第15話 辺境の村ヒウッカ(5)
それは一瞬。
「ギャッ!」
鼓膜を破る程の鋭い悲鳴と共に、
「ぐえっ!」
巨大で重い物が、大きいとは言えない身体の上に落ちてきた。それが岩石ではないと分かったのは、酷く暖かく柔らかで、知った感触があったから。恐る恐る開けた目に、だらり、と力なく垂れた腕が入った。下を向いたそれの毛皮を伝い、雫が落ちる。それは自身が流す筈だった赤。
「……」
何度か瞬くのに時間は要らなかった。
しかしその間に落ちた沈黙は確かに長く、彼の身体に恐怖を自覚させるには十分だった。
「うわああぁあ!」
グロシェクは再び悲鳴を上げていた。
なぜこうなったのか。襲われていたのは自身の筈だったのに。
「わぁああっ!」
激しく混乱し、動揺した彼に現状は理解できない。とにかく脅威は去ったのか。身の安全は。そんなことばかりが頭を支配して、手当たり次第にもがいた。
しかし小さな身体では重い猫からは逃げられない。
「たっ、助けてぇえっ!!」
小さな羊が力の限り短い腕を伸ばせば、
「大丈夫ッスか?」
落ち着いた声と共に、身体を圧し潰す猫が軽くなった。
痛い位に血の止まった足に再び血液が流れ始め、まるで心臓の様に脈打つ。じわじわ、と温かさを取り戻す身体。探る様に自身を抱くが痛みはなく、鎧を汚す血液も猫のものだ、と理解できた。そして感じる自身の生。
「うっ、うっ、うっ」
思わず漏れた嗚咽は、きっと生への喜び。
しかし、一時の安堵は恐怖を倍増させる。
混乱したままのグロシェクは再び青ざめ、小さな猫がそうした様に、自分から大きな猫と床の僅かな隙間に身体を捻じ込んだ。そうして震え、
「殺さないでぇっ!」
頭を抱えて、必死に命乞いをした。
物陰で震える姿は小動物そのもので。
「うははっ!」
彼らのやり取りを背後で見ていたテルセロは、思わず声を上げて笑った。
お調子者で強情で、誇りだけは一丁前な随分と年上の彼の、いかにもな姿が堪らなかった。中尉は俺が護ってるんだよ、実は、なんて息巻いていたのは何時だっただろうか。あのヒトは俺が居ないと何にもできないんだ、小さな身体に酒を流し込んで、口元を乱暴に拭う姿は実に男らしく。彼を囲むモノ達が一様に目を細め、親の様な慈愛に満ちた目で見守っていた事に、きっと彼は気づいてはいない。
「はははっ!」
相方の軽やかな声に、
「もう大丈夫ッスよ、曹長」
小さな羊を助けたアッシも、ふふふ、と小さく喉を鳴らした。
「へ?」
覚えのある声が馴染んだ音を吐き出すのを聞いて、グロシェクはそろり、と目を開けた。きつく閉じていたそれは暫くぼんやりとしていたが、何度か瞬くと黒毛の羊を映した。仮面で表情は読めないが、影の落ちた金が心配だ、と語る。
グロシェクは見知った姿に酷く安堵し、猫に挟まれたまま床に突っ伏してしまった。出来る事ならこのまま意識を手放してしまいたい。
「曹長?」
アッシは動かなくなった小さな羊に眉根を寄せる。
もしかしたら救助が間に合わなかったのかもしれない。不安そうに影の落ちた隙間を覗き込むと、鎧と同じ色の飾り毛が音を立てて流れ、汚れた床に落ちた。
そんな様子にテルセロは苛々とした足取りで彼らに歩み寄り、
「さっさとしろよ、アッシ」
相方を見もせずに唸った。
「甘えてるだけだって」
彼は不機嫌に喉を鳴らして、黒毛の羊は複数の刃を浴びて絶命した大きな猫の身体を乱暴に押しやる。そうして汚れた手を下衣で乱暴に拭い、
「ほら。早く」
相方を見やった。
ここまでやっておいて、手助けは拒むのか。
どうやら複雑な心境らしい彼の金目を受け、アッシはまた苦く笑って、グロシェクに向き直る。
「交代、ッスね」
言いながら子羊の身体を引き起こし、だらり、と力の抜けた小さな身体を支える。
「ね?」
小首を傾げれば子羊の濃い橙が自身を見上げた。
