第23話 辺境の村ヒウッカ(13)
止んだ雨。あれ程厚かった雲はやがて途切れ、切れ間から覗いた朝日だけが暗い室内を照らした。割れた窓から、扉から、忍び込むのは湿った空気。温い風が雨に濡れた爽やかな緑の香りを運び、小さな鳥達が新しい一日に歌を添える。
「フッ、フッ」
ログズは最早内とも外とも取れる酒場の壁際を這って、砕け、大口を開けた、元は窓だった場所まで身体を引き摺った。辛うじて暴風を逃れた板壁に身を添わせると、僅かな振動で尖ったガラスが、かしゃん、と落ちる。目の前で砕けたそれに気をやる事すらできず、彼女は荒い息を吐きながら目を閉じて、流れ込む空気に意識を集中させた。
目の前で動くモノはないが、外は一体どんな状態なのか。
黒い羊は他にも居るのか。
飛び出した仲間は無事に逃げ切れたのか。
次々に湧いて出る疑問に喉を鳴らし、大きく息を吸い込む。自身を制御できなくなった身体は過ぎる空気を肺に運んで、酷い痛みを伴った。普段なら気にも留めなかった筈だ。寧ろそんな事態にすら陥らなかっただろうか。とにかく精神的にも追い詰められている今、そんな些細な事でさえ不安を増幅させ、更に恐怖を助長する。
助けて。死にたくない。そんなことばかりが脳裏を廻って、助かるのか、という疑問が鉛となった。
考えたって、分かる筈もないのに。
漏れたのは自嘲。
集中しなければ。
自身を律したのは理性。
ログズはもう一度大きな目に光を点らせ、大きな耳を立てた。
「……」
しかし身体を震わせる程の鼓動と、呼吸音が煩過ぎた。
押えてもいないのに、耳元で轟々と渦巻く血潮が鳴り響き、手足に集中した汗腺から汗が噴き出す。口を開けたところで呼吸は楽にはならない、と分かっていた。それでも無意識に、ぽかり、と間の抜けた顔になる。吻の長い獣の様に舌を出し、喘ぎ続ける彼女を見れば、きっと仲間は指を挿して笑ったに違いない。そこから涎が流れたのだから猶更だ。
しかし残念な事にそこに仲間はなく、彼女自身も高々涎ぐらいのものに気を回す余裕はなかった。
「……」
灰色のカッツェロイテは眉頭の間に深い皺を作って、頭を振る。
集中しろ、集中しろ、集中しろ。
まるで暗示の様に唱えて、少しの異音も聞き逃すまい、と耳を欹てる。
「……」
聞こえたのは小鳥の囀り。
朝を喜ぶ小動物の息遣い。
微かに揺れる下草の、木々の軋む音。
まるでいつもと変わらない。これだけだったのなら、爽やかで透き通る様な朝だ、と大きく伸びたかもしれない。
生き残ったのだ。
勝ったのだ。
と。
「ひっ」
しかし淡い期待を抱いた灰猫は、あっさりと裏切られる。
湿っても尚、固い音を立てる森の木々の奥。自然の声には不似合いな、濡れた地面を踏む複数の足音と、金属が擦れる不協和音が追って彼女の鼓膜を震わせたのだ。
それらが示すのは。
―――囲まれてるのっ?
一気に押し寄せる不安が絶望にすり替わり、彼女の血液を急降下させた。
そんなもの、先程まで全く感じもしなかったのに。
自身の意思とは関係のないところで本能が呼吸する様に辺りの索敵を継続し、更に吸い込んだ風から様々なニオイを検知する。
感じるのは血と汗。そして初めて対峙した黒い羊と同じ、鼻の裏を引っ掻く様な、独特の重い金属の臭い。中に混じる、背中を粟立たせる不快なニオイの正体を彼女は知らない。
「……」
ログズの顔は自然と歪む。
確かに敵対したモノは不可解なニオイがしていた。それでも群れる風を見せていたのだから、同種だろう、とは思うのだが、外から流れ込むそれに、どれ一つ同じニオイはない。
その複雑さと言ったら。
その事実がより彼女を混乱させる。
ただ彼らがこちら側であることは間違えなかった。彼らは獲物に気配を気取られず、距離を詰める方法を熟知しているのだ。事実、自身はこうして狩られる獲物と化しているのだから。
灰色の被毛を持つ、美しく、それでいて汚れてしまったカッツェロイテは、慌てて目を開き、縮こまった身体を更に縮めた。そこは僅かに影の落ちた酒場の角。身を隠すには余りにお粗末なその場所でも、敵中の今、彼女にとっては安全な場所に違いなかった。息を殺し、身体を掻き抱き、成す術もなくただただ、震え続ける。
「あぁ、どうしよう。どうしよう……」
壊れた機械人形の様に繰り返し漏れ出る言葉。
不安に支配された身体は自然と唇に手を寄せ、落ち着きのなくなった身体には小刻みな反復行動を強いる。そんな混乱する思考を支配するのは、仲間たちの裏切り。
ログズは彼女達を信頼していた。確かに金での繋がりもあったが、同じ屋根の下。同じ苦しみを味わい、生を共にした家族だった筈。にも拘らず、叫んだ自身に背を向け、彼女達は逃げ出した。彼女達が一度近づいた窓から離れ室内へと戻ったのも、ログズに協力する為ではなく、きっと外に居るあれ等の存在に気が付いたからに違いない。レスペトやターゲルと言った、時間もまだ浅い軍人崩れの方がまだ盾として役に立った。
「……」
信頼を寄せていたモノ達の裏切り。何より、現実に突きつけられた、命の危機。じわじわと心を侵食する恐怖に、ログズは心底震えあがった。
「ワァーォン……」
潰れる胸を押さえ、彼女は鳴く。
―――もう逃げられないの?
