第26話 辺境の村 ヒウッカ(16)
単純に、気遣いの出来る男だ、と思った。
エリゼオは自身が決して扱いやすい性質でないと理解しているので、引っ掛かりを感じる間もなく上手く扱われた事に素直に驚いていた。同時に感じる気まずさは、気恥ずかしさの裏返しだったかもしれない。
「いや、必要ない」
こういう時くらい素直に、愛想よく応えればいいものを、と自嘲して、雄羊は気怠そうにめん甲を上げ、革袋から取り出したなんとも言えない色合いの錠剤を数個、口の中へ放り込んだ。そうして、まるで価値を知らない貴族の子供が飴菓子を食う様に、表情も変えずに薬を噛み潰す。
「うぅ、苦そう」
傍らに立った黒騎士は顔を背け、至極嫌そうな声を上げて、身を震わせた。
「んー。旨くはない」
遅れて流れた冷や汗に気づかない振りをして、弁柄目の雄羊は気のいい黒騎士を見上げる。
本当なら傷ついたアッシの救出に当たりたかったが、身体がまともに動かない状態では迷惑しかかけない、と判断し、今はとにかく動かず、邪魔にならない場所で待機することにした。現場に散った黒騎士の数を考えても、目の前に立つ気のいい黒騎士を拘束したところで問題はないだろう。
勝手に言い訳して、エリゼオは彼にお相手を願う。
「イェオリのところだと……、お前も同郷か?」
こういう時はなんでもいい。何か気が紛れる話をしたかった。
エリゼオの心中を察した、と言うより、状況を的確に判断したヴェイは、今にも倒れ込みそうな長の傍らに立ち、辺りに視線を這わせながら口を開く。
「ですよ。俺もイジデの出です」
本来なら壁に背を付け警戒した方が死角も減り効率的な様に思うが、今は仲間の中心に長を置くべきだ、と考えた。何かあった時、この状態なら動けない頭を護りやすい。
時折背後に視線をやり、黒騎士の小隊長は僅かに漏れ聞こえる声に耳を澄ます。
「カロッソ、か」
エリゼオが思案する風を見せると、ヴェイは笑った。
単純に興味を持ってくれた事が嬉しかった。それでも誇れるような家柄ではない、と理解しているので、
「きっとご存じありませんよ。小さな旧家です。荒れた田畑を耕す様な暮らしでしたし、ヤルヴェライネン家にお仕えできたのも運が良かったに過ぎません。騎士なんて名ばかりの末端の末端ですから、王族の方とは縁遠い」
自然と視線は下がった。
自嘲する様な笑い。
エリゼオが瞬くと、ヴェイは身を正して群れの長に向き直る。
「まさかお話できる日が来るとは思いませんでした」
光栄です、黒羊の小隊長は胸に手を当て、律儀に腰を折る。その振る舞いは騎士然としていて、育ちの良さと品性を感じさせた。彼が自身を卑下しなければ、家の階級など気にもならなかっただろう。
ああ見えて、自身とどうにも馬の合わない男は面倒見がいいのだ。きっと怠い、怠い、と呪文の様に唱え続けながら、それでも家柄等と言うくだらない呪縛に目もくれず、彼を掬い上げ、一人前の騎士にまで仕立て上げたのだろう。
あの時、傍を離れなければ自身も少しは真面になっていただろうか。
黒騎士の美しい所作を見ながら、今度はエリゼオが自嘲する番だった。
「知らないのか? お前の目の前に居るくたばり損ないは、王座は疎か、国にすら泥を引っ掛けて、ルースの隅に沈めた男だぞ?」
吐き捨てる様に言葉にしたくせに、胸が酷く痛んだ。
それは自身の中で泣き続ける幼子の叫びだったかもしれないし、経験もしていない自身が彼を傷付けると分かっていての発言に、良心が軋んだせいかもしれない。
なんにしてもこの時、エリゼオ自身が矢面に立たなければ、結局上官を一人、突き出すことになった。
護りたい、と切望しているのに上手くはいかない。
体一つでは足りない。
「ったく……」
零れるのは深い、深い溜息。
エリゼオは鉛の様に重い空気をできるだけ吐き出して、身体が少しでも軽くならないものか、と試してみた。当然結果など見えているのだけれど。
「悪い。聞かなかったことにしてくれ。これは誰にも知られてはいけない秘密だった」
茶化す様に零した声は猫の泣き声に霞み、噤んだ口に広がった薬の味は、自身の胸中に渦巻く苦さによく似ていた。
ヴェイは言葉も涙さえもなく、苦しい、と泣く雄羊を見ながら、長に視線を合わせる為に屈めていた身体を起こした。そうしてゆったりと首を傾げ、思うままに口を開く。
「蝋で口を閉じる前に一つだけ」
「なんだ?」
「難しい事は私には分かりませんが、私が生きて来た時の中で、変わらなかった物など一つもありませんでした。それこそ民に愛され、民を愛した王は亡くなりましたし、栄えた国はやがて傾き、呆気ないほど簡単に潰れました。代わりに貧しい、貧しい、と嘆き続けた小さな国は急成長を遂げ、大きな軍隊を抱えて、都には金が唸る程あるそうですよ?」
前半は事実を淡々と、後半は皮肉をたっぷりと込めて。何処が、と言わなくても、その場に居た誰もが彼の意図をすんなりと理解した。
