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黒の雄羊  作者: みお
第1章
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第2話  拠所(2)     ※2019.8.18 修正

 ベルンハルトは手渡された水に口を付け、乱暴に放り投げてあった上着を羽織った。

 楽しい時間はもう終わり。

 エレラインはこの時が好きではなかった。



「話せてよかった」



 ベルンハルトは軍衣の襟を直しながら、彼女を見る。その目が残念だ、と語るので、エレラインは精一杯笑って、彼の色のない頬に唇を寄せる。

 お別れの儀式はいつも、悲しい位に簡単だ。



「じゃぁな」



 それだけ言って、彼は手を少し上げ部屋を出た。

 響く金属音。締まる扉。重いそれは何時だって無情に彼らと彼女を切り離す。

 呼べばまた、優しく口を開いてくれるだろうか。

 思うが彼女はその背中を追わない。

 縋り付いて泣き喚けば、困った顔で側に居てくれるだろうか。

 思うが彼女は俯くだけ。

 彼らは嵐の様で、過ぎ去れば暖かな春をもたらした。ただそれは一人で過ごすには寂しくて。エレラインは耐え切れず痛む胸を押さえて、そっと部屋の扉を開く。辛うじて見えた彼らの背に、目頭が熱くなる。

 彼は言った。



「待つのは疲れる」



 困った顔で。



「待たせるもの疲れる」



 だから約束をした。お別れをしたらそれきり。次を待たない、と。だからお見送りもなし。次を期待してしまうから。

 エレラインはそっと分厚い扉を閉めて、大粒の涙を流す。約束はいつも悲しくて、寂しくて、胸が潰れてしまいそうだった。

 彼らは軍人。いつ命を落とすかも分からない。

 だから約束をする。

 忘れて、と。



「忘れるのに約束するなんて、変よね」



 エレラインは独り笑って、また泣いた。泣いて、泣いて、泣いて。それでも涙は止まらなかった。

 しかし、エレラインは部屋を出る。出なければいけなかった。


 ここは娼館。一階には酒場があり飲み食いもできるが、ここに集まるモノの大半の目的は相手を探すこと。気に入ったモノが居れば、館の主人に断りを入れ、二階の、ずらりと並んだ部屋に入っていく。大概は事が済めばさっさと出ていくものだが、追加の金さえ払えば主人は喜んで部屋を貸す。その為、ベルンハルトの様に借り部屋で夜を明かすモノも少なからず居た。

 ただ、彼の様に長い時間を娼婦と過ごすなら、多くのモノは三階の、部屋持ちと呼ばれる人気の高い娼婦や男娼を買うことが普通だった。人気がある分金額は張るが、二階とは違う広めの部屋に大きなベッドがあり、部屋の主である娼婦や男娼が許す限り、最高の時間を共に過ごすことが許される。

 この小さな、小さな世界の中で、エレラインは新参者にすぎなかった。当然、自分の部屋もなく、客を探す縄張りもなく、古参のモノに気を遣い、時にはお情けを頂戴して、細々と生きる日々。

 彼女の様な身分で部屋を占領する事は許されない。お客が出れば、館の主にお返しする。生きる為には、規則を遵守する必要があった。

 苦しい思いを胸に押し込め、エレラインは何とか廊下を歩く。考えてばかりいても食べてはいけない。また酒場の隅なり、道端に立ってお客を見つけなければならない。それが仕事で、命を繋ぐ術。お金が無ければ飢えるし、身を飾る衣装さえ買えはしない。そうなればお客は捕まえられなくなるし、また物乞いの真似事をして、どぶ水を啜る羽目になる。



 ―――もう、どん底はたくさん。



 エレラインは口を引き絞り、涙を拭いた。

 一階の酒場からは楽しそうな笑い声が響き、それを邪魔しない音量で、微かに音楽も聞こえる。館の主人は凝り性で、お客が喜ぶことなら何でもする。きっと娼館には似合わない楽団を手配したのもそんなところ。

