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黒の雄羊  作者: みお
第2章
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第21話 辺境の村ヒウッカ(11)

「フッ!」



 気合と共に灰猫が飛ぶ。炎に輝く毛皮。ミリは艶やかに誘う彼女を見上げ、手にした斧を振り上げる。

 狙われたログズは宙で身を縮め、唸る刃を器用に躱し、無防備に(にび)を光らせる凶器の側面を足蹴にする。そうして跳ね上がれば更に大きく飛んで、羊の間合いから外れることに成功する。

 逃げる影を大柄な羊逃さない。琥珀に舞う猫を捉え、宙で器用に得物を持ち替える。掴んだ手の甲に浮かぶ筋。繋がる強靭な腕は鞭の様に撓り、凄まじい勢いに押し出されて、斧は灰猫目掛け落ちる。

 鳴る風。

 ログズは短く息を吸い、紙一重で凶器を躱す。そうしてそのまま止まらず身を退くと、後ろへ一回転。翻る身体を長い尾が追うがその間すらも惜しい、と腰を退く。

 ミリは逃がすものか、と再び得物を振り上げ、振り下ろす。イルシオンを造る巨木すら易々と切り倒してしまいそうな、桁外れの凶器はテーブルを割り、舞台を壊し、木くずを巻き上げては唸った。

 ログズは止まない猛撃に顔を引き攣らせ、ここへ入ってから一度も使わなかった舞台上を後ろへと下がり続ける。

 一歩。

 また一歩。

 そうして尾先がそれに触れる。



「あっ!」



 息を呑んで振り返るがもう遅い。



「クソッ!」



 視界を遮り、立つのは酒場の汚れた壁。そこで漸く、ログズは自身が追い詰められたのだ、と認識した。

 ミリは狼狽える灰猫の横顔をちらり、と見やり、床板に刃を立てた斧を支点に飛んだ。反射的に顔を上げるカッツェロイテ。その緑の中で虹彩が引き絞られる。

 笑う羊。

 彼女は跳ね跳んだ身体を空で器用に回し、勢いをつけたまま猫の額を狙って、踵を落とした。

 しかしそれは手ごたえを寄越さず、敢え無く灰猫の脇を過ぎ、耳障りな音を立てて木板を砕く。



「早いなぁ……」



 舞い散る粉塵から顔を出し、ミリは口惜しそうに首を鳴らした。



「全然当たんない」



 埃が舞う中、羊が立ち上がれば、地中から這い出た怪物の様で。ログズは慄きながらも身構えた。

 それを見て何を思ったのか。



「面白れぇ」



 大柄な羊は得物を置いたまま構えて見せた。そうして見知った闘士を真似て拳を打ち合わせ、手招き、勝負しろ、とせがむ。猫は羊の誘いに眉根を寄せたが抵抗はせず、素手ならば勝機はまだ己にある、と獣と真正面から向き合うことにした。

 互いに間合いを図り、距離を取る。

 先手は灰色のカッツェロイテ。彼女は身を屈め、牽制するように拳を突き出す。受ける羊もそれを真似る。数秒牽制を繰り返し、先に動いたのはやはりログズだった。



「ふっ!」



 短く息を吐き、身を捻る。大きく振り被った足で狙うのは羊の顔面。

 ミリは後ろへ半歩下がってそれをやり過ごす。一呼吸の間さえない。猫は勢いそのまま、軸足を変え、再度長い脚を繰り出す。



「チッ」



 羊は大きく下がるが、足りない。

 間を置かず鼓膜を引っ掻く金属音。

 ログズの爪は黒い羊の長い吻を確実に捕え、薙いだ。

 たっぷり数秒。

 上と下で睨み合った彼女達は黙したまま動かない。

 代わりに、彼女達の間にあった羊の鼻先が、彼女の顔面を護る兜が、溶ける脂の様にあっさり裂け、落ちた。床でめん甲が固い音を立てた時、ログズは床板に手を着き、次手に素早く移行できるよう、爪を立てて大柄な羊の出方を伺っていた。そうして今か、今か、と身を引き絞る。

