第10話 森の中で(2)
「至った経緯を話せ」
静かに言って、エリゼオは眉根を寄せた。
羊面に隠れて微かな心理変化を読むことはできなかったが、トゥーレッカは黒騎士の長がこの隊一、懐疑的な事を知っている。彼女は仕方がない、と溜息をついて腕を組む。
「なに、簡単な見立てじゃよ。奴等、軍人にしては、と言うかそもそもそれすら怪しいが、見た限り装備らしい装備もなく、立てた見張りも酒に酔って意味すら成しておらんかった。あれが猫共の兵士と言うなら、今すぐにでも本国は攻め落とせるじゃろう」
トゥーレッカは現場で確認した猫の姿でも思い出したのか、鼻で笑って肩を竦める。
「しかし、まぁ、他国に攻め落とされたとも聞かんし、そうなるとやはりあんな隙だらけの奴らが兵士であるとはとても思えん。となると、要塞であるドーリスから侵攻してきた猫、とは考えにくい」
「それで森か」
「そうじゃ。身なりからも裕福さは感じられんかったし、ハグレモノだと思うがの。それが都落ちか、軍人崩れかは知らんが、なんにしても現役の戦人には見えんかった」
信頼のおける斥候の言葉に、エリゼオは暫く思案して、内に上官を見る。
「ドーリスからでないとしたら……猫尾山に陣取る山賊の類でしょうか?」
「んー、そうなぁ……。でもさぁ、賊なら逆に、表になんか見張りは立てないと思うんだよなぁ。占領してますよ、なんて叫んでるようなもんだろ? やり方としては騎士臭いよな」
「そうですね。調べてみなければ分かりませんが、国境沿いの城を放置して村に入ったとは考えにくい。そうなると城に本隊が詰めている可能性も考えられます」
「あぁ……、ヒウッカは別動隊、って?」
「ええ」
「んー、こればっかりは分かんないな。でもトゥ―リーの見立ても強ち外れてない気がするんだよなぁ」
ベルンハルトはしきりに首を捻りながら唸り、腕を組み直しては暗闇を睨む。
「幾らうちへの侵攻を休止していたとはいえ、ヤツ等の本質は変わんないだろ? あの戦闘狂い共、どうせ今頃他国を侵略してる。ってことは軍の質は落ちてない筈だ」
「確かに。加えさせて頂くなら、贔屓目かも知れませんが、トゥーレッカが軍人と文民を見間違えるとは思えません」
「やっぱそうだよなぁ。んー、そうなると……。お前の言う通りやっぱ賊さんかなぁ? 雪が降る前に山から下りて来た、とか?」
「推察の域を出ませんが、もしかすると我らの様な異分子なのでは?」
「えぇー。そうなるとかなり厄介だなぁ。本体の意思と別のところにあるなら、火種に息を吹き込むつもりかもじゃん」
「望みは兵乱ですか?」
「そうそう、新しい職探しかもよ?」
「働き口がないなら作れ、と?」
「合理的だろ?」
「ですね」
話すうち思考を放棄してじゃれ始めた上官に、エリゼオはこれ以上の議論は無駄だな、と見切りをつけ、些かぞんざいに返した。
受けるベルンハルトも別段気を悪くした様子もなく、肩を竦めて、口角を上げる。
「ふふ……」
気安い上官に喉を鳴らせば、未だに黙ったまま雨に打たれ続ける小さな斥候と目が合い、これがまた苦笑いを誘う。エリゼオは無言で急かす金鹿色の目に視線を流すことで応え、先を続けた。
「とにかく力はある、と考えましょう。一隊を先に出して挟みますか? 捕獲の後、口を割らせる」
物言いも易いが、策も実に短簡だった。それでも、手も気も抜いてはいない。
