられた。頭が重くなりかけていて、照明にかかるタバコの煙が生き物みたいに見えた。
店を出ると、彰良が自動販売機でスポーツドリンクを二本買い、一本を祐一郎にくれた。祐一郎は礼を言ってキャップをまわす。一気に半分ほど飲み干してから歩きだし、礼を言う。
「ありがとう」
「なあその、彰良さんの基準では、花も怪物に入るのか?」
「入る。彼女も人間よりはるかに上だ。それは祐さんが一番、実感してるはずだろう」
「そうか。いや……そうなんだよな」
分かり切った話だ。それをわかりきってると馬鹿にしない彰良の優しさが、いまの祐一郎にはありがたい。
「それで祐さん、これからどうするんだ?」
彰良に聞かれて、祐一郎は顔の筋肉がこわばるのを感じた。どうしたらいいのか、それが分からないから、とにかく花のことをもっと知りたいと思って、彰良に会っている。そんな自分の中途半端な気持ちを、彰良に見透かされてるみたいな気がしたからだ。
「いま考えてる、けど。どうしたらいいんだろ。なあ?」
「情けない声、出したってしょうがない。祐さんは、どうしたい? 何もかもどうなったって構わないってわけじゃないんだろ?」
どうなんだろう。構わないような気もする。でも、花が自由に生きていけたらいいのに、花が生きる気になったらいいのに、そうおもうけど、じゃあ僕は何をしたいんだろう。なんでこんなに、花のことばかりなんだろう。
ぽつぽつと、祐一郎はとりとめなく話しだす。
「僕はさ」「うん」「やっぱりわからないんだ」「しかたないね」「例えば花の髪を染めて、カラーコンタクトを入れて、普通に生活させたり……戸籍が取れるようにあのシスターに相談したり……花の元々の家族に事情を話してまた家へ帰らせたり……、でもどれも現実味がないって言うか、花が喜ばない気がしてて」
酔っぱらった勢いで話してるうちに、成関駅についた。始発電車が来るまでのあいだ、彰良がしばらく黙って隣に立っていてくれた。やがて一礼し、大きな体が改札の向こうへ消える。
取り残された祐一郎は駅の建物の壁に背中をつけ、鞄からスポーツドリンクのペットボトルを取りだし、残り半分をゆっくり時間をかけて飲んで、天井のライトと薄黄色のタイルをながめながら酔いを醒ました。アパートへ歩いて帰る途中、夜明け前の道路をまばらに走る車のどれかに飛びこんで頭をぶつけたくなるのを我慢し、辿り着いた玄関ドアから酒臭い体をすべりこませる。時刻はもうすぐ六時になるところで、花を起こさないようにと足音を忍ばせてバスルームに入り、タオルを濡らして体を拭いた。
布団のほうを覗くと、花はまだ熟睡している様子だった。自殺未遂の疲れもあるんだろう。祐一郎もこの何時間かの出来事を思い出し、隣で布団に横になりたい要求を覚えたけれど、我慢をして紙とペンを取りだした。
もう一つ、知るべきことが残っているからだ。花がどうしてサトリになったのか、その理由をもう一度、少女が生まれた町にも調べに行かなければ、という気になっていた。
6
祐一郎は書置きを残してアパートを出た。『急用で出かけます。夜には帰ります』と、同居する少女にそれだけ告げて成関駅に引きかえし、やってきた上り電車に乗った。始発から数えて三本目の電車だった。朝日の差し込みはじめた車内では、徹夜明けの大学生が、座席に横倒しになって眠りこけていた。
四時間後、何度か電車を乗り継ぎ、新宿駅発の長距離バスに乗って、まさか戻ってくるとは思わなかった群馬県の山あいの町を、祐一郎は歩いている。人の声もないしずかな駅前通りを歩き、道の駅を一つ通り過ぎて目当ての住所をさがしあて、祐一郎は足を止める。そこは小さな民宿みたいだった。いまはもう、営業してないのか、表に出ている看板は錆だらけで文字が読めなくなっていた。
民宿の建物の脇に人が一人やっと通れるくらいの幅の狭い古い門があり、その門の横に『高木』という表札を見つけて足を止め、祐一郎は背伸びをして門の奥にある二階建ての家を見つめた。古い家屋だったのを、つい最近リフォームしたのか、明るい水色のペンキで壁を塗りあげ、玄関ドアも今風の飾り彫りがしてある。狭いが明るい庭先で、中年の親子と小学生くらいの娘さんが、楽しそうに遊んでる。声をかけるのがひどくためらわれる。
門の前で数分間ためらい、祐一郎は宿を探している客を装って親子に声をかけた。
「すいません! ……こちらで、民宿か何かやってらっしゃいますか?」
「いいえ、すみません、もうずいぶん前に辞めちゃってるんですよ」
といって、四十位の母親が子供の前に出て、明るく笑いながら頭を下げた。その間に父親が娘を連れて家に入っていく。
残念ですね、すみませんねえ、と言葉を交わした後、祐一郎は思いきって花のことを聞いてみた。
「ちょっとお伺いしたいんですが、高木花さんの住んでいたお宅はこちらですか?」
「は? ……え? いや、人違いです」
日焼けした女の顔から表情が消え、冷たい返事を残して、ドアがバタンと閉められた。取りつく島もない。ドアノブを引いた赤黒く大きな手が、印象に残った。
祐一郎はしばらくのあいだ、ドアの前で突っ立っていたけど、やがて肩を落とし、踵をかえした。
――母親の名前、花に聞いておけば良かったんだよな。
祐一郎は、続いて花を引き取る許可をもらったあの屋敷へと出向いた。大きな門の脇の通用口をくぐり、菊の咲いた庭を抜け母屋の戸を叩くと、以前に顔をあわせた白髪混じりの男性が戸を開け、腕組みをして玄関に立った。
「どなたか?」
とくぼんだ両目を鋭く光らせて聞く。
「あのう、私は、日々野というもので、以前、高木花さんを、その、つまり御神体を、引き取らせていただいたものなんですが……。ちょっと、その花さんのことでですね、うかがいたい点がありまして、訪ねて来たんですが……」
「日々野さんとおっしゃいましたな。すみませんが、私には覚えがない。これで失礼します」
取りつく島もなくそういうと、男は音を立てて戸を閉め、それきり応答がなく、祐一郎はしばらく戸を叩いたり声をかけたりしてみたが、結局すごすごと屋敷を後にした。
それでもう、回れるところはまわり終ってしまった。祐一郎は落胆したが、まだあきらめきれなかったので、町の図書館へ行き、土地の地図を広げてみた。学校の地図記号が目に留まる。土地に小学校と中学校が二校ずつあり、高校は一校だけだった。花が山のふもとの高校に通ってたと言ってたことを思い出し、胸にかすかな希望が灯るような気がした。図書館から高校までは三キロメートルほどしか離れていないのも幸運に思えて、祐一郎は地図を書き写し、それとスマートホンを頼りに高校にむかった。
応対に出た地元の高校の中年の女子教員は、祐一郎が千葉県の高校の非常勤講師だというと、黒ぶち眼鏡の奥の目を丸くして、めずらしそうにこちらの格好を眺めた。祐一郎は背筋を伸ばし、図書館からの道すがら考えてきた作り話を始めた。
