第24話 辺境の森ヒウッカ(14)
「これで最後か?」
踏みつけた猫が暴れるのを嫌がって、雄羊は身を退いた。
ミリはうんざりとした声を出した彼をわざとらしく睨み、
「何だよ、中佐。これからだったのに……」
拗ねた様に唇を尖らせて見せた。暗に邪魔しやがって、と言いたかったのだが、体躯にも性格にも不似合いな風姿に、受ける上官は苦く笑って肩を竦める。
「何を言ってる。もう終わってたろ? そんな顔しても報酬は増えんぞ」
「何だよ。見てたのかぁ」
ミリは茶け、首筋を掻いて誤魔化した。
あわよくば追加報酬をせびれないか、と目論んでいた事も間違いではないが、それでも狙いは一つではないから。
彼女は這いずる灰色の猫を見て、
「ま、いいけどな」
上機嫌で歯を覗かせた。
雄羊が訝しめば、大柄の羊は猫の傍にしゃがみ、
「いいもんは手に入った」
泣きじゃくるログズの手から零れ落ちた宝石を拾って、満足そうに鼻を鳴らす。
エリゼオは目端で隊の重要な資金源の行方を確認しながら、喚く猫から目を離すと、辺りを注意深く伺った。索敵は終わっていないのだから、どこから敵が飛び出してもおかしくはない。そのまま暫く風を嗅ぎ、耳を欹て黙っていたが、動く気配は近場で厭らしく笑う羊だけだ、と分かると、
「がめついのは結構だが、その分しっかり引くからな」
ミリに向かい直って、低く喉を鳴らした。
「えぇっ?」
予期せぬ発言に、大柄の雄羊は戦場でも見せなかった動揺を上官に晒す羽目になった。同時に落としかけた宝石をお手玉然に、わたわた、と腕の内で遊んで、掴み直したところで盛大に溜息を零す。
「くそぉ」
財務管理のゾフィーヤの目を盗んだ積りだったが、目の前の男はその上、隊を統括するモノだと失念していた。
いつも何を考えているのか、本当に何も考えていないのかもしれないが、ふらふらした印象しかないものだから、いけない。油断しているとするり、と腕の内に忍び込んで、懐っこく笑んだ灰をいつの間にか弁柄に染めるのだ。そうして何もかも見透かして、唸る。
なんと優秀な番犬か。
黒い雄羊を見やるミリの表情は渋い。
「しまったなぁ」
「次は静かに目を盗め」
「いえっさー。そうするよ」
別段気にした様子も見せず、彼女は漸く手にした掌の上の宝石に目を落とした。それは装飾も美しく、あれ程の戦いの中で傷一つ付いてはいなかった。
確かに彼女は金を好んだ。それでも今回はこの輝く石の方が興味を惹いた。だから、と言う訳ではないが、上官に小言を頂こうと気にもしない。
「あはっ!」
大柄な羊は満足気に宝石を一撫でし、谷間を作った胸の間へと落とす。
「儲け、儲け」
「ったく……」
エリゼオは笑うミリを他所に、注意深く室内を見渡した。
所々風通しが良くはなっているものの、爆音木霊した事故現場にしては真面に見える、荒れ果てた店内。一瞬爆薬でも使ったのか、とも勘ぐったが、一向に火の手が上がる気配もなく、見る限りでは店内にあった全ての物が一定方向へ飛散し、隅へと追いやられている様だ。うず高く積もる木片やテーブル、椅子の様子から察するに、爆心地は灰色の猫だろう。ミリが隠した石から推測しても、物質を使用した、と言うよりは精神界のモノを利用した魔法の類か。
「……」
エリゼオは猫が、脳内で口端を持ち上げる軽薄な輩の様な焔使いでなくてよかった、と無言のままに胸を撫で下ろした。拓けているとは言え、木々は近い。飛び火でもすれば、それこそ手が付けられなかっただろう。
上官が静かに零した溜息に、決して思慮深い部類ではないミリは首を傾げた。
訝る大柄の羊に、エリゼオは目線だけで曖昧に応え、舞台とは反対側。裏口から右手方向にある瓦礫溜まりを見た。そこには家具は勿論、猫やニンゲンまでもが乱雑に積み重なり、層を成す。なんとも悲惨なゴミ溜めの一部であるニンゲンは、村の男達か。意識があるのか、はたまた既にこと切れているのかは分からないが、皆が一様にカッツェロイテの物と思われる服を身に着け、鎖で繋がっている様だった。何をされたか、など想像に易いが、