ヒウッカから国境沿いの城まで遠くはないが、近くもない事。幾ら騒いでも直ぐに援軍が来るとは思えない事。そしてこの雨。退路を断ち、一網打尽にすれば奴等が別動隊だったとしても、本隊に気づかれる間もなく決着をつけられるだろう事。何より、悩むより捕縛した方が正体も直ぐに暴ける、と考えての事だった。
その方が早い、上官の迷いを汲み取ったエリゼオが僅かに顎先を上げると、
「わしも同意見じゃ。さっさと解放してやろう」
トゥーレッカが漸く結論が出たか、と溜息を吐いた。
彼女に至っては対する獣が軍人ではない、と確信しているのだから、気難しい副官の案でさえ慎重過ぎる、と感じる程であった。
しかし、群れを憂う長は微妙な顔を作る。
「んー」
鼻から抜ける様な気の抜けた声だった。
しかし、それが何より長の心中を物語ることを黒騎士は知っている。
当然エリゼオは腕を組んだまま上官の言葉を待ち、トゥーレッカは、やれやれ、と半ば諦めを抱き、副官同様腕を組んで彼を待った。
降り続く雨はよりを叩き、甲高い音を立てる。兜の美しい飾り毛は濡れぼそり獣の尾の様に垂れ下がって、雨雫は石清水の様に鎧を伝い、流れ落ちた。
そうして一時雨に打たれ、思案した後、
「いや……」
ベルンハルトはゆったりと首を振った。
「逃がしたくないな。時間は掛かるが村を囲もう。国境側街道をバドとトゥ―リー、それにリリーを付けるか。北の森からの増援も考えて、北をアリナにヴィゴ」
それはトゥーレッカの見立てに重きを置きながらも、自重した采配だった。
不測の事態を考慮すれば当然か。
エリゼオは仲間の安全を最優先に考える上官の意思に意見する事はなく、
「はい」
静かに応えた。
トゥーレッカは些か不満そうだったが、やはり長を詰る様な真似はしない。ただ黙って暗闇に浮かぶ灰目を見る。
「国側の街道にイェオリ。南の森にはエル。ゾフィにスヴェンはこのまま待機。気づかれたくないから俺達は歩きで入る。馬を見てて貰おう」
「はい」
「残りはミリか」
「勿論先駆けに。先の任では不完全燃焼で、手が付けられなかった」
エリゼオが深く溜息を吐けば、
「楽ができるな。そうする」
ベルンハルトは声を上げて笑った。
「ではそのように」
エリゼオは上官に目を伏せて応え、無言で雨に濡れ、黙って腕を組んでいた小さな下官を見下ろした。
意見を求められたトゥーレッカは肩を竦める。
気持ちはもう十二分に焦ってはいるが、きっと長の策の方がいい結果となるだろう。それは村人にとっても、仲間にとっても。
だから、
「異存はないぞ」
大人しく同意する。
「……」
長に付き従う副官は騒めく彼女の心中を察し、苦い笑みを零す。
しかし、それは同情や同調ではなく、困惑に近い感情で、だ。
こう言った場面では少ない情報だけで敵影を推量し、隊の命を賭けることになる。それがどれ程危ういか、考えるまでもない。にも拘らず、弱者を護らんとする彼女は、とにかく村人を優先しろ、と主張する。
群れを護るべき立場にあるエリゼオからすれば、足枷でしかないモノを助ける意味はどこにあるのか、と問い質したくもあったのだが、口にしないのは対立が招く不和が群れにもたらす不利益を考えての事。
己の意思は、何も表立って突き通す必要はないのだ。それは静かに、密やかに。辻褄を合わせて遂行すればいい。
「……」
エリゼオはやはり黙ったまま、弁柄を横へと流した。闇夜で鈍く光るそれはどんなふうに見えただろう。
