第1話 拠所(1) ※2.19.8.18 修正
「……将」
とても遠くで聞こえた気がした。
「……ン将」
それは大きくなって、意識を覚醒させる。
「准将」
「ん……あ……?」
瞼越しに感じる光。
嗅ぎ慣れた花の香り。
遠くに聞こえるのは下品に笑う男共の声。
「おはようございます、准将」
怒るでも呆れるでもなく、その声はいつもと変わらない音で鼓膜を叩く。
「んー、やっと眠れたのにぃ……」
絞り出した声は酷く枯れていて、ベルンハルトは思わず自嘲した。
「あら? お目覚めですか?」
澄んだ、少し高い声。降るそれは柔らかく、先程感じた花の香りを纏ってやって来た。彼は顰めていた顔を僅かばかり緩め、うっすらと目を開く。
揺れる窓掛け。
大きく開け放たれた硝子窓。
木漏れ日に影を作るのは。
「エレ、ナ?」
ぼんやりとした頭で問えば、
「おはようございます、ベルンハルト様。お水でよろしいですか?」
彼女が口を開いた。昨夜飽きる程聞いたそれは心地よく響いて、ベッドで大の字に倒れ込んだ男は、ここがどこかを漸く理解する。
―――そうか、宿舎じゃなくて……。
未だ覚醒には遠い頭で思い、彼女の問いに答える為、また声を絞り出そうと口を開きかけたが、
「あぁ、すまん」
別の声に助けられた。
いつもの事。
ベルンハルトはベッドの上で身じろいで、彼女の匂いのする柔らかな枕に顔を埋めた。久しぶりの故郷で気が抜けたせいか、寝不足の為か。起き抜けの身体が酷く重かった。それでもいつも感じる眩暈を伴う不快感はない。どちらかと言えば調子はいい方だ。
「どれ位に休んだ?」
「えっと……、明け6つには」
「鐘1つ分か。薬は?」
「ちゃんと確認しました」
頭越しに交わされる業務連絡。次第にはっきりし始めた意識に、ベルンハルトは違和感を覚える左頬を撫でながら口を挟む。
「別にいやらしい事はやってないぞ」
「でしょうね。これじゃ無理だ」
落ち着いた声の主はいつも通り。障りの良い音に苦みを乗せて、ベルンハルトの痛いところを的確に突く。
「ったく、准将……。寝る時はブーツを脱げ、と言ってるでしょう。敷布が汚れる」
「んー」
「すまんな、エレライン。いつもきつく言ってるんだが……」
ベルンハルトは生真面目な男の小言を聞きながら、大きなベッドの上で縮こまった。皺を嫌って軍衣を脱いだ上半身は裸で、少し冷える外気に肌を粟立てている。それでも下衣にブーツの紐は固く結ばれたまま。こういった場所で丸裸でないのは不自然な様にも思えたが、エレラインは微笑むだけ。
「お気になさらないでください、エリゼオ様。まったく構わないんです」
硬い彼の言葉を受ける彼女はクスクス、と楽しそうに笑って、天蓋を支える柱をなぞり、ベッド脇に腰を下ろした。纏った肌が透けるほどの薄絹がさらり、と耳障りのいい音を立て、重力に引かれるまま落ちる。
「昨夜も沢山お話をしたんですよ? 楽しかった。シーツの汚れなんて気にもならないくらい」
「ちゃんと、弁償する、から……」
「ふふふ、いいんですよ、ほんとうに。それに、こんなところのシーツなんて、汚す為にあるんですよ?」
暗に言わんとする事を理解し、エリゼオは苦く笑った。エレラインも笑って、ベルンハルトはベッドの上で相変わらず呻いていた。
「それにしても……」
突っ伏したまま、一向に起き上がる気配もない男の背を慈しむ様に撫でながら、エレラインは少し沈んだ声を出す。その目が見るのは、窓枠に羽を休めた一羽の黒鳥。
「今日はお休みだったんでしょう? 残念ですね」
「まぁ、いつもの事だ。食いっぱぐれるよりマシだ、とでも思うさ」
「大変なんですね、騎士様も」
未だに背骨も目立つ肉の足りない女に、エリゼオは肩だけ竦めて見せた。そうしてその弁柄に彼女の見る鳥を映す。
何を思うのだろう。彼の表情は仮面の様に冷えて、何も読めない。それは、ふらり、と姿を見せた昨夜の彼を思い起こさせる。
変わらない喧騒の中、いつも通りの仕草で木戸を潜った彼。当然迎えたのはエレライン。久しぶりに会えたのだから、彼女はない尾を目一杯振って駆け寄った。
明るい彼女に彼は口も開かない。きっと疲れているのだろう、と寄り添った身体は水でも浴びたのか、固く身を包んだ外套越しでも甘いニオイがしていた。
喜び勇んで案内した部屋。物言わず中央で立ち尽くす彼の、目深に被ったフードに手を掛け、顔を覗いて漸く何かがあったのだ、と気づいた。
「どうしたんですかっ?」
撫でた頬の傷は生々しく、彼女を見下ろす弁柄は未だに覚めない熱を持て余し、興奮の行き所を探している様だった。その癖、表情はどこかへ置き忘れてきてしまった様な。
