第2話 新しいはじまり(2)
ベルンハルトは私物、とは言っても、替えの下衣と、エリゼオの本などが数冊入っただけの荷袋を漁って、水の入った革袋を取り出した。外気に冷えたそれに口をつければ、
「寒い……」
少し肌が粟立って、背筋が震えた。
吐いた溜息は白く消えて、どこか冷えた芯が胸に鉛玉を落とす。誤魔化す様に再び口を湿らせるが、どうやらこのつっかえは、水では流せないらしい。
「もう直ぐですね」
エリゼオの声に、
「今回は珍しく長居したからなぁ。国が少し懐かしく感じる」
ベルンハルトは濡れた唇を舐める。
「着けば、温かな紅茶でも用意させますよ」
「んじゃ、久しぶりにパイも突きたい」
「ミリャの?」
「そう、あのたっぷりクリームが乗ったヤツな」
「お好きですね」
「甘いもんは元気が出るんだってよ?」
「一体誰の受け売りです?」
「んー? トゥ―リー? リリーだったかな?」
「あぁ……」
エリゼオが苦く笑って弁柄を伏せると、どこかで軍馬が嘶いて、また幌馬車が軋んだ。まだ少し薄暗い街道に響くのは、心地よささえ感じる、淀みのない軍馬の足音。そうして時折不機嫌に喉を鳴らす、騎獣の咆哮だけだった。
エリゼオはそれを遠くに聞きながら、上官をあれ程責め立てる夢について考えていた。
身体は一つであっても、どういう仕組みなのか。同じ夢を見ない事は多々ある。そんな時は大抵、眠っていた、と言うより、記憶が途切れた、と言った方がしっくり来た。目覚めと言うには不自然な、明確な覚醒があって、それは瞬間的に切り替わる感覚に似ている。気が付いた時には日が昇っていて、同じ日が延々と続いているのか、と勘違いする事も珍しくはない。若しくは、気が付いた時には覚えのない場所に立っていて、戸惑うことしかできない様な、自身の意思から離れた場所で、身体が動いていた時の様な感覚か。
自我の確立した当初こそ、混乱する事もあったが、今となっては慣れた。
しかし、それは生活をする上で別段不便に感じなくなった、と言うだけで、上官が何かに苦しめられている事実をよし、とするものではない。
エリゼオは暫く黙って思案した後、
「よろしければ……」
そう、口を開いた。
また傷つけてしまうのでは、とも思ったが、いくら考えようともヒトの頭の中は覗けないのだから、仕方がない、とどこかで割り切って。
「どんな夢だったのか、お伺いしても?」
努めて冷静に問うたつもりだったが、上官にはお見通しだったらしい。
「んー?」
彼は微かに笑んで、喉を鳴らす。
「面白くはねぇぞ」
「構いません。ご迷惑でなければ、あなたを苦しめる悪夢とやらを知っておきたい」
大陸のニンゲンには珍しい灰の髪が、風に柔らかくそよぐ。その姿はまるで鬣を靡かせる牡馬の様だ、と誰かが言った。自身では分からないが、エリゼオを見るとそう感じることがあるので、あながち間違ってはいないのかもしれない。
「んー、お前も物好きな」
優雅で何の欠点もなさそうな、それでいて生真面目で、神経質そうな騎士を見て、ベルンハルトは目端を緩めた。
その頭の隅で、実際に姿も見えているのに、これでも一人だと言うのか、と困惑していたのは、彼の優秀な臣子でさえ知らない。
「いつも同じなんだよ」
呟いたベルンハルトの声は低い。
「女が出てくる」
「女?」
「そう……」
「何です? 興味もないでしょうに……」
それは指向を否定したわけではなく、事実を理解しているからこそ感じた疑問だった。夢に出てくるほどであるから、かなりの思い入れがあるのだろうが。
そこまで考えて、エリゼオは眉根を寄せ、眉間の皺を深くする。
「あのヒキガエルですか?」
問う声は低く、そこに兵卒が居たなら漏れなく逃げ出していたに違いない。
急激に機嫌を悪くした臣子に、ベルンハルトは一瞬ぽかん、として、
「あはっ、違うよ」
直ぐに肩を竦めた。
女性に対してヒキガエル、とは随分と酷い言いようだったが、脳裏に浮かぶ彼女は本当にそう見えたのだから、仕方がない。彼は忌まわしい筈の過去を笑い飛ばして、
「アイツは最近見てないな」
獣の様に唸る臣子に、首を振って見せた。
「では未練の……ある女ですか?」
「んー、未練? あると言えば、ある、か?」
ベルンハルトの答えは歯切れが悪い。
言葉を濁す上官の様子を、エリゼオは訝る。
「そんなに恐ろしい夢ですか?」
「んー?」
彼は明後日の方向を見ながら、頬杖を付いた。
後ろへ流れる景色はどこまで行っても同じで、変わり映え一つない。荒れて、痩せて、生命力のない土地。それはどこか自身を思わせて、ベルンハルトの口から自然と溜息が零れた。
