第5話 リトラより
二つの赤い月を掲げる第六涙大陸、レウコーン。ラスタンス河を挟み東西に広がるその土地には、古、異国、異界のモノ達が混在している。
その北部、辺境の地にリトラはあった。小さく平和な地に、小さなお城。そこには代々、小さなニンゲンの王様が居て、つつがなく国を治めていた。土地柄、作物はうまく育たなかったが、彫金や毛織物などの工芸が少しあった。隣国との貿易で細々と賄われる暮らし。国民は穏やかで、どこかのんびりとした雰囲気を漂わせる。
しかし、それも今は遠い昔の話。
数十年前、隣国イジデは傾き、最早国としての機能を失った。もたれ合う二国は片割れを失い、共倒れの危機にあった。それを救ったのが、小国には到底そぐわない、白亜の宮殿を頂くこの男。
「マグガルド様!」
彼は赤地に金糸の刺繍が美しい、とても豪華な祭服を引き摺りながら、王城にもない真っ白な石造りの階段を上っていた。
彼こそがこの国の救世主で、この小国リトラを守護する、金の雄羊に仕える民を取りまとめる総司祭長、その人だった。彼は小さな王の後ろに立ち、神の意思を囁く。その囁きは国民の声であり、国の意思であり、正義であった。
「何事か?」
リトラに一般的な、栗毛も白さを増した初老の男は静かな声で答えた。それはとても小さな声だったが、静かなそこに響き、染み渡る様に広がった。
拝廊に跪いていた数名の騎士は、それが間詰めの了承だと理解して、上半身を屈めたまま身廊を早足で渡る。音を立てない様に気遣うが、擦れ合う金属音を止める手立てはない。騎士を率いる男は気まずさを感じながらも、平静を装って、翼廊手前まで歩み寄った。
そこまで来ると、大階段下に控えていた大柄の司祭風の男達が、騎士の目の前に立ち塞がる。甲冑さえ身に付けてはいないが、一目で武人だと分かる身のこなし。
連隊長は一瞬息を詰めるが、何事もなかったようにその場に膝をつく。後ろに続く騎士達も、彼に倣って膝を折った。
マグガルドは優美な様で振り返ると、傅いた騎士達を睥睨する。
その昔、彼は足元に跪く騎士達にすら相手にされない程度の身分であった。それが今や、望んで叶わない事はないのだから、人生とはなんと不可思議なものだろう。
そこまで考えてあることに思い至り、ただ一つを除いては、か、と自嘲する。
「よい、下がれ」
マグガルドは皺の寄った口端を僅かに緩め、騎士の前に立ちはだかった司祭達に手を振った。下に控える大男達はその声に深く頭を下げ、翼廊へと身を退く。
「知らせか? アルース」
言いながら、マグガルドは再び石階段を上り始めた。天窓から差し込む光に輝く金糸が美しい。
「はっ! 猊下っ!」
連隊長は名を呼ばれたことにとても驚き、同時にとても光栄に思った。大きな声で返し、更に深く頭を下げる。同時に、純血の騎士を体現する真白の鎧が日光にきらり、と輝いた。
「先程、使いより報答が届きましてに御座いますっ!」
アルースは早鐘を打つ鼓動をどうにか鎮めようとして、失敗した。返す言葉が不自然に上ずる。
しかし、マグガルドはさして気にする様子も見せず、祭壇へと向き直った。そうして恭しく香を手に取ると、息を吹きかけて見せた。それは小さな火種を作って、香に火を灯す。
「申せ」
「はっ! 第十三黒騎士師団、只今エクの畔にて、一報を受ける。畏まりまして、とのことに御座います!」
衣擦れだけが支配する空間で、長に従い謁見する騎士達は息を詰める思いだった。顔を上げることもできずただ黙って、要点だけを伝える連隊長の声に集中する。
対してマグガルドは、声を張り上げる白騎士など興味はない、とでも言う様に、ゆったり、と白煙を燻らせた。手を振ると、それは舞い飛ぶ羽の様に広がって、とても落ち着いた匂いを振り撒く。
「そうか」
彼は再び囁いて祭壇に香を立てると、内陣を見やる。
アルースは生唾を飲んで、彼の次の言葉を待った。流れる汗は、決して暑さからくるものではない。現に、背筋は凍る程冷えていた。
「……」
マグガルドは暫く思案し、その栗色の目に再び真白の騎士を映す。
「では猫が出た、と追って伝えよ」
「猫……で御座いますか?」
白騎士は反射的に聞き返した。
―――しまったっ!
