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黒の雄羊  作者: みお
第2章
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第25話 辺境の村 ヒウッカ(15)

 下官と呼ぶには余りにも不遜な一行が去った後、エリゼオは漸く眩しい朝日の差し込む窓際から数歩、中央へと足を向けた。泣き喚く灰色の猫を除けば静かな物だ。動くモノもない。



「さて……」



 視察も兼ねた索敵はおざなりに済ませ、首元を撫でた。

 今後の事を考えれば自然と憂鬱にもなる。



「ったく……」



 鳴き続ける灰毛のカッツェロイテに溜息をつくと、風向きが変わった。温い風が割れた窓を越え、室内へと流れ込む。粘膜を撫でるのは雨と埃と、血のニオイ。多くは猫で、少なからずニンゲンの物も混じる。背筋がざわつく様な感覚があって、エリゼオは無意識に生唾を飲んだ。そして我に返り、溜息を吐く。

 自覚はないがどうやら相当欲求不満らしい。休息も真面に取れず腹も減っているのだから、身体が喚くのも仕方がないか。

 ごちるとまた風が流れる。

 ふわり、と温い感触。神経すら通ってはいない黒の鬣が靡く感覚に、胃が再び収縮する。酸が内壁を焼くと、すん、と内臓が冷えた気がした。どこかぼんやりとした思考の外で、無意識に鳴らした鼻があらゆる情報を伝える。反応した脳はただ淡々とそれらを洗い、選別を繰り返し、



「……」



 瞬間、眉根が寄ったのは最早反射に近かった。影を落とした雄羊は弾かれる様に顔を上げ、振り返る。

 変わらず吹き込む風。

 流れる血臭。

 知ったニオイ。

 ここで漸くエリゼオはその存在に思い至った。

 自身は問題ない、と軽く考えていたが、疲労は確実に思考を鈍重にしていたらしい。



 ―――ここまで判断が鈍るか。



 後から追いついた思考が苦い感情を引き連れて、彼の表情を曇らせる。

 エリゼオは深く、深く息を吐き、目を伏せて、もう一度顔を上げた。



「……」



 視線の先。割れた硝子や木片、あらゆる物が瓦礫になり転がる吹き溜まりの中には先程同様、動くモノはない。勿論姿も見えない。先程確認したのだ。見逃す筈はない。

 それでも居ると分かるのは、



「アッシ」



 ニオイがするから。

 エリゼオは状況確認も十分でない酒場で短く舌を打ち、脳内で叫ぶ上官に従い、臣子の許へと急いだ。

 散らばった硝子片を踏み砕き、緩んだ床板を踏めば、それは甲高い悲鳴を上げて鼓膜を引っ掻いた。彼は鼻筋に皺を寄せ、うず高く積もった瓦礫に手を掛ける。

 椅子、テーブル、ニンゲン、猫、またニンゲン。

 まるで紙屑の様にそれらを後方へと投げ捨てて、崩れる山を片手で圧し留め、頭を突っ込んで掻き分ける。地中に住むモノではないので些か乱暴ではあったが、程なくして、



「……」



 映える程に鮮やかな赤を掘り当てた。



「アッシ」



 思わず零れた名前に、当の本人は反応を示さない。



「アッシ」



 呼ぶがやはり反応はなく。

 エリゼオは焦れて、唸った。

 猛獣のそれに、



「ひぃっ!」



 いつの間にか脇で目を覚ましたらしい村の男が息を呑み、重い鎖を鳴らす。それがまた気に障り、



「……」



 無言で目を眇めると、ニンゲンは動かなくなった同胞に縋り寄って涙を流した。その悲壮感と言ったら目も当てられない程で。



「クソ……」



 エリゼオは溜息をつき、舌を打つ。

 焦燥感に苛立つが、彼は騎士で、与えられた任を疎かにできる程、思考に余裕がある部類でもなかった。当然選択肢等存在しないのだから、行動も早い。



「……」



 いつも通り口を引き結んで、常態化した作業の様に私意を押し殺し、瓦礫に向き直って唇を噛む。そうして短く鋭く。

 溜息を含んだ口笛は、怯える村人に更なる恐怖を与えたが、間を置かず、足音も荒く雪崩込んで来た黒羊の群れに最早正気を保てるモノは居なかったので、結果的に気遣いは無用となった。

