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黒の雄羊  作者: みお
第2章
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第12話 辺境の村ヒウッカ(2)

 心底楽しかった。あれ程退屈でつまらなかった日々が嘘の様だった。

 ログズはまるで最高の玩具で遊ぶ仔猫の様に笑い、仲間達は祭りに参加でもしているかの様な騒ぎようだった。この広くはない酒場だけが天国。もう山にも、城にも戻りたくはない。

 光沢のある灰毛を舐めながら、ログズは喉を鳴らす。

 ここに居れば狩りも遊びも思うまま。

 食事も温かな寝床もある。

 ここに危険はない。

 居るのは脆弱なニンゲンだけなのだから。



「ここは私の物よ」



 ふふふ、とカッツェロイテはまた鼻を鳴らした。

 仲間たちの鳴らす喉の音が心を躍らせた。

 仲間たちの笑う声が心に平穏を運んだ。

 ログズも笑う。天井を見上げ、腕を伸ばし、最高のひと時だ、と微笑んだ。

 同時だった。



「うらぁあっ!」



 覇気を孕んだ雄叫びが、酒場に木霊した。



「なっ!?」



 声を上げたのは誰だっただろう。もしかすると音に成れなかったのかもしれない。それ程の轟音に建物が揺れ、長年の間に積もった埃が天井から落ちた。砕かれた木造りの重たい扉は床を削って跳ね、無遠慮に室内に乱入。男を踏みつけていた猫は反応する事もできず、村の男と共にへしゃげたそれに跳ね飛ばされた。容赦なく飛び散る木片が窓ガラスを割り、酒瓶を砕いて、蝋燭の炎に輝く。

 壁に立てられた蝋燭は流した蝋を細かにして、振動で床に落ちた。それはテーブルからずり落ちたクロスに触手を伸ばし、小さな火を大きくする。



「あ、あわぁあっ!」



 気づいた村人が慌てて、床を焦がし始めた炎を消しにかかった。その脇で、店内に居たカッツェロイテ達は呆気にとられ、あまりの衝撃に口を開けたまま硬直していた。過ぎる驚きは、得てして人を動けなくするものだ。



「お邪魔します、よっと」



 暗闇から姿を現した大柄のソレは破壊した扉を踏みつけ、不躾に店内に入ってきた。痛んだ床を踏み鳴らし、割れたガラスを鉄靴で砕いてにじる。

 暗い大口を開けた扉から風が吹き込み、雨の音がより一層近くになっていた。静まり返った室内では、それは騒音となる。



「剣をっ!」



 一瞬で右腕たる忠臣を失ったログズは反射的に叫んでいた。同時にソレから距離を取り、身構える。

 しかし、誰もその声に応じる事が出来なかった。なぜなら頭役である彼女の剣はおろか、己の武器さえ手元にはなかったのだから。

 彼女達は完全に油断していた。



「ふーん」



 動揺し狼狽えるカッツェロイテ達を気にするでもなく、招かれざる客は店内を一瞥し、鼻を鳴らしていた。

 踏み込んだそこは王都のどこにでもある平凡な平屋造りで、上に高く、横に広い。特に珍しい訳ではなかったが、柱は極端に少なく、室内はがらんどう。これが町人の住居なら細かく間仕切りがあって、部屋になっている。ただここは酒場で住居ではない。客商売をやるにはこれで丁度いいのだろう。

 そんなことをぼんやりと思いながら、侵入者は尚も室内の壁を視線でなぞる。その目をちらり、と濡らす光源は揺れる蝋燭の炎で、床に蝋の染みを広げ続けていた。今時珍しいな、と魔法に慣れ親しんだ無法者は思ったが、口には出さない。別に世間話をしに来たわけではないので、問題は何もない。

 顎を擦りながら暗い奥を見やれば、隅に立つ太い柱が天井を、無骨な張りを支えているらしい事が分かった。なんとも心許なく見えるが、互いに確り噛み合って軋む様子も見えないのだから、この仕事を請け負った大工はかなりの腕に違いない。現に、天井隅から繋がる木造りの壁は煤汚れているにも関わらず、くり貫かれただけの窓に填められた薄汚れた硝子が洒落て見えた。貧しい村に不釣り合いなそれに多少の違和感を覚えるも、彼女は気にしない。更に室内を眺め回し、目を眇める。

