第4話 要塞都市アルゴ(1)到着
「あぁー、漸くベッドで眠れるっ!」
ベルンハルトは久しぶりに得られたまともな寝床に歓喜し、年甲斐もなくそこへ飛び込んだ。代わりに弾んだ枕が床へ落ちる。
彼、リトラ国第三領主こと第十三黒騎士師団師団長ベルンハルトは、使いの運んだ書簡により娼館から強制退去の後、勅命を受け、速やかに王都を出立。西へ西へと整備もされていない、街道とは名ばかりの荒れ地を数日かけて下り、ルース湖より流れ出る大河、エクを越え、そこから河川沿いに北上。更に数日掛かりの進軍を経て、今朝、漸く大都市アルゴへと到着した。
「んー……」
ベルンハルトは心地のよさに喉を鳴らす。
しかし、寛いだ振る舞いとは裏腹に、その脳裏を過るのは悲惨な旅路。
進軍中の生活はいつも過酷だ。守られた都とは全く違う。俄かに平和が訪れたと言われる現代でさえ、荒野には腹を空かせた野生動物が溢れ、ニンゲンを狙う敵国のモノ達がその身を隠す。外敵はそれだけに限らず、街道沿いには野盗も出るし、下手をすれば盗賊と鉢合わせする事もあった。
そんな危険な場所を何十時間と馬や獣、荷馬車に揺られ、漸く休む段になっても、先ずは安全の確保から。それに加え、行軍中は常に食料や水の管理に神経を尖らせ、あらゆるモノからそれらを、そして最も優先される個々の命を、仲間と身を寄せ合って死守しなければならない。常時気を張った状態で、誰がゆっくりと休めるだろうか。それはいくら遠征に慣れた黒騎士でも無理な相談だった。
特に今回は、黒騎士にとって縁のある都市が目的地と言うこともあって、その足を速める算段だった。そこで削られたのは荷馬車から天幕を下ろし、張って、翌日にそれらを撤収し、再度荷馬車に積み直す、という一連の作業。節約した時間でいつもより早い時間に休息を取り、早めに起床。これにより隊を動かす準備時間も短縮できた。その代償に、黒騎士は獣の様に地面に転がって、吹き曝しの荒野で睡眠を取る羽目になったのだが。
ベルンハルトは日向で微睡む仔猫の様に、毛皮の上で身を捩る。強張った身体がバキバキ、と変な音を立てるが気にしない。大きく手足を伸ばし、今度は大の字に。それは約一週間ぶりの褒美に違いなかった。
「はぁ、最高……」
彼は汚れた石造りの天井を見上げ、静かに零す。
ここは砦に造られた一室。一度入った事がある様な気がするが、彼自身、良く覚えてはいない。
しかし、出迎えてくれた住民達が十二分に気の遣えるモノ達だ、という記憶は間違いではなかったらしい。彼は火の入れられた古い炉を見て目を細める。
彼ら黒騎士師団が入った大都市アルゴは、この大陸にまだイジデ国が存在していた時代より、更に数百年も昔、存亡をかけたニンゲン達が西にあるイルシオンの森、南の獣人都市シユ、そしてそれに付随する南東の要塞ドーリスからの侵攻を阻止する要として築いた砦を中心に発展した都だった。
しかし、イジデ国滅亡から数十年経った現在。アルゴは本国リトラより今でも砦としての役目を貸されてはいるものの、その実態は大都市とは名ばかりの、過疎化の進む廃れた町でしかない。今ここを護るのは農民上がりの民兵で、その僅かばかりの彼らが命懸けで守るのは、領土や本国ではなく、かつての誇り。
この大都市とも謳われたアルゴ衰退の原因は、イジデの後ろ盾を失った事。そして、最北端に位置するリトラの城が、ルース、そしてエクに護られている事にあった。