 燃える獣脂の臭いに酒が混じり、夢は覚めた、とエレラインに突きつけた。



 ―――頑張らなくちゃ。

「よしっ!」



 気合を入れ、薄暗い廊下を進む。軋むそれを渡り、酒場に降りる湾曲した階段へ。エレラインは顔を上げて、気取った調子で狭い段差に足を置く。なるべく品よく、優雅に見える様に意識して。

 お客は身体の空いた娘を放っては置かないと知っているから。

 道端に立つより、部屋からやっと出た人気者を気取る方が、楽に男を釣り上げられる。

 煙で飴色になった手すりに手を添わせ、どこかのお姫様の様に薄絹の裾を持ち上げる。背を確りと逸らして、身体の線がしっかり出る様に。

 数段降りると、感じる視線。暫く無視してまた数段。もったいぶって顔を向けると、数人の男と目が合った。エレラインは微笑む。



 ―――お客には愛想よく。



 階段を降り切って、手を振る男の許へ行こうとした。

 ところで、



「今回もご指名だったの?」

「あなたの事、余程お気に入りなのね」



 意地の悪い笑顔が目に入った。

 エレラインは引き攣る口元を隠す為に頭を下げ、



「ごきげんよう、お姉さま」



 軽く膝を折る。



『ごきげんよう』



 答える彼女たちは階段下の椅子に並んで座り、粘着質な視線をエレラインに向けた。そして、あからさまに顔を顰めて見せる。



「あらあら大変。そんなに目を腫らして」

「可愛い顔が台無しじゃない」

「あら、元からこんな顔じゃなかった?」

「やだ、そうだったかもっ」



 耳障りな笑い声を上げ、一人は貴族にも負けない派手な髪飾りに、大きな石のついた首飾りを光らせて。もう一人は誰から奪ったのか、自身が持つはずのない艶やかな色彩の羽を纏って。さも可笑しい、と言った様子で身を捩った。そうして痩せっぽちな女など居なかったかの様に振舞って、男たちの品定めを再開した。

 視線に気づいた酒場に集う幾人かが彼女達に手を振って寄越すが、腰回りを強調した服を纏う古参の娼婦達は、それを華麗に無視して見せる。



「……」



 彼女達位に成れば客をも選べる、と言うことか。当て付けられて、エレラインは酷く腹が立った。

 しかしここで相手をしては負けだ、と己に言い聞かせ、唇を噛む。



「ふふふ……」



 力もなく、魅力もなく、到底自分達には及ばない小さな存在を苛め抜く快感ときたら。震える端女を横目に、乾いた自尊心が潤うのを感じながら、古参の娼婦達は厭らしい笑みを浮かべる。



「一体どんなゴホウシを?」

「余程特別なことをしてるんでしょう? でないとあんたみたいなみすぼらしい子、相手にされる筈もないわ」

「あの方、あぁ見えて、妙ちきな性癖でもあるんじゃない?」

「やだっ、想像しちゃった!」

「やだ、もぉっ!」



 声を潜め、彼女達は言葉さえ交わした事もない彼らを馬鹿にする。手にした豪奢な扇で口元を覆ってはいるが、その下品な笑い声までは隠せない。

 エレラインは湧き上がる感情を抑えるため、強く、とても強く拳を握った。

 真面に客も取れず、食うにも困り、館の主人のお情けで床に眠らせて貰っている自分。悲しいことに彼女達の言う通り、みすぼらしく、なんの魅力もない。

 それでも彼らは買ってくれる。

 それでも彼らは話をして、一緒に眠ってくれる。

 そんな素敵な彼らを彼女達は馬鹿にする。



 ―――私のせいでっ!