祐一郎の受け持ちの生徒の一人が、高木 花という年上の友達のことで悩んでいる。その友達は良い人なのに、時どき自殺未遂を起こす。群馬県出身で、この高校に通っていた時に、事件に巻き込まれて引っ越したらしい。それが五年前のことで、いまでも事件がトラウマになっているという……と嘘に本当を交えたしらじらしい話を、深刻な顔をして祐一郎は言った。
「その、高木さんという友達の女性とも話したんです。でも、すごく思い詰めてるようで、何も教えてもらえなくて。その子が通っていた高校がここだと聞いたもんですから、なにか少しでも分かれば、と思いまして」
女性教員は祐一郎の話に黙って聞き入り、ときどき小さくうなずいた。話が途切れたところで、下をむいてじっと考え込むと、「どうぞ」といって職員室のなかに招き入れ、応接用の机と椅子を勧めてくれた。
祐一郎は恐縮して椅子のうえで縮こまりながら、勇気を出して女性の目を見て、とぎれとぎれに聞いた。
「先生は、高木 花さん、という生徒のことを、覚えてらっしゃいませんか? 四年前に高校一年生だったはずなのですが」
「高木さん……ええっと」と、その教師はあたりをはばかるように声をひそめた。土曜日だけあって、職員室のなかは静かだった。「お待ちください」といって女性が席を立ち、少しして黒塗りのお盆に湯呑を二つのせて来て、祐一郎の正面の椅子に座り直し、お茶をひと息に半分飲み干した。
「あなた、日々野さんとおっしゃいましたね。遠いところを来ていただいたのにこんなことを言ったら失礼ですけれど、何かの間違いじゃないんでしょうか? その、高木さんという生徒のこと」
「それは、そりゃ確かに、間違いってこともあるかもしれませんけど。でも、高木さんがこの街に居たのは確かなんです。この辺りで、高校はこの一校だけではないでしょうか?」
この祐一郎の言葉を聞くと、女性は悲しそうに小さく首を振った。そして一度、窓の外の無人の校庭に目をやってから、気持ちを落ち着けるように、また緑茶に口をつけ、ため息まじりに答えた。
「あの子……お亡くなりになったんです」
そういって、女性が悲しそうに目を伏せた。祐一郎ははじめ自分の聞き間違いかと思い、沈痛な女性の表情に感じ入ったことで、ようやく女性の言葉を理解することができた。花が死んでいた、だって?
祐一郎は混乱して遠慮を忘れ、挑むような口調で女性に聞いてしまう。
「お亡くなりに、ですって? それって、どういう……だって」
花は死のうとしても死ねないんです、と口から出かかったが、これこそが自分の知りたかった出来事なんじゃないかと感じた祐一郎は我に返ってこらえ、控えめな言葉で、女性に説明を求めた。
「あの、もし、差支えがなければですが……その時のことを教えていただけませんか?」
「……日々野先生は、初対面の人間に、ずいぶんとむごいことを聞くんですね」女性がやや低い声でいい、ずり落ちていたメガネのフレームを直した。祐一郎は、ただ女性を見つめて、じっと待った。すると、しばらく手のひらで湯呑をもてあそんでから、女性がぽつぽつと言葉を選んで当時の記憶を語ってくれた。
「四年まえの夏の、暑い日でした。銃を持った不審な男性が山小屋に立てこもり、たまたま通りがかった生徒たちを小屋に連れ込んで……道連れに、して……自らも命を絶つ、という、いまだに信じられない事件が起きたんです」
教員の目に涙が浮かぶのを、祐一郎は見た。
生徒三人の死体と自殺した不審者の死体が倒れ、現場は血まみれだったそうです、と教員はいった。もう一人行方不明になった生徒さんの遺体だけが見つからなかったのですが、頭髪や血痕もあったそうですから、それで、警察は高木さんも犠牲になったと判断したようです。
「どうも頭の異常な男の犯行のようだから、動機もなにも分かったもんじゃない、と警察の方は言ってました」
「こんなことを聞くのは、気が咎めるのですが」
女性の話が一区切りしたところで、祐一郎は切りこんだ。
「不審者が高校生を四人も殺した、となれば、これはかなりの大事件ですから、ニュースですとか、新聞ですとか、そうとう大きく報道されましたよね」
「いいえ、それが」と女性がうなだれたまま、「四年前、あの地震のあった年で、ちょうど事件のときに台風も来たりして……警察の捜査も翌日には終わって解決してしまいましたし、ほとんど取り上げられませんでした」
「そう、でしたか……」
「そうなんです。ちょうど四年まえの夏も、土曜日で、あたしが職員室に登校する当番だったから、警察の方なんかも来て、話を聞かれて……だから、覚えてるんです」
ただ名前がはっきりしなくって、高木さんで間違いなかったと思うんですけど、ちょっと確認してみます。名簿を見ればわかるから、と職員がいい、席を立って職員室の奥のロッカーの前に行き、分厚いファイルをしばらくめくっていたが、驚いた声をあげて手を止めた。
「え……」
「どうされたんですか?」
「ない……ない。え? どういうこと?」
「なにが、ないんです」
「あの子、高木さんの名前。四年前の生徒名簿から、無くなってるんです」
女性は茫然、という様子で、持っていた名簿をロッカーに戻し、両手をだらっと下げた。切れぎれの、間の抜けた言葉づかいで、独り言を言うように続ける。
「確か同じクラスの四人組だったんですよ、いつも仲が良くて、あれ、私、なんで、誰かほかの子たちと間違えてるのかな? でも、他の子たちの名前は載ってるし、あれ……あれ?」
祐一郎はそれ以上何も聞けなかった。人違いかもしれない、と気休めをいって女性教員をほっとさせることしかできなかった。
会話が途切れると、がらんとした職員室の空気の冷たさが体に堪え、祐一郎はまだ湯気の立っている湯呑の緑茶を一口すすった。それから女性と目を合わせて、時間をとってもらった礼を言って椅子から立ちあがった。
昇降口につづく廊下を歩きながら、ふと沸き上がった疑問を、祐一郎は靴を履き替えながら、何気なく口にした。
「先ほどの話で……その、不審者という男性は、『サトリ様』と関係があるのではありませんか?」
これを聞いた女性から、協力的な態度が消えた。
「ありません。失礼ですけど、あなた、ああいう昔話なんかと、生徒の命を結びつけて考えておられるんですか?」
女性がそう言い捨てて、濃紺色の背中を見せて廊下を足早に立ち去っていく。職員室のドアを閉める音が響いて、祐一郎は叱られたような気分になり、背中をまるめて校舎を出た。
校門を出て、陽が傾きはじめた町を、祐一郎は駅に向かってゆっくりと歩いた。通りはゆるやかな下り坂で、駅舎の方角の空に茜色をした雲が広がっており、三十分ほど降りていくと、静かな駅前のターミナルに着いた。