「ナァーオン」
それは閑散としたホールに響き渡る。
―――ここで終わり?
「ナァアーン……」
ログズは軋む壁に凭れた。
彼女の心中などお構いなしに近づく足音。外を囲むモノ達は最早気配を消す事すら無駄だ、と、間を詰め始めていた。きっと百はくだらない。もしかするとそれ以上かもしれない。
内に入り込んだ羊は確かに、辛うじて排除できた。ニオイはどうあれ、対峙した時に覗いた素肌から中身はニンゲンらしい事も分かった。ただ、それ等は今までに出会ったどれとも違う。凶暴で、異様に強い。もしかしたらニンゲンの形をした、全く別の存在なのかもしれない。そんなモノ達が飛び出す兎を今か、今か、と待っている。抗う力はもう残ってはいないのに。
ログズは静かに項垂れる。
「ナァー……ン」
下がった鼻先を雫が伝い落ちて、ここで漸く自身が泣いている、と気づいた。情けなさに、更に目頭が熱くなる。
「ナァー……」
胸のつっかえが苦しくて。吐き出した空気は微かな音にはなったが、助けにはなりそうもなかった。胃の辺りが軋んで、引き裂いてしまえばどれ程楽になれるか、と出来もしない妄想に逃避する。
「ナォ……」
追い詰められ、思考さえ鈍らせた脳裏に、今頃温かなベッドの上で微睡んでいるであろう、仲間達の姿が浮かんだ。彼らは今日も満足のいく食事を摂り、素晴らしく広い、とても柔らかなベッドで素敵な惰眠を貪るに違いない。
時折隠れ、再び雲の切れ間から顔を覗かせた朝日にログズは目を眇める。
―――せめて頭領に断って出てくればよかった。
「ナァーン……」
後悔の念が漏れた。
暇だから、と飛び出すなんて。ニンゲンの領地だから、と油断するなんて。
「ナァー……」
灰色のカッツェロイテは頭を抱え、蹲り、一頻り身を振った後、力一杯床板を引っ掻いた。
恐怖は後悔へ。
後悔はやがて怒りへ。
鋭い爪は耳障りな音を立て、あっという間に床に穴を開ける。
「ウゥウ―ッ、ナァアアッ!」
灰色のカッツェロイテは月夜に吼える獣の様に、喚き散らした。
昇った血液が逆巻き、己がどんな状態であるのかさえ分からなくなっていた。
「アァアアアッ!」
悔しい、悔しい、悔しい。
―――どうして自分だけっ!