 その瑠璃に映ったのは乱雑に積まれた椅子とテーブル。通常なら均一に並べられている筈のそれは、今や部屋の隅。本来なら舞台があっただろう場所には椅子が積み上げられ、折角の装飾も台無しだった。そして何より興味を引いたのは、中央でひっくり返った椅子やテーブルに潰れたり、怯えたりしている猫ではなく、自身の左。窓際から押し込められる様に詰めて膝を付かされている、見慣れない服を着た数十人の男達だった。見たところ女子供は一人も居らず、報告にあった白騎士の姿もない。彼らを拘束する長い鎖に、衣服を染める赤黒い染み。それが示すのは。



「へぇ。随分とお楽しみだったみたいじゃないか」



 立派な角を持つ、雄羊を模した兜を被ったソレはにやり、と笑って、漸く固まったままの害獣達を見た。値踏みする様な視線に、猫達の戸惑いは深い。羊は構わず、彼女達と対面する様な形で身を退いていた灰猫を睥睨し、



「いいご身分だな、お猫ちゃん」



 また笑みを深くした。

 身形、振る舞いから灰毛のカッツェロイテが頭目であるのは直ぐに分かった。そして、彼女が自身の獲物に相応しい事も。



「あははっ!」



 黒い羊は堪らず声を上げ、身を反らし、天井を見上げて口元を歪めた。

 まるで影の様な黒の鎧から覗く、美しく割れた腹筋が艶やかに上下する。それは騎士と言うには余りにも軽装で、肌を露わにしたその姿は傍から見れば踊り子の様にも見えた。

 しかし、



―――捕虜ばかりだと侮った!



 ログズはソレから目を逸らすこともできずに、歯噛みしていた。

 目の前に立ち塞がるソレが身体に纏う筋肉はしなやかで伸びがあり、厚く力強い。それは農耕で付くものとは違う、戦う為の武器であり、防具。この場に集めたニンゲンの雄達とは全く違う。一目で武人だと分かる体躯だった。



「くそっ!」



 相手はたかだか一匹。しかも鎧とも呼べない防具から覗く肌は見知ったニンゲンの皮膚。勿論、敗北の文字すら浮かばなかった。

 ただ、平静でいられないのはニオイのせい。ソレからは鉄とニンゲン。そして潮と鳥が混じった獣のニオイがしていた。雨に打たれていたらしく、かなり薄いが間違えようがない。食われる側である筈の羊面を被ってはいるが、ソレの中身は確かに獰猛な獣だった。



「ふざけた真似をっ!」



 口では悪態を吐きながらも、ログズは心底悔やんで、毛を逆立てた。

 手元に武器はないのだ。



「なぁ、私とも遊んでくれよ。暇してたんだ」



 動揺を隠せない猫を他所に、真っ黒な羊は大振りの斧を肩に担ぎ、胸を張った。そうして明らかに不釣り合いな、己の背丈ほどもある重い得物を、ニンゲンを越えた力で振り上げた。

 ソレが一歩踏み出すと、床板が大きく軋む。そしてできる水溜り。



「退けっ!」



 殺気に耳の毛を逆立てて、ログズは叫んでいた。

 濡れた雄羊は雫を撒き散らしながら、手前で転がったテーブル目掛け、飛ぶ。怯んだ猫は一歩も動けない。



「おらぁっ!」



 振り下ろされる斧。

 重い衝撃に酒場が揺れる。数匹のカッツェロイテは耳を押さえ、思わずその場に座り込んだ。

 飛ぶ血飛沫。



「キャアアアッ!」



 生暖かいそれに顔を濡らし、灰と白の混じった猫が悲鳴を上げた。

 そして残るのは雨の音。

 雄羊は割った床から斧を引き抜いた。木板の引き裂ける音と、濡れた何かを引き摺る音が耳に障る。



「あ……ぅう……」



 潰れた仲間の傍らで、毛皮を汚したカッツェロイテは動けずにいた。口を開閉させ、ニンゲン達がそうであった様に震え続ける。

 羊はそれを目端に捉え、無造作に斧を振った。それは軽い音を立てて、いともあっさりと猫の首を刎ね飛ばした。毬玉の様に跳ねて転がる灰と白の首。遅れて声も上げずに彼女の身体が倒れた。それを無造作に蹴飛ばして、背を向け、床を這う猫に飛び掛かる。その背に羊が膝から着地すると、カッツェロイテが潰れた声を上げた。