ターミナルの駅側の角に古めかしい団子屋が建っていて、祐一郎はみそ焼き団子を二本注文して中に入った。今時めずらしい引き戸の音をガラガラさせて軒をくぐると、六畳ほどの狭い店内を、低い天井から釣り下がった大きな白熱灯が照らしている。
初老の店主が欠けた茶色い歯を見せて微笑み、店先で団子を焼いている間に、祐一郎は灰皿を目ざとく見つけ、奥の席に腰かけてメンソールの煙草に火を点けた。
祐一郎は灰色の煙を見あげて考えを巡らせる。女性の話にあった事件は、『サトリ』が花に感染した時の出来事ではないだろうか。
宿主の体が危機に陥った場合、サトリが次の宿主を求めて他人を襲った、という仮説が、頭に浮かんだ。ワクチンを撃ち込まれた渉が、死ぬ間際に彰良を襲ったように、金魚たちが祐一郎の頭を狙って飛びついて来た時のように、だ。ありえない話ではなかった。
だとしたら、花の体には、彼女の友人たちの命を奪ったものが体内に入りこんだことになる。花はそのことにも気づいたんだろうか? ……気づくだろ。なぜなら、襲ってきた男は、白髪赤眼で、じぶんもまた白髪赤眼になってしまったんだから。
「お客さん、お仕事ですか? どこから来たんです?」
団子が焼けると、主人が発泡スチロールのトレーに載せた団子を祐一郎の前に置きながら、そう聞いた。
「僕は千葉からです。……いえ、どっちかって言うと、趣味、みたいなもんで」
「へえー、趣味で千葉から! どういう訳なんです? 南女甲野なんて何もないとこに」
店主が好奇心を剥きだしにした。団子を置いても祐一郎の席のそばを離れず、赤茶けた顔でじっとこちらを見つめている。
「『サトリ様』という話のことを調べに来たんです。ご存知ですか?」
店主が「サトリ様! へえーっ」と短く叫び、しわくちゃの手を机にのせて頷いた。
「知ってるもなにも、『サトリ様』はここら一体の守り神だったんですよ。お客さん、どこでその名前を聞きました?」
自分は教師で南女甲野出身の生徒から聞いたと祐一郎が言うと、店主はふんふんと赤い鼻を揺らした。そういった民話を研究するのが趣味なんです、と出まかせをいうと、赤茶けた頬を盛りあげて深くうなずいた。それからあたりをはばかるように祐一郎に耳打ちした。
「ここら辺じゃあ、もう、あんたぐらいの年の連中は、サトリ様のことをまじめに話す事は無くなっちまったんだけど、俺たちが若かった頃は皆、サトリ様は本当にいると信じてたんですよ」
しばらくの間、店主が昔話に花を咲かせた。サトリ様のこと――この土地に町を開き、豊かにした守り神のこと――。少年時代の店主がサトリ様を信じて怖がっていたこと。東京の保険会社に勤め、早期退職して帰郷すると、サトリ様の話が消えていたこと。
「ああ、俺の話なんかしたってしょうない。あー、サトリ様の話、でしたよね。ええ、本当にいたんですよ。……まあ、居たことになってたんですよ。つまり、山ン中にサトリ様の社があったし、お供え物を毎月、家の主人が、町で一番の昔からの地主さんの家に持ってってね、お納めくださいなんていって、納めてきたんです。何も出さない家は潰れちまう、なんて迷信……迷信だかどうだか確かめようがないですけど、みんな信じてたんです」
「すると、サトリ様というのは、この町では、実際に生きている何者かだったわけですか」
「そういうこと。になってたわけですおもしれえでしょ」
「本当に興味深いです」
祐一郎はうなずき、唾を飲みこんだ。ではそれは何もので、いつからここに居たのかという疑問が、そして、現在いないのであればどこに行ってしまったのか、という謎が、祐一郎の胸でふくらむ。
「いまその、社は、どこに……?」
「もうねえんですよ。サトリ様が居なくなっちまいましたんで」
「どうしてですか?」
「んなもん、俺が知るわけねえでしょう」
店主はそう言って笑った。べつに突き放すような感じでなく、しょうがねえだろとでも言いたいように、祐一郎と目を合わせてにやにやしている。だけどよう、とつづける。
「まあ、あれでしょう。……この町で、四年前にちょっとした事件がありまして。関係は、あるんでしょうな」
祐一郎の背筋に鳥肌が立った。
「……高校生が四人、亡くなった」
「おっどろいた。先生、ずいぶん調べましたねえ」
そういって、店主はどこか嬉しそうな顔をした。そして次に言った言葉で、祐一郎は激しく動揺した。
「けど、数がちがってますよ。亡くなっちまったのは、四人じゃなくって三人です」
「え……」
店主が指摘すると、祐一郎は色を失った。
「四人じゃ、ないんですか? 亡くなった人数。その、四人がなくなって、一人が行方不明になったんですよね、その事件で」
「いやいや。なんです、その、行方不明っての。……高校生が三人だけですよ。可哀相な事件だったから、俺ね、よーく覚えてんです。ほら、俺もここの生まれでしょ。おなじ高校の卒業生だから忘れられねえんですよ」
祐一郎は口をポカンと開けたまま店主の話を聞いた。
「あいつら、サトリ様の社の近くの小屋で見つかったんですが、なにかねえ、サトリ様にちょっかいでもかけようとしたんじゃないかと思いますよ。それで罰が当たったんでしょうねえ。ま、刑事さんがあっという間に解決してくれて良かったですよ」
店主が入口のほうをちらりと見て、客が来ないのを確認して続けた。
「それでね、あの事件のあとすぐでしたよ、サトリ様が居なくなったっていう噂が流れだしましてね。……どうも、まあ、サトリ様なんて古くて得体のしれないものを無くす、良いきっかけというか口実ができたんでしょうねえ。それで、いまはもう、名前を口に出すのもはばかられるって扱いになっちまった。……俺なんかは、寂しいような、ほっとしたような、妙な気分ですよ」
祐一郎は黙ったままうなずいた。開いた喉の奥から深い溜息がこぼれる。祐一郎の沈んだ様子を見て、店主が話題を変え、団子を指さして笑った。
「いや、先生。あまり深刻に受けとらねえでください。迷信ですよ、迷信! いまじゃあ、サトリ様なんて、もう、昔からいなかったことになっちまってるんですから。はじめっからなーんにもなかったんですよ! さあ、団子、冷めないうちに食ってください」
明るい声で話を打ち切り、主人が祐一郎の席から離れて店先に戻って、焼き網のうえに団子を並べながら店の外に顔を出す。その姿を視界の端でぼんやり捉えながら、祐一郎はタバコの煙をくゆらせた。
胸には違和感が残っており、しっくりこないその感じを解きほぐすため、祐一郎は疲れた頭を働かせる。高校の名簿から消えた少女、店主の記憶に残っていないもう一人の異常者。わずか二日間での解決。祐一郎の頭のなかで、軋んだ歯車がかみ合うような感覚が生まれる。どちらの場合でも、つまり花と異常者のことは伏せて伝えられ、存在しなかったことにされている。……なぜだろう。
それは二人が『サトリ様』だから、なのか?