濡れたそれは庇護欲をそそるが、戦場でいつまでもそうしてはおけない。アッシが困った様に曖昧に笑うと、子羊は気力を取り戻したのか、橙の光を強くした。
「曹長?」
自身を見下ろす金目は酷く優しい。
「ほら、立ってください」
気遣い、相手を敬うことに慣れた所作。朝日を浴び、真っ黒な鬣を風に揺らす彼は、リトラに伝わる神の化身に違いなかった。
「アッシ……」
身体を支えられながら、グロシェクは大きな目に涙を溜める。
それは神に対峙した感動か。どうやら生に縋りつけたらしい事実に衝撃を受けた為か。それとも単純に危機を脱した本能が昂ったせいか。なんにせよ、溢れ出した涙は止められなかった。
「あ、ありがとぉぉお! アッシぃっ!」
グロシェクは感動に泣き叫び、涙を流した。
「ッス」
その熱量に困惑したのはアッシ。抱き付きかねない曹長に、短く答えて片手を突っ張る。
救世主よりも年だけは食った子羊は、無造作に肩口を押さえられていたが、それでもすごく嬉しそうだった。
「ちょっ、おっさんっ!」
テルセロはグロシェクを足で押しやりながら、苦い顔をする。
「馴れ馴れしいっ、なっ!」
相方に仔犬の様に縋り付く下官を睨んで、乱暴に引き剥がす。そうして手を振り、
「ほれ行った、行った」
入口を指した。
グロシェクは些か不満そうな顔をしたが、
「この御恩は必ずっ!」
年季の入った言い回しをし、抜けた腰を引きずり入り口を目指した。
「はは」
口ばかりの彼が愛されるのは彼らしさ、がなせる業か。どんなに間が抜けていても、戦場でヘマをやろうと、憎めないのだから天性の才能なのだろう。羨ましい。
アッシは小さな彼に手を振って返し、
「もう邪魔すんな」
テルセロは顔を顰めて、溜息を吐いた。
見目は一つも似てはいないのに、腕を組んだ様がどこか上官を思わせて、アッシは相方を見ながら静かに笑んだ。
「……」
ミリは相も変わらず仲のいい男達を見ながら舌を打った。己の下官が助けられようが、彼女には関係ない。今はただ、遊び場を荒らされようとしている事実の方が重要だった。
「邪魔はお前達もだろ?」
唸った黒羊の語尾を取り、ミリは腕を組む。そうして、床に突き立った斧を手に取り、肩を竦めた。その目は明らかに彼らの登場を歓迎してはいない。
しかしそこは慣れたもの。
テルセロもアッシも、位持ちの威圧には怯まない。
「ッス、ミリ中尉」
アッシは身を正し、テルセロは片手を上げた。そうして怒れる上官のご機嫌を伺った後、外交向きのテルセロがヒトの好く笑顔を浮かべる。
「何でもいいですけど、今、曹長見殺しにしようとしたでしょ?」
「あ? いいんだよ、ほっとけば。何とかなるし、何とかなったろ?」
ミリは一度、不機嫌そうに鼻を鳴らしたが、
「ひでぇな」
笑う歳若の黒騎士の姿に気を良くし、
「そーゆー文句が出ない奴が私の隊に残るんだよ」
今度は胸を張って、いつも通り豪快に笑った。
何とか緩んだ空気に、彼らも安堵する。
十三師団には十の隊があり、その頭に位持ちがついている。それをまとめるのがエリゼオであり、ベルンハルトなのだが、末端までを統制、管理するのはそれぞれの隊に置かれた隊長の役割。その為、それぞれの隊によって部下の教育も、使い方も違う。余程酷くない限り、ベルンハルトもエリゼオも何も言わない。だからそれぞれの隊には特色があって、頭に付いた騎士の姿勢が色濃く反映される。
但し、ミリの言う通り隊自体に拘束力はないので、不満があるモノは他の隊へ移るし、不満が無ければ留まった。そうして隊は絆を強め、より濃い性格と成る。
そんな一癖も二癖もあるモノ達の間で飛び回るのが、テルセロでありアッシだった。その為、彼らはそれぞれをどう扱えばいいのかを理解し、あらゆる情報を把握する。そして、重きを置くべき対象を明確に持っていた。それはどんな態度を取られようと、揺らがない強い意思と成る。
「中尉」