 軋む床板。

 鉄靴に砕かれるガラス。そして木片。

 鳴る甲冑と荒い足音が重低音を運んで、漸く一つ、駒を進められた、と実感する。エリゼオが短く息を吐けば、



「……」



 集った藤黄と橙の鬣を持つ黒騎士達は、口も開かず酒場を一瞥した。

 一瞬の静寂。

 走る緊張。

 しかし張り詰めた糸も、直ぐに行動を起こした彼らによって断ち切られる。

 喚く猫の鳴き声に重なるのは重い足音。他は軋む建物の悲鳴と、息を殺す息遣いだけ。

 二隊で構成された黒い羊の群れは、言葉を交わすでも、目配せをするわけでもなく、それでも呼吸をする様に自然に索敵を開始し、長がまだ手も着けられていない奥まった調理場へ、倉庫へ、暗がりへと身を滑らせる。

 これが不真面目を地で行く二人の下官だというのだから、世は不可解だ。

 エリゼオはその場に居ない兄貴分が、当然だろう、と笑った気がして、兜の下で眉根を寄せ、鼻を鳴らした。同時に痛み出した頭を振って、喚き散らす上官へと席を譲る。



「……」



 俯いた雄羊の焦点を失った瞳が混ざり、濁り、淡くなって、次に顔を上げた灰目の彼は、慌てた様子で後ろを振り返る。それに映すのは、彼を護る様に周りを固めた黒騎士達。



「助けて」



 それは少女の様な物言いだった。

 彼には些か不似合いな羊面の下で、見えもしない眉が下がるのが分かる。彼は誰を、とは言わない。ただ無言で、目に映るモノ全てを助けろ、と願う。

 長の焦りとも憂心とも取れる懇請を受けた黒騎士達は、囚われ、身動きすらできないまま何度か目を瞬かせた。自覚はなくとも、皆が皆、彼の魔力に一瞬で絡めとられたのは明白だった。

 敵中で止まる空気。

 しかし、



「手を貸せ」



 その呪縛から皆を解放したのも彼自身だった。

 低く唸り、舌を打ったそれで、黒騎士達は長の灰が弁柄に変わったのだ、と知る。付き合いが短い訳ではない。慣れたと言えば慣れたが、やはり目の当たりにすると戸惑うものだ。頭役に零せばきっと笑うのだろう。彼には彼らは特別だから。

 黒騎士達が気まずそうに視線を彷徨わせると、



「早くしろ」



 羊の長はこめかみの辺りを押さえて、眉根を寄せた。そうして覚束ない足取りで立ち上がる。



「分かりましたから、少し、声を……、抑えてください」



 零す様に紡がれた言葉は明後日に流れて、消える。

 弁柄目の雄羊が敬うのはただ一人。そして頼るのもきっとそうなのだろうが。

 背後に控えた黒騎士の一人は、下官に場所を譲ろうとしてよろめいた長の身体を咄嗟に支え、



「大丈夫ですか?」



 僅かばかりに背の低い彼の顔を覗き込んだ。

 無礼だ、と叱責されるかと思いきや、



「俺はいい。アッシを、先に」



 黒羊の長は視線を彷徨わせ、擦れた声を絞り出した。

 そこには先程垣間見た幼さも愛らしさもなかったが、弱り緩んだ目端はやはり灰目の長、その人で。頭役が目に入れても痛くない、と零した理由がなんとなくだが分かった気がした。