無言で下がれ、と令された斥候は、どこか気怠そうに鼻を鳴らしはしたがそれ以上は何も言わず、下官を伴って姿を溶かした。
優秀だが無垢過ぎる下官の背を見送った群れ長は、
「ゾフィーヤ」
静かに美しい魔女の名を呼んだ。続けて冷え切った素肌を撫でる感触。幾分か違和感を残しながら、鎧の僅かな隙間から白い蛇が顔を覗かせる。
「えぇ、各隊に伝えるわ」
言わずもがな。
全て理解している、彼女は笑って、直ぐに気配を消した。残された蛇は大きく口を開き、呑気に欠伸を零す。そうして雨に濡れることも厭わず赤い舌を覗かせれば、
「なぁ、リリー」
いつの間にか弁柄を灰にすり替えたベルンハルトが、掌に納まる程小さく真白な彼を見て、幼さの残る魔女の名を口にした。
「何?」
今度は先程とは違う声で蛇が首を傾げた。
ベルンハルトは獣から降りながら、
「まだ持つ? なるべく、このまま光を使いたくないんだけど」
そう言って目元を叩いた。
兜が鳴って、固い音を立てる。エリゼオは高いそれを聞きながら、
「俺が出ていれば必要ないのでは?」
片眉を上げた。
「バカ、お前。エリは夜目が利いても、俺は見えないんだから、やっぱ要るだろ」
「剣を握るのは俺ですよ?」
「今回は俺もやるのっ!」
「下手に動かれると後が大変なんですが……」
「そう言ったって、エリ。毎回、毎回、大人しくできるわけないだろ」
「そこは胸を張らないで下さい」
エリゼオが大きな溜息をつくと、胸元で白蛇が笑う。
「私は全然大丈夫だよ? 夜目が利くヒトが多いから、別に沢山力を使う訳じゃないし。やっぱり暗い中、目が見えないのは怖いよね?」
「そう! 真っ暗は怖いんだって。さすがリリー。分かってるなぁ」
ベルンハルトはそう言って、兜の下で目を眇める。
「自分は見えるからって、エリの奴、いっつも引っ込んでろ、って言うんだぞ」
「なんでイジワルするの? 中佐?」
「な? ホントいじわる」
「ね? 仲間外れはダメなのにね?」
「なぁ?」
その場に姿はなくとも、彼らが姉弟の様にじゃれ合う様は目に浮かぶ。エリゼオは仲のいい彼女達に苦く笑って、
「別に戦場に出るな、とは言いませんよ。ただ、身を案じているだけです」
肩を竦めた。
この場にヴィゴが居ればきっとまた、過保護だ、と笑われるのだろう。イェオリなら黙って頭を叩くだろうか。
しかしこの場に彼らは居らず、代わりにリーリャが鈴の様に喉を鳴らす。
「ふふ。不思議な事言うのね、中佐ってば。結局あなたが出ると、准将だって出ることになるのに」
彼女の言わんとする事を理解し、エリゼオは柳眉を落とす。
「そう言われると、返す言葉もない」
理解しているつもりでも、結局自身と上官は別だ、と心根では思っているらしい。
自嘲する他ない彼にリーリャは楽しそうに笑って、
「ねぇ、それより」
世間話でも切り出す様に、蛇の口を開いた。
「猫達は森を行き来してるんでしょ? サリーを飛ばした方がよくない?」
「んー、そうなぁ……」
ぬかるんだ地面は濁った雫を跳ね上げ、黒の鉄靴をあっという間に汚す。
「じゃぁ、サリーちゃんには北の森付近を飛んでもらおうかな。雨で大変だけど」
ベルンハルトは明後日を見ながら、独り言の様に話す。
傍から見ればおかしな男だ。
エリゼオはその姿に笑ったが、その低く撫ぜる様な声は雨音で誰の耳にも届かなかった。