アルースは苦く、唇を噛む。
祭壇に立つ男は、この国の絶対神〈黄金の雄羊〉の言葉を口にできる、唯一のニンゲン。位は総司祭長であったが、国王でさえ反論しない、現神ともいえる存在である。その男に、一介の騎士風情が借問するなど許されることではない。
「も、申し訳ございませんっ!」
アルースは生きた心地がしなかった。冷や汗を流し、肢体を震わせる。彼の後ろに控えた騎士も同様で、艶やかに輝く床に膝をついたまま、生唾を飲む。
マグガルドはそんな騎士の姿を目端に捉え、片眉を上げる。
「そう、猫だ。もう双月にはなるか? ヒウッカより知らせを受けておる」
「え……ぁ……」
驚きの声を押し殺すので精一杯だった。
先だって召集された席で語られた話では、国境沿いに陣を敷く騎士達とは連絡が取れず、何が起こっているのかも不明、とのことだった。それが国を脅かす緊急事態であることは明白。その為もっとも近場に居る筈の黒騎士師団に白羽の矢が立ったのだ。足も速く、場慣れした彼らに。
おかしいとは思っていた。
極度の緊張からか、困惑からか、アルースの喉が不自然に鳴る。
今、目の前で平然と口を開く男は、集められた白騎士の前で、国王の前で、黒騎士は優秀だ、と讃えたのだ。あの純血を愛する彼が、である。
―――裏があるとは思ったが……。
あの時彼は確かに言った。急がなくては、と。にも拘らず、まさか伝令を受け、二月も放置していたとは知らなかった。しかも猫が出てくるとは。
アルースは震える身体を理性で何とか押さえ付けた。その脳裏に過るのは、艶やかな毛皮を纏う獣の姿。野に駆ける猛獣を大きく引き伸ばし、ニンゲンの姿形に似せれば彼らと成る。それらは猫尾山より西の地を支配する、カッツェロイテと呼ばれる亜人の一種で、知能も高く、姿形は近くとも、ニンゲンとは比べ物にならない身体能力を有していた。夜目、鼻が利き、弱肉強食の世界に生きる、正に獣。猫尾山やルース湖が無ければニンゲンなど容易く滅ぼされていたに違いない。歴史的に見ても、ヒウッカ辺りの国境線を境に、ニンゲン達は北へ、北へと追いやられて来ている。
それでももう百年余り、小競り合いはあっても、表立っての侵攻劇はない。騎士の紋章を頂くアルースでさえ、その姿は書物の中で知るのみであった。
あからさまに狼狽える白騎士を見下ろしながら、マグガルドは静かに笑う。
「時間は十二分に与えた。そろそろ猫共の軍備も整っておろう」
「ぐ、軍備でございますか?」
久しく見聞きしなかった戦の文字が、アルースの脳裏を過る。
「そう、この国は今まさに攻め込まれているのだ。いや、それはもう随分と昔から始まっていることだが、今、そんな些細な事はどうでもよい」
まるで小さな羽虫が過ったに過ぎない、と言わんばかりに彼は先を続ける。
「王国史に最も恐ろしく、そして凶悪に描かれる獣が、万全に準備を整え待ち構えているのだ。黒騎士が対峙する相手として、これ程相応しいモノ達があろうか」
押さえきれない、細やかな笑いが神殿に響き渡る。