 自身にとっては尊敬と羨望を向ける相手であるから、幾ばくかずれた思考に思わず苦笑いが零れる。

 無意識的に声を漏らした黒騎士に、エリゼオは反応しなかった。もしかするとそんな余裕すら彼にはなかったのかもしれないが、



「……」



 長の弁柄を受けた黒騎士は口端を緩めたまま、背後に控えた仲間に目配せした。

 無言の意思疎通は数秒。

 幾人かは素早く瓦礫に駆け寄り、幾人かは気怠そうに村人の許へと歩み寄った。



「……」



 意が通ったことを確認した黒騎士は、何気なく視線を下げた。その肩口から藤黄の鬣が滑り落ちる。微かに反応を見せる身体。腕の内に大人しく納まった長は静かに、深く息を吐き、顔を上げた。

 不意にぶつかる目。

 灰と弁柄の混じるそれは淡い珊瑚色。

 黒騎士は慌てて口を開こうとしたが、



「そんなもの欲しそうな顔するな。俺も腹が減ってる」



 先に結んだ口を開いたのはエリゼオだった。

 思いの外、確りと吐き出されたそれに戸惑いは勿論、単純に意図が理解できずに困惑する黒騎士。そんな男に、彼は小さく笑う。



「イェオリに不用意に近づくな、と言われなかったか?」



 悪戯を思いついた子供の様な光を湛え、群れ長は目を細めた。

 黒騎士はその言葉に頭役の顔を浮かべ、



『下手すると食われるぞ』



 冗談めいた笑い声を聞いた気がした。



 ―――どうやって食われるんだっけ? 



 頭役に聞いた話はとうの昔に忘れてしまったし、と言うか真剣に聞いても居なかっただけなのだが、今の彼に長の摂食についての知識などない。だから自身の様に、都のモノが言うそこら辺の獣の様に、彼は肉を食むのだろう、と思った。

 雄羊を抱えた黒騎士は一時、宙を見て、



「血ぐらいなら構いませんよ?」



 小首を傾げて見せた。そうして上手く立っていられないらしい長の為に倒れた椅子を引き寄せ、年配者を介護するがごとく、彼にそれを宛がった。

 雄羊はなされるがまま腰を下ろし、黒騎士の肩に回していた腕を力なく落とす。

 顔色は伺えないが、本当に辛いらしいと言う事は分かった。項垂れた背中を見下ろしながら、腹が減って堪らないのか、等呑気に考えて、



「さすがに食い千切られるのは勘弁ですが」



 黒騎士は手甲の留め金に手を掛けた。

 軽く響いた金属音に、エリゼオは顔を上げる。視界に入った騎士は目を細め、何の迷いもなく手甲から腕を引き抜く。



「私も肉を食うので、もしかしたらまずいかも」



 そう笑って見せる下官に、雄羊は酷く戸惑った。

 確かに戦場を何度も共にした仲間は特別な絆で結ばれていたし、家族以上だったかもしれない。互いの命を支えるのだから、助け合いが基本だ。しかも群れを作るモノ達が純粋なニンゲンでないのなら、その対処法も普通ではいられないのだろう。

 しかし。

 反応も出来ず固まった長を不思議そうに見ながら、黒騎士はまた首を傾げる。そうして一時思案して、



「あぁっ! 拭いた方が良かったですか?」



 汚いですよね、等と、慌てて突き出した腕を引っ込めた。



「気が利かなくて、すみません」



 笑う声がどことなく、いつも気怠そうなあの男に似ていて、エリゼオは思わず苦笑いを零した。

 その間も黒騎士は辺りをきょろきょろ、と見回したり、何かなかったか、と零して忙しない。そんな彼を見て、雄羊は喉を鳴らし、笑う。



「要らない。冗談だ。誰が仲間なんか食うかよ」



 そこまで落ちてない、と繋ごうとしたが、



「えっ、マジっすか?」



 突如幼い物言いをした黒騎士に、エリゼオは救われた。

 めん甲の下で間の抜けた面を晒す黒騎士に、噴き出す。



「まさか本気にするとは思わなかった。と言うか……、まさか自身を差し出す馬鹿が居るとは思わなかった」

「そんな。ホントに心配したんですよ」

「すまん」



 破顔した長に、



「もー」



 なんて頬を膨らませながら、黒騎士は日に焼けた手を再び手甲に収めた。革と鉄を縫い合わせた手袋に覆われた指先で、彼は器用に留め金を引き上げる。小気味いい音を立て、噛み合う金属。意外と面倒なそれを難なくこなす様を眺め、これだけ戦場に出れば慣れもするか、と考える一方で、エリゼオは覆い隠されてしまった肉付きの良い腕を思い、齧ればよかった、等とくだらない冗談を奥歯で噛み潰した。