考えを巡らせながら、発泡スチロールのトレーに乗った焼き団子の串を持ち、それを一口かじると、入口の戸の音が鳴って、次の客が入ってきた。香ばしい団子を味わっている祐一郎の前に、客の足音がまっすぐ近づいてくる。祐一郎は顔をあげた。
「それが一番簡単なんだよ。『サトリ様』なんてなかった、『高木 花』なんていなかった。そうやって初めから何もなかった事にしちゃうのがさ。何もかも、誰もかれも、ぜんぶ、忘れられてくんだもん」
花が立っていた。
異様な風体をしていた。息を切らし、華奢な肩が激しく上下に揺れている。それはいいとして、スニーカーのつま先が擦り切れ、足の指が剝き出しになっている。外では見せないはずの銀髪がばらばらに乱れ、噴きだした汗で額や頬に張りついて、部屋の灯りできらきらしてる。どこをどう走ってきたのか、黒い上着とズボンのあちこちに緑色の細い葉っぱが貼りついている。表情こそ疲れてるけれど、花の目つきは鋭く、眼球が祐一郎を睨んで赤く光った。
「祐一郎」と少女が名前を呼んだ。
「やあ、花」
祐一郎はつばを飲んだ。
「なあ、帽子は?」
「そんなことはどうでもいいよ。風で飛んでっただけ。そんなことより祐一郎。ここで、何、してんの?」
「きみのことが……その、存在が、生まれた町でどういう扱いになってるか、知りたかったんだ」
「……で?」「うん」「なにか、わかった?」「……読んだんだろ、もう」
「やだ。言ってよ」
「きみは」と祐一郎はかすれ声で言う、「この町にのどこにもいなかったことになってる」
花が両手をだらんと下げ、祐一郎の目を覗きこんでる。
「きみの家があった場所に行って、お母さんに逢ってきたんだけど。逃げられたよ」「うん。ほかには?」
「あの、お屋敷で、お偉いさんに会おうとしたんだけど、門前払いされちゃってさ」「あははは」
「あとは、きみが通ってた高校に行ったんだ」「……うそでしょ」
「四年前、きみはみんなと……いや」
そこで花が祐一郎の言葉を遮った。
「殺してない。あたしは殺してないよ。気づいたときには、あたしを残して、みんな死んじゃったの」
祐一郎は口のなかで「わかってる」とつぶやいて頷く。
「疑ってない。というか、あのときはただの高校生だった花に、そんなことできるわけないんだ。凶器もなしに、四人も殺すなんて、無理だろう」
花の驚く顔を見て、祐一郎はもう一度頷いた。
四年前、その小屋の中で起こったことに、祐一郎は仮説を立てていた。その時、渉が死ぬ間際にやろうとしたこと、金魚たちや犬たちが祐一郎を襲った時と同じようなことが起きた。つまり、死にかけた『サトリ』が他の生き物の頭を狙って襲いかかった。
「きみたちは『サトリ様』に襲われて、他の三人は亡くなってしまった。だけど、きみだけは『サトリ様』として生きのびた」
金魚も、犬も、それに人間も、『サトリ』という生命体が次の生命に移動しようとしたんじゃないだろうか、と祐一郎は感じていた。ウイルスが他の動物にうつる時みたいに。
調べてみた限り、『サトリ』は感染力は強いけど、感染した個体が生き延びる可能性は高くない。そして安定して共存できる個体に感染した時、感染を止める。そうでなければ、世の中は『サトリ』で溢れかえってしまうはずだ。
「ぼくの想像だけど、たぶん『サトリ様』は、寿命が近づいてた。だから、新しい宿主が必要だった。そこで若い君たち四人を襲った。他の三人は遺伝的にウイルスの抗体がなかったけど、たまたま花だけは抗体があったから、君のなかで『サトリ』のウイルスが安定した」
花は答えない。何も言ってくれなかった。心を読むためだろう、相変わらず赤い両目がこっちをむいてる。
祐一郎は少女の顔をしっかりと見た。そして、その赤い目と銀色の髪と、日焼けした肌が、本当にきれいだと思った。だから、これまでだったら言わない方が良いと思ってたことを――そもそも読まれてるから全部ばれてるはずなんだけど――本当のことを、言葉にしたいと、祐一郎は思った。だって、そうしなきゃ、僕は花にちゃんと嫌われっこない。
「……なあ、『みんな』はどんな風に亡くなったか、教えてくれないか? 例えば……頭蓋骨が割れて、中から、真っ赤な触手みたいなものが出てきてさ……っ」
そこまで言って、祐一郎は話せなくなった。花の腕が伸びてきて、喉に食い込み、祐一郎の体を椅子から持ち上げようとする。腕に指をかけ、振りほどこうともがいたけど、少女の浅黒い腕はびくともしない。死んじゃうかも知れないけど、別に殺されてもいいんだ、と祐一郎は思った。
それに、花は笑ってた。裕一郎の言葉に、別にいいよって言ってるみたいだった。
「頭が割れて、みんな血まみれで……細長いクネクネしたやつで死んだとしたら、なんだっていうの?」
少女の声が低くなった。喉をつかむ力は強くなる。祐一郎の目の前が赤黒くにごって、意識が薄れる。
「監督不行き届き、って言えばいいんですかね」
落ちつき払った声がしたかと思うと、急に喉が楽になり、祐一郎の体は団子屋の床に投げ出された。倒れ込んだまましばらく咳き込む。
やがて片手で喉を押さえ、片手で涙を拭きながら、祐一郎は上体を起こした。花と祐一郎の間に、成関高校の制服姿の青年が立っていた。剣治は腕組みをした難しそうな顔で、二人を交互に見る。
祐一郎はついさっきの少年の言葉の意味をよく吟味して、胸に手を当てて考え、それから自嘲気味に笑った。
「そりゃ、悪かったね」
「しょうがないっす」といい、首を振って白い歯をみせる。
「優しいんだな」祐一郎は荒い息をつき、床に尻餅をついたまま、「モテるだろ」
「なに言ってんすか」といってため息をつく。少年の表情はころころと変わる。花とは正反対だ。
少女は二人の男のやり取りを、冷めた目つきで聞いていたが、
「きみ、たしか剣治とかいったけど、あたしたちを監視してたってことね」
「それが俺たちの仕事の一つなんだ。あとは、そう、お前と先生のケンカを止めるのも、そうなんだよ」
「は?」
「そう睨まないでくれよ、おっかねえ」
剣治が花にむかって片手をひらひらさせた。
「人間……まあ、部外者の人間がとばっちりを受けないように保護するのも、俺たちの仕事なんだよ」
「とばっちり、なんて」
「やるわけないって言いたそうだがな。さっき見てた限りじゃ、お前が先生の喉を掴んで、首を引きちぎりそうに見えたぜ」
「やるわけないでしょ。祐一郎に、あたしが」
少女がにこりと笑って首を振る。
「きみ、そんな話をしに、わざわざこんなとこまでついて来たの?」
「いや。そもそも俺は来たくて来たわけじゃねえ。ぜんぶおめーらのせいだから。お前、まだ明るいうちからバイクみたいな速さで二本足で走りやがってよ、人目についてしょうがねえだろ」
祐一郎は二人の会話を聞いて噴きだした。花と剣治が話を止めてこっちを見る。片手で口をおおって、祐一郎は笑いをおさめて謝り、あらためて口を開く。
