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黒の雄羊  作者: みお
第2章
56/64

第19話 辺境の村ヒウッカ(9)

「しつこいっ!」



 カレジは眼前を何度も裂く短刀を嫌がり、思わず叫んだ。

 テルセロは窓枠ギリギリまで追い詰めた猫を見据えたまま、今度は仕込んだ刃を鋭く放る。



「ひっ!」



 それは曲芸師が観客を揶揄う様に、猫の衣服だけを壁に縫い留めた。

 動きを封じられたカレジは焦るが、眼前まで迫った黒い羊は彼女に短剣を振りかざす手前で一瞬、目を眇め、突如踵を返すと、今度は太い針の様な仕込み刀を袖口から引き出した。そうして倒れた椅子を蹴り、崩れたテーブルを蹴り、器用に身を捻る。その手から放たれる銀一線。鋭角に飛んだそれは今、正に相方を襲わんと宙へと舞った黒猫の腹へと吸い込まれる。



「ギャッ!」



 堪らず、空中で態勢を崩すレスペト。

 間合いの随分外れた場所から遠投された凶器に牙を剥き、実行犯を睨みつけるが視線で命を奪える訳でもなく。それは強者精一杯の虚勢だった。

 脳裏に油断した自身への後悔が過るがもう遅い。

 滴った血が床に到達するより早く、アッシは黒猫の長い腕を鷲掴み、乱暴に引き寄せると、口元を覆う薄絹を剥ぎ取って、



 ウゥウウッ



 獰猛な猟犬の様に牙を剥いた。



「っ!」



 唸る獣はニンゲンである筈なのに、本能が何か別の姿を見せる。こうなれば、哀れな羊に代わり延命を懇願するのはレスペトの番となる。



「いやっ! やめっ!」



 咄嗟に突き出される黒猫の腕を弾き、絡め取り、アッシは更に前へ。踏み込めば吐息がかかる程の間合いになり、羊だった彼は金目を歪めた。

 開かれる口。

 耳元まで裂けたそれは太く長い牙を光らせ、夜の様に暗い口腔を覗かせる。



「ひっ!」



 悲鳴を飲むことさえできなかった。戦士としての矜持が、理性が、羞恥を感じる間もない。



「はなっ」



 レスペトの身体は反射的に後ろへと下がろうとするが、腕を掴む羊の手がそれを許しはしない。身動きも取れず、ただ銅色の目を見開いた猫が息を呑む。短く鳴った喉。次に聞こえたのは、柔らかな首筋に鋭い牙を穿たれ、肉を割かれる音。そして続くのは、力を失い、汚れた床に崩れる水袋の音だった。



 グァアゥルウウウッ



 咆哮とも、唸りとも聞こえる声を上げ、アッシは硬い肉を引き千切り、獣人の胸を掻き毟った。まだ柔らかな毛皮を剥ぎ、筋肉を割って、肋骨を押し開く。彼女達が醜い、と笑った顔が汚れようと気にもならない。今はただ、怒りと食欲が導くまま。



 ウルルル……



 赤い荒野で暴れ回った獣同様喉を鳴らし、溢れた血など構わず空いた穴に頭を突っ込んで、思うままに貪れば、



「ひぃいつ!」



 芯を冷やす様な、聞きなれない甲高い悲鳴が上がった。



「……」



 アッシはピタリ、と動きを止め、顔を上げた。赤黒に汚れた口元から、胸元へ、下肢へ。重い液体が伝って、落ちて、雨の様に床を濡らす。噎せ返る程の鉄と生臭さの中で歪めた金に映ったのは、片隅で怯えるニンゲンだった。



「……」



 真っ黒な羊だった彼はゆっくりと首を傾げ、一時思案する風を見せたが、すいっ、と目を逸らすと、咥えた猫の心臓を無遠慮に噛み潰した。



「あひゃあわあっ!」



 顔面を真っ赤に濡らし、首筋を伝う血に目を細める獣に、村の男は心底恐怖し、訳の分からない言葉を吐いた。そうして一瞬でも救助を期待した自身を呪う。死体を貪る獣が猫と敵対していようが、ヒトの形をしていようが、決して味方ではなかった、と。寧ろ目の前で毛を逆立てる羊が野生の獣ならば、自身が餌食にならなかったのは彼の気まぐれに過ぎなかったのかもしれない。

