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黒の雄羊  作者: みお
第2章
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第16話 辺境の村ヒウッカ(6)

「……」



 アッシは逃げる事を止め、迎撃態勢を取った二匹の猫を見ていた。

確かに、彼女達は波状に放たれた短刀を避け、窓辺からカウンター前へと移動していた。

 しかし、揺動も彼女達に効果はなかった様だ。現に二匹揃って動揺の欠片も見せない。互いに一定の間隔を保ち、互いに互いの隙を補う。それはまるで自身とテルセロの様な。



「……」



 アッシは静かに、仮面の下で顔を顰めた。

 一見して分かる。あの身のこなしは報告にあった“ただの賊”ではない。もしかすると、彼女達は端から逃げる気などなかったのかもしれない。思えば窓辺に居たのも、捕虜を逃がさない為か。そして移動して見せたのも、ただ、捕虜を傷つけない為か。

 どこまでも任務に忠実で、理性的。



「……」



 二匹のカッツェロイテは黒毛の羊を睨んだままゆったりと動き、間合いを取った。



「フゥーッ!」



 小さな耳のサバトラが牙を剥き威嚇をすれば、大きな耳の真っ黒な猫が僅かに目端を緩める。

互いに互いを理解し、呼吸を知った仲、か。二匹を相手にするのは骨が折れそうだ。アッシは胸中でごちて、騎士とは違う、長い袖に隠れた手の中で短刀を握った。

 


「……」

―――その手に武器が見当たらないのがせめてもの救いか。



 アッシは静かに溜息を吐いた後、もう一度大きく息を吸い、猫達に向かって走り出した。

 揺れる黒毛。強靭な革と少しの金属でできた防具がぬらり、と光って、撓る。

 サバトラの猫は一直線に向かってくる獣を金目に映しながら、ゆっくりと耳を後ろへと下げた。そうして自然と突き出した髭と、縦割れの虹彩が正確に獲物の距離を測るに任せ、手近にあった酒瓶を手に取り、力一杯、羊目掛け投擲した。

 それは一瞬。

 アッシは軌道を読み、僅かばかり身を傾ける。耳元で風が鳴り、間を置かず美しいガラスが砕け、床に散った。鼓膜を無遠慮に叩く甲高い音に、反射的に眇められる金目。

 黒猫はその隙を見逃さない。

 サバトラの投擲と同時に撓らせた身体をばねの様に伸ばし、転がったテーブルをわざと蹴飛ばす。驚いた黒羊が咄嗟に距離を取った時にはもう彼女はそこに居ない。眇め、視界の狭まった獣が半身を退いた死角で身を縮め、一呼吸。



「フッ!」



 鋭く吐き出した息と同時に伸び上がり、鋭く剥いた爪を振り上げた。



「っ」



 アッシは咄嗟に突き出した左で、猫の一撃を受ける。

 響く金属音。



「……くっ!」



 同時に襲い来る衝撃で、身体を庇った腕は弾かれた。

 平衡を失った身体は後ろへと倒れる。アッシは短く舌を打って、踏鞴を踏み、転がった椅子に足を取られる寸前で何とか踏み止まった。



「残念」



 深追いはせず、その場で床に手を突いて腰を落とした黒猫は、にやり、と笑った。



「何やってんだよ、レート。手ぇ、抜くなって」



 そんな仲間に軽口を叩くのは、サバトラのカッツェロイテ。

 非難を受けたレスペトは苦く笑って、



「抜いてないさ。コイツ、結構いいの着てるよ」



 黒の布地を失った、羊の左腕を指差した。

 露わになったそこには、黒光りする腕当。大きく引っ掻き傷を残してはいるものの、芯を取られた様子はない。



「嘘つけ。絶対手ぇ抜いた」

「嘘なもんか。白いのなら腕飛ばして、おつりが来てるよ」



 過ったのは先の城で狩った、真白の鎧を着たニンゲン。アレを彼らの世界では騎士と呼ぶらしいが、彼女達に言わせれば不相応な足枷を自ら背負った間抜け共だった。あの時は被っていなかったが、倉庫には今眼前で角を振る羊の様な、真白の首が幾つも並んでいた。察するにこの黒い羊は色違いと言ったところだろう。

 ただし、中身はニンゲンとは少し違うらしい。そして獲物としての価値も。

 レスペトは静かに立ち上がって数歩下がり、先程振り上げた手を何度か舐めた。



「……」



 アッシは邪魔な椅子を遠くへ蹴り飛ばし、黒い猫がそうした様に、自身も数歩下がって再び間合いを取った。そうして痺れる左腕を何度か乱暴に振って、確かめる様に握っては開いてを繰り返す。