「分かった! バドにトゥ―リーも居るし、半分飛ばすね」
「んー、森を出入りしてるらしいから。気を付ける様に言って」
「了解でーす」
蛇は間延びした声を上げて、またベルンハルトの懐に潜り込んだ。後に残るのは雨音だけ。
「いいなぁ、俺も欲しい。な? アッシ?」
それまで一切口を開かなかったテルセロが、ぼそぼそ、とアッシに耳打つ。
「便利じゃね?」
しかし、
「……俺は、どうでも」
返す相方の返事は芳しくない。
「うそだー。だってアレあったら走んなくていいんだぞ?」
「別に。走るの、嫌いじゃない」
煩い位の雨足ではあったが、テルセロの声は良く響いた。
彼らが合議中、今か、今か、と尾を振っているのはその気配から十二分に伝わっていた。猟犬にしては大人しくしていた方だろう。
だからこそ、エリゼオは鼻を鳴らし、獣の腹に手を突いた状態で振り返ると、
「じゃれてないで、いいから先に行け」
野良犬でも追い払う様に手を振り、早々に彼らの首輪を解いた。
上官と同じ真っ黒な鬣を雨に濡らし、少し哀れにも見える姿を晒していながら、主のお許しを頂いた彼らの表情は明るい。
「もぉ、寒いよ。終わったら一番に飯でっ!」
「サンセー」
文句を垂れ、それでも獣から素早く降りると、テルセロとアッシは二人して泥を跳ね上げ、解き放たれた矢の如く暗闇に駆け出した。
止む気配のない雨は彼らの足音さえ飲み込んで、暗闇で鳴く蛙の声だけを潤わせる。
「ったく……」
彼らの本質からすれば鎧も脱いで駆回りたいのだろうが、それにしてもあれでは犬コロと変わらない。
下官のはしゃぐ背を見えなくなるまで送って、エリゼオはいつも通り深い、深い溜息を零した。
その背後で、
「私達も先に出るぞ?」
いつの間にか隊列を離れたらしいミリは、いつも通り大きな斧を片手に満面の笑みでベルンハルトを見下ろしていた。緩んだ口角に、場に相応しくない彼女の鼻歌が耳を撫ぜる。
目論み通り、先駆けを任された彼女は上機嫌らしい。
「頼むな、ミリ」
「任しときな。今度こそ、私の番だ」
そう言って、彼女は焼けた肌に映える白い歯を覗かせた。暗闇に光るそれに邪気はなく、寧ろ子供の様な純真さを見る。
その背に抱えた部下達も隊長同様、精神が幼いのか、若いのか。隊列の概念は毛の先程もないらしく、ただ集合している、そんな状態だった。正に烏合の衆。これで揃いの甲冑が無ければ、きっと誰も騎士だとは思いもしないだろう。当然、上官の熱量とは反して、彼らはやる気のない声を上げ、従うべき長におざなりに応える。
いつもの事。
ミリは全く気にも留めない。それが彼女の隊の在り方で、彼女のやり方だった。
「んじゃ、い……」
彼女が振り返り、背後に控えた部下へ呼びかけたところで、
「おうおう、相変わらず柄がわりぃなぁ」
意地の悪い声と共に、ミリの率いるだらけた群れが左右に割れた。
「ヴィゴ……」
項垂れたのはエリゼオ。
その傍らで、先程までの上機嫌が嘘だったかの様に、ミリが鼻筋に皺を寄せている。
「邪魔だ、どけ」
背に橙の鬣を持った騎士達を引き連れ、ヴィゴは兜の下で口角を上げる。続く騎士達も長い角を振りかざし、野盗と大差ないミリの群れを威嚇する。同じ出でありながら、こちらは騎士らしく隊列を保ち、掲げた軍旗さえ勇ましい。
隊によってこれ程毛色が違うのは、黒騎士が黒騎士たる所以。
「今回は役に立てよ?」