広大な自然は、敵に易々と道を開くことはない。加えて、近年、敵の脅威を実感する事件は確実に減っていた。それはニンゲンに害を及ぼす彼らが、何の魅力もない北の地に興味を失ったからか。それともニンゲンなど最早脅威にすらならず、相手にする必要性すらない、と考えた為か。はたまた、脆弱なニンゲンの反撃がそれなりに功を奏したのか。理由など分かる筈もないが、俄かに訪れた平和に、砦は完全に役目を失った。
これを好機とばかりに、己の財力にしか興味のないリトラの中枢はアルゴを捨てる。名目としては、戦より身を退き、国民の安全を護る為、とされているが、その実、都に財を集中させたかったに過ぎない。
リトラは金ばかり掛かる遠い大都市より軍を撤退させ、物流を止め、その土地に根付く民に古びた街並みと傷ついた砦だけを残した。取り残されたモノ達の多くは故郷を捨て、軍を追い、安全とされる新天地へと移動する。
しかし、リトラのやり方に違和感を覚えたモノ、イジデを本国としていたモノ、故郷を愛するモノ、砦の役目を全うさせようとするモノ達は、アルゴと共に、と覚悟を決め、最早生命線の切れた大都市に残った。
その後、ある少女の発案で、アルゴの民はリトラからの独立を画策するものの、黒騎士師団の手によって開城を余儀なくされるのだが、それはまた別の話。
「幸せすぎて死ぬかも……」
ほんのりと温まった部屋に、緊張が解れていく。ベルンハルトは大きく息を吐いて、目を瞑ってみた。脳裏に浮かぶ嫌な思いも、憎たらしい顔も、今はどこか遠くに押しやって。何も考えず、ただ手足に意識を向ける。こうすると眠れる、と黒騎士が誇る優秀な医師が教えてくれた。
何度か深く息を吐いては吸い。
「眠れるならそのまま休んでください」
「んー……」
掛けられた声に、曖昧に返答する。
背中に感じる心地よい温もりと柔らかさ。彼を受け止めるベッドは、決して上質とは言えなかった。それでも、敷布の下に柔らかな、弾力のある敷物があって、上には贅沢にボヴァンの毛皮が敷いてある。その肌触りはごわつくが、地面暮らしの黒騎士にとって、これを天国と呼ばず、何と呼ぶのか。
「あぁ……、コレはヤバい……」
浅い場所をゆらゆら揺れる意識を呼び戻し、
「あんがとな」
ベルンハルトは入り口付近に立つ、アルゴの民に礼を述べた。
まるで子供だ、そうごちて、エリゼオは溜息を零し、わざわざ部屋まで案内してくれた町民に肩を竦めて見せる。
「不躾ですまない」
肩を落とし、苦く笑う顔。
案内人は彼らの様子に首を振り、
「お気になさらず。お部屋、気に入って頂けたようで、良かったですっ!」
破顔した。
エリゼオは眩しい笑顔に目を細め、口角を上げる。懐っこい彼に親しみを覚えたせいかもしれない。
だから何となく。
「ここへ入る途中にもちらほら見かけたが、ボヴァンの家畜化は順調の様だな」
本当に何気なく、世間話を振ってみたに過ぎない。
しかし案内人は違った様で。
「はいっ、エリゼオ様! 本当に、その節はありがとうございましたっ! 黒騎士団の皆様に協力して頂けたお蔭で、順調に繁殖にも漕ぎ着けてっ! ゆくゆくは本国に献上できれば、と考えておりますっ!」
まるで神と対面でもしているかの様な熱量で、ベッドに転がるベルンハルトを見る。まだあどけない顔に狂気じみた信仰心を見て、エリゼオの身体が自然と彼から距離を取るのだが、アルゴの青年は気にも留めない。
「あぁ、アルゴの恩人様っ! 救世主様っ!」
それまで満面の笑みを浮かべるだけで、一言も発しはしなかったのに。
「まさかこの目でもう一度皆様を拝見できるなんてっ! 僕感動でっ!」
