第11話 辺境の村ヒウッカ(1)
「これっぽっちかい? もっと頂戴な」
ログズは汚れた床に跪いた男を見下ろしていた。
その目に宿るのは侮蔑の色。彼女は厭らしく口角を持ち上げ、彼の前へ杯を差し出す。その美しい毛皮に覆われた口元は歪んだが、彼女の美しさは変わらない。
村の男は獣を思わせる黄緑の目に見据えられたまま、怯えた様子で酒瓶を手にする。手足に掛けられた鎖がじゃらり、と鳴いて、彼は再度、己の置かれた状況を哀傷する羽目になった。
「ほら」
突き出されたグラスに瓶の口が触れて、高い音が響いた。
ログズは少し顔を顰めたが、対する男は気遣う余裕すらない。震えの止まらない身体を何とか動かし、手汗に濡れた瓶を両手で支えて、慎重に傾ける。空気に踊る液体は小気味いい音を奏でるが、小刻みに震え、擦れ合う口は不協和音を生んで、彼の主は気分を害す。
「さっさとおしよ」
だから彼女はわざと煽った。
急かせば男がへまをすると分かっていた。それはこの場に集った彼女の仲間達も理解している。そしてこの哀れで醜いニンゲンが失態を犯した時、どうなるのかも。
クスクス……
雨音が心地よい空間で、密やかに流れるせせら笑い。彼女達は互いに目配せし、肩を揺らす。
楽しみの中心にあるのはログズ。皆が期待に満ちた目を向ける。彼女自身意識してはいなかったが、その大きな耳が抑えきれない興奮にひくつき、自慢の尾はゆったりと宙を泳いでいた。そして止められない喉が、心地よい低音を鳴らし続ける。
それは獲物を狩る興奮に酷く似ていた。
彼女は軟弱なニンゲンに気取られない様に腰を浮かせ、距離を詰める。そうして、
「早くしな!」
わざと、男の耳元に頬を寄せ大きな声で怒鳴って見せた。
「ひっ!」
ログズの目論み通り、彼はよく焼けた顔を歪めて、酒瓶を床に落とした。決して頑丈とは言えないそれはあっさりと砕け、滲みだした琥珀色の液体は床を濡らし、芳醇な香りを酒場一杯に開かせる。本来なら口にすらできない貴重な酒も、彼女達にかかれば遊び道具の一つと成り果てる。
「あはははっ!」
上がった声が木霊して、隅に追いやられる様に押し込められた男達は皆、肩を竦め、哀れにも酒場の中央で視線を集める羽目になった男は、取り返しのつかないことをやらかしてしまった、と顔を青くした。
「あーあー、あーあー」
ログズの取り巻きの一人、モタガトレスは男の背後から大きな声を出して、怯える彼の肩口を思いっきり掴んだ。その長い爪が容赦なく彼の肩口に食い込んで、虚弱なニンゲンの皮膚は呆気なく破れる。猛禽の脚にも似た彼女のそれが骨まで軋ませると、
「ああっ!」
きつく口を結んでいた彼も、堪らず悲鳴を上げた。
自身を押さえ付ける太くはないそれを叩いて、しなやかな指先を引っ掻くが痛みは増し、溢れた血雫が床を汚す。
「はっ、離しっ、ぅあっ!」
殺される。
村人はもがき、強靭な彼女の凶器からどうにか逃げようと、必死で手足を突っ張った。その為自ら床に背中を付き押さえ付けられる羽目になるが、最早そこに正常な判断などない。猛獣に組み敷かれた兎の様にただ泣いて、暴れ、悲鳴を上げるだけ。
「たっ、助けっ!」
誰にも届かない男の悲鳴に、獣人達は楽しそうに笑った。
その中にあって、背に捕虜を抱える形で腰を下ろしていたフィドゥーチャは少し顔を顰める。仲間の微かな感情の揺らぎに気づいたログズが身を起こすと、案の定、
「もう、それぐらいにしときなよ」
気分を害していたキジトラの彼女は、黄色を逸らしながら口を開いた。
ログズは口角を緩め、モタガトレスは眉根を寄せる。
「冷める事言ってんなよ」
「別にそんなつもりじゃ……ないけど」
白黒が凄むと、キジトラは耳を下げる。
「ちょっと、止めたげなよ、モトレー。フィッチってばソイツにご執心なんだから」
「うっそ。ニンゲン相手に本気になってるの?」
「趣味悪……」
「それはないわぁ、フィッチ」
次々に上がる声に、フィドゥーチャは居心地が悪そうに、長い尾を股に挟んで下を向いた。
少女の様な彼女に年長のログズは笑って、
「モトレー」
