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黒の雄羊  作者: みお
第2章
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第18話 辺境の村ヒウッカ(8)

「ガッ!」



 零れた、悲鳴と言うにはやけに重い音は、削られる命の叫びだったか。同時に舞い飛んだ血は目にも鮮やかで、これが外敵の物ならばきっと素直に喜んだに違いない。



「ぐっ、ぅっ」



 アッシは朦朧とする意識の中で、痛みさえ消える感覚に体温を失いつつあった。



「フルルルルル……」



 鼻を鳴らす様な、なんとも障りの良い音は猫の鳴き声。

 優位に立ったターゲルは、嫌がり、自身を庇う様に突き出した羊の腕さえ構わず、馬乗りのまま拳を振り続けていた。

 何度も。

 何度も。

 執拗に振り下ろされるそれは、最早上げてもいられなくなった腕の隙間を縫って、羊の顔面へと到達する。



「ッ、カッ!」



 鉄槌の如く羊を強打した拳は、容易く面を拉げさせ、吹き飛ばした。

 それは軽く、頼りな気な金属音。

 汚れた床に転げた面は、使い古された安っぽい鉄皿の様に数回回って床を叩いた後、主に倣って動かなくなった。

 落ちる静寂。

 反射的に転がった仮面に目を取られていた猫達は、はっ、と我に返る。数秒であったとはいえ、獲物を前に注意散漫だった。慌てて肩口の毛を繕うと、目端に興味深い物が映る。



「お?」



 ターゲルは思わず舌を出したまま、自身を宥める手を止めた。その姿を傍から見れば、きっと間が抜けていて、酷く愛らしく見えたに違いない。但し彼女は狩人で、迂闊に近寄ろうものなら途端に餌食にされるだろう。

 そんな愛らしくも逞しく、恐ろしいほど強靭な獣人が興味を惹かれたのは、先程まで明確な殺意を向けていた相手。覆う黒を失い、頭部を露わにした羊だった。



「うぅ……」



 彼は汚れた床に無造作に髪を散らし、雪の様に白い肌を自身の血で染めていた。呻く声も短く吐き出される呼吸音も、決して気持ちの良い物ではない。鉄臭い羊の皮を剥げば、転がるのは美しい被毛も、緩やかな曲線を描く尖った耳も、長く太くしなやかな尾も持たないニンゲンだった。そう。それはただのニンゲン。カッツェロイテの前ではあまりに非力なニンゲンに違いなかったのだが。



「お前、珍しいなっ!」



 彼女は場違いな程明るい声を上げ、大きくはない耳を立てた。そうして無造作に羊の頭を掴むと目を細める。



「これは……、知ってるぞ」



 独り言の様に吐き出された言葉には好奇心が溢れ、興奮を抑えきれない響きを含む。

 抵抗もできない黒い羊は、乾いた喉から否応なしに漏れ出る悲鳴に顔を歪め、最早獲物に成り下がった自身に嘆息する。その間にも裂けたらしい粘膜から血が溢れ、鼻孔を伝って、頬を流れては首筋を汚すが、それを拭うこともできない。



「けほっ」



 冷たく残る筋に眉根を寄せると、目を爛々と光らせていた猫が自身を解放した。

 頭に響く鈍い音。



「っ、う……」



 短く呻いた声のなんと情けない事か。

 アッシは強かに打ち付けた後頭部の痛みに顔を顰める。襲い来る眩暈と吐き気に耐え切れず目を閉じると、より一層世界が回って、身体が床に押え付けられた。



「ひひひっ!」



 ターゲルには微かに身体を震わせた羊の状態などどうでもよかった。興味があるのは物珍しい彼の被毛だけ。

 彼女は呻き続ける羊の目元を濡らす体液を指で拭い、もう一度、床に散った毛束を摘まんで、自身の毛皮を汚すそれと見比べる。



「ほらなっ。血の色だっ!」



 子供の様に喉を鳴らし、サバトラの猫は好奇心に満たされた瞳孔を大きくする。無意識に動く尾は膨らんで、僅かに背中の毛を逆立てた。それでも興奮は押えられない。



「珍しい! 珍しい!」



 彼女の尾が、その胸の内を表すかの様に、ピンッ、と立った。それは村には居なかった。彼女も見た事のない種類のニンゲンに違いなかった。

 アッシが無言のままにその金目を向けると、猫は更に興奮する。



「私みたいだっ!」



 黒羊の縦割れの虹彩が大きくなるのを見て、ターゲルは叫んだ。そうして余程彼が気に入ったのか、肩口を抑え込み、擦り寄って、繁々と眺め回す。長い指先で髪を梳き、鼻を寄せれば、血と彼のニオイがする。再び逆立つ毛に喉を鳴らし、爪を立てない様に柔らかな肉球で羊の頭を撫でる。汗に濡れ、しっとり、と指先に吸い付く毛並み。僅かに体温を移したそれは心地よく、彼の生を彼女にとって特別愛着ある物にさせる。



