第14話 辺境の村ヒウッカ(4)
悲鳴を上げたのは小柄な猫だった。
彼女は完璧に気配を消し、過ぎ行く真っ黒な獣の足を見送り、安堵したところだった。気を抜いた瞬間に訪れた恐怖ときたら。まだ歳若のソリチュードは飛び上がって、隙間から覗く血濡れの羊から距離を取ろうと足を突っ張った。少しでも距離を取らなければ、殺されてしまう。
ところが捻じれた大きな角を持った獣は諦めない。構わず、まるで巣穴の様に狭いそこに半身を捻じ込んで、身体だけを奥の隙間へと押し込んだ小さな猫を捕えようと、腕を伸ばす。
一掻き、二掻き。
「ひっ! ぃっ!」
声にもならない悲鳴を上げ、ソリチュードは空を切るそれを足蹴にして、顔を引き攣らせる。それでも羊は諦めない。
一掻き
「やっ!」
黒の鱗を忘れた腕が艶やかに光る。
一掻き。
「んっ!」
長く湾曲した爪が残骸を引っ掻く。
一掻き。
「くそっ!」
我慢できず、縮めた脚でもう一度太くはない羊の腕を蹴り上げた。
鈍い音。弾かれた手甲がテーブルの裏に当たって、固い音を立てる。
それで終わりの筈だった。
荒い息を吐くソリチュードの眼前で、打ち付けられた腕は先に付いた細指を別の生き物の様に痙攣させ、猛禽がそうする様に、固く握った後、大きく開き、
「ひぃっ!」
柔らかな彼女の足首を鷲掴んだ。
食いこむ鋭い爪。
「にぎゃあああっ!」
手先と口元、尾だけ黒いカッツェロイテは、痛みより恐怖で床に爪を立て、逃げようと必死にもがいた。
しかしどれだけ暴れようと、食む平はそれが口であるかの様に振舞い、交差させた指を開こうとはしない。
木板を引っ掻く音に、
「煩いなぁ」
目の前で瑠璃を輝かせる獣は羊頭を振る。
落ちる程に低い不機嫌な声色に、恐怖は倍増した。
「いやーっ!」
ソリチュードは恐怖のままに泣き叫び、無我夢中で床を引っ掻いて、猛獣から距離を取ろう、距離をとろう、と身を縮めた。生きた心地などしない。喚いて涙を流し、毛を逆立てる。
どうにかもっと奥へ。
あの恐ろしい魔の手から逃れられる場所へ。
「はなっ、せぇえっ!」
身を捩り、痛む足を振り回し、空いた片足で何度も蹴った。
しかし願いは叶わず。
「やーっ!」
猛禽を思わせる鉤爪は、一度閉じたら開くことはできない罠の様に猫の下肢を拘束し、重さなどものともしない腕は、呆気なく仔猫の肢体を持ち上げた。そうしてあっさりカッツェロイテは床から引き剥がされる。
「いやぁあっ!」
小さな猫を掴み上げれば、耳障りな音を立てて、彼女は床板に深い傷を残した。
ミリは僅かに片眉を上げ、
「煩い」
逆さ吊りから逃れようと上半身を持ち上げた、無作法な猫の細い首に掴み掛った。
顎が甲にかかるくらい斜めに掴んだが、それでも十分、指は後ろに回る。ミリは片手で猫の後肢を拘束したまま、渾身の力で細首を締め上げた。
「あっ、ぐぅうっ」
ソリチュードはもがいて、美しい陰影を作る羊の腕を引っ掻いた。そこに身を護る手甲も、鋭い爪もない。ここが突破口。ずたずたに引き裂けば、流石の羊も拘束を解くに違いない。
「うぅうっ!」
唸り、もがきながら、必死で獣の腕を掻き毟る。
「……」
抵抗して見せる姿は、やはり獣。そこに知性の欠片も見えない。結局、一皮剥けば皆同じか。
ミリが鼻を鳴らすと、深く抉られた腕から血雫が零れ、筋を伝った。それは床に落ちて、跳ね、やがて小さな血溜まりと成る。
「ちゅ、中尉っ!」
グロシェクは思わず叫んだ。
それは傷ついた上官を案じての物だったが、やはり彼女には届かない。
「……」
ミリは猫を睨んだまま、抵抗などものともせず、指に力を籠める。
「い……」
汚れた手の甲に浮かぶ筋。
「ぎ……」
騎士であるなら、その行為に正義を裏付けるのかもしれない。目的の為に行使される暴力だ、と。
しかし彼女は違う。大層な道義を護る為の言い訳などしない。骨が軋む程の力に憎しみはないのだから。そこに大儀などないのだから。それはただ、命を受けた獣の純粋な殺意。餌を貰い、生きる為に行使される、身勝手な暴力。