―――めんどくさい。



 軽口を叩き合う猫達を見据えながら、先程切り裂かれ役目を失った袖を引き千切った。



「お? やる気出てきたか?」



 黒猫から視線を外し、ターゲルは笑む。



「かかって来いよ、羊ちゃん」



 安い軽口。

 アッシは一瞬固まった後、鳴る程に奥歯を噛んで、サバトラの猫目掛け短刀を投げた。同時に走る。



「うおっ、とっ!」



 標的はカウンターに飛び乗ってそれを避けるが、最初から当たるとは思っていない。黒猫との距離を離したかっただけだ。

 アッシは標的をサバトラから間近に迫った黒猫に切り替え、踏み出した左で身を翻し、向き直る。

慌てたのはレスペト。急激に間合いを詰められ、思わず後ろに下がる。

 しかしそこには転がったテーブル。



「チッ」



 仕方なく、半身を退いた状態で腕を振り下ろした。

 アッシは黒猫の胸の内で迫る腕を右手で受け流し、左で空いた鼻根部に掌底を入れる。



「っ、た……」



 しかし声を上げたのはアッシの方だった。電撃の様に走った痺れに、神経が痛みを訴える。

 確かに硬い、と聞いていた。それにしても聞きしに勝る。アッシは顔を顰め、思わず手を振る。素手では猫に損傷を与える前に、己が壊れかねない。



「クソ……」



 小さく舌を打ち、仕方なく彼は身を退いた。

 黒い羊が怒りに顔を顰めていた時、殴られ体制を崩したレスペトもまた酷く気分を害していた。彼女は受けた力に抵抗はせず、倒れる身体をそのままに、突き出した髭が床に触れる寸前で漸く手を突いた。大した害などない。ただ、痛みがないと言えば嘘になる。



「……」



 腹の底から湧きだした怒りに床板を引っ掻けば、その怪力で分厚いそれが割れた。反射的に、黒毛の羊は更に大きく身を退くが、彼女は追い縋ったりはしない。その眼前で床板を蹴り上げ、悠々と身を撓らせると、全体重を一点で支える片腕を曲げる。彼女が都の舞台で芸を披露する曲芸師なら、間違いなく硬貨が舞飛んだに違いない。

 狼狽える羊など一切無視して、強力なばねを見せつける様にそのまま片手で跳ね上がり、空中で身を捻れば黒く大きな肢体は美しい弧を描いて、身を縮めた羊の頭上を悠然と過ぎ去った。

 アッシはその跳躍力に戸惑い、彼女の影を仰ぎ見るので精一杯だった。自然と開いた身体。半身を退く形になった彼の死角に着地した黒猫は、瞬く間に距離を詰める。



「ッ!」


 

 反応できない。

 気付いた時には、自身の顎にひやり、と冷たい彼女の手が掛かっていた。



―――しまっ……。

「あぐっ!」



 アッシの手が空を掻いた。

 骨の軋む音。

 翻る景色。

 レスペトは突き上げた己の膝を支点に、黒い羊を放り投げた。羊面にかかった爪が彼の首筋を深く傷つけ、鮮血が飛ぶ。

サバトラのカッツェロイテは好機を見逃さない。仲間が羊を投げると同時にカウンターを踏み込み、大きく跳躍する。

 蝋燭の炎に踊る影。

 二匹の連携に気づけないアッシは、とにかく少しでも衝撃を受け流そう、と迫る床を睨みながら、猫の様に身体を丸めようと試みた。

 しかし、その背に降って来たサバトラの猫は許してはくれない。柔らかな感触を覚えた次の瞬間には、強い力に押され背が撓った。力を逃がせない腰骨が悲鳴を上げ、もがく間もなく床に叩き付けられる。



「っ!」



 詰まる息。

 胸が潰れ、まともに衝撃を受けた肋骨が嫌な音を立てる。次いで、鋭い痛みが身体を駆け抜け、逃れようと硬直した筋肉が、自身の意思とは関係なく顎先と足先を反らせる。そうして揺り返す反動で、容赦なく四肢を、顔面を再び強打した。

 強烈な衝撃は頭蓋内に響いて、何処か他人事の様な音を作ったが、その痛みは計り知れない。



「ぐっ!」



 遅れて押し出された空気に呻き、アッシは眩んだ視界の内で、手にしていた短刀を振った。それは最早身体に染み付いた動作で、そこに意識などなかった。



「ふんっ」



 潰れた蛙が繰り出す刃など取るに足らない。

 後肢で思いっきり羊を蹴り飛ばし、その背に華麗に着地を決めたターゲルは、それの伸ばす腕を蹴り上げて、短刀を軽々と弾いた。そうして抵抗を罰する様に、汚れた床に圧し付けた羊の上で、何度も、何度も跳ねた。それは小さな舞台で踊る様でもあったが。



