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黒の雄羊  作者: みお
第2章
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第22話 辺境の村ヒウッカ(12)

「っつ、はっ! はっ!」



 ログズは荒く息を吐き、その場にへたり込んだ。

 肩が上下する度に手足から汗が溢れ、主人に尾を振るだけの間抜けな獣の様に舌が出た。もう何をするにも億劫で、今更外見を繕う気力さえない。



「ぅ……ふ……」



 漏れ出るのは嗚咽にも似た吐息。

 何時だったか、都に居た魔導師に教えてもらった魔術は、彼女の体力を根こそぎ奪い去っていた。それは強力であるからこそ、容易くは使えない諸刃の刃。特に魔力を潤沢に蓄えられる性質でもない彼女にとっては、かなりの負荷が伴った。それは胸にぶら下げた魔法石を媒介にしていたとしても、だ。それ程に魔素を扱うには生まれ持った特異性と、努力による後天的な技術が必要だった。



「はぁ、はぁ、はぁ……」



 収まらない動悸は耳元でいつまでも大きく鳴り響き、嫌気が差した。

 本当なら、身体がそうさせるまま床に突っ伏し、瞼を閉じてしまいたい。そうしていつまでも惰眠を貪って、いつもの様に日の当たる場所を探し、また毛を繕うのだ。

 頭の奥底が現実から目を背ける中、甘える本能を諭すのもまた本能で。命がかかっている。叫ぶそれに、身を焦がす恐怖を感じながらも、ログズは辛うじて動いた首をゆったり、と捻り、周囲を注意深く観察した。

 それはとても慎重に、息を殺し、耳を立てて遂行される生存する為だけの任。



「……」



 極度の疲労と緊張に揺れる視界に映る埃は美しく朝日に輝き、大きな耳には軋む酒場の悲鳴が届いた。息を呑めば幾つかの木片がガラリ、と落ち、散って、後には居たい程の静寂が続く。



「……」



 あれだけの力を狭い空間で一気に解放したのだ。当然と言えば当然なのだが、その場に立つ影は一つも見当たらなかった。

 自然と詰めた息が安堵の溜息へと変わる。

 助かった、そう思う反面。



 ―――まさか、こんなことになるなんて……。




 彼女は楽しかった先程までの時間は夢だったのでは、と現実と思考の境界で混乱しながら、重い身体を引き摺って窓辺を目指した。最早給仕は勿論、震える事すらせず、転がる障害物と成ったニンゲンの雄等目にも入らなかった。この場から逃げ出すこと。それだけが命を繋ぐ術で、それ以外の事に構っている時間などどこにもなかった。



「ぅっ、うっ、う……」



 軋み、今にも崩れてしまいそうな酒場の中。

 灰色のカッツェロイテとは対角の柱の陰で身を縮めていた幼い猫は、ただただ震え、嗚咽を漏らしていた。溢れる涙が、すべらかな麦わらの毛皮を濡らし、床に落ちて染みになる。



 ―――どうしてこうなっちゃったの。



 自身に問うが答えなんて分かる筈もない。



 ―――どうして? 



 考えたって分からない。

 ただ暇つぶしに来ていただけなのに。

 シャルルーは目の前に転がる仲間から目を逸らし、身を隠している柱から顔を覗かせた。

 真っ黒な羊に逃げ場を塞がれ、身を、息を潜めていたら聞こえた爆音。同時に起こった猛烈な風はあらゆるものを吹き飛ばし、跳ね飛ばし、全てを破壊して治まった。きっとあれは灰色の姉の仕業で、そのおかげであの恐ろしい羊の姿は見えなくなったのだろう。

 シャルルーは震える身体を何とか支えようと、柱に手を添わせた。

 と、



「っ!」



 あの時黒羊が放った刃が指先に触れた。

 反射的に腕を引っ込めて、身を伏せる。自然と下がった耳に、頭を庇う様に置いた掌が自身の汗で濡れ、生暖かかった。激しい動悸に震える身体。いつもならここで、この臆病者、そう言って姉達が手を差し伸べ、笑ってくれる筈だった。

 しかし、今ここに彼女達はいない。

 もしかしたら居るのかもしれないが。きっともう動かない。

 見たくもないのに、頭の中で血も繋がらない優しい姉達の笑顔が浮かんでは、消えた。



「ふっ、ぅう……」



 シャルルーはキトンブルーさえ抜けきらない大きな瞳に雫を溜めながら、鼻を啜った。そうして一時震えていたが、このままでは駄目だ、と本能に突き動かされ、身を起こす。



「に、逃げなくちゃ……」



 己を奮い立たせ、彼女は音を立てない様に仲間の死体を乗り越える。ガラスの散乱した床を、身を屈めて慎重に進み、途中、影に身を寄せ何とか無事だったらしい、怯えたニンゲンの雄と目があったが、互いに口も開かなかった。正確には開けなかったのだが。