「あははっ!」



 動かなくなったそれの上で立ち上がり、羊が豪快に笑った。痙攣する短い尾を見て更に踏みつければ、黒白の猫は呻いて血を吐いた。羊は少し顎を上げ、斧を手放す。



「ウゲッ」



 重いそれは床板にめり込んで、容易く猫の頭を潰した。



「あっけねぇなっ!」



 カッツェロイテ達は上下するソレの腹を見ながら、久方ぶりに味わう恐怖に凍り付いていた。

 黒い羊は一頻り笑うと、集められた男達の手前。未だ無事に役目を果たしていたテーブルへと、捻じれた角を突き上げながら飛び乗った。空の酒瓶や分厚い肉の乗った皿を蹴散らして、獲物を狙う猛獣の様に唇を舐める。狂気を片手に身を屈めれば、そこまで茫然と立ち尽くしていたカッツェロイテ達が慌てふためき、身を翻した。



「まっ、待ちなよっ! みんなっ!」



 悲痛な叫びを上げたのはログズ。

 しかし、心の折れたモノ達は止まらない。



「あははっ! なんだよ。猫ってのは随分仲間思いだなっ!」



 そう笑って、黒い羊は牙のない歯を剥く。



「どけっ!」

「きゃっ!」

「うあああっ!」



 惑うのは猫。

 彼女達はそれまでの優位は夢だった、と尻尾を巻き、仲間であろうが捕虜であろうがお構いなしに、我先に、と出口を目指した。

 羊は混乱するそれらにしばし目を奪われ、標的を決めかねたが、先ずは手前。一番近場で見苦しくへたり込み、村の男達の間に身を隠した真っ白な猫へ向けて飛び上がった。得物を振り上げた反動で、しなやかな身体が反り返る。羊は斧が踵に当たる寸前で歯を食いしばり、今度は身体を丸める要領で力の限りに振り下ろした。バネにも似た弾性のある筋肉から繰り出されたそれは、白猫の背に触れると同時に肉を断ち、骨を砕いて、難なく潰した。



「うあっ!」



 崩れた白猫に鎖を取られた村人は反動に腕を引かれ、巨大な斧に顔面から突っ込んだ。そこで意識を失えたモノは運が良かった方で、残念ながら見放されたモノは、床にぶちまけられた獣人の内臓に突っ伏し、大量の鼻血を噴きながら悶える羽目になった。

 惨劇に巻き込まれず、ほんの少し遠い場所に居た男達も堪らない。いつ自分が巻き込まれるかも分からない状況に、あるモノは泣き叫び、あるモノはあっさりと意識を手放した。

 風を切り、轟音を立てて床ごと猫を切り潰した斧。黒の羊は悲鳴を上げる男達に構うことなく、それを無造作に引き抜くと、飛び散った血液に顔を濡らし、更に一歩大きく踏み込む。



「いやっ!」



 殺気に、美しい斑紋が目を引く猫は反射的に振り返り、腕を突き出した。

 羊は構わない。

 得物を両手に持ち替え、その場で重心を下げると、



「うっ、らぁっ!」



 叫んで振り抜く。

 それは艶やかな猫の腹を裂き、血と臓物の雨を降らせた。耳を劈く悲鳴は、最早誰の物かも分からない。重いテーブルを勢いのついた斧で叩き壊すと、反動で上半身が天井を仰いだが、



「……」



 猫が襲ってくることはなかった。

 黒い羊は男達の前で少し腰を落とした黒とサバトラを目端に捉えながら、鼻を鳴らす。惑う猫の中にあって、彼女達は異質。



―――あからさまな誘いにはノらないか。



 羊は僅かばかり目を眇め、残った身体をくるり、と反転。再び得物を握り直すと床を蹴り、重力など存在しない、とでも言う様に、軽やかに舞い上がった。

 