「もう、大丈夫だよ。ねえ花」
花があいまいな表情をつくって頷いた。唇をわずかに開けたその顔つきにも、自分自身の言葉にも祐一郎は空しさを感じ、団子屋の床に手をついて立ちあがった。
机の上の発泡スチロールのトレーの上に、冷めかけの団子が一つ残っている。両手のほこりを払ってから団子を口に運ぶと、祐一郎はよたよた歩いて行って空のトレーをゴミ箱に捨てた。団子屋の店主がこっちをむいて鼻の穴を動かしてた。
祐一郎が店主の視線の先を見ると、花が顔の前で指を一本たてている。
「おっちゃん、お団子、あたしにも一本ちょうだい」
店主が焼きたての団子を落ちつかない手つきで花に渡す。剣治がパイプ椅子に座り、あくびをして白い歯をのぞかせてた。祐一郎と視線が交わると、頑丈そうな手の平をひらひらさせる。
「俺はもう、ここに来て、そいつの相手したら……腹いっぱいになりましたね。先生、帰りはバカなことさせないでくださいよ」
「ちくしょう」
軽く舌打ちして、祐一郎は花のそばに立ち続ける。少女が団子を一個、二個と頬張るのを横目にしながら、ちょっとの間、愛おしいような息苦しさにあえいだ。
三人が団子屋を出ると、もうすっかり日が暮れていた。二人は店先で剣治と別れ、国道沿いにある長距離バスの停留所へ向かう。剣治のほうは、原付で来たんです、まあ原付よりこいつのほうが速いんですけど、と花を指さして笑い、駅の反対側だという駐輪場へと靴音を響かせて歩いて行った。
停留所のちょうど真後ろに『しまむら』が建っていたので、二人は花の上着とスニーカーを買い、缶コーヒーを二本買って、時刻表の立て看板の前のうす茶色いベンチに腰を下ろした。帽子も買おうか、と聞いたけど、花が首を振ったので、それは止めた。代わりにフード付きのダウンを買おうと言うと、今度は嫌がらなかったので、それを着てもらっていた。
予定時刻より二分送れて、大型バスがやって来た。祐一郎は店内がガラガラなのを確認し、追加の切符を買って少女を乗せる。フードを被るように言っておいたのだけれど、花は髪も目もさらけ出して乗りこんだ。ブザーが鳴って扉が閉まり、バスが震えながら出発する。疲れがたまっていたので、祐一郎は座席に身を沈めて目をつむった。眠気がすぐに襲ってくる。
祐一郎はここ数日の癖で体を花のほうへ傾けた。花もまた彼のほうへ体を傾け、二人して肩を預けあう。祐一郎の肩に花が頭を乗せた。軽い頭だった。
監督不行き届き、という言葉の意味を祐一郎は噛みしめていた。その言葉が頭にこびりついて、眠気とせめぎあっている。
7
群馬から戻った翌日、昼まで二人で寝て、それからご飯を買いに行って食べることにした。
近所のスーパーマーケットへ、二人は歩いて出かけた。日曜日で、空は昨日に引き続いて晴れていた。道の途中で交わした会話は、テレビのCMの良し悪しや、空き地に繁った木々のことなど、ばかばかしいものばかりだ。昨日のことは二人とも一言も話さない。
帰ってきて、パスタとソーセージを茹で、食事をしながら祐一郎は少女にいう。
「一晩考えたんだけど」と前置きをして、「きみはあの剣治って子と、教会に行くべきだよ。悪いやつらじゃない。ぼくだって……」
「助けてもらった?」
「そう」
実際に離ればなれになるのは翌日のことだったけど、ぼくらの気持ちは、その夜のうちに離れていた。初めから、出会ったときから、どれくらい近づいたのかぜんぜんわかんないまま、また離ればなれになったんだ。なんにもできないまま、ただ時間だけ、それだけが過ぎたような気がする。
花が黙って、しばらく皿のなかのパスタをかき混ぜる。ひと口運んで、飲みこんで、ソースのついた唇でたずねる。
「あたしが嫌だって言ったら、どうするの?」
「そんときは、剣治くんたちに、この家へ来てもらう。ぼくより上手に説得してくれるさ」
「祐一郎はさ、そうしたいの?」
「ぼくはいやだ。ほんとうは嫌だけど……ぼくはやっぱり、君が好きになれなかったからね」
花と目を合わせて、祐一郎は懸命にほほえんだ。いままで生きてきた中で、一番上手に笑えたような気がする。
「ねえ、ぼくは一体、何を考えてるかな?」
「自分でわかんないの?」
「……うん」
「そう。昨日はちゃんと、わかってたのに」
「わかんないんだよ」
祐一郎はそういって首を振る。自分が何を考えてるか、教えてくれるもんなら、教えてもらいたかった。
あの連中ならせめて、花が死にたくなったとき、ちゃんと死なせてくれる。自分は花が生きるのにも死ぬのにも役に立たないんだ。そう思うけど、それすら本心なのかどうかわからない。本当の気持ちなんて、きっとどこにもあるもんか。
花と祐一郎は食卓を挟んで静かにじっと見つめあう。花には何が見えるんだろう。そこへ、間の抜けたような玄関チャイムの音が二度鳴った。
玄関を開けると、新聞屋の集金だった。痩せた四十くらいの女性に、祐一郎はもたもたと千円札を四枚渡して釣銭を受け取る。キッチンに戻ると、花の姿が消えていた。
「おい、おい」
裸足で街を歩いていた花の姿を思いだし、祐一郎はうろたえて、アパートの部屋の窓から外の道を見た。――まさか、行っちゃったのか、と思ったら、水を流す音が鳴って、花がトイレから出てきた。
「居なくなってればいいと思った?」
「まさか」
祐一郎は疲れてしまって、キッチンの椅子に元通り座り、しばらくうなだれてから口を開いた。
「花が居なくなるのは、いいとか悪いとかじゃないし。ぼくは、花がもう少しいっしょに居られて、笑ってられたらよかったのに、って思ってたけど」
「けど?」
花が祐一郎に近づき、顔を覗き込んでくる。祐一郎は何も考えず、自分の喉から次の言葉があふれてくるのを待った。
「花。花が人間でも、人間じゃなくっても、僕は、もうきみと一緒にいたくないんだ。だけどそれがものすごく悲しいんだ」
と祐一郎は言った。花が泣き笑いの表情を浮かべ、音もなくテーブルについて、言う。
「すこし、食べようよ」
テーブルの上のパスタは冷え切って、鶏肉の蒸し焼きは表面が固くなり、サラダは萎びてしまっていた。花がナイフをカチャカチャさせて、食べる気なんてあまり起こらない、けどお腹はすいてるし、気がつけば祐一郎も、鶏肉にナイフを刺して口へ運んでいた。ちょっと固くて冷たいけど、味は悪くない。香りづけのキノコとローズマリーがきいている。
食べ始めると現金なもので、二人分のお皿は、程なく空になってしまった。祐一郎のほうが、花よりもずっと多くたいらげた。
花がテーブルの向こう側でフォークを置いて、聞く。
「明日?」
「……うん。いいかい?」
少女が目を伏せて立ちあがり、台所へ行って冷蔵庫を開け、取りだしたリンゴをまな板に載せて包丁を握る。ぎこちない包丁の音を聞きながら、祐一郎は食卓に並んだ空のお皿を重ねて端によせる。やがて、八等分にして芯だけ抜いて皮なんて剥かずに皿に並べたリンゴを持って、花が戻ってきた。
