第3話 拠所(3) ※2019.8.18 修正
「こらっ! あんたたちなにやってんだいっ!」
荒い足音と共に聞こえた怒声に、漸く拳の嵐が去った。
エレラインが恐る恐る顔を上げると、酒場のカウンター奥ではなく、珍しく入り口付近から館の主が姿を現したところだった。
「あんたたち! お客の前で何考えてんだいっ!」
雷の様な怒号と肉厚な身体に、古参の娼婦達はその場から飛び退いた。
エレラインは暴力から解放された酷く痛む身体を抱き、目前で敵意を剥き出しにしたままの獣達を睨んだ。最早立ち上がる事すら敵わなかったが、負けたくない、その一心だった。
「フゥッ! フゥッ!」
対して、古参の娼婦達は肩を揺らし、檻に閉じ込められた猛獣の様に荒い息を吐き続ける。その目は怒りに燃え、少女の息の根を止めなければ気が済まない、と物語って憚らない。
それでも主には逆らえない。
小さな獲物を前に、娼婦達は主人の許可を、今か、今か、と辛抱強く待つ。主が金を運ぶモノを優先する、と彼女達は知っていたから。必ず優秀な自身を尊重する、と信じて疑わなかった。
しかし、
「エレライン、あんた、お客の見送りもしないで……」
今回に限って、館の主は古参の娼婦達に見向きもしなかった。彼女達は困惑を露わにし、気遣いを受けたエレラインでさえ眉根を寄せた。
「部屋に篭ってるかと思えば、大事な身体にこんなに傷つくって。何やってんだい、全く……」
先程まで大口で怒鳴っていたモノとは思えない程、痩せっぽちの少女へ対する主人の物言いは優しい。
「ごめんなさい、お館様……」
エレラインは浮かぶ幾つもの疑問を取り敢えず脇に置いて、戸惑いつつも素直に謝罪した。少女が項垂れると、館の主は乱暴に彼女を引き寄せる。そして、まるで我が子を守る母の様に大切そうに彼女を抱きしめ、古参の娼婦達を睨むと、
「お前たちっ!! 私の大事な商品に何してくれてんだいっ!」
信じられない程の音量で再び怒声を張り上げた。それは酒場を揺るがし、楽団の奏でる美しい旋律をぶち壊しにする。勿論、接客に回るモノ達も、腰を落ち着けた客たちも身を縮めて飛び上がった。
落ちた雷に古参の娼婦達は一瞬首を竦めたが、直ぐに負けん気を取り戻し、
「お館様っ! 悪いのはこの子よっ!」
「そうよっ! 私たちに生意気な口利いてっ!」
「許せないっ!」
「そうよっ! まったくっ!」
乱れた髪を更に振り乱しながら、吠えたてた。彼女達が猟犬であったのなら、きっとよく獲物を追い詰めたと、優秀だと褒めそやしたに違いない。
しかし、
「黙んなっ!」
残念な事に、館の主は彼女たちを一蹴する。
「この子はあんたたちより価値ある、私の商品だよ! それを傷つけたんだっ! 落とし前は確りつけてもらうよっ!」
「そんなっ!」
「どういう事っ!?」
娼婦達は目一杯喚くが、主は意にも介さない。
「なんでっ!」
「なんでよっ!」
金が全てのこの世界で地位を確立し、甘やかされ続けていた彼女達には、主の理不尽な仕打ちが理解できなかった。主の望むモノを持ち帰る限り、この地位は決して揺るぐ筈はないのだ、と確信しているせいだった。
「まったく……」
舘の主はそんな喚くばかりの獣は放って置いて、エレラインの傷を繁々と眺め、頭を撫でた。
「可愛そうに。もう大丈夫だよ。直ぐに手当てしてあげるからね」
その言葉に、意地悪な娼婦達は勿論、エレラインでさえ再び耳を疑うことになる。
「え?」
娼館ではそれこそ数えきれない程の揉め事が起こる。多くは両成敗。それが娼館のモノだろうとお客だろうと関係はない。館の主は気に入らなければ誰でも問答無用で叩き出すのだ。そして下っ端の娼婦や男娼が怪我をしようが、決して助けない。彼女たちの代わりは掃いて捨てる程居るのだから。そこで駄目になろうと、彼女に損はない。
お金を運ぶモノだけが優遇され、権利を得る。
それがこの世界の理。
「そんな顔するんじゃないよ。私は貴重な商品を大事に、それは大事にするのさ」
確かに部屋持ちは大切に、大切に。どこかの王子様か、お姫様の様に特別扱いされていた。それは誰もが知っている。だからどん底を知るモノ達は部屋持ちに憧れ、目指すのだ。這い上がる為に。