「ふふふっ」



 掬い上げては、はらはら、と床に散らし、自然に鳴る喉に口角を引き上げる。



「これっ、これ私のにするっ!」



 ターゲルは羊に身を寄せたまま子猫の様に大きく鳴いて、羊に頬擦りし続けた。



「もう……」



 溜息をついたのはレスペト。

 はしゃぐ彼女が好奇心旺盛で、他のモノより集中力に欠けることを知っていたから。



「遊んでないで、さっさとヤりなよ」



 彼女は黒い被毛を艶やかに輝かせながら、呆れた様に肩を竦めた。敵影は少なくともここは戦場で、この後を待つ大柄な羊はきっと骨が折れる相手なのだ。だから早く、と口を開く前に、膝を折った相方が眩しい笑顔を見せる。



「でもっ、でもレート。これ見てみ」

「もぉ、何よ?」



 再び黒い羊を見下ろし手招くターゲルに、レスペトは腰に手を当て溜息をついた。

こんなに愛らしく、懐っこい彼女に抗えるモノが居るのなら見てみたい。

 黒い被毛を纏った彼女はまた小さく溜息を零して、自身もカッツェロイテなのだから、と言い訳する。決して彼女を甘やかしている訳ではないのだ。



「……」



 その証明、とでも言う様に、レスペトは一時わざとらしく沈黙して見せた後、警戒心も、先程まで剥き出しだった敵意も仕舞って、歪に曲がった尾を上げ、興奮を隠せないターゲルの許へと近づいた。傍まで寄ると、もう体面を繕うことも忘れた。彼女はサバトラのカッツェロイテの肩口から羊を見下ろす。



「あら、ホントだ。珍しい。灰毛だ」

「ねー? 見て、ほら。血と同じ色」

「えぇ? こんなに濃くはないだろ? もっと薄くないかい?」

「んー? そう? 私には同じに見えるよ」



 カッツェロイテ達は小さな虫でも覗き見る様に、小首を傾げ、耳を忙しなく動かして、銀糸の髭を前へと突き出した。彼女達にしてみれば、ニンゲンを見ること自体が珍しく、新鮮な体験だった。それはカッツェロイテと言う種族がニンゲンを追い詰め、絶滅寸前まで追いやったせいでもあるのだが、それはまた別の話。

 とにかくその珍しい生き物が色変わりで、しかも村で接したモノ達より強く、丈夫であるのだから、興味を引かれない筈はなかった。少し変わったニオイもするが、彼がこれほど優秀な雄であるなら、殖やして、愛玩として侍らせるのも面白い。

 ターゲルは湧き上がる興奮を抑えきれず、羊の灰髪を鷲掴み、床に押し付ける。



「ぐっ」



 動かないモノは良く見えないから。

 仰け反った首筋に指を添わせ、鼻先が当たる程近くで目を瞬かせる。血に濁った金目。鼻先から下を覆い隠すのは薄絹。



「あんた踊り子もヤるのかい? なんだったら踊って行きなよ」



 揶揄ったのはレスペトで。

 彼女の言葉に応える様にターゲルは笑って、汗と血で濡れた薄い口布を摘まんだ。

 


「さわ、る、な……」



 羊だった彼は絞り出す様な声で唸るが、彼女達は気にしない。弱い獣が幾ら吼えようと、実害はない、と知っているから。



「ふふ。どんな顔してんのよ?」



 それはまるで隠された宝を暴く様な、心が躍る感覚。



「やめ……」

「恥ずかしがらなくったっていいじゃないのさ」



 無遠慮に摘まんだ布を捲り、



「うわっ!」

「あぁ……、こりゃ酷いね」



 彼女達は至極残念そうな声を上げた。

 その目が耳元まで歪に裂けた羊の口元を、散った赤い髪を、次いで美しい金の瞳を映した。そうしてもう一度口元に戻り、憐みとも、侮蔑とも取れる色を浮かべる。

 困惑の色が混じる金と銅に見下ろされ、アッシの柳眉が僅かに寄った。



「やっぱり隠してた方がいいもんもあるねぇ」



 レスペトは半身を起こして腕を組み、羊の胸中などお構いなしに微妙な表情を作った。

 見上げたターゲルの表情も優れない。



「あぁーあ、残念。結構気に入ってたのに」

「他のはどうか調べればいいさ」

「あ、そうだね。さすがレート。頭いいや」



 組み敷いた羊など放って、楽しそうに笑い合うカッツェロイテ。彼女たちの関心はもうそこにはない。



「……」



 アッシは柔らかに上下する毛皮を見ながら、奥歯を噛んだ。胸中に渦巻くのは情けなさであり、悔しさであり、矜持をへし折る羞恥。熱く痛む目頭は殴られたせいだけではなかった。