「ぃよっ、と!」



 楽しみは取って置こう。

 羊は口端を緩め、振られる斧に逆らわず、身を任せて並んだ椅子を飛び越えた。乱入時に破壊した扉が跳ね飛ばしたらしい、テーブルの下敷きになった猫に狙いを定める。

 飛び三毛のカッツェロイテは動かすことも躊躇われる下肢の傷に悶絶していたが、覆いかぶさる影に危機を察し、混乱の中から何とか理性を取り戻す。



「ひっ!」



 捻る様に上げた顔目掛け振り下ろされる狂気。

 慌てて身を縮めると、巨大な鉄斧が眼前を過ぎた。それは先程まで首のあった床を抉り、木片を跳ね飛ばし、



「ひぃいっ!」



 サラーハは下半身の方から、じわり、と温かくなる感触を味わう羽目になった。



「おっと、残念」



 言いながらも、大柄の羊の目は最早震飛び三毛を映してはおらず、次なる標的、カウンターに縋りつき震える、全身茶色の猫へと向けられていた。



「にしてもここ、向いてねぇな」



 大柄の羊は茶色の猫を視界に捉えたまま、室内で扱うには些か不便な得物を見た。そうして一時思案した風を見せた後、道端の小石でも投げる様に、それを放った。

 投げられた巨斧がその重たい刃を床に突き立てると、



「うひゃっ!」



 声を持たない筈の武器が悲鳴を上げた。次いで鳴るのは耳障りな金属音。

 大柄の羊は聞き覚えのある声に、思わず笑う。



「お前も参戦か? グーシー」



 大方驚いて尻餅でもついたのだろう。見なくとも分かる。

 間抜けな臣子の姿が過り、羊はもう一度、今度は高く声を上げて笑った。



「こっ、殺す気ですかっ!?」



 振り返りもせず、滑らかに括れた腰に手を当て、肩を揺らし続ける上官。その大きな背に息を詰め、気配を消しながら酒場へと侵入を試みた彼女の臣子は抗議の声を上げた。

 彼の股を割るのは巨大な斧。あと数センチずれていたら。想像するだけで恐ろしい。

 足元を穿たれた羊は尻もちをついたまま、ずりずり、と後退する。



「絶対わざとだっ!」



 キーキー、と甲高い声で喚き散らす彼は大柄な羊と同じ。黒い鎧に赤の飾り毛を揺らす、立派な騎士だった。ただ少し違うのはその背丈。



「いっつも、いっつもっ! そんなことしてたら誰も残りませんよっ!」



 グロシェクは上官の膝丈程の小さな身体を素早く起こすと、恐ろしく巨大な凶器に怯える風を見せながら、大柄な羊の許へと駆け寄った。彼の上官はその足音を聞きながら、身を振るう。被った埃が炎にきらきら、と輝き、再び舞い飛んで、今度は小さな羊を煤けた白にした。

 勿論これも、ただの嫌がらせ。



「げほっ! ちょ、けほっ! ちゅ、中尉っ! 遊んでないでっ! ほら、逃げますよ!」



 小さな身体で飛び跳ねながら、非難めいた声を出すグロシェク。その姿はさながらでっぷりと脂の乗ったネズミか。それとも木の上に陣取る子ザルか。どちらにしても耳障りで、大柄な羊は実に不機嫌そうに顔を顰め、



「わぁーってるよ。お前はホントうるせぇなぁ、グーシー」



 小さな臣子が指差す方向を見やった。

 そこにあったのは、先程までカウンターに縋りついていた猫の後姿だった。彼女は羊の隙を突き、横に長いそこを飛び越え、酒場の主の代わりに給仕をさせられていたらしい男達を跳ね飛ばし、明かりもない裏口へと向け走る。