エレラインは久しぶりに彼が見せたそれに身震いした。このままでは彼が消えてしまう、と思った。その儚さはまるで、日が出る前に僅かに姿を見せる朝霧の様で。
だから彼を精一杯抱き締めた。冷たくなった身体が温まる様に。凍えた心が溶ける様に。
今朝方、目を開けた時、視界に入った黒い鳥に驚くよりも先に、傍らで安らかな寝顔を晒す彼に酷く安堵した。
消えなかった。生きていた、と。
それから暫く黙って、彼の健やかな寝息を邪魔しない様に、その柔らかさの残る灰色の髪を撫でていた。黒い鳥が黙っているのをいい事に、彼女には一切気づいていない風を装って、彼を起こさなかった。この僅かな安らぎを、誰にも邪魔されたくなかったから。
震える指先で撫でた彼の頬。歪に引き攣れていた傷はもう大分薄いが、あの夜。確かに彼を失いかけたことに違いはない。エレラインは自身の知らない場所で傷つく彼が酷く心配だった。いつか忽然と消えてしまいそうで不安になる。
「……」
じん、と痛んだ目頭。彼女は黙って目を伏せる。
沈んだエレラインに気づいた彼は、暫く黙ってその線の細い横顔を見つめていたが、声を掛けるでも触れるでもなく、ただ黙って静かに、まるで微睡を享受するかの様に目を閉じた。
室内を支配するのは柔らかな風の音。
大きく開け放たれた窓にかけられた薄い布がゆったり、と揺れ、路地を行くモノ達の声が微かに流れ込む。遠くで囀る小鳥に、鳴いた仔猫が首の鈴を小さく鳴らす。
エレラインは遠ざかる優しい音色に耳を澄ませ、愛おしいモノの背を撫でる手を止めず、空気の読めない迷惑な訪問者を、できる限り意地悪に見える様に睨め付けた。それはきっと八つ当たりであったのだが。
受ける彼女は娼婦の瞳に自身を映し、精一杯の悪態をつく彼女に小首を傾げて返す。反動で窓枠を掴んだ長い爪が、かつり、と固い音を立てたが、それは決してエレラインを責めるでもなく、ただ淡々と事の成り行きを見守る風を見せる。まったく質が悪い。柔らかな羽毛に包まれた首の黒は虹に輝き、僅かに差し込んだ日の光に青を滲ませて、この世のモノでない風に見せる彼女は、どこまで行っても大人なのだ。
分かってはいる。どう抵抗したところで、結局結果は変わらないことくらい。
黒羽を纏った彼女は、いつもエレラインから彼らを取り上げる凶鳥。できるならばいつまでも目を閉じて、気づいていない振りをしていたい。
しかしそれは叶わないこと。彼らと自身の間にあるのは結局、金でしかないのだから。
エレラインは彼女の暗がり色の目に見つめられ、諦めた様に溜息をついた。
「ベルンハルト様、お使いの方がお待ちですよ?」
「んー……」
揺すられた男は曖昧に答えて身じろぐ。
「これ以上お待たせしては駄目ですよ」
心にもない事を言った。我ながら呆れる。
彼には見えないと分かっていたので、感情は隠さず、エレラインは悲しく微笑んだ。そして男の頭を撫でる。きっとこんなことが出来るのは己だけだ、と信じて、少し長い灰色の髪に骨ばった指を通す。すべらかに流れる柔毛を指先で遊んで、簡単に掌から零れてしまった事を悲しく思った。痛む胸の内に気づかない振りをして、彼の首筋を柔らかく撫ぜる。
「ふふっ」
笑ったのはどっちだっただろう。
「擽ったいよ」
ベルンハルトは首を縮めて、優しく微笑む女性を見上げた。彼は彼女の、優しい光を湛える灰の瞳が好きだった。その中に自身を見ると、自然と心が癒される。
「さぁ、ベルンハルト様?」
薄絹を纏った女は弁柄に滲んだ灰を見下ろし、ベッドの上で枕を抱く男に笑む。
「んー?」
彼は分かっていながら曖昧に笑い、俯せていた態勢を替えて、甘える様に腹を見せる。
ベッドに転がる彼には他の男とは違う、妖艶な雰囲気があった。エリゼオが野生に生きる荒々しい獣なら、彼はしなやかな猫の様な。時折見せる、怯えた様な悲しい目も、曖昧に笑う顔も、どこか愛を乞ういじらしい仕草も、飼われていた時を知る捨て猫の様に見えて胸が痛む。この気持ちに名があるのかも分からないが、護らなければ、と母性を擽られるのは確かだ。
「ふふっ」
長い睫毛の向こう。薄っすら開かれた目に、自然とエレラインの口角も上がる。彼女は彼の柔らかな毛を梳いて、頭を撫で、美しい陰影を作る腹をなぞる。決して多くない筋肉に、真っ白な躯体。まるで娼婦の様だ、と笑い合ったのは何時だったか。
彼女はまた楽しそうに笑って、
「起きないと悪戯しますよ?」
彼の脇腹を擽った。
「あっ! ひゃっ! まっ、たっ! そこはっ、ダメッだってっ!」
ベルンハルトは堪らず大きく跳ね、身悶える。
「お使い様をお待たせするなんてっ、悪い子っ!」
「分かった! 起きるっ! 起きるからっ、待ってっ! 待ってってばっ、エレナッ!」
ベッドの上で姉弟の様にじゃれ合う彼らに、夜色の鳥はまた首を傾げた。