 ニンゲンは恐怖に顔を歪め、シャルルーがそうであった様に涙を流して、驚きに毛を逆立てた幼い猫を凝視した。

 小さな猫はそれが酷く哀れに思えて、反射的に腕を伸ばす。

 しかし、



「ひっ!」



 男は鎖に繋がれた腕を引っ込め、後じさり、護る様に自身を掻き抱いた。

 揺れる茶色の目を濁らせるのは恐怖。それはまるで黒い羊を見るカッツェロイテの目。それはまるで追い詰められた今の自分を見るようで。

 そこで漸く幼い麦わら色のカッツェロイテは、自身が、仲間がどれだけ彼らニンゲンに酷い事をしていたのか、と気づいた。彼女は急に己が恥ずかしい存在に思えて、顔を覆う。



「み、見ないで……」



 呻く彼女は顔も身も彼から逸らして、消えてしまいたい、と耳を伏せた。

 背後で戸惑う気配がする。

 麦わら色の猫は少しずつ後ろへと下がって、



「……」



 その途中、はた、と何かに気づき、素早く身を伏せて元来た道を戻った。

 なるべく息を殺し、耳元で煩い位に鳴り響く鼓動を無視して、壊れた椅子の間を這い、倒れたテーブルと仲間だったモノで出来た穴倉へ潜った。辺りを見回せば血に濡れた床が目に入る。目的の物はきっとこの辺り。

 シャルルーは零れる涙を何度も拭い、吹き飛ばされてしまったであろう彼女を探した。右を見て、左を見て。そして少し視線を上げれば、



「……」



 あれ程強く、気のよかった彼女だったそれがカウンターと拉げた椅子の上に転がっているのが目に入った。埃にまみれても未だに艶やかに光る黒い毛皮。その上を血雫が滑って伝い、投げ出された足先からぽたぽた、とまるで雨漏りでもする様に床に溜まりを作り続けている。

 シャルルーは呆然とその様をキトンブルーに映していたが、崩れた瓦礫の音に飛び跳ねて、意識を取り戻した。身体と同時に跳ね上がった心臓が痛い位に軋んだが、その場でもう一度身を伏せ、辺りを伺えば、何とか平静を取り戻す。



「よし……」



 小さく息を吐いたのは、きっと無意識だった。

 早鐘を鳴らす鼓動に短い呼吸を繰り返しながら、シャルルーは目的の物を所持する彼女の許へと、必死の形相で這い寄った。

 近づくにつれ鼻につく、あの独特なニオイ。普段なら泣き喚いて吐いていた。

 しかしそうならなかったのは、彼女もまた一つ死線を越えたせい。

 シャルルーは目的の物を彼女の腰紐に見つけると、伏せていた身を少し持ち上げ、力一杯腕を伸ばした。指先にひやり、とした感触。彼女は引っ掴んで、乱暴に毟り取る。反動で重い黒毛のカッツェロイテがずり落ちたが、麦わらの猫は硬く目を瞑って、耳を塞いでそれをやり過ごした。



「うっ、うっ」



 喉の奥から漏れ出る嗚咽。

 シャルルーは止まらない涙をそのままに、再び床を這った。そうして怯え、動かず震えていたニンゲンの許へと戻ってくる。



「ひっ、ひぃい……」



 麦わら色の仔猫を茶色に再び映したニンゲンは、なんとも情けのない声を上げた。

 恐怖を知らなかったあの頃なら、きっと笑い飛ばしていた筈だ。

 しかしシャルルーは一切表情を崩さず、確りと握りしめたそれを彼に差し出した。当然ニンゲンは大きく後ろへと下がる。



「あ、あのっ。これを使って、逃げてっ」



 震える小さな手の内に光る小さな鍵。

 ニンゲンは眉を下げ、訝る様に彼女を見る。



「もしかしたらっ、他のヒトも、生きてるかもっ」



 シャルルーはカウンターの後ろに続く暗い入口を見た。震える村の男も彼女の視線を追う。

 あの暗がりに続くのは炊事場。その奥にも部屋があって、確か倉庫にもニンゲンが集められていた。見たところ大きく壁が崩れている様子はないので、無事なモノが居るかもしれない、と思った。