「イってな、ヴィゴ。騎士ごっこに明け暮れてるあんた等に、出る幕はないって教えてやるからさ」
「んだと?」
「あぁ? ごっこ遊びのヤリ過ぎで耳まで悪くしたのか?」
隊を率いる黒羊達が角を突き合わせると、背後に控えた騎士達までもが牙を剥き合った。
師団とも成れば皆が仲良しではいられない。黒騎士が都の騎士と違うとすれば、その不和を伏せたり、影で腹の探り合い等はせず、真正面からぶつかり合う事か。彼らは時間を無駄に費やすより、単純でより明快な方法を好んだ。
「あぁ? 随分突っかかってくるなぁ? あぁ、なるほど。ここんとこ日照り続きか? まぁ、お前みたいな暴君、誰も相手にはせんわな」
「なんだってぇっ? いい度胸だ。かかってきなっ。その顎かち割って、二度としゃべれなくしてやるよっ!」
「おぉ、生意気な口利くな。いいぞ。この鬱陶しい雨にイラついてたとこだ。相手してやるよ」
日常的に繰り返される小競り合いには誰もが慣れている。近しい仲ならば、その怒気に圧される事もない。ただそれを収拾するのが面倒なのだ。
今にも掴み合いの殴り合いでも始めそうな彼らに、エリゼオは溜息をつき、ベルンハルトは腹を抱えて笑った。
そんな敵前とは思えない、緊張感もない空間に、
「おら、お前達っ! なぁにをしておるかっ!」
怒号と金属の擦れるけたたましい音が響く。
「あてっ!」
「うおっ!」
「ちょっ!」
上がる悲鳴。
しかし吼えた当人達は気にも留めず、いがみ合う群れの間に入り、鼻息荒く盾を構えた。その圧力に幾人かは押し出され、幾人かは落馬して泥水に浸かる。
「ほれっ! 離れんかっ!」
騎士団の中でも重量級の彼らは、分厚い鎧を軋ませ、互いに背を預けながら盾を構える。そうなれば最早鉄壁の壁で、ミリの怪力でも、ヴィゴの拳でも道を切り開くことは困難だった。
「下がれ!」
主の声に、騎士達は盾の隙間から得物を突き出した。そうしてにじり寄れば重い鎧が鳴り、いがみ合う二群を威圧する。
ここまで来れば火種も埋もれる。
「分かった! 分かったよ、ブル!」
ミリは降参だ、と諸手を挙げ、
「危ねぇだろ! 止めろ、バドッ!」
ヴィゴは首筋に槍の切っ先を受けながら、身を反らした。
こうして刃を向けられた六、八中隊は共に、大きく身を退く羽目になる。
「こんなことばかりしておるから、壁のニンゲンは、とバカにされるんだぞ!」
バルドメロは吼え、同郷の騎士達を叱りつけた。
彼が腕を上げ、拳を握れば、
「……」
彼の部下は無言で馬を進め、いがみ合う二つの群れを完全に分断する。そうして上官の意思に従い、先ずはミリの隊を包囲した騎士達が、惑う羊の群れを獣道の先へと追い込む。
「ちょっ……」
「反論は許さんぞ。こんなとこで燻ってないで、その怒りは猫にぶつけんかっ!」
「分かっ……」
「ほれ、さっさと行け!」
バルドメロが荒い鼻息を吐くと、優秀な彼の部下は金の縁取りも美しい盾を突き出したまま、軍馬の腹を蹴った。
「ちょっ!」
「うわっ!」
「走れ! 走れ!」
嘶きもせず、主の意思に従い猛進を始めた軍馬に、ミリの隊は尻尾を巻いて逃げ出す。蜘蛛の子を散らす、とは正にこの事の様に思われた。
「てめっ! 覚えてろよっ!」
悲鳴を上げ、まるで悪役の様な台詞を吐いたミリに、エリゼオは肩を竦め、ベルンハルトはひぃひぃ、と身を捩って笑い声を上げ続けた。
「さて、ヴィゴ……」