しかし、エレラインは彼女達には遠く及ばない。現状、主に運ぶ金額など底辺以下であったかもしれない。それがなぜこれほど目をかけて貰えるのか理解できないが、主の心配を無下にはできない。
「ごめんなさい、お館様。でも私、これじゃお客を取れないわ……」
訝しみながらも、一応真摯に応えた。
しかしその内心、追い出されてしまう、と気が気ではなかった。急激に冷え始めた頭が冷静さを取り戻し、後悔を叫び始めていたのだ。
涙を流すエレラインの怪我は本当に酷かった。手足に留まらず、背中や顔にまで爪痕や、殴られた時に出来た痣が見受けられた。深く傷ついた部分からは血が流れ、床を汚している。
彼女自身、ぶたれた顔はとても痛かったし、きっと酷く腫れているに違いない、と思った。血が止まり、もし完治したとして、傷跡が残るかもしれない。それではお客は眉を顰め、近づいても来ないだろう。
―――折角助けてもらったのに。
エレラインは最悪の結末に項垂れ、泣いた。
―――恩返ししなくちゃいけなかったのに……。
頭に浮かんだ顔に、涙が止まらない。
―――もう会えない。
馬鹿にされるまま、追い出されてしまう。せめて大事な彼を貶した彼女達を見返してやりたかった。
しかし、それももう叶いそうにない。
「ごめんなさい……」
絞り出した声は引き攣って、上手く出なかった。それはいったい誰に向けて零れた言葉だっただろう。彼女の心中など分かる筈もない舘の主人は、それでも酷く同情した様子でエレラインの頭を撫でた。
「あぁ、あぁ、そんなに泣くんじゃないよ。一体何を心配してるんだい? 大丈夫だって言ってるだろ。あんたはこれから自分の部屋を持って、確り稼いでもらうんだからね」
『え?』
間の抜けた声は、当事者三人、見事に重なった。
意地悪な娼婦達は開いた口を閉じられず、エレラインも思わず何度か瞬いた。数秒そうして固まっていたが、我慢できなかった派手な首飾りの娼婦が喚く。
「ちょっと待ってよっ! お館様っ! 次の部屋持ちは私のはずでしょっ! だって! そんなっ! そんなはずないわっ!」
続いて羽を纏った女が。
「そうよっ! 私だって、テーベには届かなくてもっ、この女には負けてないわっ!」
そう言って指差したのは隣で喚く首飾りの娼婦だった。
「そんな私を差し置いてっ! あり得ないっ!」
「ちょっとっ! 待ちなさいよっ! 私に負けてないですってっ!?」
「そうよっ! あんたみたいな胸だけのアバズレに誰が負けるもんですかっ! 次の部屋は私だったのよっ!?」
「何ですってっ! 馬鹿おいいじゃないよっ! 私の方がお客は多かったわっ! あんたみたいな離れ目っ! うちのお客もあんな不細工じゃ勃たないって笑ってたわよっ!」
「何ですってぇっ! 不細工はあんたでしょっ! あんたの客なんて貧乏人ばっかりで、アレも落とす金も貧弱だったのよっ!」
「きぃいいっ! 言わせておけばぁっ! この高慢ちきっ!」
聞き取れたのはここまでだった。後は金切り声と、互いに殴り合う音だけ。彼女達の豊満な身体を包んでいた美しい衣装はあっという間に襤褸雑巾になり、辺りは舞い散った艶やかな羽に包まれた。
「うおっ! いいぞっ! もっとやれっ!」
「ひぇっ、今のは痛そうだっ。女はやっぱり怖いねぇ……」
そこはいつの間にか、娼館には到底思えない盛り上がりを見せていた。はしゃぐ野次馬から、取っ組み合いの泥仕合を披露する娼婦達に野次が飛ぶ。
「やれやれ……」
舘の主は彼女達を止めることもなく溜息を零すと、エレラインを支え、さっさとカウンターの裏へと入った。勿論その途中、争う娼婦たちの許を去った宝石の幾つかを拾うことも忘れない。
「まぁ、修理代の補填くらいはできるだろ」
そう言って、彼女は笑った。
「さぁ、さぁ、取り敢えずここへお座り」
舘の主人は弱ったエレラインを椅子に座らせると、更に奥の部屋へ入って行った。そこは彼女の知らない小部屋。見れば小さな机と、大きな椅子が乱雑に置かれているだけで、他は物置にでも使われているらしかった。何かがあった時、こうして誰かを運び込むのだろうか。それとも密談の際はここを使うのか。金勘定する様な場所には見えないから、きっと主の入った奥の部屋が重要な場所なのだろう。
