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黒の雄羊  作者: みお
第2章
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第13話 辺境の村ヒウッカ(3)

 白み始めた外の空気が室内に流れ込む。吹き込んだ弱い雨に床が濡れシミになって、小さな水溜りを作った。どこか遠いところで雷が鳴り響く。季節外れの、この土地には珍しい雨は木々を濡らし、地面を濡らし、優しい音だけを運ぶ。



「お前はもっと腕磨けよ、グーシー」



 大柄の羊は子羊の失態を気にする素振りさえ見せなかった。他隊の上官の様に機嫌を損ねるでもなく、寧ろ楽しんでいる風を見せ、快活に笑う。そうして一呼吸。深く吐き切ると短く吸って、彼女は浅黒の肌を血に汚したまま走り出した。割れたテーブルを跳ね飛ばし、傷ついた椅子を踏み抜き、



「くそ―っ!」



 子供の様に地団太を踏む臣子の肩を踏み台に、宙へと跳ね上がった。

 目指すは斑とは正反対。気の逸れた羊の隙を突き、村の男達を押し退け、窓目掛け走るサビ猫だった。

 獣人の巨体に潰された男が悲鳴を上げる。サビ猫は捕虜の悲痛な訴え等意に介さず、鎖を踏みつけ、村人の背を無遠慮に引っ掻く。

 割れる窓。

 掻く様に伸ばされた猫の平が、割れたガラスの立つ窓枠を掴む。

 猫の頭が外へ出る。

 猫の首元が外へ出る。

 猫の半身が。



「逃がすか、よっ!」



 ミリは吼えて鎖で繋がれた男達の上に降り立つと、サビ猫の短い尾を左で掴み、乱暴に引き摺った。



「ギャッ!」



 鋭い痛みにフィリアは悲鳴を上げたが、その長い爪は窓枠を離しはしない。自慢のかぎしっぽが身体から別れようと構わなかった。今は命の方が大事だ。



「ウゥウウナーッ!」



 低く唸った声が酒場に響く。

 壁を深く引っ掻いた爪が割れ、引き裂ける毛皮からは大量の毛が毟られる。



「フーッ!」



 フィリアは痛みと恐怖で混乱した頭を振り、強張った首を何とか捻って、黒い羊に牙を剥いて見せた。すると、突如、



「きゃうっ!」



 痛みから解放された。

 反動で壁に頭を打ち付けるが、怯んでいる暇はない。慌てて床板を引っ掻き、何とか身を起こす。他者から見れば滑稽で、きっと情けない振る舞いだったに違いないが、今は恥も外聞気にしてはいられなかった。一刻も早く外へ逃げなくては。



「……」



 ミリは慌てふためき、無様に手足をばたつかせるサビ猫を黙って見下ろしていた。別に逃がす為に手を離した訳ではない。一々爪を引き剥がすのが面倒だっただけだ。彼女は目論み通り最早掛かりを失った猫の素首を無造作に掴むと、今度こそ乱暴に引き倒した。



「うわっ!」

「ひぃっ!」



 重たい肢体の下敷きになった男達から悲鳴が上がる。

 大柄な羊はそんなもの、気にもしない。己の利だろうと損だろうと、影響も与えないモノなど道端の無機物と変わりはしないのだから、当然だ。

 彼女はニンゲンの上に仰向けで転がったサビ猫に掴み掛り、足場の悪い隅から酒場の中央へと投げ飛ばす。軽々と宙を舞った獣人を受け止めた椅子は耳障りな音を立てて転がり、食器や杯を猫の代わりに宙へと送り出した。

 ミリは手を休めない。怯え、首を竦めた臣子など放って置いて、呻くサビ猫に再び掴み掛かると、その硬い顔面を殴りつける。堪らず爪を立てる猫を嫌がって、腕を取れば彼女が大きな目を更に大きく見開く。ミリはそれに自身を映しながら、にやり、とない牙を剥いて、サビ猫をまた放り投げた。ニンゲンより大きな肢体が成す術もなく宙を舞い、悲鳴を撒き散らして、通常なら店主が陣取っている筈のカウンターを越え、



「ギャッ!」



 色とりどりの酒瓶が並んだ棚に激突した。

 派手な音を立てて、貴重なガラス瓶が砕け散る。それは宝石の様に小さな炎に輝き、辺りを美しく煌めかせる。その様はまるで弾ける水飛沫にも見えた。



「グッ!」



 受け身を取ることもできず肢体を強打したサビ猫は、小さな呻きと共に床へと落ちた。

 その上に輝く破片が降り注ぐ。遅れて安い酒のニオイが広がり、豪華なのは外側だけだったか、とミリの失笑を買った。

 グロシェクは未だ舞台側で固まったままの猫の背後をおっかなびっくり過ぎ、精一杯息を殺して、気配を消して、上官の許へと駆け寄った。長く、鍛えられた美しい上官の下肢に隠れる素振りを見せれば彼女が腰を折り、顔を覗き込みながら兜の下で笑う。