「ね? 助かるかもっ」



 精一杯吐き出した言葉は、目の前のニンゲンに負けない位に震えていた。

 シャルルーは未だに手を引っ込めたままの男の栗色を覗き込み、その腕を乱暴に掴んだ。



「ひいっ!」

「ごめんねっ」



 彼女は小さな鍵を押し付ける様に持たせると、直ぐに踵を返して裏口を目指した。

 それはきっと偽善で、もう何もかも遅いのかもしれない。

 でも。



 ―――助かりますように。



 胸の内で小さく祈って、蝋燭の小さな明かりすら失った裏口に続く廊下へと入った。

 向かい合う炊事場と倉庫が暗い口を開ける、そこを過ぎたところで、



「……」



 カレジだったモノが転がっていた。



「ふっ……ぅ……」



 悲鳴を上げそうになるのを必死に耐えて、幼いカッツェロイテは更に奥へと進んだ。途中、床を這う手足が滑る液体に濡れたが構ってはいられなかった。向かい合う部屋を隠す扉を過ぎ、床を引っ掻きながら抜けた腰を引き摺ると、漸く裏口へと辿り着く。



「……」



 シャルルーはこれまでにないほど慎重に、扉を押し開いた。ふと、後ろに誰かが居る気配がして振り返るが、



「……」



 誰もいない。

 明り取りすらないそこに広がるのは暗闇で、動くモノすらないのに、全てが敵に見えるのだから恐怖とは不思議だ。



 ―――逃げ、逃げないと……。



 もたつく自身を鼓舞し、更に戸を大きく押し開く。



 ―――頭領達に伝えないと。



 彼女は一刻も早く逃げ出したい気持ちを押さえ、静かに、それはそろり、と動いた。そうして隙間らか辺りを慎重に見回し、顔を上げ、



「ひっ!」



 その場に尻餅をついた。

 音もニオイも。気配の一つもしなかったのに。



「……」



 上げた視線の先。

 扉の陰に隠れる様にもう一匹。酒場に居たどれとも違う、殺気を陽炎の様に揺らめかせ、静かに、まるで日が地面に描く影の様に、獣が立っていた。羊面の下で、床を汚した体液色の目が鈍く光る。その濁った液体に沈んだ黒眼に自分の情けない姿を見て、シャルルーは呼吸すら見失った。



「あっ、はっ、ああぁあ……」



 これが絶望か。

 喉から胸へ。そうして腹へと重く落ちた鉛玉が鼓動さえ止めてしまいそうだった。もう思考などあってない様なもの。小さな身体は勝手に大きく震えて、失禁した。

 恥など感じる暇もなかった。

 ただ恐ろしくて堪らない。



 ウゥウウ……



 黒い雄羊は真っ黒な鬣を風に揺らし、低く。それは低く喉を鳴らしていた。その振動はカッツェロイテにはない音になって、鼓膜を揺らす。

 一度、檻の向こうに捕らわれた、吻の長い獣がそんな唸り声を上げていたのを聞いた事がある。何も知らない彼女は興味津々で、鉄格子を握りしめ、肌が粟立つような感覚に尾を膨らませたものだ。あれはなんだ、と首を傾げ問う幼子に幾人もの姉達が、アレは負け犬の遠吠えだ、と笑っていた。その時、シャルルー自身もまた笑っていたな、と恐怖に切り離された理性が思い出させる。



 ―――これが負け犬?



 無知とはなんと愚かで甘やかだったのか。

 優位に立ったモノが罵っただけだった。彼らの本質など見もせずに決めつけただけだった。檻に閉じ込めておきながら、自身が強者だと勘違いしていただけだった。

 互いが鉄格子の向こう側に立った今、それが痛いほどに分かる。



「あはっ、あははっ」



 シャルルーは怒気を含んだ重低音に身体中の毛を逆立てながら、なんとも乾いた笑い声を上げていた。

 雄羊が僅かに顔を傾ける。射る様な視線が戦慄く猫を絡め取り、何か探る風を見せるが、それも一瞬。



 ヴルルルル……



 黒い獣が大きく一歩踏み出すと鉄靴が重い音を立て、それとは真逆にぱたぱた、と軽い音を立てて雨雫が床を濡らした。



「あっ、あっ……」



 座り込んだ幼猫を見下ろし、黒い雄羊が剣を抜く。

 その動作は酷く優雅で、殺気はあれど緩慢で。



「やっ、やめ……」



 差し込む朝日に、刀身が鈍く光る。



「わ、わた、しっ、なっ……なにも……」

 ―――何もやってないのっ!



 叫びたかった。



「たっ……助けっ!」



 シャルルーは後退りながら、腕を目一杯突き出した。

 それは懇願。

 幼い自身には非はない、と。



「助けてっ!」



 青空にも似たキトンブルーが銀線を映す。



「っ……っ!」



 悲鳴は音にならなかった。



「カッ、ぷっ」



 小さな猫は口から血泡を吹き出す。



 ―――どうして?



 分からない。



 ―――なん、で?



 黒毛の雄羊は、彼女の細い首から無造作に刃を引き抜いた。



「ぐぷっ……」



 倒れたそれは水袋が割れる様な音を立てて、赤い水溜りを作った。

 雄羊はそれに鉄靴を濡らし、長い得物を片手にぶら下げたまま、真っ黒な通路へと姿を消した。


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