 では彼の腹があのデカい猫の肉だけで満足できなかった場合は。

 そこまで考えて、村の男は震え上がる。もう正気ではいられなかった。



「ああああっ!」



 村人は羊の前でさんざっぱら喚き散らした後、



「……」



 白目を剥いて大の字で倒れた。

 悲鳴を失った酒場は思いの外静かだった。それはここが戦場であるからそう感じただけで、墓場であったなら誰もが顔を顰めたに違いないのだが、



「大分減ったな」



 真中より少し外れた場所に立った大柄な羊は、灰色の猫を見据えたまま、些か残念そうな声を漏らした。

 本来なら、全ての楽しみは己の物だった。逃げ惑う猫の荒い息も、悲鳴も、抵抗も、享受するのはミリ自身の筈だった。



「ちっ」



 床を蹴れば、裾の広い下衣から雫が落ちる。

 確かに悔しい。それはきっと子供が玩具を取り上げられた時に似ているのかもしれない。それでも延々と駄々をこね、折角与えられた時間を無駄にするほど幼くもない。



「まぁ、一等いいやつは私のだ」



 沈みかけた心を誤魔化す様に、にやり、と笑い、大柄な羊は放って置いた重い大きな斧を肩に担ぎ直した。赤い飾り毛の向こうで、羊の半身よりも大きな刃が光ると、猫は耳を下げ、怯えた表情を見せる。

 それでも彼女は美しい。

 それはいつか見た、物語に出てくるお姫様の様だった。ミリは目元を緩め、灰猫の胸元に光る、彼女の瞳と同じ黄緑の大きな宝石を見る。そうして、



「それいいな。私にくれ」



 無邪気に手を伸ばした。

 彼女同様、宝石を身に付ければ姫になれる、と考えたかは謎だったが、確かに羊は美しいそれを欲した。

 ログズは反射的に身を退く。

 大柄の羊が首を傾げ、



「ほら、それだよ」



 聞こえなかったのか、ともう一度輝く石を指した。

 受ける灰色の猫は大切な魔石を庇い、大きな平で握りしめて、隠してしまう。それは無意識的に発動される防衛反応。



「ぅう……」



 ログズは暴君らしく振舞う羊に、完全に腰が引けていた。

 あれだけ居た仲間が、たった数匹の羊に狩られてしまったのだ。しかも皮を剥げば中身はニンゲン。武器もなく、不意打ちだったとしても、中には仲間内でも腕の立つモノが混じっていた。にも拘わらず、強者に下るしか能のないイキモノに、ここまでいい様にされるとは。怒りと不安。複雑に入り混じった感情に毛が逆立つ。

 しかし、ここで降伏する訳にはいかない。脆弱な種族に屈服するなど、カッツェロイテの誇りが許さない。そんなもの末代の恥だ。後ろ指を指されたまま生きるなんて、考えただけで恐ろしい。