「ゥナアアアッ!」
「あはっ! 何だよ。やっぱり猫だな」
それまで静まり返っていた酒場に、突如降って湧いた声。
ログズは心底驚いて、大きく、それは大きく飛び上がった。反射的に逆立った毛に尾が膨れ、顔は引き攣り、耳は下がった。
「あてて……」
ミリは強張った身体で牙を剥く灰猫を見ながら、身体に圧しかかった瓦礫を押し退ける。強かに打ち付けられた身体は軋んだが、首を回せば骨が鳴って、幾分かすっきりとする。
「さっきの凄かったな。猫はみんな使えるのか?」
酒の席での一芸でも褒めるかの様に、大柄の羊は心底感心した様子で頭を掻き、怯えるログズに向かって笑顔を見せた。
「猫っておもしれぇ」
引き上がった口元から覗く歯に牙はない。強く握った拳には鋭い爪もない。黒の鎧から出た皮膚は柔らかで、カッツェロイテが撫ぜればきっと容易に裂けてしまうのだろう。
それなのに。
「ひっ!」
大きく踏み出した羊に、ログズは悲鳴を上げた。
「さて、仕切り直してもう一回戦だな。勝負はこれからだ」
灰色のカッツェロイテはただ茫然として、開いた口を塞ぐこともできなかった。
あれだけ暴れておいて、羊はまだ足りない、と笑うのだ。あれだけ流しておいて、血が足りない、と。
「はっ、ひぃ……」
心臓が苦しい位に鳴って、吐き気がする。
ログズは眩みだした瞳を何度も瞬かせ、もう後ろはない、と分かっていながら、更に下がろうと身体を壁に押し付けた。
「体術は敵わなかったな」
大柄の羊は巻き起こった風にも倒れず、突き刺さったままだった大斧に手を掛けた。乱暴に引き抜けば床板が悲鳴を上げ、歪に捲れる。
「今度はあたしも負けないからさっ」
彼女はまた笑って、軽く得物を振った。それは風を切り、重く物騒な音を立てる。
平屋造りであっても、この酒場は天井が高いのだ。そしてとても都合のいいことに、今、羊の得物を邪魔する物はない。全て吹き飛んで、がらんどう。これほどまでに整った場所があるだろうか。
「ほら、早くやろーぜ」
ミリは猫を手招いた後、吻を失ってしまった羊面の兜を脱ぎ捨てた。それは余りにも軽い音を立て、転がる。
覆いを失った大柄な羊が見せる琥珀色の髪。目にも鮮やかなそれは吹き込んだ風に流れ、しっとり、と濡れた褐色の肌を色付ける。きっとそれだけであったなら、美しい部類のモノだった。ログズに他種族の容姿美は理解できないが、きっとそうだろう、と思った。
しかし残念なことに、露わになった顔面に刺された青がそれを許さない。間違っても巫女に見えないのは、鎧で隠される訳でもなく、惜しみなく晒される筋肉のせいだろう。彼女を作るその全てがどこか荒々しく、野生的な部族を思わせる。出生など知る由もないが、もしかすると名のある戦士なのかもしれない。それ程の圧が大柄な羊にはあった。
―――これがニンゲンなわけがない。
己の知るモノとの差異に眩暈がする。
―――ではこれは何?
未知なる恐怖に震える他ないログズを他所に、
「ほら、立てよ」
羊の瑠璃が灰猫の黄緑の瞳を捉えた。真ん丸な、大きく開いた虹彩の中で、猫の顔が歪む。
「う……、うぅっ! ひぃいっ!」
耐えられなかった。
ログズは上手くは動かない四肢を必死に動かし、床を這いずって、裏口に一番近い柱の後ろへと逃げ込んだ。身を寄せると不安が少し和らぐ。恐る恐る顔を覗かせれば、羊が追ってくる姿が見えた。
灰猫は口を開閉させ、震えた。
一歩、また一歩と近寄ってくるソレに、勝てる見込みなどなかった。もしここから逃げ出せたとしても、羊の包囲網を掻い潜って振り切る力はない。
とても逃げ切れない。
完全に心を折られたログズは胸の前で腕を組み、鳴り止まない歯を打つままに、涙を流す。
一歩。
また一歩。
「まっ、待って! も、もう戦えないっ!」
耐えられず、隠れた柱から飛び出して間合いを詰めた羊を見上げた。
「お願いしますっ! 殺さないでっ!」
震える身体、心からの叫び。
ログズは床に這いつくばって、何度も命乞いをし、足を止めた羊を見上げ、また懇願を繰り返した。
落ちる沈黙。
胸が痛い。
ひゅっ、と鳴ったのはきっと自身の喉で、変わらず穏やかなのは流れる風だけだった。ログズは瞬き、静かに涙を流す。
「おいおい……」
羊は静かに、とても大きく目を見開いた。
「何だよ、それ……」
そうして歪む表情。
聞き間違いか、と羊は猫の顔を覗き込むが、灰猫は震えながら尾を下げ、耳を下げるばかり。それは完全に戦意を失った、落人の姿だった。
これでは獲物とは言えない。大柄な羊は狩人であって、魂を抜かれた塊を相手にする肉屋ではないのだ。
心底失望したミリは背丈ほどもある斧を床に突き立て、柄に寄り掛かる。
「嘘だろー」