「哀れだな」
零れた言葉は存外軽かった。
「心がないねぇ」
傍らに立ち、忍び笑いを漏らすミリに、エリゼオは怒るでもなく目を細めた。
受ける彼女は彼女で、牙も剥かず目端を緩める上官に気を良くし、
「ずっとそうしてなよ。顰めてるより随分いいよ」
にしし、と真っ白な歯を見せながら笑った。
エリゼオは少し困惑した様子で片眉を上げ、影の落ちたカウンター脇を過ぎ、捲れ上がった床を跨いで瓦礫の山へと歩み寄った。重い身体を支える木板は不満そうに軋み、今にも文句を言おう、と口を僅かに開閉させている。彼は老朽化を棚に上げたそれに鼻を鳴らし、足元に転がる猫の死体を足先で器用に返す。
一つ確かめ、二つ確かめ。
「……」
自然と零れる溜息に、静かに目を眇める。
ここに目の肥えたスヴェン医師が居たなら、きっと彼は上官を酷く哀れに思って同情したに違いない。ここに師団金庫番のゾフィーヤが居たのなら、困った様に笑って、一緒に溜息を零した筈だ。
黒騎士師団は何も、国から支給されるお給金だけで生活しているのではない。あらゆる場所へ行くついでに、都のニンゲンの好む物を手に入れ、商品とし換金する。そうして財政を維持し、寒い夜を何とかかんとか乗り切るのだ。
今回の遠征もご多分に漏れず、自己顕示欲を満足させる事に生きがいを見出す、貴族らしい暇つぶしに貢献できる商品を探している。猫であれば毛皮が主流で、稀に丈夫な骨やその他を欲しがるモノも居るが、手間がかかる割に需要は少ない。より多額の金を手に入れるのなら生け捕りにする方が確実ではあるのだが、猛獣の管理にはより多くの危険が伴う。手間や保管場所、換金率を考えるのなら、やはり毛皮が一等優秀だった。とにかく決して趣味がいいとは言えないが、その恩恵は隊の大切な収入源に違いない。
今回ミリを先行させた時点で期待はしていなかったが、それにしても、転がるどれもが乱暴に切り裂かれ、潰され、目も当てられない有様だった。毛皮を取るのなら、目を穿つか、首を折るか。とにかく傷をつけない、が鉄則。
自身は金や財宝を好むくせに、商品価値、と言う言葉は知らないらしい。
雄羊は振り返ると、暴君の名を欲しいままにする、立派な体躯の女性を見る。
「なんだよ?」
口数が少ないからこそ、より多くを語る上官の弁柄に、ミリは至極煩わしそうな声を出した。
物言いにも態度にも、言いたいことは沢山あるが、
「俺の顔面に笑みを張り付けたいなら、もう少し頭を使え」
エリゼオは目を眇めて、顎先を上げた。
苛立ちを含んだ物言いに、ミリは肩を竦めて応える。
それがまた気に障った。
彼女の力を知るからこそ、エリゼオはミリに期待を寄せるのだが、如何せん彼女は自由を愛し過ぎる。
「言っておくが、真面に給金が出るとは思うなよ」
「そんなぁ。それはないぜ、中佐ぁ」
「これだけ好き勝手をしておいて、約束はどうした?」
「くそー……」
弁柄に睨まれれば、それ以上言葉も出ない。
ミリが唇を尖らせたところで、逃げた筈のグロシェクが柱の影から顔を覗かせた。暴力こそないが小競り合いを繰り広げる上官達の様子を観察し、どうやら落ち着いたらしい、と隙を見出して、ミリの背へと走り込む。そうして足元に小さな身体を素早く隠すと、上官の下衣を引っ張り、
「中尉、もうその辺にして、早く出ましょっ!」
小さな声で彼女に囁いた。
ミリが臣子を見下ろせば、彼は母の袖を引く子供様な仕草のまま、赤に近い濃い橙に自身ではなく、怒れる雄羊を映していた。次に瞬いた時、いつの間にか上向いたどんぐり眼が、これ以上は逆鱗に触れる、と言葉なく語るので、