彼は息も絶え絶えで、叫び続けた。
その様子から察するに、どうやら彼は彼なりに我慢をしていたらしい。それとも彼の上官に厳しく言いつけられていたのか。その口を閉じていないとケツを蹴り飛ばすぞ、と。
しかし、それも効力は薄かったらしい。堰の切れた感情が溢れ出すままに、案内人は化けの皮を脱ぎ捨て、捲し立てる。
「あの時、僕はまだ幼くてっ! こんなんだったんですっ。きっと覚えてもいらっしゃらないでしょうがっ、僕っ、大きくなったら絶対黒騎士になるんだ、って思ってて……。あぁ、懐かしいなぁ」
そうして、生成り色の目に涙を浮かべ、鼻を啜る。
「こんな状態での再開は些か心苦しくはありますが、皆様ならまたアルゴを救って下さると信じていますっ!」
大きく一歩間を詰められ、
「あ、あぁ……、精進する」
エリゼオは更に大きく身を退いた。
それでも案内人は上機嫌だ。
「それではっ! 今夜は細やかながら、宴も準備しておりますのでっ! ぜひ楽しんでくださいっ!」
眩しい笑顔で身を正し、彼は愛想を振り撒いた。
「あ、いや、待て。宴など必要ない。今は大変な時期だ。俺達は……」
任務で来ている、と、最後まで言わせては貰えなかった。案内人はまたエリゼオに詰め寄って、
「いえっ! そうはいきませんよっ! 恩人である黒騎士様をおもてなし出来るなんて、こんな光栄な事はないんですっ! それに、トゥーレッカ様、久方ぶりのアルゴ御帰還。あの伝説として語り継がれる開門の交渉にお持ち下さったアーペを使ったお菓子もたっぷりご用意いたしますっ! 全ては完璧っ! このディオン! ぬかりはございませんっ!」
そう捲し立て、青年はどんっ、と胸を叩く。
握れば折れそうな程細く、黒騎士に比べると幼子の様ななんとも小柄な彼は、黒騎士師団の鬼と恐れられるエリゼオをその早口で黙らせるだけでなく、異様とも取れる熱意で完全に押し切ったのだ。それは正に、彼の完全勝利。
「それではっ! またお迎えに上がりますのでっ! それまでは是非ごゆるりとっ!」
案内人ディオンは有無言わせぬ気迫を撒き散らし、どこで覚えたのか不格好な敬礼をして、颯爽と部屋を出た。その際、慎重かつ静かに扉を閉めたのだけは評価に値した。
エリゼオはもう一歩、彼の去った扉から身を退いて、眉根を寄せる。
「……」
「……」
流れる沈黙。
まるで嵐が過ぎ去った様な。
耳の痛くなる程の静寂。
それは大声で捲し立てられた後遺症かもしれなかったが。
「あはははははっ!」
それを破ったのは勿論、ベルンハルトだった。
「お前が押されるのなんて、ヴァリオだけかと思ってたっ!」
何が可笑しいのか。偉大なる師の名を出し、腹を抱える上官に、エリゼオは鼻筋に皺を寄せる。
「今のにどう口を挟めと? あんな、繁殖期のマリノーフカの様に鳴かれたら、誰だってああなります」
「マリノーフカ! 面白いこと言うなっ」
ベルンハルトは小さな鳥が、臣子の上で忙しなく囀る様を想像していた。
大きな彼は何とかして、掌ほどの小鳥を黙らせようと試みるが、一向に捕まえることが出来ないのだ。その凶悪な牙も爪も、小鳥には届かない。だから黙って空を睨み、苦い顔をする。一時はそうして耐えるのだが、小さな彼があまりに騒ぐので、結局は尾を巻いて穴倉に篭り、耳を塞ぐ。
生真面目な臣子のそんな顔を想像するだけで笑いが込み上げた。ベルンハルトは一頻り笑い転げると、また天井を仰ぎ見た。
「ったく。こんなに浮かれてるなら急がなくてもよかった」