「げほっ」



 牙を剥く代わりに嗚咽が漏れた。

 震える身体は相変わらず言う事を聞かないし、止まらない血は体外に排出されず、鼻孔を逆流して喉を焼く。痛みで狭まった喉は呼吸すらままならず、このまま放置されれば、容易く自身の血液で溺れてしまうだろう。ヒトはそれを重症と呼んで情けをくれるかもしれないが、羊の内に眠る獣は余りにも安易に置き換えられるその名を好まない。敗北は所詮敗北で、負ければ全てを奪われると知っているから。

 猫も笑う顔の傷が何よりの証明。弱い者は虐げられる。立ち向かわなければ何時までもそのまま。あの時の様に助けを待つ積りか。

 閉じた金の奥に過去が過った瞬間、カッ、と内に火が着いた。下腹を重く、熱くさせる血潮は酷く冷たく、その癖肢体を燃やすのだから笑えない。これが怒りで無ければ、火中に放り込まれた缶詰か、と鼻を鳴らしたに違いない。

 アッシはゆるり、と瞼を持ち上げる。そうして濁った金に汚れた天井を映し、鳴る程に噛んだ奥歯が悲鳴を上げても構わず、腹の奥底から響く唸り声に瞳孔を大きくした。



「なんだぁ?」



 最初に気づいたのは、彼に跨っていたサバトラのカッツェロイテだった。自身の下で身じろいだ羊を見下ろし、首を傾げる。彼女が確かめようともう一度首を傾げた時には、黒い獣の手に短刀があった。



「え?」



 僅かな油断。

 それは彼女達が余りにも強かったせいかもしれない。そしてニンゲンを、いや、彼を知らなかったせいかもしれない。

 アッシは完全に気の逸れた猫の下で痛みに牙を剥きながら、手にした刃を器用に持ち替え、目の前の猫、ではなく、傍らに立った黒猫の長い脚に短刀を突き立てた。



「ギャッ!」



 渾身の力で振られたそれは容易く下肢を引き裂き、レスペトは飛び上がる事も出来ずに半身を沈めて、痛みを伝える足を庇うに留まる。

 驚いたのはターゲル。

 まさか痛めつけた羊が牙を剥くとは思いもしなかった。



「このっ!」



 サバトラの猫は怒りに腕を振り上げる。そこに思考はない。単純な反射。

 上がった半身に、羊を拘束する力も半減する。

 アッシはその隙を見逃さない。彼は素早く身を起こし、猫の首に掴み掛かる。



「くそっ!」



 戸惑うサバトラを真正面に見据え、目頭に頭突きを入れれば、



「あぐっ!」



 カッツェロイテは大きく仰け反って、両手で顔面を覆った。大きく後ろへと移動する重心。

 アッシは崩れる猫の体重を利用し、今度は逆に、足の上に陣取っていたサバトラを押し倒した。そうしてお返し、とばかりに馬乗りになると、彼女が同じだ、と言った金目で彼女のそれを見下ろした。

 興奮に丸く広がる虹彩。そこに映る獣は酷く醜い。



「……」



 アッシは未だに耳元で笑い続ける猫の声を嫌がって、頭を振った。

 うるさい。

 煩い。

 ウルサイ。

 牙を剥き、仕込みの刃とは異なる大ぶりの短剣を背から引き抜く。淡く燃え、揺れる炎に輝く濡れ刃。



「お前と一緒にするな」



 吐き出された言葉は酷く冷えて、振り上げられた切っ先に纏わりついた。

 誰かがどこかで息を呑む。

 気づいた時には、彼は彼と同じ金目に得物を突き立てていた。



「っ……ぁ……」



 黒い羊の下で猫が震える。

 滲んで金を赤にした瞳には、まだ獣が居た。アッシは牙を剥き、柄を捩じる。嫌な音がして、サバトラの猫は動かなくなった。



「ターゲルッ!」



 レスペトが叫んだ。

 彼女は脹脛の半ばに深々と突き立ったナイフを引き抜き、忌々し気に投げ捨てる。



「羊がっ!」



 吼え、獣と同じ黒は飛び上がった。



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