「ははは」
ミリは笑う。
ニンゲンであるのなら理性を持て、と誰かが言った。ソイツは都に住まう白い怪物だった様に思う。笑う男の目は緩まない。光に揺れ、風に臭う香のニオイは、今でも思い出しても吐き気がする。小さな復讐、等と言う可愛い物は彼女にはない。もう彼はずいぶん前に引き裂いたのだから。その時にきっと、理性とか言う腹の足しにもならない物は、そこへ置いて来た。
「ひひひっ」
決して目を逸らさず、寧ろ進んで深淵を覗き、彼女は自身に傷をつける。まるで奪う命を自身に刻む様に。
「っ、せ……ぇ……」
猫は足掻き、何度もミリの身体を蹴り、引っ掻き、身を捩った。
「中尉……」
小さな羊が不安気に見上げた上官の目には、何の感情もなかった。
落ちるのは暗い影だけ。
彼女はこれまで、ヒトでさえ生きる為に殺してきた。そこに何の感情もなかったと言えば嘘になる。ただ、壁で生きる為には、綺麗なままではいられなかった。あそこでは多くのモノが、産まれ出た時より選択を迫られる。立ち向かい強者になるのか。怯え弱者でいるのか。ミリは前者を選んだ。それは確かに悲惨で、死に物狂いの日々だった。過酷な生活はやがて、彼女をニンゲンではない何かに変える。
「はははっ!」
笑う瑠璃色の目に滲むのは狂気。
「ぅうっ!」
ソリチュードは詰まる息に呻き、羊の腕を力一杯叩いた。眩む頭に視界が歪む。必死で爪を立て、身を捩り、何度も宙を掻いたが、頑強なそれは小さな抵抗など意に介せず、開放してはくれなかった。
―――いやだっ、助けて!
叫ぼうにも、
「ひっ……ぅ……」
音は言葉に成らず、反射で溢れた涙だけが羊の腕に滲んだ。
―――助けて。
たすけて。
タスケ、テ。
空気を奪われた身体は痙攣し、
「……」
やがて弛緩する。
ミリは失禁し、動かなくなった猫を無造作に床に投げ、溜息をつく。
「こんなのが数十匹程度、か。当てが外れたなぁ」
至極残念だ、と首を振る上官に、
「十分ですよっ! もう何匹も逃がしてるしっ! 怒られるっ!」
グロシェクは地団太を踏んだ。そして大きな傷を幾つも作った上官から、素早く目を逸らした。
騎士たる関係が通常とするなら、彼らは金銭で繋がっているだけの、異常な関係。だから何の得にもならない同情も、憐みも、心配もしない。
しないが。
「そっ、それにっ! け、怪我っ!」
グロシェクは気まずそうに顔を逸らしたまま、上官の身体を指差した。
ミリはそれが何を意味するのか理解できず、首を捻る。そしてしばらく黙った後、
「そんなに怖いのか?」
と、曖昧に問うた。
彼女からすれば、小さく臆病な臣子には敵が多すぎた。それは猫か、気難しいあの男か。はたまたそれは自身であったかもしれないし、もしかすると漠然と怪我を恐れているのかもしれない。考えだしたらきりがない。とにかくいつも怯えているのだから、何かが怖い筈だ、と濁した。そうすればきっと、何かが当たる。
「あ……」
グロシェクは精一杯の気遣いをさらり、と流され、緩く細められた上官の瑠璃を見上げながら、頬を赤らめた。
「あ、いやっ! そうっ! コワイなんてもんじゃありませんよっ! アレは悪魔です! 悪魔っ!」
その物言いから、臣子の恐怖の対象は黒騎士の長だ、と分かった。
本当に、彼はあの男が嫌いらしい。臣子の背丈を考えれば、確かに表情も見えない高みから見下ろされ、地を這う様な声で静かに、それは静かに怒られる事になる。
トラウマにもなるか。
ミリは破顔し、
「そんなに言うなら、お前も励め」
顔を赤にして、直ぐに青に変えた、いつもは気のいい下官を見た。
それは揶揄とも鼓舞とも取れる物言いだったが、グロシェクにとっては気恥ずかしさを隠せるいい機会だった。上官にはあたかも、良い方に捉えましたよ、と見せる為に、
「う、おっ、ぉぉおっ!」
取り敢えず叫ぶ。
「あぁああっ!」
