第6話 要塞都市アルゴ(3)上官と羊
ゴンゴンゴン
テルセロが分厚い木造りの扉を叩く。もう何度目かも分からない。いつもなら直ぐに顔を出す筈の上官が、今夜に限って一向に姿を見せない。
扉に鍵はかかっていない。それは騎士なら当然の事。いつ何時敵兵が現れるともしれないから。分かってはいても、その扉を開けるのは気が引けた。
とても。
それはもう、かなり。
「中佐ぁー」
再び扉を叩き、今度は大声で叫んでみる。
しかし、
「……」
応答なし。
「勘弁してくれよぉ」
テルセロは思わず項垂れる。額が扉を叩いて、またゴン、と鳴った。
「あぁー、もぉーっ!」
赤くなった額を擦りながら、地団太を踏む。心の葛藤が勝手に身体を動かしていた。
その後ろで、
「ふふ」
アルゴの女性が笑った。
彼女の存在を完全に失念していたテルセロは、僅かに身体を震わせ、気まずさを感じながら振り向いた。
「あぁー……と」
彼女は目が合うと、まだ若い黒騎士に優しく微笑む。
「お気になさらないで」
笑顔が映える白肌が、脇に置かれた蝋燭の光に淡く浮かぶ。彼女達の質素な生活は想像に易いが、その身体は均一に脂が乗って見え、欲をそそるのだから、欲望とはどれほど底なしなのか。
テルセロは影の落ちる彼女の鎖骨から目を逸らし、
「あぁー……、うちの上官がご迷惑をおかけしました。後は引き継ぐんで、もう大丈夫デス」
たどたどしく申し出る。
わざわざ椅子まで用意して、下に転がした毛糸を慣れた手つきで編んでいた彼女が、また笑う。
「ふふ、残念。久しぶりに刺激的な時間だったんですよ」
引き上げた彼女の赤い唇が妖艶に光るので、テルセロは何も知らない少年の様に喉を鳴らすことしかできなかった。
「次回は扉の向こうか、それとも……。是非、次回も呼んで下さいましね」
綿に毛皮を合わせたスカートを軽く引き上げて、彼女は優雅に頭を下げる。その所作は貴族顔負けの品を備えていたが、覗く胸元は明確な意図を持って彼を誘惑した。
「……」
立ち尽くし、口を開閉させるテルセロに、彼女は再び笑うだけでそれ以上は何も言わなかった。細めた目に色香を乗せて、長い髪をゆったりと掻き上げ、そのまま暗闇へと姿を溶かす。
淡い蝋燭の明かりが見えなくなるまで見送って、
「今のは絶対危なかった……」
テルセロは置き去りにされた椅子に零し、項垂れた。
久しぶりに感じる動悸に、反射的に頬が紅潮する。耳まで熱くなって、なぜだか異常に気恥ずかしさを覚えた。
それでも芯の部分は冷静で、苦笑いが零れる。
「絶対食われるとこだったって」
想像しただけで、腰の辺りが粟立った。ただ、それは彼女の事ではなかったのだが。
テルセロは慌てて雑念を払い、再び扉を睨んだ。とにかく、一刻も早く任務を果たさなければならなかった。こんなところで時間を取られている場合ではないのだ。
脳裏に怒り顔の少女が浮かんで、彼はまた震えた。
しかし、このまま扉を叩き続けたところで、上官は出てこないだろう。それは分かる。ただ、中へ入りたくない。中の様子など想像するまでもないから。
それでも。
「うぅう……」
テルセロは葛藤に悶え、頭を抱えた。
このままでいられないことも理解している。宴の席ではかれこれ数時間。アルゴを取り仕切るモノ達が、彼らの登場を今か、今か、と待っているのだから。そして怒りに震える彼女も。
「もぉーいいっ! 分かりましたよっ、開けますっ! 誰が何と言おうが開けますからねっ!」
意を決し叫んで、テルセロは言葉とは裏腹に、慎重に重い扉を開いた。それはまるで廃墟の様に鳴いて、暗い口を開ける。吐き出された空気は温かく澱んでいて、嗅ぎ慣れたニオイを運んだ。