「んだよぉ……」
ミリは臣子の橙から目を逸らし、溜息を零した。
「ったく。わぁーった、わーったよ。こわーいご主人様にどやされる前に、あたしらは退散だ」
ミリが喚く様に吐き出すと、
「うあっ! ちょっ! もぉっ! 少しその口っ! 少し閉じてて下さい!」
グロシェクは空気も読めず、口数も減らない上官の足を思わず叩いていた。
乾いた音が静かな室内に響く。そうして気づく、刺す様な視線。
「……」
グロシェクが恐る恐る顔を上げると、隊長の更に上、黒騎士の群れに君臨する雄羊が自身を見下ろしていた。その弁柄の何と無機質な事か。
「あっ、あははっ!」
小柄な羊は慌てて愛想笑いを浮かべる。
「あ、いやー、困っちゃうなぁっ! お、お邪魔ですよねっ! 直ぐっ! ホント、もぉ、直ぐ出ますんで!」
「おっ? ちょ、おい、グーシー押すな」
「あははっ! し、失礼しますっ!」
グロシェクは真っ黒な影を落とす雄羊から目を逸らす事も出来ずに、顔に引き攣った笑みを張り付けていた。温和に見える灰もどこか薄ら寒いが、光もないあの弁柄は特にいけない。あれは余りに異質すぎる。それは壁の奥。沼地を生きた彼だからこそ分かる異常性。そう言うところを感じ取って、彼の主も黒に染まることを了承したのだろうが、彼自身はどちらかと言えば隅を走り回って、隙を狙い、獲物を掠める主義で、彼らの様にわざわざ身を晒して、対峙して、捻じ伏せる、所謂イカレタモノとはそもそも生きる場所から違うのだ。
当然、何の不幸か。彼らの様な異常者に鉢合えば、選ぶのは逃げの一手。
「ほらっ、中尉! 早く出ましょっ!」
とにかく一刻も早く雄羊の視界から出たくて、グロシェクは力の限り上官の足を押した。
「なんだよ? 別に取って食われやしないっての……」
「いいから早くっ!」
「なんだよ、もぉ」
不満をたらたら、と零す上官は放って置いて、グロシェクはこっそり入って来た裏口ではなく、破壊され、大口を開ける表へとミリを押しやった。その際、恐ろしい群れ長が生える場所から距離を取ることも忘れなかった。
あんなモノ、係わるだけ命の無駄だ。
「ふぅ……」
小さな子羊は凶悪な弁柄から何とか逃れると、入り口の外に突っ立ったまま、入り口に影を落とす下官の存在に漸く気づいた。彼は先程まで感じていた被害者意識と、頭の働きが幾分か鈍く、助け船も出させない部下の無能さに苛立ちを覚え、
「ライム! ほら、中尉に上着っ!」
当てつける様に甲高く叫んだ。
受けた巨漢は身体をびくり、と震わせて、
「うあいっ!」
酒場の外、分厚い雲も晴れ始めた空を見上げたまま、なんとも間の抜けた声を返した。それは最早、反射であったかもしれないが、彼の生真面目さを体現するには十分であった。
「ちゅうい」
彼が彼に見合った速度でゆったりと振り向くと、地面が大きく揺れた。小さなグロシェクは小石の様に振るわされるが、慣れたもの。まるで岩石が落ちる様な地響きに臆する事もなく、幹にも似た下官の太い足を叩き、
「ほら、早くっ!」
きゃんっ、と吼えた。
「あいっ」
手招かれた彼は小さな上官の何倍も、何十倍も大きな身体を小さく丸め、彼にとっては余りにも狭い酒場の入口へと無理やり身体を捻じ込んだ。破壊されていた入り口が更に悲鳴を上げ、建物全体が揺らいで、漸く気を取り戻した村の男は、そこから覗く小屋程もある大男の顔面に再び昏倒する羽目になった。
「さぁ、中尉。冷えますから」
グロシェクはミリを見上げ、小山の様な大男に向けて顎をしゃくる。
ライムートは大きな頭を何度も振って頷き、彼にとっては余りに小さすぎる毛皮を何とか指でつまんで、逞しく美しい女性の肩に掛けた。
それはまるで大男の人形遊び。
しかし、ミリは気分を害するでもなく快活に笑って、
「ありがとな、ライム」
自身の身体程もある彼の腕を叩いた。