「チッ」



 大柄な羊は面白くもなさそうに舌を打つと、



「貸せ」



 臣子の背にくっついた小さな手斧を奪い取った。それを器用に弾き、持ち替えると、



「うら、よっ」



 別段気負う事もなく、軽く放った。狙うは遁走するお猫様。鉄火場に顔を突っ込んだのなら、打たれるまでことを構えなくては。どんな場所でも無作法は頂けない。

 大柄の羊が鼻を鳴らすと、それは暗闇へと吸い込まれ、



「ギャッ!」



 悲鳴を返した。



「うしっ! これで文句ないだろ?」



 にかり、と笑い、羊が子羊の顔を覗き込めば、



「ちょっとっ! 無駄口叩いてないで動いてくださいっ! 中佐に殺されるっ!」



 隙を逃すものか、と再び走り出した他の猫を忙しなく目で追い、臣子は望まぬ答えを吐き出した。

 彼の気配を感じた瞬間から理解はしていたが、やはり気分は良くない。大柄な羊はまた舌を打って、腕を組んだ。

 黒騎士師団第六中隊の役目は、猫を一匹も酒場から逃がさない事。それは隊長であるミリが、うちでやらせろ、と駄々をこねた結果、漸く手にした権利である。

 遂行に当たっては、各隊に一任される。だから彼女は部隊を外に待機させ、一人で乗り込んだ。やるなら一人の方が動きやすい。何より楽しみは一人占めすべきだ。

 戦闘狂でもない、金の亡者の集まりである彼女の隊で、文句など出る筈もなかった。上官を良く知る彼女の部隊は決して近づかない。主の邪魔をして反感を買う事も、凶暴な猫を相手にする事も面倒で、何より危険なのだから。寧ろ騎士でありながら戦闘を免除されることは褒美に他ならなかった。

 にも拘らず、口煩い臣子はここに居る。人一倍臆病で、危険には背を向けて逃げる男が、だ。



「連帯責任なんですよっ!」



 念押す様な物言いに、弁柄を眇めた男の影が過った。

 やり方は自由。

 一度許可を出してしまえば長は口を挟まない。ただし権利には義務が付き物。今回の件で言えば、交わした約束は何があっても守る、と言ったところか。まるで子供の躾の様だが、それが黒騎士の掟で、暗黙の了解であった。勿論互いに立派な大人で、立派な騎士であるのだから、当然、罰は子供の様に甘くはない。



「……」



 ミリは兜の下で微妙な表情を浮かべる。



「ぼーっ、としてないで、早く!」



 グロシェクは叫んだ。

 ミリはその声を流しながら、ぼんやりと自身に降りかかる損害と、今、目の前にある楽しみを天秤にかけていた。そうしてゆったりと思考を巡らし、



「アイツが怖くて戦ができるか」



 再び腰に手を当て、肩を揺らして笑った。



「中尉ぃいっ!」



 子羊の悲痛な叫びは上官には届かない。彼女の笑い声に一蹴されて終わり。いつもの事。



「もぉっ!」



 仕方がなく、グロシェクは己の何倍も身体の大きな猫目掛けて走り出した。自分が戦闘向きでないことは十二分に理解している。

 しかし、第六中隊の副官を務める以上、泣き言ばかり言っていられない。主の上には更に恐ろしい雄羊が居るのだ。このまま逃げ帰り彼に殺されるのか。今ここで踏ん張り、実績を残すのか。



「うぅうっ!」



 グロシェクは怖気づく身体を奮い立たせ、手にした小ぶりの斧を振り上げる。目標は踵を返し、舞台側の窓枠に手を掛けた、牛の様な斑紋の獣人。



「えいやっ!」

「ギッ!」



 ミリの獲物に比べれば玩具の様なそれは、大きな斑柄の猫の足を浅く薙いで、椅子を抉った。



「下手くそ」



 黒い羊は朗らかに笑う。



「フゥーッ!!」



 斑猫は己を傷つけた子羊を睨みつけるが、後ろに控える大柄の羊の影を目にすると、苦々しく歯噛みして鼻面に皺を寄せるに留まった。そして一瞬の迷いを見せた後、ガラス窓を破って外へと身を躍らせる。



「あっ! くそっ!」



 グロシェクはしなやかに、艶やかに消え行った猫の背に地団太を踏んだ。

 これでおしまいだ。どう上手くやっても、怒れる雄羊の凍えるお説教から逃れる術はない。



「中尉っ! 逃がすと中佐が怒るんですよっ!」



 最早ただの八つ当たりであったが、上官は笑うばかりだった。


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