 ログズは震える自身を抱きしめ、強く目を瞑った後、



「だっ、誰が渡すものかっ!」



 精一杯強がって大柄の羊を睨みつけ、牙を剥いた。



「そっか……」



 威嚇する猫を見て、ミリは酷く残念に思った。

 美しい宝石に傷がついてしまう。



「あぁーあ」



 価値が落ちる。

 肩を落とし、項垂れた羊の後ろでは、



「うぅ、う……」



 頭を振りながら、サビ猫が危うげに立ち上がるところだった。

 大きな羊に投げ飛ばされた彼女は、全身に浴びたガラスを振り撒きながら、カウンターへと手を掛けた。ここが争いの場でなければ、ただの酔っぱらいに見えたかもしれない。



「クソ……」



 フィリアは忌々しく荒い息を吐き、痛む身体に顔を顰めた。そして腕に深々と刺さった大きなガラスの破片を無造作に引き抜いた。それは軽い音を立て、床で砕け、散る。



「……」



 その微かな音は、肉を食むアッシの耳に確実に届いた。

 予想外の場所から現れた新手に、興奮で理性を吹き飛ばしていた赤毛の羊も、冷静さを取り戻す。



「あぁ……」



 何度か瞬き、静かに零して、漸く汚れた口元を拭った。



 ―――どうすっかな。



 困惑する金目の視界の内で、血だらけのサビ猫はふらつき、棚に身体を預けて、定まらない視線を彷徨わせていた。

 二体ずつ。そうテルセロと約束した。違えると後々面倒なことになる。彼のしつこさは長年の付き合いで嫌と言うほど経験してきた。そしてその後に何が待っているのかも。

 アッシは疼いた下肢を無意識に押さえ、苦々しく鼻筋に皺を寄せた。

 それ以前に、これ以上は面倒だ、とも思っていた。サバトラ柄の猫に殴られた顔は痛むし、胸も苦しい。全体重を一点にかけられた首の痛みは、きっと長い付き合いになるだろう。冷静さを取り戻した今、それらは痛覚を刺激して、気力、と言うより活力そのものを奪い始めていた。

 できればこのまま傍観者で居たいのだが。

 どうしようか、と思案しながら、アッシはテルセロを見た。その金目に、走る彼の影が映る。



「あぁっ、くそっ!」



 テルセロは裏口へと逃げる茶トラ猫を追っていた。

 彼女は黒猫が動かなくなると同時に、積み上げられたテーブルを飛び退り、気を反らした羊を置き去りに走り出していた。気づいたテルセロは慌てて尾を掴もうと追い縋るが、その速度に手も足も出ない。



 ―――追い回し過ぎたか?



 先程までは確かに立ち向かってきていた猫の姿を浮かべ、伸ばした腕を難なくすり抜けたその背に舌を打つ。彼女を優先して仕留めていれば、きっとこんな苦労はなかっただろう。

 但し、煩わしさはあれど、そこに後悔はなかった。あの時、彼に手を貸さなければ、あのまま大切な片割れを失う羽目になっていた。それだけは許されない。

 視界の端で何とか危機は脱したらしい相方の醜態を確認した後、テルセロは走った。とにかく今は猫に専念する。逃がすわけにはいかないのだ。長の命も、仲間の命も、何一欠けは許されない。




 ―――さっさと済ませる!



 その後に相方の頭を引っ叩き、獣の様な暴挙を止めさせなくてはいかなかった。放って置けば、自衛能力のない村人が次の餌食に決まっているのだから



「あぁっ! 逃げるなよっ!」



 茶トラのカッツェロイテは追ってくる黒羊をその視界に捉え、ホールを走った。羊が何と喚こうが、決して足は緩めない。彼女はいきり立っていた。



「ううっ!」



 カレジは唸り、強張った身体に毛を逆立てる。



「くそっ! クソッ!」



 目の前で沢山の仲間が殺された。みんないいカッツェロイテとは言えなかったが、それでも殺されていいはずはない。気の合うモノ達ばかりだった。



 ―――脆弱なニンゲンなんかにっ!



 考えれば考える程に腹が立つ。

 彼女は奥歯を噛みながら、裏口へ続く狭い通路に入った。そこは光もなく、暗い。



 ―――来いっ!



 カレジは少し速度を落とし、誘う様に尾を引く。



「待てっ!」



 黒い羊は何の疑いも、警戒心も見せず、彼女の思惑通りに付いてきた。

 カレジは胸中で、にやり、と笑い、羊を十分に引き付ける。

 迫る羊の指先。

 あと一歩。

 届く、寸前で、



「……」



 身を屈め、音も立てずに高く飛び上がった。



 ―――これで私の姿を見失った筈。



 カレジは天井に爪を引っ掻けた態勢で、静かに笑った。そうして惑う様を見せる羊を見下ろし、手を離した。後は身を捻って音もなく床板に足を着けば、そこは黒い羊の背面。黒いそれは酒場の裏口方向を見たまま、固まっていた。

