第20話 辺境の村ヒウッカ(10)
アッシはサビ猫を、ただ黙って見ていた。
フィリアもその視線には直ぐに気付いた。だから黙って顔を上げ、赤毛の雄を見つめ返した。
見目の美しい男女。これが戦場でないのなら、彼らは瞳だけで語り合う思い人の様に見えただろうか。種族の違う獣と獣人。脳味噌がお花畑で出来ている都の詩人ならば、きっと彼らを音にしたに違いない。
しかし、今、彼らを包むのは甘さとは縁遠い鉄火場のニオイ。特有のそれに浮かされた彼らの瞳に過るのは、対する獲物への殺意だけ。ここには我が物顔で楽器をかき鳴らす詩人も、手を取り合って戯曲に耳を傾ける貴族も居はしなかった。
吹き抜ける風に血臭が乗る。
床を汚した赤の雫は猫の物か、羊の物か。
「……」
フィリアはひりつく空気の中、ガラスに塗れた身体を今一度大きく振るった。それはわざとらしい誘いでもあったが、眼に捉えた赤毛の羊は乗っては来ない。
どうやら大柄のそれとは違うらしい。鼻孔を擽るニオイにニンゲンを感じないのだから、鉄臭い皮の中身は種族さえ違うのかもしれない。ではあれがニンゲンでないとして、攻め方が変わるかと言えば、否。目の前の羊がどんなイキモノであろうと、カッツェロイテは牙を剥き、その鋭い爪で相手を引き裂くだけだ。
サビ色のカッツェロイテは腹に意思を据え、首を鳴らして、重心を落とす。
彼女と羊を隔てる距離は、酒場の端と端程度。遠くはないが、決して近くはない距離。それでもフィリアには羊が顔面を腫らし、脇腹を庇っている様が十二分に確認できた。
―――手負いモノ同士か。丁度良い。
彼女が笑う。
「……」
アッシは怒りに歪んだ彼女の瞳から視線を外すこともできず、小さく溜息を零した。過るのは相方との約束と、身体の悲鳴。
しかし彼は半ば投げやりな状態で腹を括る。
どう足掻こうと逃がさない。サビ猫の目がそう物語っていたのだから、仕方がない。気怠い身体に圧し掛かる諦め。
頭の片隅でテルセロに対する言い訳を考えながら、彼は短く息を吐いて立ち上がる。口端に流れた血を舐めれば酷く甘く、飢えた身体が自然と喉を鳴らした。
「はぁ……」
アッシは目を細め、動かないサビ猫に代わり床を蹴った。
「ふっ」
たった数歩で上がる息。胸が痛い。
自然と歪む顔面に、脈拍が上がる。比例して上昇する体温と流れた汗。落ち着け、と深く呼吸を繰り返せば、鼻孔を甘くも生臭いニオイが擽り、じわり、と涎が滲む。敵を前に自嘲したのは、それが自身の流す血に興奮したのだ、と気づいたから。
アッシは口内に溢れる血を吐き出し、倒れたテーブルを汚す。
あっという間に詰まる距離。
それでも猫は動かない。
アッシは奥歯を噛み、口火を切った時と同様、刃を放った。
走る銀線。
「フンッ」
しかしサビ猫は動揺する風も見せず、それを片手で弾いて見せた。
短い刃が僅かに残った酒瓶を割る。
広がる香り。
きっとそれは骨董品で、決して安くはない。
アッシは目前に迫るカウンターを飛び越え、くだらない、と無言で語るヘーゼルに舌を打った。それは痛みに対する苦悶か、苛立ちか。思考の信号が結論を出すより早く、彼は左に忍ばせていた短刀を繰り出した。
「……」
サビのカッツェロイテはとても落ち着いていた。思った程身体が痛まなかった事が大きいかもしれない。間髪入れずナイフを振るう赤髪の方がよっぽど切羽詰まって見えた。
彼女は己へ向けて突き出される刃を軽く躱し、男の腕ごとそれ絡め取る。
「ッ!」
驚き、息を詰める赤髪を他所に、カッツェロイテは万力の様な手で彼の腕を掴み上げた。
軽々と浮く身体。
羊とて決して小さくはない。ただ彼女が大きかった。
アッシは顔を顰めながらも、猫の空いた脇腹を狙い、刃を振るう。
「つぅ……」
しかしそれも敢え無く弾かれた。
動きの途切れた一瞬。
フィリアはそれを見逃さない。微かに持ち上げた口角に苛立ちを乗せ、強く握りしめた拳で羊の腹を抉る。
「うっ! ぐっ……ぅ……」
堪らず呻くアッシ。
反射的に縮こまった身体を何とか捩り、逃れようともがいたが叶わず。続けて顰めた顔面を殴られた。鈍器の様なそれは数本の歯を奪い、脳を揺らす。裂けた口内には鮮血が溢れ、甘く香しく広がったニオイはまた背筋を震わせた。痺れる様に疼く腰骨に上がる息。その癖痛めた脇腹が酷く痛んで、息が詰まる。