「中佐ぁ?」
部屋は思った以上に暗かった。煤だらけの炉に入った炎だけが、ゆらゆらと揺れて、たった一つ置かれたベッドの影を黒々と落とす。戸口での騒ぎなど嘘だった様に、耳に届くのは爆ぜる炎と、規則正しい寝息だけ。
「あぁ……」
やっぱり、そう静かに呟き、テルセロは窓を開け放った。温まった部屋に澄んだ空気が忍び込む。代わりに澱んだ空気は部屋をさっさと後にした。テルセロも是非そうしたいと願うが、そう言う訳にもいかない。それが雑兵の辛いところ。
鬱々とした空気を吐き出す様に、深く溜息を零す。
と、
「ん……」
ベッドの主は微かに鼻を鳴らし、挫けそうな彼の後ろで身じろいだ。
―――よし。
意を決し、テルセロは振り返る。
「……」
が、足元に置かれた桶の中の濁りに、鋭い嗅覚が色香を感じてまた気まずくなった。へし折れそうな気持を何とか立て直し、静かに深呼吸する。そうして、気を取り直したところで、彼に呼びかける。
「中佐、そろそろ起きてください」
沈黙。
「中佐っ!」
「ん……」
声を掛けられた上官は呻いて、漸く反応を見せた。テルセロに背を向けた格好のまま、頭を擦る。こんな彼を見たのは久しぶりだった。いつでも、だれにも隙を見せない様な人だ。それほどまでに今回の旅は過酷だったと言うことか。
もしかすると町に着いてからの方が忙しかったのかもしれないが。
テルセロは彼の様子に苦笑いして、引かれたままの椅子を戻し、暗闇の中、置かれた水瓶から2つの杯に水を注ぐ。なみなみと杯に入れられたそれは、月明かりに美しく輝いた。
今夜は空気が澄んでいるせいか、月が綺麗だ。
「客人とは言え、これ以上お待たせするのはまずいですよ。一騎士ならまだしも、頭がなんて」
反射する水に目を眇め、ごちると、先程まで聞こえていた規則正しい寝息が止まった。どうやらお相手も目を覚ましたらしい。慌てた気配がする。
しかし残念なことに、テルセロは雑じり。光がなくとも夜目が利く。だから、上官のお相手が一体どんな顔で、どんな体で、暗闇の中、手探りで掛け布を探り、夜風で冷えた裸体を隠したのか、全て見えていた。
気まずさに目を逸らす。
窓の外では虫がか細い声を上げ、流れ込む夜風がヒン、と鳴った。
「あー……」
闇の落ちたベッドの上で、漸く影が身を起こす。
「今、どれくらいだ?」
枯れた声を絞り出し、上官はいかにも怠い、と言った様子で溜息を吐いた。
「暮れ六つはとうの昔に過ぎてます」
「そうか……」
怒るテルセロの前で、彼は頭を押さえる。髪を噛んだ指が、砂の様な音を鳴らした。
「あぁ……」
傷だらけの広い背中にまた新しい勲章を作って、上官は再び呻く。
「頭が痛い」
「換気しないからですよ」
原因は他にある様な気もしたが、テルセロは何食わぬ顔でそう言った。
「あぁ、そうか」
「まぁ、そんな暇なかったんでしょうけど」
揶揄すると、
「そうでもない」
上官は口端を緩く引き上げる。そうして脇に横たわる影に毛皮を掛け、床に足を下ろした。
光源の少ない部屋に月影が落ちる。
「あーもぉ、無暗に色気を振り撒くのは構いませんが、いい加減シャキッとしてくださいよ。俺が中尉にどやされるんですから」
「あぁ、すまん」
テルセロは片方の杯を上官に手渡し、次いで乱暴に投げられた彼の軍衣を取る。
「ったく。早く寝ないから」
探ると、目的の物は内側のおとしにあった。
「さぁ、どうぞ」
それを上官へ差し出し、今度は机に置かれた蝋燭に手を伸ばす。
「俺だって寝たのに」
唇を尖らせ、文句を垂れた。
上官は怒りもせず、項垂れたまま。