エレラインは痛む身体を擦りながら、ぼんやりと霞み始めた頭で取り留めのない事を考えていた。そうこうしていると、主は奥の部屋より小柄な男を連れてくる。
「ったく、とんだ災難だったね。あの子達には前から手を焼いていたし、まぁ、私としては良いきっかけにはなったがね」
笑いながら、彼女は男に商品の治療を急げ、と唸った。余り上等とは言い難い福を纏った小柄な彼は、少し怯える風を見せながら主人に何度も頷いて、傷ついた少女の身体を舐め回す様に見た。その様が酷く気味悪くて。エレラインは青い顔を更に引き攣らせる。
「心配はないよ。こう見えて、腕が立つから」
怯えを見せる少女の心中を察し、館の主はまた軽やかに笑った。
当のエレラインは得体の知れない、どちらかと言えば不気味な小男に怯えはしたものの、もう動くことも億劫で、これ以上酷く成り様がない。どうにでもなれ、と半ば諦めて、彼に身体を預けることにした。
「傷跡残さないでおくれよ。大事な商品なんだ」
小柄な男は一度だけ痩せた少女の顔を見て、物言いたげな表情を浮かべはしたものの、一切無駄口は叩かず、手当に取り掛かった。
舘の主は忠実な医者の態度に満足気に頷いて、少女を見る。
「さっきも言ったけど。あんたにはこれから部屋を持ってもらうからね」
「あの……、私……」
「2号室だよ。テーベの部屋より少し狭いけど、寝具も全て新しいのを入れてあげるからね」
「え? 2……、え、でも」
「他にも必要なものがあったら言うんだよ。何でも揃えるからね」
あまりにも急な申し入れに頭がついていかない。エレラインは酷く動揺して、上手く声を出せなかった。
「ホントならテーベの部屋を使わせてやってもいいんだけど。一応あんたはまだ経験も、ほら、浅いだろ?」
機嫌を損ねたくないんだ、彼女はそう言って頬を掻く。誰の、とは言わないが、それが娼館一番の稼ぎ頭を指す事は直ぐに理解できた。エレラインは曖昧に笑って、目を伏せる。
舘の主人が言うテーベは、この舘で最も人気のある娼婦。それこそお姫様の様に扱われ、彼女をお世話する従者は6人も居るだとか、気に入ったお客しか取らない、と有名だった。それでも、部屋持ち、と言うブランド力と、物珍しさ、何よりその容姿の美しさから彼女を指名する客は後を絶たない。
エレラインも数回だけその姿を見た事があった。そしてその度、きっとお城のお姫様とはああいった存在なのだろう、と納得したものだ。それ程荘厳で、儚げで、今思えば少し、彼に似ていた。
「まったく、お前さんはツイてるよ。あの方に拾われて。しかも養ってくれる、ってんだから」
「え?」
「あの、ほら。黒衣を着た、軍人かい? 大きな方だよ。買い取ればいいとか何とかぶつぶつ仰ってたけど、まぁ、私も、あの立場ならその方が安く済むし、絶対そうするけど。あの顔色の悪いお方が……、あ、こんないい方したら、あんたに悪いか」
舘の主人はばつが悪そうに笑って、大きな木の椅子に、どかり、と腰を下ろした。その顔にエレラインも思わず笑ってしまった。損得でしか物事を計れない女性だが、悪いヒトではないのだろう、とどこかぼんやりと思ったせいか、彼を悪く言っても不思議と腹が立たなかった。
「ベルンハルト様です、お館様」
そう説明するのがなんだか可笑しくて。エレラインはまた笑う。笑うと切れた唇が痛んで、小柄な医者が少し心配そうな顔をした。
「そうそう、ベルンハルトだよ。どこかで聞いた様な気がしたんだけどねぇ」
「きっとあの方が領主様だからですよ」
「領主? ここの領主は根性の悪い、イカレたズベ公だったろう? で、継いだのは確か、あの薬漬けの……」
口が汚いのもご愛嬌。館の主の物言いに、エレラインもまた笑う。彼女も壁に染まり切ったと言うことだろうか。
「公主様はもう、何十年も前に亡くなったでしょう。それでベルンハルト様が引き継いだんです。この壁を」
「ってことはやっぱり、あのお方はあのガリガリの坊やかい? 一度だけ見たねぇ。ありゃ駄目だと思ってたけど。まともになったもんだねぇ」
「そうですよ。今も立派に戦っていらっしゃいます」
「なんだい。やだねぇ、私も耳が遠くなったもんだよ。最近はずぅっと閉じ籠りきりだったからねぇ。まぁ、ここは幾ら首がすげ変わろうが、変わりはしないだろうけど」