毛を逆立てたカッツェロイテの名を呼べば、彼女付きの獣人はあっさりと彼を解放した。貧弱なニンゲンに対する怒りも、甘ったれた仲間へ対する侮蔑も、主人の命に背く程重要な物ではなかったのだから当然だ。
「ひぃい!」
その隙に、男は窓辺へ這う。
「あはははっ!」
「見ろよ! 情けない!」
テーブルを囲んだモノ達は大声で笑う。
「ニンゲンの雄の股座には、短い尾さえついてないのさ!」
これ程滑稽なことがあの屋敷にあっただろうか。
尻を酒で濡らした男の後姿を指差し、彼女達は手を叩く。
「情けない! 情けないや!」
耳中を引っ掻く侮蔑的な言辞さえ心地よく、集ったカッツェロイテ達は悲鳴にも似た笑い声を酒で胃の中へと流し込んだ。そうしてまたニンゲンを罵り、玩具の様にいたぶってやろう、と目を輝かせた。
「ふふっ」
ここはとても愉快で、胸がすく。
ログズは満足そうに目を細め、喉を鳴らした。雨音と怯える男達の嗚咽だけが支配するこの空間は、どこか世界から隔絶された様にも感じられ、酷く居心地が良かった。それはまるで彼女達だけの為に誂えられたおもちゃ箱。決して奪われず、飽きて壊しても誰も文句さえ言わないのだ。
「ふふふっ」
彼らの頭領がニンゲンの城を落としてから、もう随分と経っていた。どういう訳か、ニンゲン達は取り返しにも来ない。興味が薄いのか、そもそも無いのか。当初こそ、軍を引っ張って来た大将との対決を思い描き、夢見る子供の様に期待に胸を躍らせていたが、数か月もの時が経った今。その望みも薄い。ドーリスのモノ達も、ニンゲンの城を占領しようが関心を示さなかったし、そこは実質、山から下りてきた彼らの物であった。
気を良くした盗賊の頭領は、城に名を付けた。猫尾山の屋敷より立派な家を手にできたのだ。喜ぶのも無理はない。
そこには温かい食事に、ふかふかのベッドがあった。頭領達はそれをいたく気に入って、微睡んでばかり。それが彼らカッツェロイテの本質だ、と言えば間違いはないが、彼女達はとても退屈だった。
ニンゲンの城を落とす。そう言った頭領に付いてきたことを、酷く後悔したものだ。もっとニンゲンを狩れるものだ、とばかり思っていたのだから。これなら山に篭って、ウサギ狩りをしていた頃の方が何倍もましだった様に思えた。
そこでログズは城に飽いた雌ばかりを引き連れて、ヒウッカヘ入った。
城に詰め込まれていた、形ばかりの白い甲冑を纏ったニンゲン達とは違う。日に焼けた、逞しいニンゲンの雄の姿を覚えていたから。村を攻め落とした日に見かけたそれらに、とても興味をそそられていた。
ログズは村に着くなり、捕虜にされていたニンゲン達の選別作業に取り掛かった。怯える彼らの中から見目のいい雄ばかりを見繕って、ニンゲンの雌に身体を清めさせた。それが済むと古巣から持って来ていた服を着せ、飯を与えた。彼らはろくに食べていなかったせいか、飯を差し出したログズにとても懐いた。気を良くした彼女は、彼らに身の回りの世話をさせる様になった。彼らはカッツェロイテの雄にはない気遣いを見せ、献身的に振舞った。それはとても素晴らしく、思わず喉が鳴る程であったのだから、野生を生き抜いてきた彼女達が依存し始めたとして、誰が咎めることが出来るだろう。
彼らは程なくして、肉体的奉仕を迫られた。
日が昇り、夜が来て、また朝日が昇っても、彼女達は部屋に篭ってニンゲン達と過ごした。それはとろける様に甘美な時間だった。それに違いはない。
しかし彼女達は直ぐに飽いた。
元より堪え症でない彼女達は鎖に繋いだ彼らを引き連れて、ニンゲンの雌の元へ向かった。狭く、暗い納屋に閉じ込められた雌達はとても怯えていた。彼女達にはそれが堪らなかった。
哀れな雄の前で、雌の手足を捥いで見せた。悲鳴を上げ、暴れるモノも居れば、止めてくれ、と懇願し、自分を殺せ、と足に縋ったモノも居た。
ログズはとても満足していた。暇程彼女を苦しめるものはないのだから。
酒場に集められた美しい男達を見ながら、再び彼女は笑った。それを見て、取り巻きのカッツェロイテは満足そうに喉を鳴らす。
「ふふっ」
ログズは簡素な椅子に腰かけたまま足を組み直すと、人差し指を立て、招く様な仕草を見せた。