「なんにしても私達には関係ない」
突き放す様な物言いだったが、そこには悲壮感の欠片もなかった。
ヴェイは微かに呻き声を上げた村の男を見下ろしながら、口を開く。
「他の誰かがどう考えているかなんて分かりませんが、俺は故郷を失ってもまた別の場所でそれを得ました。血を分けた家族は失いましたが、それ以上に強い絆を得ました。もしかすると家族、と言う言葉では収まらないかもしれません。あの時、なぜこんな目に会うのか、と思うほど貧しかったですが、今ではまともに食えて、こうして君主と肩を並べて、言葉まで交わせています。まさかこんな事になるとは思ってもいませんでした」
名誉なことです、ヴェイが嬉しそうに笑うと、俺も、と酒場で作業に当たる黒騎士達も声を上げて笑った。そうして誰も彼もが、今が幸せだ、と言って憚らない。
「俺の方が幸せだかんなっ! 長と話してんだぞっ! すげぇだろっ! 俺もびっくりだわっ!」
吼えたヴェイに、笑い声が上がる。
彼は満足そうに喉を鳴らした後、傍らに座ったままの長に腰を折り、
「次は私と酒でも飲んでくださいね」
仲間には見せない態度で静かに口を開いた。
柔らかい物言いで、気恥ずかしさを隠す為に揶揄った黒騎士に、エリゼオはただ茫然と瞬いた。自身が潰したも同然な故郷の話をしておいて、敵意を向けられることはあっても、こんなにも素直に、真っ直ぐな愛心を受けるとは思ってもみなかったのだから。動揺もする。
心根の優しい彼らに返す言葉も見つからず、雄羊は視線を落として、息を詰めていた。
「中佐はどうですか? まぁ、俺達の様にのほほん、とはいかないでしょうが。変わることで幸せは遠退きましたか?」
彼の声色にはエリゼオの嫌う、腹の奥底を探ろうとする懐疑も、上辺だけのくだらない考査もなかった。純粋にあなたが知りたい、と向けられる借問。それは心に細波さえ立てず、滑らかに浸透する。
「……」
沈黙さえ息苦しさを感じなかったのはいつ振りだったろうか。
エリゼオは目を伏せ、僅かに口角を上げる。
「いや」
それはとても短く、平坦な答えだった。
しかしヴェイは満足だった。
「よかった」
兜越しでも満面の笑みだと分かる。
エリゼオはそれを直視できず横目に捉えて、静かに視線で床をなぞった。
対する下官は腕も組まず、カウンターに背を預けることもなく、長の脇で直立不動を貫き、雄羊のよく知る緑眼の美しい男の様に、ゴロゴロ、と喉を鳴らす。
「猫なんて簡単に伸してしまう暴君や、構いたくて堪らない癖に素直になれず、小姑の様に小言を零すばかりの猛獣や、酒ばかり飲んで何かと火を着けたがる派手好きの放火魔等、扱いの難しい方々も多いですし、胸中をお察しするばかりではありますが。何があってもこうして永らえ、前に進めるのは長の力があってこそ、です。本当に感謝しております」
あ、ご本人達には内密に、唇に指を当て、片目を瞑って見せたヴェイに、エリゼオはどうしようか、と一時意地の悪い笑みを浮かべたが、直ぐに小さく喉を鳴らして笑った。
珍しい光景に、作業に当たっていた黒騎士達の手が止まる。そして誰とはなしに、
「ちょっと、小隊長、自分だけズルくないですか?」
軽くなった空気に押される様に声を上げた。
「俺ら片付けしてるのに、自分だけお礼言っちゃってるし」
「俺も言いたい!」
「俺も!」
さすがに直ぐに作業へと戻ったが、その場に居る誰もが長と話をしたい、と視線を投げて寄越した。受ける雄羊はどう反応していいかもわからず、苦く零す。そうして脇に立った男を見上げ、微かに眉根を寄せた。
ヴェイは態度を軟化させ、懐いて見せた長に目を丸くしたが、直ぐに破顔して下官達を見渡す。
「煩いよ、お前らはいいんだって。俺がお前らの分も伝えたの」
ヴェイはとにかく嬉しそうだった。
「ですよね、中佐? 伝わりましたよね?」
「そうな」
「ほら、みろ。さぼってっと頭役にチクるからな」
雄羊に向けた態度から一変。ヴェイは腰に手を当て、自身の下官達に牙を剥いた。
しかしその声色は酷く優しく、迫力などないに等しい。
当然、
「鬼」
「悪魔」
「にゃんこ」
黒騎士から次々と反抗的な声が上がった。
「おぉ? 誰だ? 今、猫バカにしたヤツ」
「俺じゃないっす」
「俺も違いますよ」
作業に当たる黒騎士達は上官に背を向けたまま、気のない返事を寄越す。
「嘘つけっ! 絶対橙組みだろっ!」
「何スか、そのダサい組み分け」
「これだからにゃんこは」
「ほら言った! 今、言った!」
それはまるでじゃれ合う仔猫の様で。
明るい彼らに助けられた。
エリゼオは随分と落ち着いた体調に安堵の溜息を吐き、
「俺も猫は好きじゃないな」
ヴェイを揶揄った。
「あぁっ、中佐までっ! 今のでここに居る半数は敵に回しましたからねっ!」
何とも情けない声を上げたヴェイに、村人を抱えた黒騎士達は声を上げて笑った。
そこは確かに戦場で、多くの血が流れたが、確かに勝利の余韻に満ちていた。