「明日、行くからね、あの教会」
赤い唇をリンゴの汁で濡らして、花が言った。
「うん」
祐一郎もリンゴを食べた。固く、冷たく、酸っぱい味がしたけれど、それなりに食べられた。八等分したリンゴをあっけなく食べ終わって、二人で流し台に並んで祐一郎が食器を洗い、花が布巾で拭いて片づける。
そのあいだずっと、祐一郎は、明日の別れの時に、花に何と言うかを考えてた。いくら考えても良い言葉が思いつかなかったけど、ただ一つのことだけ――ただ、生きていてほしいということだけ――伝えられるようにと、胸のなかで繰りかえしてた。
月曜日の午前中は相変わらず担当の授業がない。祐一郎は花を自転車の後ろに乗せて教会を訪ねた。花は黙っていた。朝からずっと、いやもっと言えば昨夜寝る前からずーっと、少女は不機嫌そうに黙りこくっていた。
教会のなかでは、相変わらずのきらびやかなステンドグラスや天井からワイヤーで吊り下げられて宙に浮いてるように見えるキリスト像が目についた。
かび臭い礼拝堂の前方、祭壇に向けていた体をこちらに振りかえり、シスターが挨拶をした。厳かなしぐさに、祐一郎は背筋を伸ばして頭を下げた。
「お久しぶりです。お二人さん、お返事を、どうぞ」
剣治がシスターの横に立ち、片手をあげて微笑んでいる。
芝居がかった少年の手を、花が無造作に払いのけ、喧嘩を吹っかけた。
制止する間もなかった。いや、制止なんて、祐一郎には不可能だっただろう。
祐一郎が気付いたときには、花の体はもうシスターの目の前に移動していて、高速で殴りかかっていた。
信じられないことに、シスターはその拳を見切って後ろに跳んでいて、二人のあいだに剣治が割りこんでいた。その三人の動作のすべてが、裕一郎には自分の時間と違う時間で動いてるように、早回しに見えた。ただ速いという言葉では説明できない、別世界の出来事みたいだった。
花の拳を両手で受け止めて、剣治の足が床を離れ、大柄な体が十メートルも離れた教会の壁際まで吹きとばされてく。だけど少年は空中で体勢を立て直し、壁に打ち付けられる瞬間に手足を曲げて受け身をとる。
ボンッ――と交通事故が起きたような鈍い音を立て、剣治が壁と衝突し、古い教会全体が震えた。一拍置いて、少年の体が落下して床にしゃがみ込む。そこへ花が走りこんで来ていて、振りあげた足を振り下ろそうとしていた。スニーカーのつま先が少年の顔面めがけて叩きこまれる。が、まばたきする間に鮮血が飛び散り、自分から距離をとって顔をゆがめていたのは花のほうだった。
剣治の右手のなかで、短い両刃のナイフが血を滴らせている。サバイバルナイフ、ってやつだろう、刃渡りが長く、柄のがっちりしたナイフだ。それが教会の薄明りに、鈍く光るのを祐一郎は見た。
「びっくりした」
といって花が傷ついた自分の足を見つめる。右足の親指と人差し指のあいだが一センチほど、スニーカーごと一緒に縦に裂けてしまっている。
「きみって、見かけによらない人だね。女の子に、刃物を向けるとは思わなかった」
「ちっ」剣治が舌打ちしながら花をきつい視線で睨む。「見かけによらないのだあ? お互いさまだぜ、まったく」
祐一郎は完全に引いていた。花の筋力と移動速度が尋常でないのは知っていたが、剣治のほうも、受け身や反応の鋭さから、場慣れした雰囲気が漂っている。二人と比べて、自分はいったいなんなんだろう。
花が血の足跡をつけて教会の床を踏み、剣治にむかってもう一度走りだす。と、次の瞬間にはもう、剣治の眉間を目がけて左手を突きだし、剣治は両手を交差してそれを受ける。
バン、と大きな破裂音をたてて、花の左アッパーが剣治の両手を跳ね上げる。無防備な顔面に、今度こそ間違いなく花が右ストレートを打ち込んだ。
そして、祐一郎の世界は突然、ひっくり返った。
「なんだ、それ」と祐一郎は、花と剣治のあいだに現れたものを目にしてつぶやいた「天使……なのか、おい」
大きな白い羽を肩から生やした小柄な人影が、白鳥みたいな羽をひろげて剣治の体を覆い、花の右手を受け止めていたからだ。そいつは中学生くらいの女で、裸足で、ベージュ色の長い布を巻いた未発達の体は地面から三十センチほど浮いていて、ウェーブがかった金髪をペタンコの胸元まで伸ばし、目鼻立ちのはっきりした大人びた顔つきで、頭の上に光る輪っかを浮かべていた。
ウソだろ、と思っていると、花が飛び退き、少女が目を伏せ、頭の輪っかが輝きを増した。
光の塊が四つ、ミサイルみたいに天使の両肩から二発ずつ発射される。二メートルほどの高さに飛びあがった四本の光の束が、花を狙って高速落下する。風を切る音、熱風が祐一郎の頬を撫でた。もともと花が立っていた空間には灰色の砂煙が立ちのぼり、教会の床に白い羽が四枚、突き刺さっている。どの羽もまるで焦げてないのが不思議だった。
花と剣治が五メートルほど離れてまた向かい合い、奇妙な少女が剣治のそばで浮いてる。
「ウソでしょ」と花が祐一郎の聞きたいことを聞いた、「きみたち、何なの?」
羽の生えた少女は無言、斜め後ろに立った剣治が顎を掻いた。
「守護天使、って言うやつだ」
「なによ、それ」
と花がいう。そりゃそうだ。だけど、祐一郎は驚いた。花が楽しそうに、表情をゆるめていたからだ。頬がゆれながら赤く光っている。
花の無言が何のためだか、目の前で展開される殴り合いの光景に接して、祐一郎はわかりかけていた。
――これを……考えてたのか。どうやったら、連中が、自分を殺してくれるのか……を、考えてたのか。
「俺には天使さまがついてんだよ。コイツは俺に危害を加えるどんな相手からも、俺を守る。絶対にだ」
「ふーん。……きみのそれもウイルスか何か?」
「わからねえ。俺だけじゃなく、組織全体としても、わからねえんだ。俺もお前と同じ穴のムジナ、実験体ってことだよ」
天使と呼ばれた少女は、剣治の足元にしゃがみこみ、頭上の輪から白い光を放ち、教会を明るく照らしている。長さ一メートルは以上もありそうな二枚の羽を二つ折りにして交差させ、少女自身と剣治の体を隠している。美しいが表情のない顔はうつむき加減で、深い青色の目玉だけを動かして周囲を観察してる様子だった。くりくりした目の動きがほんとの子供みたいで、すごく可愛い。
「……まあ、どっちでもいいけど。今あたしが知りたいのは、そこの天使さんがどれだけやるのか、ってこと」
花が言葉を切り、握りこぶしをつくった。足の甲を刺された痛みも、今しがたパンチを遮られて飛び退いた恐れも感じさせない。というか、花の顔はうれしそうだった。ついさっきも、そうだった。ようやく思う存分、力を出していい場所に来た、そんな風に見えた。
「ずいぶん生きいきとして。あなたは、思っていたより、血の気が多いんですね」
