第17話 辺境の村ヒウッカ(7)
「ぐっ! ぅっ!」
重い衝撃。
軋む骨の音。
拉げた腕当が肌に食い込み、血が溢れる。赤黒い雫は鈍く光った金属を伝って、断続的に加えられる衝撃に降り、兜を汚して顔面まで濡らした。
痛みなど感じない。そんな暇さえ与えられはしない。振り下ろされる凶器から自身を護る為に、腕を持ち上げ、身を縮める。それだけで手一杯だった。
防具越しに濡れる身体は酷く熱い。その癖、雫を浴びる度に冷えて、震えが襲い来る。そうして脳裏に過る、薄ら寒い影。
「テル……ッ!」
アッシは耐え切れず、叫んだ。
「テルセロッ!」
悲痛な叫びに、
「アッシ……?」
テルセロは漸く、相手をしていた茶トラの猫から目を離した。
彼が僅かに顎先を上げると、頭を飾る黒毛が肩を滑り落ち、鎧を流れる。一瞬、室内を彷徨った金は直ぐにそれを捉える。
割れた床に転がる黒。必死に身を縮め、抗う様に突き出した腕は胎児の様で。ただ違うのは対峙する獣の目に愛がない事。
「アッシ!」
本来なら互いに連携を取り合い、害獣を排除すべきだった。それが強みであり、損害を最小限に抑える方法であったことに間違いはない。
慢心があったと言われれば否定はできない。確かに過失だった。テルセロは胸の内で、認めよう、と静かに呟く。
しかし報告では野盗の類、とあった。
猫は単体火力こそ高いものの、基本は単独を愛する生き物だ。一つの標的に向かって襲い掛かる時でさえ、個々の判断を重視する。そこにどれを狙え、と大まかな指示があったとしても、連携と呼べるものはない。
筈だった。
だからこそ、上官も横暴で粗雑な中隊長の単独行動を許したのだろう。
だからこそ、自身も、肩を並べる相方も、個々に複数で当たるのではなく、先ずは逃亡阻止を優先させたのだ。それが出来ないのは立ち塞がる獣が単純に強い、と言う事もあるのだろう。
しかし、決してそれだけではない。ある筈がない。
信頼を置く男が己の持ち分すら消化出来ず、音を上げたのだ。撤退もせず、むざむざ床に転がされて。
力を見誤った。否。
過信した。否。
長い時間、戦場を共にしてきたからこそ分かる。彼は退けなかったのだ。寧ろ退かせて貰えなかった、と言った方が正しいか。哀れな羊は爪を隠した凶悪な獣の罠に落ち、網にかかったまま這い上がれずにいる。
―――絶対報告間違ってるだろっ!
テルセロは短く舌を打って、相手をしていた猫を見もせずに短刀を投げた。そうして彼女の気配が遠のいたのをその背で確認した後、直ぐに床を蹴り、二頭の獣に弄ばれている片割れの元へと駆け出した。
「あっ! こらっ!」
慌てたのはカレジ。
不意を突かれた彼女は茶トラの毛皮を炎に輝かせ、目前で踵を返した黒羊の背に追い縋る。
「待てっ!」
筋が伸びる程伸ばした腕。美しくも長い指先が羊の黒衣に、
「くそっ!」
今一歩、届かない。
力の入った鍵尻尾が身体の平衡を取る為に伸びた。それが僅かに震え、膨らんだのは緊張のせい。カレジは歯を食いしばり、最早倒れそうな身体全体に力を籠め、同時に平にも力を籠めた。それに呼応し、鋭い爪が飛び出す。
―――後、少しっ!