フィドゥーチャと同じく、一纏めにされた捕虜を背にしていたアゴールは耳を立て、美しい灰猫の意思に従い、椅子に腰を下ろしたまま振り返った。その目に映すのは、三匹一括りで鎖に繋がれた村の男達。彼らは皆一様に恐怖を顔に張り付け、壁に縋りつき、怯えた目でカッツェロイテを見上げていた。その中にあって、ただ一人。
「……」
未だに折れず、矜持を護り続けるモノが居た。
アゴールは一頻り怯える雄たちを眺め回した後、一番自身に近く、やはり集団の一番手前に位置するその場所で、挑む様な視線を送る男に目をやった。
彼は白猫の青目の中に自身を確認しながら、それでも頑として目を逸らしはしなかった。その雄々しいニンゲンの姿に、ログズは笑う。
「……」
アゴールは些か気分を害した様に眉根を寄せたが、ちらり、と主に視線を送ると、ログズが顎先を少し上げるので、仕方がない、と彼らを繋ぐ鎖に手を掛けた。
「うっ」
それまで無理やり押え付けられ、床に腰を下ろす様に強要されていた男達は、急激に加えられた力に首を引かれ、呻いた。怪力に抵抗する術はなく、そのまま引き摺り立たせられる。
床を削り、身体に跳ね、耳障りな音を立てる鎖の音。
アゴールは三匹の中央で、なおも目を眇める男の首輪に手を掛け、その顔を覗き込みながら耳を大きく後ろへと下げた。このまま牙を剥き噛り付けば、ニンゲンの顔面など容易く削り取れるのに。それが分からない程の馬鹿でもあるまいに。
両脇の男達は怒れる青に悲鳴を上げるが、当の本人は掴み掛からんばかりに歯を食いしばり、顔を歪めた。
「……」
ここまで来ると、その度胸に呆れてしまう。
アゴールが興味も失せた、と突き放すと、捕虜の脇に立ち、やり取りを見守っていたターゲルが後を引き継いだ。彼女は器用に三匹を繋ぐ鎖から中央のニンゲンだけを取り出し、邪魔だ、とその背を押す。踏鞴を踏み戸惑う彼に手を振れば、仲間たちが彼を囃し立て、追い立て、酒場の中央へと追いやる。ターゲルはそんなものに興味はない、と残った男達の鎖を繋ぎ直し再び座らせると、窓枠に背を預けて向かいに立つレスペトを見やった。
「……」
彼女も馬鹿げたお遊びには興味が薄いらしく、酒場の半分まで伸びたカウンターに背を預け、腕を組んで欠伸を零していた。友の金に気づくと少しだけ肩を竦めて、盛り上がる中央へと目を向ける。
そこは幼稚な獣達が命を弄ぶ遊技場。力のないモノ達からすれば地獄であったかもしれない。
「うあっ!」
選ばれた村の男は背を蹴られ、盛大に床へと突っ伏した。背後では複数の猫目が歪み、
「ふふふ」
震え、上げた眼前では、美しさすら恐怖にすり替えた灰猫が、歪に口元を引き上げていた。
「う……」
彼は自由を奪う鎖を引き摺りながら、何とか身を起こした。矜持は立ち向かえ、と叫ぶが、本能は逃げろ、と喚き、彼は無意識のうちに視線を周囲に投げていた。映るのは転がった椅子に、割れた瓶。そして自身を囲む様に立ち並ぶ、長くしなやかな獣の足。そこに身を隠す場所などない。
ログズは足元まで引き摺り出されたニンゲンを見下ろし、簡素な椅子から腰を上げると、明らかな動揺を見せる彼に歩み寄った。
「ねぇ……」
カッツェロイテは長い足を折って、男の顔を覗き込む。
彼はニンゲンには珍しい、黒い目を持っていた。短く揃えられた栗毛も美しく、無駄な肉のない締まった身体に、薄っすらと浮かぶ血管が更に彼を引き立てる。
例えるなら草原を跳ねる馬か。
何より彼女を惹き付けるのはその強さだった。どんな仕打ちを受けようと決して折れず、こんな状況でも傷ついた仲間を背に庇い、無い牙を剥いて見せるのだ。
ログズは笑う。
「ねぇ、ってば」
すらり、と細い指先が彼の顎を掬った。触れればビクリ、と身体を震わせるくせに、その黒目に宿る光は強い。
ニンゲンとは本当に面白い。
彼女は長く太い尾をピン、と跳ね上げると、彼の首筋に舌を這わせる。触れた指先から男の震えが伝わり、背筋が粟立つ。興奮に毛を逆立て、無意識に鳴る喉に目を眇める。
「勿体ないじゃないか。さぁ、酒を全てお舐め。ついでに床も綺麗におしよ」