「若い二人でお楽しみのところ悪いのですが」
と、シスターが会話に割りこんだ。ついさっきまで祐一郎の隣に立ってたはずなのに、いまは右手で花の腕を押えている。近寄る音も、気配もなく、いつの間にか隣に立ち、振りあげた二の腕に手のひらを乗せて制止している。
「若い二人でお楽しみのところ、お邪魔してすみません。ふふ」
「そんなつもり、ないけど」
「そうですか? では先にお返事をいただけますか? 剣治を殴るのは、後程……思う存分やっちゃってかまいませんから」
花が、一度表情をゆるめ、また引きしめた。海理の手を振り払おうと、何度か腕を上げ下げしたり、一歩前へ出たり下がったりを繰り返したけど、海理の手と体は吸いついてるみたいに花の腕から離れない。
「とにかく、お返事を先にいただきたいんです」
と海理がまた聞いた。花と比べれば、海理の動きはほとんどスローモーションだ。だけど、無駄がなさすぎて、花の手足は海理に操られてるみたいだった。
「行くわよ」
と花が腕を降ろし、ため息まじりにつぶやいた。
「はい?」
「行くわ。あなたたちのところに。こんな返事でいいの?」
すごくあっけなく、花は答えた。
海理が眉をあげ、それから満足そうにうなずき、黒い修道服をひるがえして花から離れる。
三人が話している間、祐一郎は教会の壁際に突っ立ったまま、小刻みに震えていた。花と、剣治と、海理の、人間離れした姿が、ただどうしようもなく、怖かったんだ。
「それでは、花さん。私たちは先日の部屋に控えて居ますから、お別れが済んだら、花さん一人でいらしてください」
そういって、海理が、続いて剣治が、二人に背中をむけ、教会の奥へと立ち去った。
静かな礼拝堂に祐一郎と花だけが残される。
「なーんだ、つまんない。ね、祐一郎」
花ががっかりしてため息をつく。その反応が祐一郎は悲しかった。
「ああ、いや、うん」
祐一郎は泣いていた。自分だけが、違う世界の一員だった。
疎外感――それをまず感じて、その気持ちがすぐに花に対してひっくりかえった。
つまり、祐一郎がいま感じているこの疎外感は、花が感じつづけてきたものなのだ。いや、祐一郎みたいな生易しさじゃない、彼女がもう何年も感じつづけてきた、自分だけが違っているという苦痛を、祐一郎は想像した。世界で自分だけがちがう生き物、という孤独のなかで……友達は本だけなんて、花は言っていたけど、あれはただの事実だったんだ。花だけじゃなくて、渉もそうだったんだ。友達でさえなかったんだとしたら、僕はなんだったんだろう。
いまになって気づくなんて、どれだけおめでたいやつなんだろう。祐一郎は花に頭を下げていた。
「あのさ、花、ごめんなさい」
と祐一郎は消え入りそうな声で言った。
「やめてよ。そうやって同情して泣くの」
と花が言った。
「そんなことより、さ。いいじゃん、祐一郎はあたしにああするしかなかったんだし、それはそれでいいじゃん」
花の言葉も声も優しい。
「同情じゃ、ないよ」祐一郎は涙声を出した、「悲しいんだ」
昨日から泣いてばかりだった。
「いろいろ、あるだろうけどさ……生きててほしいんだ」
と祐一郎は言った。花の赤い目がまばたき、息をのみ、なにかが伝わったとように祐一郎には思えた。いや、思おうとした。
祐一郎には、いまの言葉が、花にというよりも、自分自身に向けて発したものだって、わかっていた。
少女が飛びついてきて、裕一郎の背中を細い腕でぎゅっと抱きしめる。それから体を放し、うつむいた祐一郎の顔をしたから覗きこむと、「さよなら」といった。
「さよなら」
祐一郎は少女に背中をむけ、歯を食いしばって歩きだした。ひどいショックを受けていて、両足に力をこめていないと、その場に崩れ落ちてしまいそうなほど、頭がくらくらした。教会の扉に手をついて、外に出る。
庭の花壇に顔を出している深緑色の小さな芽と凍えるような冬の空気が、かろうじて祐一郎の意識が途切れないように保ってくれた。門をくぐって、溺れた魚みたいな呼吸をしながら、五分ほど歩くともう限界だった。祐一郎は道路の縁石に腰かけて声を出さずに泣きだした。何もかも、うまくいかなかった、という気持ちとともに、涙があふれ出た。
泣き疲れて立ちあがると、ほんのちょっと元気が戻ってた。薄曇りのままの空へむけて長く息を吐き、人通りの少ない真昼の住宅街を祐一郎は歩きだした。筋肉がこわばっていて、両足を引きずってるみたいな歩き方になる。
どこへ向かってどのくらい歩いたかわからない。気がつくと祐一郎は、通りがかりの公園のベンチに座っていた。二棟のアパートの隙間、三坪くらいの敷地に滑り台と砂場だけの置かれた、狭い公園だ。 放心して曇り空を見あげてると、黒髪の若い母親が女の子の手を引いて公園に入ろうとして、裕一郎に気づいた。祐一郎は疲れきった顔でほほえもうとしたけど、母子はすぐに回れ右をして、早足で行ってしまった。小柄で痩せた体つきの母親と、青い上着を着た三歳くらいの男の子だった。自分はこれからどこへ行こうかと、祐一郎は途方に暮れる。
――ぼくは、なんにもできなかった。
やがて、ぽつぽつと雨が降ってきた。うつむいていた祐一郎はのろのろ顔をあげ、濡れるのにまかせて公園を出た。
腕時計を見ると、十二時をまわる少し前だ。午後からは担当の授業がある。
「まいったな」
そう呟いて、祐一郎は来た道を戻りはじめた。考えてみれば、自転車は教会の庭に停めたままだ。土の匂いの立ち昇ってきた歩道を静かに歩き、教会の門を、一瞬ためらってからくぐって、下をむいたまま自転車の鍵をまわした。もう一度門を出て、成関高校に向かって自転車をバカみたいにこいだ。
高校に着くと、祐一郎はまず、濡れた頭を宿直室のタオルとドライヤーで乾かした。それから熱く濃くしたインスタントコーヒーを時間をかけて飲み、午後の授業が始まるまで、しばらく泣いた。
仕事を終え、四畳半のアパートに帰ってくると、祐一郎は一冊の本を手に取り、ぱらぱらとめくりだした。花が居なくなる前日まで、繰り返し読んでた本だ。あいつはどんなつもりで、これを読んでたんだろう。
いつの間にかお腹が空いてるのに気づいたので、セブンイレブンに行ってインスタントラーメンを買ってきて茹で、生卵を一つ落としてすすった。食べながら、テレビとプレイステーションの電源を入れ、金太郎電鉄を始める。やがて空しくなってやめて、食べ終わった食器を片付け、もう一度、花の本に手を伸ばす。そして立ちあがり、仕事用の机に向かい、静かな表情で本のページをめくっていった。
つづく一週間、祐一郎は花が置いていった『ハーモニー』を何度も読み返した。祐一郎自身は、その本よりも同じ作家の別の小説のほうが好きで、『ハーモニー』はの方はそれまで、一度読み終えたきり開いてなかった。早世した小説家の数少ない著書を読みながら、少女と渉の気持ちをなぞりたい一心で、祐一郎は精いっぱい想像した。二人の気持ちが分かる瞬間は決して来なかった。