「考えるだけで……、あぁ、なんと甘美な……」
酔いしれ、目を細める男の顔に、
「あ……ぅ……」
アルースは口を開閉させることしかできなかった。背筋を伝う冷や汗に、上げた顔を再び伏せる。
―――やっと三千に届いた、師団とは名ばかりの集団に猫の軍勢の相手をさせようというのか。いや、それよりも攻め込まれているのならなぜ兵を挙げない。この国を亡ぼすお積りか? いや、全てを手中に収める、この狂った司祭がみすみす国を明け渡す筈がない。何か考えがあるのだ。いや、しかし……。
激しく廻る思考。
しかし答えなどある筈もない。
アルースは底知れぬ恐怖を覚えると共に、全てを胸の奥へと押し込んだ。とにかく今、この思いを気取られてはならない。彼を疑い、歯向かう意思など微塵もない、と平静を装わなければ、己の運命も黒騎士に重なることになる。
白騎士は震える拳を更に強く握って、硬く目を瞑った。
そんな彼の胸中などに関心がある筈もないマグガルドは、
「あぁ。知らせを運ぶ使いは、足の遅いモノを選べ」
抑揚のない声で、白騎士に命を下す。
「その方が、一等面白いに決まっている」
暗に時間を掛けろ、と言われ、アルースは頷くことしかできなかった。敵の正体も知らされず、偵察とは名ばかりの戦へ出される黒騎士達の事を思いながら、次は己の番では、と考える。
「か、畏まりまして」
震える声でそれだけ残すと、再び身を屈めたまま、騎士達は身廊を下がった。
マグガルドは差し込む光に目を眇め、口端に柔らかい笑みを浮かべたまま、その背で騎士達を見送っていた。照らされた顔に焦りは微塵もなく、ただ素晴らしい未来を見つめる。
「……」
重い木扉を閉めると、騎士達は白亜の殿堂を後にした。誰一人口を開かず、王城へ続く長い廊下を足早に歩いた。その肩に掛けた外套が翻って、物言わぬ美しい金の雄羊が煌めいた。
彼らはただ黙して、小ぢんまりと建つ城を目指す。
降り注ぐ日差しは優しく、空は抜ける様に青かった。少し冷たい風は広場を抜けて、空高く舞い上がる。いつもと変わらない風景。穏やかな昼下がり。
それとは正反対に、先を急ぐ彼らの胸中は騒めき続ける。
―――ヒウッカは見捨てられたのか……。
アルースは思った。
救援要請を出した騎士達はどうなったのか。若しかすると皆殺された後だろうか。それともとっくに城を明け渡し、逃げ果せているだろうか。辺境の任務に就かされる白騎士は大概が鼻つまみ者だ。国を守る気概など持ち合わせてもいないだろう。そう考えると後者の方が、確率が高い様にも思われた。
それでも、二か月もの間、対策も立てられずに放置されているとは誰一人として思いもよらないだろう。救援を求め、鳥を飛ばしたのだ。助けは必ずやってくる、と信じて疑ってはいない筈だ。
―――惨いことを。
回廊と城とを繋ぐ木戸まで来ると、門衛と目があった。
「ご苦労」
短く声を掛けると、門衛は身を正し、木戸を開く。
―――いや、ヤツが見捨てたのはこの国か?