テルセロは炉の前まで来ると、燭台傾け、その火を蝋燭へと移す。夜風に揺れる小さな明かりはぼんやりと部屋を照らし、テルセロの金毛を輝かせた。
「さぁ」
手にした蝋燭を上官に差し出す。
ぼんやりとしたままだったエリゼオは、先程受け取った小さな包みを、さも億劫だ、と言わんばかりの 手つきで解く。鼻孔を擽る香しいにまた溜息が零れるが、これは不満や不安からくるものではなく、寧ろ安堵にも似た弛緩だった。
中身を口に咥え、
「ん……」
それに火を貰う。
ゆっくり吐いて、再び吸って。
赤く点った火に、煙が揺れる。
そうそう口にできない嗜好品は、倦怠感のある身体に染みこんで、なんとも言えない幸福感を運んだ。金の無駄だと分かっているが、これを一度経験してはもう止められない。
「はぁ……」
大きく息を吐いて、エリゼオはまだ霞む頭を振る。これ程の疲労感は久しぶりだった。背筋を伸ばし、立ち上がると、彼より小さな臣子は満足そうに頷く。起き上がっただけでこれ程喜んでもらえるのだから、部屋から出れば拍手喝采を浴びるかもしれない。エリゼオは臣子を見下ろしながらぼんやり思って、苦く笑った。
「何です?」
「いや……」
テルセロは曖昧に笑う上官から杯を受け取り、もう片方の杯をベッド脇の小さな机の上に置いた。寝転がったままの影は、縮こまって動かない。
「皆は?」
「はしゃいでますよ、もちろん。久しぶりの人里ですもん」
エリゼオは開け放たれた窓枠に肘をつき、彼らの姿を想像する。それはとても容易だ。あれ程過酷な行軍でありながら応えないとは、流石と言うべきか。呆れるべきか。鼻を鳴らすと、テルセロが心配そうな声を出す。
「ここ、酷いですよ?」
「ん?」
突如、思考の外へ引っ張られ、エリゼオは指された肩口を反射的に撫でた。
「……」
確かに少し痛む。
エリゼオはぼんやりしたまま何かに思い至って、
「あぁ……」
そう零した。
「冷やします?」
赤黒くなったそこを覗き込みながら、テルセロは上官を上目に見た。出血を伴う様な傷でないにしろ、酷く痛そうだ。よくよく見れば美しく整った歯型の様にも見え、
「……」
テルセロはそこまで思い至って、口元が緩むのを感じた。
「いや……必要ない」
首を振る横顔が静かに目を伏せるので、歳若の黒騎士は人の悪い笑顔を浮かべはしたが、それ以上は何も言わなかった。大人しく口を噤んで、上官の背に軍衣を掛ける。
吹き込む夜風は頬を撫で、甘い香りを室内へと運んだ。
炎はただ優しく揺れて、くべられた薪がガラリ、と崩れた。
「……」
テルセロは暫く黙っていたが、ぼんやりと夜空を見上げる上官の姿に、我慢が出来なくなってしまった。
「言えば湯を用意してくれるらしいですよ」
余計な一言。
彼の横顔が満たされて見えたからかも知れない。揶揄いたくなった。わざとらしくベッドに目を向ける臣子に、エリゼオは苦く笑う。
「まるで貴族にでもなったようだな」
真意を理解していながら、気づかない振りをした。臣子はにやり、と厭らしい笑みを浮かべはしたが、深追いはしてこなかった。
「大尉も喜んでましたよ。少佐と一緒に入るんだぁーって」
「それはよかった」
彼の言葉に、黒騎士を彩る可愛らしい彼女達がはしゃぐ姿が浮かんで、エリゼオはまた苦く笑う。
「では、俺は戻りますよ。また寝ないでくださいねっ」
「あぁ、直ぐ降りる」
「絶対ですよっ」
「あぁ、分かってる」
テルセロが頬を膨らませ、上官を睨むと、彼は煙草を摘まんだ手を振って返した。
赤い月は彼らを冴え冴えと照らし、冷たい夜風は緑の匂いを運ぶ。それはいつになく平和で、穏やかな夜だった。