聞いた話では、町に害獣が頻繁に出没し、家畜に相当数の被害が出ている、との事だった。民は食うにも困り、飢えに苦しんでいる、と。しかもここ最近、民にも犠牲者が出た、とか。
最悪の想像を膨らませ、慌てて到着してみれば、アルゴの民は満面の笑みで黒騎士を出迎え、それこそ楽器を持ち出し、踊りかねない勢いだった。その顔に一分の悲壮感もない。寧ろ町を挙げてのお祭り騒ぎだ。
彼らのあの笑顔に困惑したのはエリゼオだけではなかった筈だ。未だ鮮明なあの光景に、真面目な臣子は頭を抱える。あの過酷な行軍の意味は何だったのか、と。
「まぁ、そう落ち込むこともないさ。思ったより深刻そうでなくて、安心したよ、俺は」
「まぁ、沈んだ顔で迎えられるより気は楽ですが」
「そだぞ。俺達をこんなに喜んで迎えてくれる場所なんてないんだから」
自虐する上官に、臣子は苦い顔をする。
「真面目過ぎんだよ、お前は」
再び目を瞑り、今度は揶揄うベルンハルトに、臣子は片眉を跳ね上げる。
「怖い顔すんなって。どうせいつもの事だろ」
エリゼオの顔を見もせず、上官はまた笑う。
「それが余計に、腹が立つんですよ」
上官の言う通りだった。今回も毎度のことながら、長期に渡る任務より帰還し、漸く休めると思った矢先の出来事だったのだから。
エリゼオは項垂れる。
あの日、第三領を預かる彼の城へ、急ぎの命を伝える、と王の書状が届いた。隊を預かる上官なしに謁見することもできず、留守を預かる城守は鳥の様に文だけを運ぶ白騎士を蹴飛ばして、渋々娼館へ出向いた。そこでやっと眠れたらしい彼を叩き起こし、彼の傍で微笑んでいた娼婦に睨まれる羽目になったのだ。意を殺し、任に徹した彼女の事を思えば、気の毒でならない。
しかも、重たい身体を引き摺り、城へ出向かなければならなかったあの時、少女が自身に向けた笑顔が忘れられないでいる。必死に感情を押し殺す様な、少し寂しそうな笑顔。それはどこか上官に重なって、胸の内を引っ掻くのだ。
これ程に、臣子としての無力感と、あの城に居座るモノ達に対する反感を抱いたのは久しぶりだった。思い出しただけでも虫唾が走る。
王の後ろで暗躍する男は、何かにつけてベルンハルトを敵視し、それだけでは飽き足らず、彼の率いる黒騎士師団を潰しにかかろうと躍起になっているらしかった。それは度重なる国外への任務が如実に物語る。
白騎士は国内でさえ、職務を果たしては居ないというのに。
エリゼオは青筋の立った額を押さえ、深く息を吐く。
小さな王はいつも通り、彼に言う。
「折り入って頼みがあるのだ、ベルンハルトよ」
その言葉の重みを、小さな傀儡は知らない。
言葉を受けた上官は、その恩を返すべく、
「畏まりまして、我が王」
ただ、そう返す。
何と便利な人形か。微かにその指先を動かすだけで、白亜の宮殿に住まう悪魔は、邪魔者を国外へと追放できるのだ。
エリゼオはそこまで思考を巡らせて、キレた。ベッドに並べられた固い枕を手に取り、壁に投げつける。
「おいおい、そんなに怒んなくてもいいだろ……」
黙り込んだと思ったら、急に怒りを爆発させた臣子に驚き、ベルンハルトはベッドから飛び起きる。
「すみません。嫌な顔が浮かんだ」
エリゼオは上官に手を上げて謝り、壁を睨む。
「お前も相当疲れてんだよ。早く休め」
「ですね」
「どうせあのじじぃは俺に帰って来てほしくないんだって。それなら国の外に出てた方がマシ。だろ? こんだけ歓迎されてんだ。お言葉に甘えて、たまにはゆっくり休ませてもらうさ」
上官の言葉に、エリゼオはまた、深い、深い溜息をついた。