「あはは! お前はホントに臆病だな、グーシーッ! 逃がすな、なんて口だけじゃ、まだまだ女は先だなっ!」

「よっ、余計なお世話ですよっ!」

「あん? どの口がほざくんだぁ?」

「いひゃいっ! いひゃいっ!」



 何倍も大きな平で頬を挟まれ、抵抗する間もなく強引に引き寄せられて、グロシェクは堪らず上官の腕を叩いた。当の彼女は僅かに眉根を寄せはしたが、しなやかな肢体を大きく曲げて、下官の兜に額を突き合わせる。



「口出しが気に入らないなら、お前も黙ってろよ。あたしはあたしのやりたい様にやるからさ。逃げたヤツは外の奴にでもくれてやればいいさ。ここさえ片づければ誰も文句はないだろ? それで解決。問題なし。な?」



 有無を言わせない威圧と雰囲気にそぐわない笑み。

 瑠璃色の目が意地悪く歪むのを見て、グロシェクは慌てて首を縦に、何度も振る。そうする他彼に出来ることはなかった。



「りょーかいれふ」

「よしよし。物わかりの良い奴は好きだぞ、グーシー」



 ミリは小さな臣子の僅かばかりの反抗心を完全にへし折って、漸く彼を解放した。そして彼が彼女の領域に無断侵入した時と同様、顔も見ずに、



「次、邪魔したら、女を知る前にお前のソレ。二度と拝めなくしてやるからな」



 軽い調子で言い放った。

 小柄な羊は急いで股座を押さえ、濃い橙に涙を浮かべながら身を捩る。



「やっぱりわざとだったぁ……」

「あははっ! お前、バレバレなんだよっ!」



 心底楽しい、と言った様子で高く笑った上官に、グロシェクは苦い顔を更に歪めて、



「もぉ……」



 小さく呻いた。

 そして飛散する酒瓶を見ながら、



「大尉に怒られても、俺、知りませんからね」



 また小さく、上官には聞こえない位の声で零した。



「早くっ、早くっ」



 黒い大柄の羊が仲間に夢中になっている間、フィドゥーチャは震え、涙を流し続ける男の鎖の留め金と格闘していた。物音を立てない様、それはとても慎重にこなさなければならなかった。なんせ彼を拘束する鍵は仲間内でも少し毛色の違う二匹が持っていたし、目の前には恐ろしい獣が居るのだ。見つかればきっと彼の命はない。



「早くっ、外れろっ」



 フィドゥーチャは長い爪を器用に隙間に滑り込ませ、複雑に噛んだそれを解いていく。

 一つ。

 二つ。

 そして、



「やったっ!」



 三つ。

 押し殺した声はそのままに、彼女は彼の耳元に唇を寄せ、



「逃げるよっ」



 静かに、強く囁く。

 男は酷く驚いた顔をしたが、外れた首輪を静かに床へ置くと、キジトラの猫に従った。慄く村の男達はみんな知った顔。誰も彼もが不安そうな表情を投げて寄越すが、口を開くモノは居なかった。男は猫に手を惹かれながら恐る恐る振り返る。