振り返ったバルドメロの黒目は、心安い群れ長の様に笑ってはいない。
「まぁ、待てよ、バド」
ヴィゴが両手を揚げ、身を反らせると、彼の騎獣もまた、二、三歩大きく後へと下がる。垂れた尾が情けなく見えるのは、決して雨に濡れぼそっているせいではない。
「ホラ。俺、もう行くし」
へらり、と笑った黒騎士の肩が落ちる。
エリゼオは苦く笑って、
「ヴィゴ、十分距離を取れよ。足音に気づかれる」
「分かってるよ」
余裕のない彼は怒れる猛牛から目は離さず、過保護が過ぎる知己に唸った。
その間も、バルドメロは無遠慮に距離を詰め、
「上官に向かって、随分と失礼な物言いだな」
そう言った時には、同位ではあるが歳は下の黒騎士との距離は、目と鼻の先程度にまでに縮まっていた。
「ちがっ! これは違う。気のせいだ」
覗き込まれた顔を思いっきり反らし、両腕は思いっきり突っ張って、ヴィゴは何とか猛牛から距離を取るが、巨体に圧し掛かれて身体が潰れる。
「もぉっ、ホント、勘弁してくれっ!」
「んん? 改めるか?」
「改める! 俺が悪かった! もうしないって!」
子女の様に悲鳴を上げた彼に、
「よしよし。分かれば、よし」
バルドメロは満足したのか、漸く身を退いた。
そうして、
「ほれっ、さっさと行け!」
大きな声で吼えて、己より一回り以上は小さなその背を乱暴に叩いた。
鳴いた金属が耳の奥に違和感を残す。
「いてぇよ、オッサンッ!」
悲鳴を上げ、慌てて騎獣の腹を蹴るヴィゴに、バルドメロは屈託のない笑い声を上げた。
逃げる様に駆けだした友の背を見送りながら、ベルンハルトも破顔する。そうして一頻り笑った後、
「バルドメロ、国境方面は十分に警戒してくれ。何が出るかわからん」
彼はエリゼオの声で、いつもの事務口調で警告を発した。
バルドメロは大きな目を更に大きく開いて、
「任せておけ、中佐殿!」
尻尾を巻いて逃げた若い騎士とは正反対に、がっちりと鎧に護られた分厚い胸を叩いて返す。
「お前さん達も気を付けてな」
抑えた声は友への忠告。
エリゼオが手を上げて応えると、忠臣は兜の下でにやり、と笑い、次いで大きな身体を小さく曲げて上官への礼を示した。そして若い騎士達に続いて馬の腹を蹴る。彼の部下は上官に倣い、長に片手を上げることで挨拶とし、戦場へと巨獣を駆る。その背中に差した幅広の剣が、軍馬の尻に引っ掛けた分厚い盾が物騒に鳴って、彼らの背を押す軍歌と成った。
「アイツ等、野盗みたいだな」
ベルンハルトが土泥を巻き上げ、地を鳴らし、駆ける男達の背を見送りながら笑えば、
「まぁ、所詮は安い傭兵団ですからね」
エリゼオが皮肉めいた物言いをした。
「あ、また酷いこと言う」
「そうですか? 准将には騎士の自覚がおありで?」
「んー? それは聞くな」
ベルンハルトが頭の後ろで腕を組む。エリゼオは笑う上官に口端を緩く持ち上げ、少し目を伏せると、獣を置いてぬかるんだ泥道を歩き出した。
揺れる木々。打ち付ける雨。遠くに響く蛙の声は、どこか心を落ち着かせる。頭を振る下草は身体を泥で汚しては雨粒で洗い流し、地面に溜まった水は鏡面を忙しなく波紋で揺らがせる。
彼の従える黒騎士は一隊、また一隊と別れ、上官の指示通り戦場へと向かった。ベルンハルトは確り彼らを見送り、仲間の無事を祈る。頭の出来る事など所詮その程度。せいぜい手足を捥がれない様に震えて待つだけ。