遠くを見る主人に、エレラインは首を振る。
「いえ、お館様。あの方は……、ベルンハルト様は、必ずここを、この国を良くして下さいます」
「あらあら、やだよぉ、この子ったら。お客にそんなに肩入れして。適当に構えてないと、後からしんどいよ。なんせあの領主サマは軍人でらっしゃるんだろう?」
片眉を上げて、館の主人は揶揄する様にエレラインを見た。
「はい、覚悟はしています。だから約束をしたんです。お見送りはしないって。待たない、って」
「成程ねぇ。あんた、愛されてんだね」
「え?」
「さっきの続きじゃないけど、これから毎月、下官に金を持たせるって言われてね。部屋をやれ、ってさ。そしたら客を取るも取らないもあんたの自由だろ? 客の相手をしなくても金は入るから、後はあんたの好きにすればいい、ってさ。まぁ、あたしとしてはもっと食べて、肉を付けて、もっともっと太い客を取って貰いたいけどね。まぁ、欲はかかないでおくさ。今回も十二分に貰ったし」
ガハハッ、と大口を開け、彼女は豪快に笑う。
エレラインはまた話に付いて行けずに困惑した。
「待って下さい、お館様。私、あの方に買われたんですか?」
「そうさねぇ、なんて言うか。まぁ、難しく考えなくても、あんたに太い客がついた、ってだけさ。あたしはあんたがあの男とどういう関係を築こうが口出しする気もないし、金を落としてくれるなら何の文句もないしね」
「そんな……」
「まぁ、流石に出ていく、なんて言われたら敵わないけど」
「いえ、言いません。私、行くところがないもの。さっきだって、追い出されるんじゃないかって……」
「なんだい。てっきりあの男のところに行く、なんて言い出すんじゃないかと思ったよ」
「いいえ、いいえ、お館様。私はあの方には相応しくないんです。私は娼婦で、あの方は騎士様。私はただ、ここであの方がいらして下さるのを待つだけで幸せなんです」
言ってエレラインが、そして館の主人が苦く笑う。
「待たないって約束したのに……」
「可哀想にね。あんたは重症だよ。まぁ、これ以上泣かされる前に他の客とんな」
主の言葉に、
「……はい、お館様」
エレラインはただ、静かに項垂れた。
「そんな顔するんじゃぁないよ。あの方に失礼だろ?」
「はい……」
エレラインはまた零れそうになる涙を拭って、顔を上げる。
「あの領主サマとやらは、あんたを囲いたいんじゃないのさ。ただ住むに困らず、食うに困らず、笑って生きて欲しいんだろ」
「……」
声も出なかった。
彼が生き永らえるだけの人生は辛い、と言っていたのを思い出す。
「知ってるだろ。あのお方も囲われモノだったって」
「……はい……」
「希望がないってのはホントに辛いのさ」
舘の主の目が遠くを見た。彼女の生い立ちなど、エレラインは知らない。それでも苦労してきたのは分かる。ここはそういう世界だ。彼女の悲しい横顔が己に重なって、胸が潰れる思いだった。
「あんたは恵まれてる。受けた恩は必ず返すんだよ」
館の主の言葉に、
「礼なんていらない」
笑った彼の顔が浮かんだ。
「こうして少し、一緒に眠れるだけでいい」
不器用に笑う彼の目はいつも悲しい。
「俺は……」
いつもそこで言葉を詰まらせる。その目はすごく遠くを見つめ、その先に自分が居ないことも分かっていた。
それでも、
「ただずっと、エレナが幸せだと嬉しい」
彼が笑うので、少女も笑む。
出会う度に、
「こんにちは」
そう言って、腕の中で子供の様に笑い合った。
初めて会うみたいに。
それはきっと奇跡。
道端の石ころみたいな命が一瞬だけ輝ける時。
「ベルンハルト様……」
エレラインは我慢できず、大粒の涙を零した。
辛い思い出や苦しい思いが溢れて、彼の優しさが酷く恋しい。
会いたい。
会いたい。
また声を聞いて、眠りたい。
喉が張り裂けるくらいに泣き叫んで、もう敵わないかもしれない思いに胸を掻き毟る。
「ベルンハルト様……」
彼女を見上げる小柄な医者は、小さな身体をうんと伸ばし、幼さの残る少女の頭を優しく撫でた。
「イタイのイタイの飛んでけ」
それはきっと魔法の言葉に違いなかった。