「捕まえたっ!」
確かな手ごたえに叫ぶ。
しかし、
「あっ!」
伸ばした爪が黒衣にかかると、容易く引き裂けた。これが獲物の皮膚ならば決して逃がしはしなかったのに。悔やむ間もなく、羊は泳ぐ魚の様に、するり、と彼女の腕から擦り抜けた。
カレジは平衡を保てず、倒れるまま床に手を突く。
「くそっ!」
こうなれば意地の勝負だった。
「逃がすかっ!」
茶トラの猫は一呼吸も置かず、床を蹴る。身を翻す獲物を逃がすまいと広げられる腕。先に付いた平も大きく開かれ、それは投網の様に羊を包む。
テルセロは振り返らない。
流れる黒い鬣は尾の様に揺れ、猫の黄色を釘付けにする。
「うぅうっ!」
カレジは目測よりも速い羊に奥歯を噛んで、更に肢体を伸ばした。
後少し。
黒い羊の腰に巻かれた帯革を、
「うしっ!」
今度こそ鷲掴んだ。
「うおっ!?」
予期せぬ力を受け、テルセロは大きく踏鞴を踏む羽目になった。堪らず床に後ろ手を突く。
カレジは平衡を失った獲物の隙を突き、分厚く丈夫な帯革を確りと握り直す。そうして片腕で羊の肩口を掴み、握り込んだ帯革に更に体重をかけ、完全に引き倒す。
羊の防具が上げる悲鳴。
床を激しく叩いたのは彼らの四肢。
「くそっ! 離せっ!」
後肢を取られ、床に押し付けられたテルセロは、吼えながら身を捩り、牙の代わりに腹の下から短刀を引き抜いた。
カレジは反抗の兆しを見せる羊を良し、とはせず、自身の胸辺りまでしかない小さな獣の身体を乱暴に返す。そうして肩口に掛けた腕に力を籠め、爪を立て、暴れる羊の片腕を後ろに取って、拘束しようと躍起になった。
軋む床板に、埃が舞う。
「くそっ!」
テルセロは凄まじい力で押し潰され、圧迫感に喘いだ。それでももがく手は止めず、腕を捩じり上げられた際に落とした短刀を、拘束を逃れた右で取った。同時に肩口を抑える力が緩む。その隙に僅かに身を捩ると、顔面の真横に自身の頭など易々と握り潰せそうな、大きな平が降って来た。
「っ!」
驚き、できる限り首を退くが、幸いなことにそれは殴りつける為に振り下ろされた訳ではなかった。見開いた彼の眼前で、大きな彼女の手は逃げる短刀を追う。じゃれる様なそれにテルセロは口角を上げ、得物を握ったままの腕を引き寄せる。距離を見誤った反動で、鋭い刃先が自身の首筋を掠め、顔を覆った仮面を引っ掛けた。
カレジはその隙を見逃さない。ご自慢の瞬発力で羊の細い腕を鷲掴む。
「これで動けないだろっ!」
してやったり、彼女は短いかぎしっぽを振り上げて、鼻を鳴らした。
両腕を取られたテルセロは、身を反らした猫の笑い声を聞きながら、じわり、と顎を引いていた。切っ先の掛かった仮面はずり上がり、それまで隠してきた羊の口元が露わになる。
カレジは気づかない。
羊の口端が歪に持ち上がった事を。
黒い羊は茶トラの下で、降参だ、と両掌を広げた。同時にそれまで握っていた凶器が床に落ちる。
「やっと諦めたか」
ごろごろ、と鳴るカッツェロイテの喉。
「さて、どうしてやろうか」
わざとらしく耳元で囁くその声は嫌に艶っぽくて、羊は思わず声を漏らしてしまった。
カレジは笑う。やはり羊など取るに足らない、と。
彼女は完全に油断していた。
細めた黄目の鼻先で、羊の口が大きく開く。
覗いた牙は彼女達より長く、鋭かった。
覗いた口内は想像するより赤く、引き込んだ舌は幅広で艶やかに見えた。
「ギャッ!」
ぞふり、と食んだ毛皮から熱い体液が溢れ出す。更に力を籠めれば牙が容易く皮膚を切り裂いて、茶トラの毛皮を纏ったカッツェロイテは、羊を首元にぶら下げたまま仰け反った。
テルセロはすぐさま猫の巨体から身体を引き摺り出すと、天を仰いだ彼女の両腕が反撃に転じる前に、その素首から口を離した。そうして呻き、慌てて首元を押える茶トラの肩口を蹴り上げる。
「うぐっ!」
カレジは不自然な恰好で上へと押し上げられ、腰骨が軋む音を聞いた。痛みに顔を顰めると、目端で羊が腕を振るった。それはきっと、これまでの経験がそうさせたに違いない。思考が追いつくより早く、身体が勝手に半身を捻り、羊から距離を取った。そうして転がる身体は無防備な腹を曝け出す。本当なら痛みのままに泣き叫んで、喚き散らして、吼えたかった。
しかし生存本能は存外優秀で、泣き言を言う身体を許さない。
カレジは痛みにヒンヒン、鼻を鳴らしながら、下肢を振り上げ、反動で一回転。首を押えたまま器用に立ち上がって、背後を確認する事もなく大きく飛び退った。その目端に映った床に短刀が突き立つ。
「あぁあっ!」
息する間もなく、襲い来る第二波。
それは髭を削ぎ、目元を過ぎる。残るのは風の音。茶トラのカッツェロイテは血の下がる音を聞きながら、更に後ろへと下がらざるを得なかった。
テルセロは大きく飛んだ猫を確認すると、もがく相方の方へ、ではなく、逃げる風を見せた猫目掛けて床を蹴り、一気に間合いを詰めた。
泡を食うのはカレジ。
てっきり片割れの救出に向かうものだ、と思った。その間に反撃を受けた身体の様子を確かめたかった。せめて呼吸を整えたかった。
痛みに折れた心が悲鳴を上げる。
一人では分が悪い。
テルセロはあからさまに狼狽える茶トラを見据え、帯革に携えた湾曲した短刀を抜き放った。そうして一振り、二振り。続け様にもう一度。空中に銀線を描き、猫に肉迫する。
しかしそこは相手もさるモノ。瞬発力が違う。カッツェロイテは何とか平衡を保ち、積み重ねられたテーブルを崩しながらも器用に身を捻り、退く。その後数回の攻防があったものの、テルセロの放った斬撃は明確な傷を残せず、彼女を圧し留めたのみだった。