あらゆる感情が浮いては沈み、沈んでは浮かび。その繰り返し。
瞬く様に浮かぶ映像は脳内物質が見せる幻影か。
興奮に血潮が荒ぶり、知れずに裂けた口角が持ち上がる。恐怖とは無縁のその表情は、羊がこれまで越えた死線の数を物語るには十分で。
「っ!」
図らずもサビ色のカッツェロイテは一瞬、怯んだ。
「……」
彼が彼のよく知る金毛の相方であったのなら、高く笑ってはしゃいだかもしれない。彼が戦闘狂染みた褐色肌の獣であったあったのなら尚、凶器に金を濡らしたかもしれない。
しかし彼は。
アッシはこの好機に声すら上げなかった。
無言のままに掴まれた腕を掴み返し、サビ猫の太腿を足場に高く跳ね上がる。左腕を支点に身を捻ると肩が鈍い音を立てるが、気にしない。反動は殺さず、そのまま後方へ。
「クッ!」
急激に重心がずれ、平衡を失ったサビ色のカッツェロイテは体勢を崩した。
その隙を見逃さず、アッシは猫の首を足で挟み、力の限り締め上げた。
「うっ、ぐぅっ!」
呻いて、カッツェロイテは倒れた。
「っ」
受け身を取ることもできないアッシも強かに背を打ち付けたが、足も腕も離しはしない。
フィリアは赤髪の足を解こうと、鋭い爪で何度も引っ掻き、下肢を乱暴に動かした。
苦しい。
くるしい。
クルシイ。
とにかく空いた片腕で羊の黒衣を引き裂き、革帯を引き千切って、一向に弱くはならない力に喘ぐ。太くはない羊の足を何度も叩いて、鉄靴に爪を立て、狭まった気道をひゅっ、と鳴らすも、拘束は一向に緩まない。
アッシは猫の右腕を封じたまま半身を上げ、空いた右で猫の首を挟んだ自身の右足を取った。そのまま状態を反らせば、サビ猫の首を更に絞って、呻き声さえ奪う。陸に上げられた魚の様に跳ね、のたうち回る肢体を押さえ付ける事はせず、なるべく力を受け流す。すると数秒もしないうちに抵抗が弱くなった。
暫くすると、猫は下肢を痙攣させ始める。
情けなどない。更に力を籠める。黒衣が擦れて、キリキリ、と小さく鳴っても、決して緩めない。寧ろ絞めて、絞めて。
「……」
奥歯を噛み締めた顎が痛みを訴える頃、足の下で猫の身体が弛緩するのを感じた。身体を叩き、引っ掻き傷を作った強靭な腕が静かに床に落ちる。
「……」
更に数秒粘って、自身の気が遠くなり始めて漸く、アッシは白く、冷たくなる程握った手を離した。
「はっ……」
詰めた息を開放する。緊張の糸が切れたのか、途端に身体中から汗が吹き出し、背筋を伝った。力を籠め、固くなった足を猫の首から離す。硬直の解けないそれは軋んで、響き、
「い……たた……」
酷く痛んだ。
よろめきながら立ち上がると、手足が痺れる様な感覚があった。
「……?」
感じた事のない違和感に手を数回握っては広げを繰り返すが、じわじわ、と疼く様な感覚は取れない。首を捻ったところで理解できる筈もないのだが、アッシは暫くそうして自身の手を見つめていた。
「……」
どれだけ立ち尽くしていただろう。ここは敵地で、未だ火中だったが、幸いなことに呆けた羊を相手にする猫は一匹も居なかった。
黒い羊は黙したまま瞬きもせず、揺れる身体で何とか平衡を保ち続けた。その頭は極度の疲労と損傷で働いてなど居なかったのだが、それに気づける状態でもなかった。俯き、半ば気絶した容態から覚醒したのは、鼻孔を撫でられる感覚を覚えたから。
「……」
彼が反射的に顔を上げると、伝ったそれは口元を過ぎて首を濡らす。不快さに眉を顰め、袖口で乱暴に拭えば、
「……」
赤黒に汚れた手が、更に色を濃くした。
「あぁ……」
口元までもを不快に汚す粘度の高い体液を舐め取りながら、アッシは漸く次に何をすべきかを思い出す。本来ならここで判断すべきだった。
しかし、今の彼に理性的な思考能力はない。ただ、本能が囁くまま。幽鬼の様に儚げに揺れると、カウンターに身体を預けながら、最早言う事を聞かなくなった肢体を引き摺り、無理やりにでも歩を進めた。
今、赤毛の羊を動かすのは、裏口へと続く通路に消え、戻らない大切な相方を助けなければ、と言う思いだけだった。