 思うと自然に涙が溢れ、視界が歪んだ。エレラインは拳を握り必死に耐えたが、無駄だった。



「あら、中々いい男じゃない?」

「あら、私はあの方がいいわ」



 少女よりずっとずっと年を取った彼女達は、最初からエレラインなど相手にはしていない。痩せて貧相な少女が大粒の涙を流そうが、知ったことではないのだ。



「っ」



 エレラインは唇を噛む。それでも溢れ出した涙は止まらず、衣装を、床を濡らしては染みを作った。きっと我慢して、このままこの場を去る方がいい。

 しかし、エレラインは大切な物を馬鹿にされたまま引き下がれるほど、大人ではいられなかった。

 涙は流れるまま。精一杯強がって、年配の娼婦達に頭を下げる。



「お姉さま方、いつも心配して下すって、ありがとうございます。でもご奉仕なんてとんでもない。仰る様な特別な事は何もして差し上げていないんですよ。寧ろ私の方がとても良くして頂いてるくらい。あの方は紳士なんです。お姉さま方のお客とは違って」



 ふふ、微笑むと、気分を害したのか、彼女達の顔が見事に引き攣った。

 もう引き返せない。こうなれば行けるところまで行くしかない。



「私と眠るだけでいい、って仰って下さるの。それに比べて、お姉さま方は大変ですよね? お金の為にゴホウシしなくてはいけないんですもの」



 血の昇った頭では後先など考えられなかった。エレラインは泣き顔に笑顔を張り付けて、怒り、立ち上がる年配の娼婦達を見た。

 古参の彼女達は年端もいかない少女を見下ろし、



「なんですってっ! 随分生意気な口を利くじゃないのさっ!」


 顔を真っ赤にして怒鳴った。

 しかし、恫喝されようとエレラインは引き下がらない。己の大切にするモノを貶されておきながら、尻尾を巻いて逃げるなんてまっぴらごめんだった。

 たったこれだけでは気が済まない。

 もっと罵らなければ気が済まない。



「あら、まさか。日照り続きで罅割れそうなお姉さま方のお役に少しでも立てれば、と思ってるんですよ?」

「んなっ!」



 少女に比べれば十二分にとうの立った娼婦達は、真っ赤な顔を更に赤くして、牙を剥く。薄い絹の中に隠した本性を晒せば、それは猛獣。細い首から繋がる毛を逆立て、尻から伸びた太い尾を膨らませる。



「あんた、何様のつもりだいっ!」



 怒鳴り声と同時に、扇が飛んだ。



「きゃっ!」



 鋭い痛みにエレラインは尻餅をつく。

 頬が熱い。

 そこで漸く殴られたと気づいた。怒りと憎しみで、あっという間に血が逆巻き始めた。痛む頬を押さえ、獣達を精一杯睨む。

 しかし、古参達も引き下がりはしない。それどころか、まだまだ殴り足りない、とでも言う様に、幼い身体に掴み掛り、髪を、腕を引っ張り上げた。



「やめてっ!」



 悲痛な叫び声に、漸く何かを察したのか。客を誘っていたモノ達がカモから目を離し、顔を上げる。そして、またか、と溜息を零し、訝しむお客に気にするな、と耳打ちする。

 彼女達に目を付けられていい事など一つもない。それはこの舘では周知の事実だった。それは客の間でも有名で、わざわざ避けて通るモノも居る程だ。そんな状態で、次の被害者に立候補するモノは居ない。皆顔を背け、酒を呷り、気づかない振りをする。

 金を払ってまで面倒事を引き受ける稀有な輩は、こんなところで遊ばずきっと暗がりや戦場でお楽しみの最中だ。



「いやっ!」



 引っ張られた髪の毛が、嫌な音を立てて毟り取られる。男の背に勲章を残す為の鋭い爪がエレラインの肌に食い込んで、薄絹に赤い染みを落とす。

 誰もが少女はもう駄目だ、と思った。傷のついた商品の価値は著しく落ちるものだ。



「離しっ、てっ!」



 それは彼女自身も理解していた。それでも何とか復讐してやりたい。その一心で必死にもがく。

 しかし、痩せた身体に二人掛かりで圧し掛かられては手も足も出ない。ましてや、相手が雑じりならば尚の事。真正面からぶつかってはとても勝てない。

 纏った薄絹が、彼が綺麗だと褒めてくれた衣装が悲鳴を上げるのを聞きながら、抵抗すらできない己が恥ずかしくて、悔しくて、また涙が零れた。


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