自嘲するエリゼオの背後で、
ブルルッ
獣が荒い鼻息を吐いた。
振り返れば、暗闇から姿を現した巨大な黒馬がその背を小突く。
「おぉ、エビ。今夜もかっこいいな」
強い力で押され背を逸らしながら、彼は少し早足になった。なされるがまま、いつも通り彼の大きな頭に身体を預ければ、獣は嬉しそうに鼻を鳴らして、首を振る。軍馬とは違い、沢山の耳と目を持つ馬の頭を撫でながら顔を上げると、巨大な騎獣には不釣り合いの女騎士と目が合った。
「……」
彼女はこれでもか、と顔を顰める。
「人の馬をエビ呼ばわりするな」
黒馬は不機嫌な主人には構わず、ベルンハルトの脇の間に鼻面を押し込み、もっと撫でろ、とせがんだ。巨体に似合わぬその愛らしい仕草に、黒騎士は破顔して頬を寄せる。冷えた身体に彼の体温はどこまでも優しい。思わず目を細めると、
「エヴィエニス、アホの相手をすると頭が腐るぞ」
騎士と言うより身軽な戦士の様な彼女は、真っ白な細腕で騎獣の首元を乱暴に叩いた。
「あ、酷い。そんなに俺の事嫌いなわけ?」
「私が好きなのは馬だけだ」
踏ん反り返る彼女に、エリゼオは溜息をつく。
「おい、アリナ。当たるのはそれくらいにしてくれ」
頭を押さえて刺すのは暗闇の続く森。
「お前達も迂回組だ。北の森から猫共が入ったとしたら鉢合わせの可能性もある。十分に気を付けろ。何かあれば知らせを……」
「ハイハイ、分かってるよ、過保護殿。了解、了解。もういい? 寒いし、馬が冷えたよ。急には走らせられないんだよ? ったく」
うんざりした様子でアリナは黒馬の脇腹を蹴った。エヴィエニスは名残惜しそうにベルンハルトから離れると、頭を下げて歩き出す。通常ならここで、その後ろに続く騎士達は長に礼を尽くすものだが、彼女達は決してベルンハルトを見ない。その黒目が写すのは彼女達の主、アリナだけ。
確かに、黒騎士師団は隊長以下、寄せ集めの集団だった。中でもアリナの隊は特殊で、元から彼女に付き従うモノ達で構成されている。師団はそれを丸ごと抱え込んだに過ぎない。今は利害が一致し、何とか主従の関係を保ってはいるが、そこに忠義があるか、と問われれば、誰もが眉を顰めるだろう。
主同様、軽装な彼女達の短い下衣から突き出した真白な下肢を見せつけられながら、ベルンハルトは苦く首元を掻いた。
エリゼオは鼻筋に皺を寄せ、
「おい、真剣に……」
唸ったが、
「分かってるよ。何かあったらこれで知らせるよ」
アリナは意に介さず、背に差した鏑付の矢をおざなりに指差して、手を振った。その背も、後ろに続く弓引き達で直ぐに見えなくなる。
「なんだよ。自分から寄って来たくせに」
ベルンハルトが下唇を突き出すと、
「一言、文句を言いたかったんでしょう」
エリゼオは苦く応えた。
「お前、大変な」
「まぁ、寄せ集めにしてはまとまっている方では?」
「んー、流石、俺の見込んだ男」
「勘弁してください……」
吐く息はどこまでも深い。
そうして今度はエリゼオが零す。
「これが終わったら、俺は誰とも顔を合わさず、部屋に篭ります」
再び歩き出した長の横を、足を速めたアリナの隊が過ぎ去って行く。その伸ばされた背筋に、揺れる彼女達の黒髪は酷く美しかった。
「んー、それいいなぁ」
漸く勢いを弱めた始めた雨は、濡れた落ち葉を鳴らす。
どこか遠くで鳥が一声。鋭く短く鳴いて、それに蛙が少し、ほんの少しだけ色を添えた。