落胆する羊を見上げたまま、ログズは必死に考えていた。
どうすれば助かるのか。もう逃げ場はない。生き残るためにできることは、と。
そこで一つ、名案に当たる。
「あ、の……。コレを、やる。だから、こ、殺さないで……」
必死だった。
他種族相手に考えられないことだったが、命がかかっている。ログズは恥も外聞も捨てて、羊が興味を示していた魔法石を差し出した。
毛足の短い被毛に覆われた、すらりと長く美しい指先が震える。それまではきっと美しく、蝋燭の光に輝いていたであろう爪は罅割れ、へし折られたのか歪に短くなっている。その様がなんとも痛々しく。
「あー……」
急激に冷え始めた感情を整理する事が出来ずに、ミリはとても微妙な声を出した。
「お、お願い……。お願い、し、ます」
何度も、何度でも頭を下げ、黄緑を涙で濡らす猫の姿に耐えられず、羊は目を逸らした。そうして顔を顰めると、乱暴に頭を掻いた。寧ろ掻き毟ったに近かったかもしれない。それ程、目の前の猫に失望していた。
「……」
ログズは獣の言葉を待つしかなかった。
もう立ち上がることもできず、そうする他、手立てはなかった。怯えた目でもう一度羊を見上げ、どうすれば彼女に取り入れるか、と必死に考えた。
死ぬなどごめんだ。仲間が微睡んでいる時に、脆弱である筈の他者に殺されるなどあり得ない。家族だと信頼していた仲間に裏切られ、捨てられたまま終われない。こんなところで、なんて。
「ぃギャッ!」
それは本当に突然に。
全身を突き抜ける驚愕が先だったのか、悲鳴が先だったのかも分からない。混乱さえ許されず、ログズは受け身も取れずに、顔面を床に打ち付けた。激しい衝撃に視界が揺ら身、脳が揺れる。
痛みはなかった。それよりただ怖くて。
灰色のカッツェロイテは飛び上がる。
「あっ! あわっ、あぁっ!」
慌てふためき上げた顔。少しでも状況を把握しようと、子供の様に辺りを見回して、
「あひっ!」
漸くそれに気づいた。
戦慄く彼女の真後ろ。
気配もなく、一体いつの間に現れたのか。そこには酒場に乱入したどの羊より暗い、立派な角を持った雄羊が立っていた。
「いつまでやってる?」
低い、低い、身体を、芯を震わせる様な音だった。
たった一言。それだけで、空気が酷く冷たく、至極重くなった。
「あ、あぁあ……」
押える事も忘れた猫の鼻からは血が溢れ、玩具の様に鳴る歯を、艶やかな毛を濡らして、染めて、汚した。
「聞いてるのか?」
黒い鬣を優雅に揺らし、雄羊は喉を鳴らす。
申し訳程度に開いた仄暗い穴から覗く、赤の双眸。光の乏しいそこで真っ黒な影になったそれは、確かに捻じれた大角を持つ悪魔に違いなかった。
「ひっ! いっ!」
ログズの口からは、最早言葉にさえならない音が漏れた。間を置かず、影色の雄羊の双眸が彼女を捉える。
きっと黙っていればよかった。
しかし、簡単なそれが出来なかった。
「ひいっ!」
呼吸と共に鳴る喉。
頭上で眇められる赤。
「っ! っ!」
ログズは咄嗟に口を押え、首を振った。
が、遅かった。
真っ黒な雄羊は低く唸ると、僅かな予備動作すら見せず、灰色のカツェロイテの顔面を蹴り上げた。
「ギャゥッ!」
抵抗さえできない身体を床に強かに打ち付けて、猫は悲痛な呻き声を上げた。雄羊は構わず、床に伏したその身体を乱暴に踏みつける。
「やっ! 止めっ! 止めてぇっ!」
ログズは力の限りに叫んだ。この後に何が待っているかなんて分からない。ただ、それが手にした剣から血雫が落ちている事だけは見逃さなかった。踏みつけられた背を逸らせ、尾を丸め、四肢で床を必死に削る。何としても逃げなければ。きっと次にあの長剣を汚すのは自身に違いない。
「やぁああっ!」
しかし、悪魔に対抗できる力などなかった。
「やめてぇえっ!」
雄羊の姿をしたそれはまるで枝葉の水でも切るかの様に、軽い動作で濡れ刃を振った。その切っ先が己の腱をなぞる感覚はあった。同時に、嘘の様に、ばちんっ、と弾ける様な感覚に襲われる。そして遅れて感じる灼熱。
続いて激痛が走り、
「ギャアアッ!」
灰猫は前肢を伸ばし、泣き叫んだ。
突き抜けた電撃をやり過ごす為に開かれた平は指先を反り返らせ、暫く小刻み震わせていたが、やがて襲ってきた猛烈な痛みの沼地できつく握られる事となる。
「アァアッ!」
口が裂けんばかりに吼えて、しなやかな身を捩り、ログズは首を落とされた蛇の様にのたうち回った。混乱と恐怖で尾が、背筋の毛が逆立ち、食いしばった歯が軋んで口内までもを傷付けたが、構ってはいられなかった。とにかくもがいて床を引っ掻き、どうにかして痛みから、悪魔から逃げようと必死だった。
「ぅあ、ぅう……」