 彼女は曲げた足に力を込めて、伸び上がる様に間合いを縮める。



「捕ったっ!」



 思わず叫んだ。

 羊の黒い鬣が眼前で揺れる。



「うわっ!」



 次の瞬間には伸ばした腕を往なされ、



「ぎゃっ!」



 カレジは壁に激突していた。

 衝撃で、脇に積まれた木箱が崩れる。



「はは……」



 テルセロは驚いていた。仲間を失い怖気ついたとばかり思っていた。



 ―――罠とは、ね。



 苦く笑って、降ってきた木箱に足を掛ける。



 ―――相手が馬鹿で助かった。



 羊が笑えば、



「くそっ!」



 茶トラのカッツェロイテは、悪態をついて飛び起きた。

 ぶつけた頭が酷く痛くて、涙が溢れたが泣いている暇はない。



「フウゥウウッ!」



 カレジが尾を膨らませ、振り返ると、



「アホ。夜目が利くのはお前らだけじゃないっての」



 真横から声が降ってきた。

 慌てて身を退くが、もう遅い。

 テルセロは咄嗟に突き出される猫の腕を素早く捕り、胸元に潜り込むとその場で膝を折り、勢いをつけて彼女の顎を頭でかち上げた。



「うぐっ!」



 両腕を拘束され逃げる事も出来ずに、茶トラは仰け反る。テルセロは離れる身体を許さず、乱暴に彼女の腕を引いて、人形の様に折れ曲がり、落ちた彼女の顔面に膝蹴りを入れた。

 呻きと同時に起こる鈍い音。

 テルセロは力を失った猫の片腕を取ると乱暴に引き上げて、身体を反転させ、そのままその巨体を壁に押し付けた。



「ギアッ!」



 鈍い音と、僅かな抵抗。

 無理やり捩じられ、後ろ手に押し付けられた茶トラの肩は呆気ないほど簡単に外れた。

 羊は半身でカレジを壁に押し付けたまま、力を無くした腕は離し、嫌がり壁に爪を立てる手の甲に一瞬触れ、



「アッ!」



 抵抗する間も与えず、その手首に短刀を突き立てた。



「あぁっ! あぁっ!」



 カレジは必死で腕を引こうとしたが、叶わなかった。壁に押し付けられたまま、悲鳴を上げる。それでも力の限りもがき、叫ぶと、羊が離れた。

 カレジは漸く動く様になった首を曲げ、恐る恐る熱くなった己の手首を見る。



「あぁ……」



 そこには標本にされた虫の様に、短剣で壁に縫われた自身の腕があった。



「あぁあっ!」



 恐怖で冷静さを失った彼女は泣き叫び、どうにかして刃を引き抜こうともがいた。

 しかし外れ、動かなくなった腕ではどうにもできず、壁に寄り掛かったまま泣き喚く羽目になる。

 テルセロは煩くなった猫の後頭部を無遠慮に鷲掴んだ。そうして大きく引き、



「フギャッ!」



 力の限り壁に打ち付けた。

 カレジは折れ、鼻孔を流れる血液に何度も喘いだ。羊はそれを見ながら首を鳴らす。



「……」



 必要以上に痛めつけるのは、自身も酔っているせいかもしれない。 

 テルセロは充満する血臭いに首を振り、最早立つこともままならなくなった茶トラの背を押した。



「ぅ……」



 滑らかな毛皮の向こうに感じる温かな血潮。

 こんな時、いつも不思議な気持ちになる。

 テルセロは腕に仕込んでいた細身の短剣を引き抜き、彼女の横顔に刃を突き立てる。それは焼きたての柔らかなブロートにナイフを突き立てる時の様な。どこか神聖な、それでいて待ちきれない、と尾を振る時に似ている。静かに。ゆっくりと。とても慎重に。零れる屑すら惜しむ様に差し込めば、



「っ、がっ、ぁ……」



 茶トラのカッツェロイテは小さく身体を震わせ、小さく呻いて、絶命した。



「……」



 完全に動かなくなったことを確認した後、身体を離す。間を置かず、腕を壁に縫い止められたまま力を失ったそれは崩れ落ちる。



「……」



 毛皮を撫ぜると、汗ばんだそれがしっとりと手に吸い付いてきた。まだ温かなそれは耳を寄せれば鼓動さえ響きそうだ。

 テルセロは少しの間それを見下ろしていたが、



「……」



 直ぐに踵を返した。


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