「うあいっ!」
ライムートは嬉しそうに破顔して、何かに気づき、振り返る。その大きな目が捉えるのは小さな酒場。彼は地響きを伴って暗い入り口から中を覗き、大切な上官が愛用する大斧へと手を伸ばした。その際、穴倉を探る猫の様に顔は上向いたので、勿論室内を窺うことはできなかった。仕方なく目測で乱暴に床を叩き、触る物、触る物を引き寄せては握り潰す、を繰り返した。
未だ室内に留まったままだった雄羊が、粗暴な魔の手から逃れる為に大きく身を退く羽目になったが、大らかな彼は全く気にもしなかった。
「もたもたするな、ライムッ!」
「うあいっ!」
仔犬の様に吼える上官に、大きな彼はこれまた大きな声で返して、酒場の壁を震わせ、漸く探り当てた上官の大切な得物を乱暴に引き抜いた。その際、また酒場が軋んだが誰も文句を言わなかったので、ライムートは派手に入り口を破壊して、小さな、とても小さな羊の許へと駆け寄った。
「遅いぞっ!」
「うあいっ!」
朝焼けを騒がせる掛け合い。
それはきっと、静寂の似合う村には不似合いであったが、上機嫌なミリは臣子の間でゆるり、と振り返ると、変わらぬ笑顔を覗かせた。
そうして瑠璃を向けるのは暗がり立つ雄羊。
「お先に、中佐」
歯を見せると、朝日に慣れた目が無然と腕を組む長を捉えた。
ミリは笑う。
「今度はもっとうまくやっからさ」
背を向け、軽く手を振れば、上官が背後で呆れた様に深く息を吐いたのが分かった。ミリはもう一度笑って、肩を竦める。
あれでいて、意外と感情表現が下手なだけだったりするのだから、笑える。結局灰であろうが弁柄であろうが、彼は彼なのだ。それを彼自身が知っていようと知るまいと、群れがどう受け止めていようが関係ない。密やかな情報でさえ、彼女にとっては玉なのだ。
生成も石も、煌めく程に綺麗なモノを愛する彼女は、それ等を懐に抱えられるだけで満足だった。
大口を開けるでもなく、噛み締める様に笑う上官に、グロシェクが訝る様な視線を投げていると、
「早く診て貰え」
彼らの背に、低くも柔らかな声が掛けられた。
珍しい声色に一団が慌てて振り向けば、
「傷、残るぞ」
そう言って雄羊が自身の顔を指差していた。
彼の弁柄が捉えるのは、今朝の空を映し取った様な澄んだ瑠璃。
ミリが誘われるままにそこに触れると、頬が微かな痛みを伝える。興奮と脳内麻薬で気が付きもしなかった。
「珠に傷は価値が落ちる」
一瞬、理解できなかったミリは、ぽかん、と口を開けて呆けた。そうして一時固まり、瞬いて、じわじわと首を、頬を赤らめる。ここが血生臭い戦線でなければ、きっとその様は酷く愛らしく見えたに違いない。
彼女は熱を持った顔を背け、腕で隠しながら、
「うっ、うっさい! ほっとけっ!」
変に上ずった声で吼えた。
珍しい光景にグロシェクも瞬く。どう対応していいかも分からず、右往左往していると、
「行くぞ! グーシー!」
上官に怒鳴られた。
「まっ、待ってくださいよぉっ!」
先を行くのは逞しくも、しなやかな羊。彼女は美しい毛皮を輝かせ、ぶら下げた複数の獣の尾を靡かせる。朝日に琥珀色の髪が輝き、それはどこか貴石を思わせた。
雑じりはかくも美しい。
ニンゲンでありながら、どこか野性味を残す肢体。狩人ならば誰もが欲しいと思うに違いない。首を落とし飾るのか。皮を剥いで纏うのか。はたまた側に置いて愛でるのか。
脂の乗った褐色の肌を光らせて、大柄な羊は歩く。その後姿は正に野盗の頭目で。それなのに、薄く色付いた外耳はほんのり女を匂わせて。
「……」
エリゼオは苦く笑い、溜息をつく他なかった。
戦場で血に当てられた獣ほど滑稽なものはないのだ。
「ったく……」
零れる自嘲。
後に残されたのは項垂れる雄羊と、泣きじゃくる灰色の猫。そして再び戸口を痛めつけられた建物の悲鳴だけだった。