学校へは休まずに出勤し続けていた。自暴自棄な気持ちになっても、そのために飲み過ぎて朝になってしまっても、祐一郎は教壇に立って生徒に授業を行った。ほとんど身が入らないかと思う日もあったけど、いざチャイムが鳴れば不思議に集中して、元気に教えられたと思う。かえって救われるような気分だった。もしも、やらなければいけないことがなかったら、一日じゅう布団から出なかっただろう。
花が居なくなって二度目の土曜日、祐一郎は、やっぱり、昼過ぎまで寝ていた。買い置きの食パンにピーナッツバターを塗って食べて牛乳で流しこみ、また寝てしまおうかと思った。だけど、寝付けなくなってしまったんだ。花のことを考えて、うまく思い出せない自分に気がついたからだった。たった一週間前だっていうのに、記憶が薄れはじめていた。
その夜、祐一郎は久しぶりに『アンカー』に寄った。静かなカウンター席でラムコーラを飲んでいると、やがて入ってきた一人の客が、祐一郎の隣に座り、懐かしそうに話しかけてきた。
「こんばんわ。ひさしぶりじゃないか」
「あ、所長」
横をむくと、麻衣が見慣れた黒のジャケットを羽織り、煙草に火を点けていた。煙を吐きながら、マスターにウイスキーのロックを注文し、グラスを受け取る。
「『元』所長だよ。元気? ……じゃないな。ひどい顔してる」
「そうでしょうか」
「ああ。……ま、そんなだからこそ、飲みに来たんだろうな。明日は仕事か?」
「あ……さあ?」
「おいおい」
「もういいような気がして、なんでも」
「学校のほうはそうもいかないだろ」
「そうですか」
カウンターの中では、今日もネットオークションに熱中してる。
「所長は……」「所長じゃない、斎藤だ」
「……はあ。じゃ、斎藤さんは、いまなにをされてるんですか?」
「なんにも」
と麻衣が遠い目をしてほほえむ。急に目元のシワが増えたように見える。ロックグラスの中身をいっきに半分ほどあおった。
「なんか研究はじめたら、誘うから、電話番号教えてよ」
「まだ研究ですか、斎藤さんは」
「そうよ。あなた、まさかもうやらないの?」
「……やりたくありません」
「そう」
また二人して酒をあおる。マスターがいつの間にやら二人のほうを見て、目ざとく次の一杯を勧める。同じものをお代わりして、おたがいに一口すすった。
「何もかもどうでもいいような気分になっちゃってるんですけど」「うん」「自棄になってるだけかもしれないし」「うん」「それでも研究は、もういいです」
「勿体ない。じゃあ、あなたは何をしたいの?」
祐一郎はグラスを置き、カウンターの奥を眺めて考えこむ。
「そうですね」
「僕は、あの子が……」
といって、祐一郎は後に続けるべき言葉が見つからず、口をあけたまま宙をにらむ。
花が何だってんだろう、僕は? ラム酒をひと口飲みこみ、返事の続きが湧いてくるのを待つ。僕はそう、そう、何だろう?
「ぼくはそう、あの子を救いたかったけど。そんなことできないってわかりきってるのに」
「そんなもんさ」
「僕がやったことなんて、ほんとうに何にもならなかった」
「だからって、あなたの全部をやめてしまわなくたっていいんじゃない?」
――ぼくの全部、か。ひとかけらでも、僕なんてもの、残しておきたくない気分なのに。それよりあいつのこと、あいつらのこと、もう少しでいいから、わかりたかったし、知りたかったんだ。
「さっきの話、考えといてよ。声かけるから」
「また、記録係ですか?」
「いいじゃない。あなた、記録係として、けっこう優秀だったわよ」
祐一郎は無言で杯を空けた。マスターがタイミングよく顔をあげて目を合わせたが、首を振って立ちあがり、五千円札を一枚、麻衣の目の前に置いた。
「なに、もう帰るの?」
「ちょっと、やることを思いついたんです」
「……そう。ごちそうさま」
麻衣に手を振って『アンカー』を出た。
月の出てない晴れた夜空に、駅前の背の高いマンションの光が吸い込まれて、空全体がぼんやりと白んでる。駅に向かう道の途中、黒っぽいコートを着た何人かの会社員とすれ違う。自分が何をしたいのか、麻衣と話して、自分のなかに残っている感情に祐一郎はかすかに触れたような気がした。
よくよく考えれば、花と過ごした期間も、渉と過ごした期間も、それぞれ半年と一週間っぽっちだ。人生のほんの一部分でしかないし、すぐに忘れていくだろう。渉が強かったこと、花が優しかったことも、ぜんぶ。
深夜にアパートに戻り、酔いに任せて眠り、起き上がると、祐一郎はノートパソコンに向かった。
研究記録の続きみたいな気持ちで、いままで書いたことなんてないけど、渉と花と自分自身の話を、祐一郎は書きはじめた。日曜日の朝から日暮れまで、トイレと飯の他はパソコンの前から離れなかった。
「へえ、小説家にでもなるの?」
そんなことを話すと、同僚の野々原先生が、興味津々って感じで聞いてくきた。
月曜日のホームルームの直前で、他の先生たちは忙しそうに書類や教材を準備してる。野々原先生のジャケットからは、タバコとアルコールと消臭剤の香りがした。
「なれませんよ」
祐一郎は即答して苦笑いを浮かべる。
野々原先生が小首をかしげて、にやにや笑う。
「作家先生、授業は?」
「僕は午後からなんです」
「そういえばそうだったな。じゃあそれまで執筆活動か。しかし、先生、処女作のタイトルは?」
「知りませんよ、そんなの」
そのとき始業のチャイムが鳴って、野々原先生があわただしくファイルやノート類を脇に挟み、祐一郎に手を振って職員室から出ていった。ほかの教員もいなくなり、一人きりの職員室で、祐一郎はキャスター付きの椅子に寄りかかり、背もたれをギシギシいわせた。そしてノートパソコンを取り出し、思いつきの言葉を並べていく。
――タイトルなんて、何だっていいけど。僕が書く理由のために書くようなもんだから、『僕が小説を書く理由』かな。それぐらいがちょうどいいかな。
小説の中に、あの二人の話を書き終えることができたら、きっと、悪くない気分だろう、と祐一郎は思った。ただ花と渉のことを書いて、残して置いておいて、誰かさんが読んでくれればいい。もしも、そのひとが、いつかの花や渉みたいな人だったら、きっと、もう少し、いいんだろうな。 (終)
最後まで読んでくれた人、そんな人がいるなんて信じられない話だけど、まともな小説じゃないのに、読んでくれて本当にありがとう。
一章と二章でアップの仕方が変ってしまって、すみません。僕は全体をかきあげてから何度も修正するので、連載というやり方は難しかったです。
あと、なんだろう。僕はこれからも小説を、へたくそに書くつもりでいて、これを読んでるだれかも、やりたいようにやっていられたらいいのに、と思っています。