甘える様な、それでいて明確な命を乗せた声が、男の首筋に鳥肌を立てた。辛うじて動かせる眼球だけを彼女に向けるが、その視界に表情は写らない。見えるのは光沢のある灰毛の覆われた、女性らしい曲線美。太く長い尾は誘う様にゆったりと立ち、踊る。それはあの夜の様に。
「……」
男は脳裏を過った淫猥な姿に、無意識に喉を鳴らしていた。
ログズはまた笑う。
「さぁ、ほら」
彼女達カッツェロイテには、ニンゲンにはない妖艶さがあった。そして言い知れぬ凄味も。
「ぅ……」
彼女の言葉に、受ける男は顔を青くした。
獣などに屈するものか。
思うが力ではとても敵わない事も分かっている。
「ほら、早くしないと、あの仔がどうなるか分からないだろう?」
カッツェロイテの黄緑の目が、先程痛めつけられた仲間を映していた。その瞳孔の奥に獰猛な狂気を見る。
「っ」
反論などできなかった。
やらなければ殺される。それは仲間か、自身か。そんなものは結局獣の気まぐれでしかない。できなくても嬲られて、やはり死を迎えるのだ。
「……」
葛藤に、男の顔が歪む。その怯えや怒りの表情が、ログズの加虐心を更に擽っては、快楽を運ぶのだが、彼は知る由もない。
「……」
彼女は歪む口元を隠そうと手を顎先に添えたが、鳴る喉だけは隠せなかった。
低く、鼓膜を震わせる獣の声と、揺れる影を受ける男は、
「ぅ、うう……」
自身の、一人のニンゲンとしての矜持に爪を立て、酒に揺れた床まで這った。
そうする他なかった。
力のない自分では、抗ったところで仲間は救えないのだ。
汚れた床に両手を付き、散ったガラスに自身を映して、零れた酒に舌を伸ばす。
鳴る鎖。
泣く仲間。
匂い立つのはアルコールの香り。
「……」
動悸は激しく、流れた汗が鼻筋を伝って酒に落ちた。
男は眉根を寄せ、目を瞑り、頭を下げる。
「……っ」
灰色のカッツェロイテの脇辺りに控えた仲間達が顔を背ける気配がした。
途端に下がる血。同時に理性が悲鳴を上げる。
「っ!」
彼は弾かれる様に床から顔を上げ、
「で、できない!」
叫んでいた。
それは心の悲鳴。それは自身を殺すな、と叫ぶ本能だった。
「……」
誰も口を開かない。
聞こえるのは雨の音。そして、微かに震え、鳴る鎖の音。それが自身の発するものだ、と気づいた時、男は己の犯した過ちに顔を真っ青に染め、冷や汗を流した。
「めんどくせぇな」
沈黙を破ったのは白と黒の毛皮を持ったカッツェロイテだった。
カウンターに身体を預け、黙ってやり取りを見ていた彼女は徐に立ち上がり、床に手をつく村人へ無遠慮に近づいた。距離が詰まるにつれ、流石の男も歯を打ち鳴らした。落ちる汗は止まらず、震えは身体を硬直させる。息さえできず喘げば、美しい獣人の目が光った。
「や、やめっ」
突き出した腕は呆気なく払われた。そしてモタガトレスの長い脚が彼の顔面を蹴り上げる。
鈍い音。
彼女からすれば道端の石ころでも蹴飛ばした感覚だったに違いない。それでもその反動で、彼の半身は易々と浮き上がり、後ろに大きく跳ね飛ばされた。乱雑に積まれたテーブルがけたたましい音を立てて崩れ、一塊になったニンゲン達は互いに抱き合って悲鳴を上げた。
蹴飛ばされた村人は力なく床に崩れる。
モタガトレスはさも面倒そうにログズの脇を過ぎ、裏口に近いそこで崩れたテーブルを掻き分け、転がった男を引っ張り上げると、
「ぅ……ぐぅ……」
先程まで彼が跪いていた場所まで引き摺って行って、その場で手を離した。
「ぅっ」
高い位置で支えを失った男は息を詰め、濡れた床に落ちた。
呻き、弱弱しくもがく男の頭を、カッツェロイテが踏みつける。
「やれ」
彼女は他の誰より長く、柔らかな毛皮を蝋燭の炎に輝かせながら、恐ろしく低い声で唸る。
「早く」
割れた瓶の上で踏まれた男は、その顔を血に染めた。
強さを増した雨が窓ガラスを叩き、彼の悲鳴を掻き消す。上がる笑い声だけが酒場を彩り、震えるニンゲン達の詰めた息は体温を失う。
「ふふふ……」
ログズは満足そうに目を細めた。そして手にした杯を再び控えた男達へ付き返すと、ヒキガエルの様に潰れた男に向き直る。
「あぁ、あぁ。折角の美形が台無しじゃないか」