 その眼前で、



「ふふ……」



 今し方、首を飛ばされかけておきながら、羊は唇を三日月の様に大きく引き上げていた。



「ふふふふっ」



 その真っ赤な口元が、裂けて空いた穴からログズにも見えた。

 その異様さと言ったら。

 灰色のカッツェロイテは慄いて距離を取る。

 ミリはそれすら許さず、下がる彼女に追い縋り、大腿部を狙って小刻みに蹴りを繰り出した。猫は再び追い詰められる事のない様に後ろを確認し、大きく距離は取らず、左へ、右へ。紙一重で羊の打撃を躱し続ける。

 静まり返った酒場で響く荒い息遣い。

 脈打つ心臓の音がやけに煩くて、灰猫の耳は自然と後ろへと下がる。

 対する羊は変わらない。ただ淡々と。それでも楽しそうに、笑んだまま動き続ける。

 羊と猫。相手を仕留めるのではなく、持久力を削る攻防は曲一節程度続き、観客が居たのなら飽きた、と帰ったかもしれない。地味ながら決して気の抜けないやり取りは、互いに距離を取り合ったことで漸く終幕する。



「ははっ!」



 仲間の乱入を許した時の様な、不機嫌そうな、剣呑とした雰囲気はもうそこにはなかった。ホールの片隅で震え、息を殺す男達を他所に、ミリはとても楽しそうに笑い続けた。そうして一頻り天井を仰いだ後、彼女は流れた汗を乱暴に拭い、その場で何度か飛び跳ねた。

 軋む床板。落ちるのは雨粒ではなく、彼女の汗に変わる。

 ミリは距離を取った猫に向き直ると、再び拳を上げて、床を蹴った。

 下がる灰色。追う羊。

 疲れはあるが、カッツェロイテの方がやはり早い。焦れた羊が拳を振るうが当たらず、更に息を上げる。

 ログズは後ろへ、後ろへと小さく下がりながら、攻めあぐねる風を見せる羊の顔面を狙い、拳を繰り出す。避ける獣を追って更にもう一つ。

 拳を下げ、様子を伺う猫の隙を突き、ミリは彼女の大腿部に重い一撃を加える。

 ログズはよろめいて、更に下がった。下がりながら羊を牽制し、



「フウゥウッ!」



 揺動を仕掛けた。

 ミリは一旦距離を取り、猫の出方を見る。隙さえあればその間合いに飛びこむつもりだったが、そう簡単にはいかない。彼女の上手を行く灰のカッツェロイテは動きを止めた羊の横顔目掛け、鋭い一撃を繰り出す。

 しかしそこは戦場を駆ける騎士。素早く反応した彼女は腕を上げ、悠々と防ぐ。そうして肩を震わせたかと思うと、



「あははっ!」



 大柄の羊は大きな口を開けて笑った。

 牙を持たない彼女の、真白な歯が覗く。漏れ出る声ははしゃぐ少女の様で、困惑を隠せない灰猫は耳を伏せ、膨らんだ身体から空気を抜いて萎むと、身を屈めた。

 その様は怯えた獣のそれで。

 ミリはまた笑って、手招く。

 挑発的な行動にカッツェロイテは尾を膨らませるが、直ぐに冷静さを取り戻し、一度腕を下げ、思案した。

 このまま目の前の羊と戦って、逃げ切れるのか、と。

 それを読んだように、ミリが彼女を更に煽る。

 こんなところで中断は御免だ。折角楽しくなってきたというのに。

 跳ね回る仔犬の様な羊は思いを口には出さず、再度拳を突き合わせ、戦いを続けろ、と腕を振る。

 これまで羊に乗って来たログズだったが、敵対する獣の異常性を再度認識した今、戦意は確実に萎み始めていた。本能が鳴らす警鐘に耳を傾けた彼女は、相手の動きを往なしながら更に数歩下がる。