機嫌のよくなった彼女を前に、アッシは金目を緩めた。
その姿にミリは片眉を上げる。
媚びる姿などもう見慣れた。こうして彼らは懐へ割って入り“交渉”するのだ。
「なんだ? 言いたいことがあるなら早く言え」
瑠璃は酷く冷たいが、物言いはまだ優しい。
全てはお見通しか。
アッシは笑んだまま、話が早くて助かる、と胸中で目を眇め、
「二、三匹外に出てるッス」
いつも通りの声色で、淡々と上官の意思を吐き出した。
「名無しは猫一匹に複数人で対応しないとッスから、中で片付けろ、って」
「それにミリさん、毛皮も取れなくするでしょ」
甲冑ではなく、黒衣に身を包む彼らはそう言って腕を広げる。仕込んだ丈の短い刃物が、その手元で炎に光った。
それはつまり、お前には任せておけない、と判断されたと言う事。
「いちいち、うるせぇな」
外で指示を出す頭の固い男の顔が浮かんで、ミリは鼻筋に皺を寄せた。
再び怒りに支配され始めた彼女に、黒毛の羊達は互いに目配せする。そうして隊の中では凶暴な部類に入る上官を見て、笑顔を作った。緩衝材としての役目を、立派に果たす為に。
その間にも、カッツェロイテ達は大騒ぎだった。皆一様に外を目指し、飛び出すかと思えばそうはせず、窓枠に手を掛ける手前で引き返してくる。何かを窺うその目に焦りが滲み、あるモノは叫んだし、あるモノは手当たり次第に物に当たっていた。
これ以上時間を与えるのは賢くない。それは猫にも、目の前で唸る上官に対しても。
「ミリさんはそっちの色っぽいの。俺達は二体ずつな、アッシ」
「ッス」
上官であるはずの中尉に口を挟む間も与えず、彼らは重心を下げ、身構えた。指で挟む様に持った短刀が鈍く光り、彼らの鋭い爪と成る。
「あ、ちょ、待てっ!」
それが開戦の合図だった。
叫んだミリを他所に、黒毛の羊達は手にした刃を鋭く放った。それは放射線状に飛んで、銀の線を引く。
「くそっ!! なんだよっ! まだ了承してないぞっ!」
重い音を立て、木造の建物を刃が穿つ。ミリは太い柱に隠れてそれをやり過ごし、地団太を踏む己の臣子がそうだった様に、情けなく叫んだ。
その間にも、黒毛の羊達の放った短剣の一つが、
「きゃっ!」
茶トラの脇を浅く薙いだ。彼女は怒って尾を膨らませると、大きく後ろへ飛んだ。テルセロはそれを追撃する。
「シッ!」
猫の足元を狙い短刀を投げるが、それは固い音を立てて床に突き立つに留まった。
茶トラのカッツェロイテは再び飛び上がって、
「当たんねーぞっ!」
随分と高い天井の梁に爪を引っ掻け、器用にぶら下がって見せた。
揺れる尾。軋む梁からは埃が落ちる。
「はは……」
その驚異的な跳躍力を目の当たりにし、呆気にとられた。
但し、お遊びに付き合う気はさらさらない。テルセロは苦く笑って、真上に向けて刃を放つ。
カレジは誘いに乗ってこなかった黒い羊を見下ろし、小さく舌を打った。そして唇を尖らせ、身を翻して彼の凶器を躱した。揺れる炎に、毛皮が輝く。
床に華麗に着地した猫目掛け、テルセロが飛ぶ。床に手を着き、更に伸び上がる様に迫れば、猫の眼前にまで距離は詰まる。
カレジは揺れる黒毛を見ながら軽く飛んで、羊の背に手を着き、彼を軽々と往なした。
真上から押される形となったテルセロは、床を転がり、振り向きざまに短刀を投げた。それは茶トラの横を過ぎ、
「きゃっ!」
裏手へ逃げようとしていた幼い猫の前に突き立った。
驚き、叫んだ彼女は盛大に尻餅をつく。
「見えてるぞっ!」
テルセロが吼えれば、
「ひぃっ!」
黒い羊の怒気に、麦わら色の猫は慌てて身を退いた。そして銀色の刃を見つめたまま息を呑み、慌てて猛獣の死角となる柱の影へと飛び込んだ。
テルセロはそこから小さな猫が動かなくなった事を確認すると、茶トラの猫に向き直った。彼女は曲がった尾をピンッ、ピンッ、と小刻みに跳ね上げて、とても楽しそうに微笑んだ。