腹の底から胸の空気が尽きるまで吐き切れば、身体がふわり、と軽くなる様な、眩暈に似た感覚に襲われ、次いで息苦しさに拍動が増し、一気に血圧が上昇した。意図せず溢れたやる気を糧に、
「うぉおおっ!」
グロシェクは考える事はせず、大きく踏み出した。そこまで行けば、後は身体が勝手に動く。これでも彼は立派な騎士様だ。
小さな身体を活かした軽快な足さばきで縮こまった男達の脇を走り、そのずんぐりとした体形には似合わない素早さであっという間に、窓辺へと辿り着いた獣人の尾にまで追いついた。着込んだ大きめの鎧がガチャガチャ、と耳障りな音を立てたが、そんなもの構ってはいられない。猫を逃がせば逃がすだけ、きっと平穏は遠ざかるのだ。
彼からしてみれば、長から大目玉をくらう、と言う事は、命の危険を意味していた。そう。決して気恥ずかしさを誤魔化す為に必死になっているのではない。
「逃がすかぁあっ!」
グロシェクの異様な覇気を含んだ叫びが木霊した。
吼える小さな羊に気づいたカッツェロイテはぴたり、と足を止めると、徐に振り返って牙を剥く。
「フゥーッ!」
皺を寄せ、引き絞った口元同様、眇められた瞳の中で縦割れの瞳孔が開く。それは真ん丸になって、躍りかかる子羊の姿を映し、相手になるぞ、と殺意を放つ。
「うっ!」
所詮は付け焼刃。
「ひやぁああっ!」
グロシェクは真っ直ぐ己へと向けられる殺意に圧され、一瞬で心を折られた。少女の様に叫び、無い尾を丸めて震え上がる。
白い靴下を四肢に履いた様なカッツェロイテは、その隙を見逃さない。お前に対する警戒心などない、とでもいう様に、無遠慮に大きく踏み込み、距離を詰め、長い爪のついた腕を振り上げた。狙うは子羊の首。
「うひゃっ!」
風を切った音と同時に上がる悲鳴。
手ごたえはない。
「チッ」
ローシは反射的に舌を打ったが諦めず、更にもう一歩、大きく踏み込む。子羊は慌てふためき後ろへと下がるが、歩幅が違う。十二分に詰まった間合いで繰り出される追撃。
響く硬い金属音。
「きひひっ」
今度は手ごたえがあった。
「うひぃい!」
振り抜き、身を翻した視界の隅で、震えあがった黒い子羊が尻餅をつく姿が見えた。靴下を穿いた猫は嬉しそうに喉を鳴らす。
―――ここで仕留める!
上官の髪色と同じ琥珀を歪め笑んだ猫の眼前で、グロシェクは完全に腰を抜かしていた。その濃い橙が映すのは、己の胸元。
「はわはわ……」
その役目を全うした胸当ては、先程受けた猫の強撃で無残にも大口を開けていた。彼が果実であったのなら、きっと溢れる血雫で濡れていたに違いない。それ程鋭利で、淀みない殺意。
悲鳴さえ忘れていたグロシェクは、はっ、と我に返り、
「こんなの……」
漸く声を絞り出した。
そうして震える身体で鳴る歯を止めることもせず、
「こんなのっ! 無理! 無理ぃっ!」
恐怖のままに喚き散らした。
無様な臣子の姿に、ミリは苦く笑い、猫は歓喜する。
「うわぁああっ!」
子羊は完全に狼狽えて、カッツェロイテを前に、背を向けて逃げ出した。汚れた床を這い、入って来た戸口へと慌てて向かう。
やっぱり駄目だった。ここへ入ってはダメだった。どうして上官の言いつけを守らなかったのか。
胸中を渦巻く後悔に涙を零し、無様な醜態を晒す。
「逃がすかっ!」
腰の抜けたウサギの様な子羊をねめつけ、叫ぶのはローシ。靴下の様な真白な後肢で床を蹴り、飛び上がる。
「うわあぁああ! もうだめだぁああ!」
羊が猛獣に敵う筈などなかったのだ。
グロシェクは絶望し、身を縮めた。
上官の心配などしている場合ではなかったのだ。元々彼女が一人でやる、と言い出したのだし、放って置けばよかった。こんな金にもならない事で死ぬなんて。
脳裏に過るのは愚痴にも似た後悔。そこには更に上位に座する長への恐怖などなかった。今はただ、上書きされる生命の危機に泣き叫ぶ。
「ひあああっ!」
涙で滲んだ目に、カッツェロイテの鋭い爪が迫る。
「こんなんだったらっ、中尉から奪ってでもっ! ラバーカもっと食っとくんだったぁあああっ!!!」