 ミリはそれを追い、相手の出方を、拳を出すことで伺う。そうしてわざと隙を見せて誘うが、ログズは軽く相手をするだけで深追いはせず、下がり続けた。

 それでは余りにつまらない。身を退き続ける猫に焦れて、ミリは更に圧力を強める。

 ログズは嫌がり、長い脚を振り出す。

 互いに間合いを詰めては退き、退いては詰め、一進一退の攻防が続く。



「あはっ! やっぱ、も少しハンナに相手して貰わないとダメだっ、なっ、と!」



 格闘のプロであったのなら、こんな持久戦ではなく、もっと上手く、派手に攻め込んでいるだろう。上手く誘うこともできない焦りと、猫の隙を突くこともできない焦れでミリは思わず自嘲した。

 集中力を欠いた羊の隙は大きい。

 ログズは迷いすら見せず一気に距離を詰めると、くだらない羊の遊びに終止符を打つべく攻め込んだ。



「おっ?」



 緩急に驚いたミリは思わず声を上げた後、上半身を退いた。その眼前を猫の足が過ぎ行く。



「おっ、よっ」



 惑う羊に、カッツェロイテは息をつく暇さえ与えない。床に着いた手を軸に身体を反転させ、その息がかかる程急激に間合いを詰め、拳を振る。

 一つ、二つ、防戦の構えを見せる羊を攻め立て、続けて長く鋭い爪を出す。



「うおっ!」



 急に変わった間合いに、ミリは泡を食った。

 ログズは下から掬い上げる様に羊の首を狙い、それが躱されると、続いて横に薙ぐように腕を振る。

 ミリも抜きん出た勘の良さを頼りにそれを凌ぐが、数分にも及ぶ攻めには耐えられなかった。兜に徐々に傷が増え始める。

 焦りを見せる雄羊を見据え、ログズは手を開く。

 時間は十分に稼いだ。



「開放する」



 それは小さくも、力強い言葉だった。

 カッツェロイテが羊の瑠璃を見据えるが早いか、その胸に光る宝石が淡く輝きを放った。



「うはっ! 冗談だろっ?」



 大きく仰け反ったミリの目端に、彼女の手が映った。

 次に見たのは歪んだ空間。

 続くのは全身を焼く程に溢れた光。



「っ」



 目を眇めた瞬間。



「うっ……ああっ!」



 羊は吹き飛ばされていた。

 店内を吹き荒れる風。

 酒場を揺るがす轟音。

 それは重い椅子もテーブルも容赦なく吹き飛ばし、壁に叩き付け、暴君の様に手当たり次第に破壊する。転がった酒瓶はひび割れた窓ガラスを粉砕し、舞台を飾っていた鮮やかな布を染め上げ、都の貴族が見たのなら芸術的だ、と喜んだかもしれない。耳を塞ぎたくなる悲鳴を上げるのは床板。古びたそれは凶悪な暴力に耐えきれず捲れ上がって、行き着いた先で柱を削り、壁に食い込んでまたへし折れた。

 室内があっという間に暴風に飲み込まれた時、隅に固まった男達はその大半が気を失っていた。辛うじて意識のあるモノ達は吹き飛ばされては堪らない、と窓枠や柱に縋りつくが、凄まじい力に引き摺られ、



「うわっ!」

「ぎゃあっ!」



 多くのモノが宙を舞った。吹き荒れる風に目も開けられず、村人達は生きた心地がしなかった。ここが地獄か、と誰もが泣き叫び、震え、抵抗すら諦めるモノも居た。

 轟轟と吹き荒び、ありとあらゆる物を破壊し続けた暴風は数秒続いた後、巻き上げた死体や、村の男達を酒場の床に雨の様に降らしながら、消えた。


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