 酒場の中央に陣取った羊はこちらに気づいた素振りも見せない。



「早くっ」



 急かす彼女の眉根が不安に歪む。

 黄色の瞳に浮かぶのは。



「……」



 長い間寵愛を受け続けていた男は思わず手を伸ばす。

 そして鳴る、重い鎖の音。



「お?」



 ミリは視界の端で揺れた栗色の髪を訝しみ、振り返った。



「……」



 逞しい雄の背中越しに、真黄色のキジトラの目と合う。

 絞られる瞳孔。

 先に反応したのはどちらだっただろうか。



「立ってっ!」

「逃がすかっ!」



 キジトラは男の腕を取り、ミリは臣子も得物も放って、踵を返す。

 確りと手を取り合った二人は他者を踏みつけ、鎖に足を取られながらも窓へ一直線。とにかく一刻も早く逃げなくてはならなかった。

 死ぬのは御免だ。

 対する狩人は唸り、腕を伸ばす。

 しかし、



「あーっ! めんどくせぇっ!」



 床に身を縮め、動きもしない男達に足を取られて、届かない。

 顔を顰めたミリは手近にあった椅子を手にし、軽々と持ち上げる。そうしてそれがまるで自身専用の得物であるかの様に、猫に向けて投擲した。



「っ!」



 先に気づいたのは腕を引かれる男だった。

 彼は引き摺られるまま弾かれる様に顔を上げ、一瞬迷う風を見せたが、



「っ!」



 それまで縮めていた身体を大きく広げ、硬く目を瞑る。



「くそ」



 ミリは椅子を投げた惰性で片膝に手を突き、小さく舌を打った。同時に重い音が響き、猫を庇った男が大きく仰け反った。

 舞い飛ぶ破片。



「きゃっ!」



 崩れた男に背を押され、キジトラがガラスを突き破る。そうして重心を前方へと移されたカッツェロイテは、体を成さなくなった椅子と共に外へと消えて行った。

 その背を見送ったミリは腕を組み、



「なんだよ。お前らも敵だったわけだ」



 身を縮め、頭を庇う男の一人を睨みつけた。

 真っ黒な兜の下から覗く瑠璃色の目。冷えたそれに見下ろされ、村の男は慌てて首を振る。



「んじゃ、アイツだけが特別だった?」



 聞けば男は大きく後ろへと下がり、仲間に助けを求める様に身を寄せた。大柄の羊の目元が引き攣る。



「あぁー、あぁー、分かった。分かったよ。ったくめんどくせぇなぁ」



 吐き捨てた大柄の羊は怯える村人を掻き分けて、凶器の直撃を受け、倒れ込んだ男の許まで歩み寄った。グロシェクはその嫣然たる背中を見ながら震え上がる。彼には次に何が起こるか容易く想像できたのだ。

 しかし上官を止める事はしない。そんなもの、気の立った猛獣の口に腕を突っ込む様なものだ。敵前ではあったが、グロシェクは上官から背を向け、耳を塞ぐ。

 そんな臣子に気遣う様子も見せず、ミリは傷つき、倒れた男の首を掴み上げた。道端の石であろうと、跳ねれば気に障るものだ。



「獣が好きなのか? いい趣味してるな、お前」



 何も映さない瑠璃が吐いた言葉は誰に向けた物だっただろう。彼女は唸り、僅かばかり目を開いた男を窓枠へと叩き付けた。

 そこに悲鳴などない。

 ミリは大きなガラス片を首から生やした男を再び持ち上げると、もう一度、渾身の力を籠め振り下ろした。浅黒の腕に立つ青筋が彼女の怒りを顕現する。自身の拳が破片に触れ、傷ついた。流れる血は止まらない。それでも彼女そのまま無言で、何度も、何度も、気が済むまでそれを繰り返した。



「……」



 村の男達は茫然と、悍ましい光景を瞳に映し続けていた。

 それは獣人と対峙したあの時と同じ。もう、そうする他成す術がない状態だった。幾度となく体験した、股座が濡れる感触にも最早構っていられない。ただ、ここは地獄だ、と何度も繰り返し、一人、また一人と意識を手放すだけ。



「ふー……っ」



 ミリは糸の切れた人形から手を離すと深く息を吐き、崩れ落ちたそれに冷めた視線を送った。

 自身を落ち着けようと繰り返した呼吸は荒い。

 それでも、漸く気を取り直した彼女は酒場全体を見渡す。



「……」



 余計な事に時間を取られたのだ。大方は逃がしたか、とも思ったが、意に反して猫の大半はその場に固まったままだった。最早、遁逃すら諦めたのか。若しくは牙を剥く腹積りか。なんにしても、彼女の機嫌は自然と上向く。

 お遊戯はまだまだこれから。



「……」



 小柄な猫は崩れたテーブルの下で身を縮め、鼻歌でも歌い出しそうな真っ黒な羊を睨みつけていた。その身体は小刻みに震え、決して立ち向かえるような状況ではなかったが、それを認めるには彼女の矜持は邪魔だった。状況から考えれば、完全に退避の機会を失った、と言える。

 ソリチュードはとにかく気配を殺し、羊をやり過ごそうと考えた。そしてあわよくば背面を取り、姉様達が反撃に打って出られる様な隙を作る。



「あははっ!」



 ミリは倒れた椅子を押し退け、半端に腰を上げたままだった灰色の猫を見ていた。

 小柄な猫はじわり、じわりと近づいて来る重い足音を聞きながら、毛を逆立てる。大きく踏み出される一歩。靴先が視界に入る。そして軋む床。握った小さな掌には汗が滲み、震えた背筋が尾を膨らませる。ソリチュードは一歩、一歩、と近づく、黒い布に隠された獣の足を凝視しながら、生唾を飲んだ。間を置かず、身を隠したテーブルが揺れ、軋む。



「っ」



 思わず口元を押さえ、漏れ出そうになった悲鳴を閉じ込めた。

 身動きできず、息を止めたまま目を見開くソリチュード。その目の前を過ぎ行く羊の足。重い足音はやがて離れ、積み重なった椅子と倒れたテーブルの影へと消えた。



「……」



 頭の中では機敏だった筈なのに、やはり考える様に上手く身体は動かなかった。

 ソリチュードは飛び掛かってやろう、と画策していた数秒前の自分を鼻で笑って、どっ、と湧いた汗を静かに拭った。何度か顔を擦り、舌を伸ばしたところで、



「……」



 ふと、視線を上げる。 

 それは本当に偶然。

 安堵とはかくも油断を生むのか。



「……」



 最初は影だと思った。

 ただ訝しんで目を眇めると、それは確かに動いた。そして不気味に覗く瑠璃色。



「みぃーつけた」

「ギャッ!」


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