「よし」



 平を握っては開きを繰り返し、黒騎士は満足そうな声を上げる。仕草がどことなく金毛の臣子に重なって、エリゼオは目を細める。



「お前面白いな。名前は?」

「ヴェイです、中佐。ヴェイ・カロッソ」



 細めた天色(あまいろ)に縦割れの虹彩を見ながら、エリゼオは未だに眩む頭を振って、腰の革袋に手を伸ばす。そうして中を漁り、



「イェオリのところだろ?」



 黒騎士の兜を飾る黄藤の毛を指せば、



「です。第七中隊、第十七小隊長やってます」



 ヴェイは片手を上げ、軽く腰を折った。

 あの男が前線に送り出した位だ。相当気に入っているのだろう。エリゼオは横目に黒騎士を捕えながら、脳裏で笑う男に鼻を鳴らした。



「下に15。みんないいヤツですから、イジメないで下さいね」



 警戒を緩めた長に気づいているのか、いないのか。黒騎士は悪戯っぽく笑って、肩を竦ませた。

 その天色が映す黒騎士達は僅かに反応を返したものの、皆一様に黙って瓦礫を掻き分け、村人を、そして上官であるアッシの救助に精力を注いでいる。中には橙毛も混ざっているので、ヴィゴの隊と半々で内外の捜索、警戒に当たっているのだろう。

 何も問題ない、自身に、内で騒ぐ上官に言い聞かせる様に深く溜息を吐くと、上げた視界が揺れる。同時に動悸と息苦しさを感じ、思わずエリゼオは胸を抑えた。



「大丈夫ですか?」

「問題ない」



 慣れた問答。

 幾分か重なる様に吐いた長に、ヴェイは不安を滲ませたが、深追いはしなかった。自身の仕える頭役も決して本心を明かさないヒトだったので、これ以上詰めたところで無駄だ、と直ぐに切り替えた。こういった部類のモノには扱い方がある。



「腹減ってるとなんでも食いもんに見えますよね」



 ヴェイがころころ、と喉を鳴らすと、雄羊は切れの長い目を少し見開いた。



「不謹慎だ、って分かってても、こればっかりはどうしようもないですよね。聞いたんですけど、ニンゲンもブロートが焼けるニオイとか、屋台でじゅわじゅわ言ってる、ソースのニオイとかでも腹が鳴るらしいですよ。俺はあのツンッ、とするの苦手なんですけど」



 黒騎士はめん甲の上から鼻の辺りを擦って、ぐすぐす、と鼻を鳴らした。どうやら想像しただけで気分を害したらしい。

 エリゼオが苦く笑うと、



「俺もあれ苦手だなぁ」



 伸びた村人を瓦礫から引っ張り出していた黒騎士が、間延びした声を上げた。それに同調したらしいモノ達は手を休めることもなく、無言で頷いている。



「俺はブロート好きだな。旨くね?」

「お前ら嘴と羽、かぁちゃんの腹に忘れてきた口だろ?」

「俺、羽生えてっけど肉のが好き」

「分かるわぁ」



 片づけに追われる黒騎士達の軽口に、長は気分を害すかもしれない、とも思った。

 しかし、ヴェイは彼らの言葉尻を受け取って、気難しい男へと回す。



「准将はブロート召し上がりますよね?」



 顔色を伺う様に腰を曲げれば、雄羊の弁柄が明後日を映し、



「そうだな」



 また少し緩んだ。

 浅く、短く上下していた胸の動きが幾分か穏やかになったのを見て、彼は長の手に握られた薬に目をやる。



「お水お持ちしましょうか?」



 場の空気が明らかに柔らかくなったことに満足し、ヴェイは満面の笑みを浮かべた。


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