「ぐっ、う……」



 アッシにしてみれば堪らない。

 手足が長く、細く見えるが、猫は決して小さくはない。ニンゲンにしては大きな部類のアッシでさえ見上げる程の体躯。それを支える骨に、強靭な筋肉。それがどれ程重いか。



「あっ、あぁっ!」



 熱くなり始めた胸が更に燃え、視界が白む程の痛みが喉を通って漏れ出る。



「はははっ!」



 舞い踊るターゲルは堪え切れず声を上げた。

 皆は一体何を怯えていたのか。羊はこんなに弱いのに。



「あははっ!」



 仲間の醜態を笑い、地べたを這いずる羊を笑った。そして、もう飽いた、と蹴飛ばし、黒いカッツェロイテの許へとすり寄る。受けるレスペトも口角を上げ、目を細めて、サバトラのカッツェロイテの頬に舌を添わせながら、決して太くはない尾を小刻みに跳ね上げた。



「っ、……はっ」



 解放されたアッシは詰まる息に口を開閉させ、身を起こそうと試みたが無駄な足掻きだった。走る痛みに身体が強張り、悲鳴も上げず転がる。反転したらしい、と理解できたのは、霞む視界に天井が映ったから。



―――これで軍人でないなら、猫、強すぎだろ。



 自然と流れた汗に目を眇め、湿った空気を運ぶ風に大きく息を吐いた。



―――痛い……。



 アッシは静かに目を閉じ、眉根を寄せる。本当はもう、動きたくもないのだけれど。



「く、そっ」



 戦場でいつまでも転がっている程、馬鹿でもいられなかった。

 覚悟を決め、寝返りを打つ様に半身を返し、腕に力を籠めると、



「っ……」



 やはり胸が痛む。伸びきった首も頭を動かすだけで激痛が走るし、かと言って力を抜いても酷く痛い。



「っ、う、ぅ……」



 アッシは苦痛に顔面を歪めながら、気力だけでなんとか身を起こした。そうして無防備な背を庇い、尻を突く。何度も瞬き、後ろへ下がりながら、身体に鞭を打つ。



―――とにかく、立って……。



 足に力を入れたところで、視界の端にそれが見えた。

 顔を上げる暇さえない。

 みるみる距離を縮める影は輪郭をぼやけさせ、



「っ、あっ!」



 痛みと共に再びアッシの身体を床に縫い付けた。



「がっ!」



 受け身も取れず、強かに打ち付けた後頭部はもう痛いのかも分からない。反射的に突き出した手が、柔らかな毛皮を掴む。嫌がって背けた首筋にかかる息。覆い被さって来た猫はアッシの頭を鷲掴んで容赦なく捻じ伏せ、猛獣の如く喉を鳴らす。



「へへっ」

―――さて、どう料理してやろうか。


 

 羊に馬乗りになったサバトラのカッツェロイテは、自身の下で小さく身を縮める獲物を嬉々として見下ろしていた。やはり狩りは興奮するのだ。こうして弱者を制圧してこその強者。これこそ求めていた物に違いない。

 ターゲルはぺろり、と口端を舐め、金目を眇める。

 防具の隙間から僅かに覗いた首筋に牙を立ててもいい。若しくはこのまま首を捩じ切ってやろうか。それとももっと楽しむべきか。



「ったく」



 横目に彼女を映していたレスペトは苦く笑う。それは久しぶりに垣間見せた彼女の残虐性に向けた物だったか。それとも獲物で遊ぶ彼女が幼児退行して見えたせいだったのか。

 何にしても敵はまだいる。油断するな、と伝えたかった。



「ターゲル」



 黒い毛皮を艶やかに輝かせたカッツェロイテはサバトラに声を掛けたが、彼女の耳にはどうやら届かなかったらしい。若しくは華麗に無視して見せたのか。現に彼女は反応する風さえ見せず、右で羊を押さえつけたまま、レスペトの前で拳を振り上げた。



「っ」



 アッシは眼前に腕を出し、振り上げられた凶器からどうにか身を護ろうと必死に抗った。同時に上がった下肢が猫の背を蹴るが、彼女は髭さえ動かさない。



「く、そっ!」



 反射的に閉じる目。

 振り下ろされる、重たい鉄槌。

 間を置かず、次打が襲い来る。



「っ! あっ!」



 受ける度に腕が軋み、走る衝撃で身体中が悲鳴を上げた。



「フッ!」



 サバトラのカッツェロイテは、羊が頭を庇おうが、身体を護ろうがお構いなしだった。力任せに拳を振るい、手数で攻め、無様に鳴く黒い羊をいたぶり続ける。これが済めばもう一匹。その後に残るのは大柄の羊だけ。落ち着き、襲えば問題はない筈だ。

 活路を見出したターゲルは口角を上げる。そうしてまた拳を振り下ろし、不思議な匂いのする、嫌に丈夫な羊の息の根を止めようと躍起になった。



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