「はぁ……」
重く深い溜息。
木戸を潜り、城に入って、騎士達は漸く人心地着くことが出来た。安堵感からか、アルースの後ろに控えていた白騎士が口を開いた。
「何と……」
それに誘発され、
「恐ろしいお方だ……」
口々に囁き合った。
誰もが総司祭長の謀略に恐れを抱いていた。もしかすると、この国をも亡ぼすつもりでは、と。
アルースは怯え、狼狽する彼らに向き直る。その青ざめた顔で首を振ると、引き連れた騎士、一人一人の顔をゆっくり、確かめる様に見た。
そして、
「止めよ。誰の耳に入るとも限らん」
強い口調で窘めた。城内であろうと、誰でも敵に成り得るのだ。謀略渦巻く都で、最早信じられるモノなど誰一人としていない。それは己の隊のモノであっても。
礼儀に則り、隊の位持ち数名を引き連れ謁見に臨んだが、それは失敗だった。アルースは後悔の色を滲ませる。
「今回の件、決して口外するな。必要以上に関わる必要はないのだ」
それは自分に言い聞かせる様でもあった。
アルースの後ろに続く騎士達は互いに顔を見合わせると、上官の言葉に強く頷いて見せた。受けるアルースも大きく頷く。
「お前たちは宿舎へ戻れ。後は私がやる」
そうして手を振り、部下を払う。
上官の強い物言いに、騎士達は反論の余地もない。深く頭を下げ、無言で城を出る。その背を最後まで見送って、まだ若い白騎士は背筋を伸ばした。
「さて……」
アルースは極めて平静を装って、使獣役の詰め所へと足を向けた。城の脇に建てられた、背の高い塔。平和呆けした今では一体何の役に立っているのかも分からないこの場所で、総司祭長の願い通りの、足の遅い獣を見繕ってもらう。その間に準備された書簡にただ一言、〈猫に注意されたし〉とだけ記した。丁寧に丸めると、獣付の少女が小さな籠を手に奥から出てきた。
「それが一番遅い使いか?」
素早く伝令を行う事に特化した場所で、何を馬鹿げたことを言っているのか。自分でも呆れてしまうが、与えられた命令を遂行する事が騎士の務めだ、と言い聞かせる。
少女は不思議そうに首を傾げたが、愛想よく笑って、籠を差し出した。中には淡い緑の、小さな、それは小さな鳥が一羽。忙しなく飛び回って、外を伺う様に小首を傾げていた。その愛らしい姿がお前の様だ、と白騎士が笑うと、少女もまたころころ、と涼やかに笑った。
アルースは籠を受け取り、極めて重要な書簡を丸め、小鳥の脚に付けられた金筒に収めた。彼のその姿を見たモノが居たとすれば、誰もが私用の言伝か何かだと思ったに違いない。それ程彼の行動は自然で、謀略の一端を担っているなどとは微塵も思わせなかった。
白騎士は握り潰してしまわない様に細心の注意を払いながら、小さな彼女を籠から出す。
チチチ
小鳥はアルースの手の内で、少女と同じ音で涼やかに一声鳴いて見せた。その声は諫めるでも、憐れむでもない。彼は一時思案する風を見せたが、心とは正反対の、真っ青に澄み切った大空に小鳥を解き放った。
「……」
直ぐに見えなくなったその姿を思いながら、アルースは詰め所を出た。重要なそれが届くかどうかなど、誰にもわからない。あれ程か弱い小鳥ならば、猛禽にでも食べられて終わりかもしれない。悪くすれば城壁さえ越えられないだろう。
しかし、それがマグガルドの願い。伝令を出した口実があればそれでいいのだろう。
―――あの小鳥には申し訳ないことをした……。
アルースは胸に落ちる黒く重い塊を吐き出す様に、再び溜息を零した。
そうして、
「誰もやりたがらん訳だ」
一人呟いた。
便宜上、十二に分けられる白騎士団の第六位を頂くこの男は、その性質上、上から順繰りに回ってきた仕事を、嫌とは言わずに引き受けたに過ぎない。次のモノへ回すより、己でこなした方が早いと思った。が、誰もが嫌厭するそれにはそれなりの理由があっと言う訳だ。今回は貧乏くじを引いたと諦める他ない。この失敗は次へと繋げればいい。
アルースは大きく伸び上がって、温かさを増した空気を吸い込んだ。
騎士の纏った純白の甲冑が太陽に煌めき、亜麻色の外套が風にはためく。二、三度大きく呼吸を繰り返し、目を開ける頃、城内を忙しなく行き交う侍女達の、笑みを含んだ視線に漸く気が付いた。白騎士は咳払い一つ、直ぐに身を正す。
彼を見下ろす空はどこまでも広く続き、その中で泳ぐ小鳥達が甲高い声を上げ、歌っていた。
リトラは今日も平和である。