エリゼオは上官の感情の起伏を読みながら、丸めた背を逸らして、静かに腕を組む。
「無理に、とは言いませんよ。別段、困らせるつもりはないんです」
固い木箱に背を預け、弁柄に彼を映すと、内で上官が苦く笑う。
「んー……」
どこか幼さの残る上官は、再び外を見た。
揺れる幌馬車。
身体を冷やす外気。
どこかで誰かかがくしゃみをして、軍馬が不機嫌そうに鼻を鳴らしていた。
「……」
エリゼオは上官の言葉を待ち続けた。
沈黙の間に、幌馬車がまた何度か揺れた。後続の軍馬の鬣が冷気に輝き、馬上で縮こまる黒騎士の頬を撫でる。騎獣の爪が地面を掻いて、赤い大地に傷を負わせたが、それの引く荷馬車の車輪が溝を埋めたので、誰も足を取られることはない。
流れるのはただ穏やかな時間。
「……」
ベルンハルトは冷えた唇をなぞり、小さく息を吐いた。白く尾を引いたそれをぼんやりと目で追って、隠すことでもないか、と考える。そうして少し目を伏せ、
「見たことあるか?」
唐突に口を開いた。
「何です?」
また調子でも悪いのか、と臣子が心を砕けば、
「シシだ」
案外軽い調子で返って来た。
荷台が軋む。
「獅子……ですか? 鬣のある?」
「いや……鹿だ。美しい白鹿」
そこまで言って、ベルンハルトはエリゼオを見た。
左に幾つも残った歪な傷跡。それらを無遠慮に視線でなぞって、暗闇で少し大きくなった縦割れの虹彩を覗く。自身にはない、野性味を残す彼は本当に美しい。
「まだ小さい。酷く小さい。それが草むらに埋まってる」
「ふぅん? 面白いですね」
エリゼオは何と神秘的な夢を見るのか、と思った。だから笑ったのだが、上官のご機嫌はよろしくない。表情を緩めるどころか、正反対に眉を寄せる。
「んー、それが全然面白くない」
ベルンハルトは口を引き絞って、肩を竦めた。
その顔が少し青く見えるのは気のせいか。元より、顔を隠す様に右に流した髪でその表情は良く見えないのだが、目元に落ちた影はいつもより濃い。
エリゼオは小さな獣に怯える上官に、首を傾げて見せる。
「何です? シカが怖いんですか?」
言って、耐え切れなかった。
目端が緩み、思わず喉が鳴る。
「違うよ、バカ」
臣子がどこか嘲る様に口角を上げるのを見て、ベルンハルトは口を尖らせた。
何時まで経っても子供のままの上官に、エリゼオは笑う。
「まさか、うなされる原因が小さなシカとは」
「あ、お前。バカにしてるだろ」
「いえいえ、滅相もない」
手を振りながらやはり耐えきれず、エリゼオは声を上げて笑った。澄んだ空気に男の声が乗る。遠くで軍馬が短く嘶いて、また荷台が軽やかに揺れた。
感情がない、とまで噂される臣子の、世にも珍しい姿を前に、ベルンハルトはしばし目を奪われたが、はた、と正気を取り戻し、再び唇を尖らせる。
「お前、見てないからそう笑うんだぞ。すっげ―おっかねぇんだからな」
「シカが?」
戦場で剣を振るうことは少ないが、それでも上官は騎士。火が付けば幾人もの兵士を、獣を斬り伏せ、命を狩る。それが生業で、その価値観は常人とは離れた場所にあると思っていた。それがまさか、小鹿を恐れるとは。
縮こまり、足を抱く姿に笑みが零れた。
エリゼオが口元を押さえ、喉を鳴らすと、
「笑うな」
ベルンハルトは口を引き絞り、生意気な臣子の肩を力の限り小突いた。
「すみません……」
謝りながらも、全く真面目に聞こうとしない臣子をもう一度小突いて、ベルンハルトは僅かに目を伏せる。
「やっぱ話すんじゃなかった」
イルシオンで獣の命を頂いて以降、幾分かは良くなったが、やはり眠れず食事を摂れない日がある。その分、吸気を覚えたエリゼオが補っているらしかったが、精神面が直ぐに改善する訳ではないらしい。相変わらず些細な事で血が昇るし、酷く落ち込むこともあった。勿論、処方された薬は確り服用しているが、こればかりは上手く管理できないのだから、どうしようもない。
苛立ち始めた感情をどうしていいか分からず、ベルンハルトは頭を乱暴に掻いた。
呼吸の荒くなり始めた上官の様子に、エリゼオは直ぐに真顔に戻る。
「お許しを。遊び過ぎた」
「んー、別にいいけど」
ベルンハルトは爪を噛んで、また視線を遠くへ泳がせた。そわそわ、と落ち着きを失った身体を揺すりながら、優秀な医師に言われた通りに、何度か吐いて、吸って。頭の中で数字を思い浮かべて、
「7、1、5、9……」
不規則に言葉にする。繰り返せば、ささくれ立った気持ちも幾分か落ち着きを取り戻し、理性が目を覚ます。
「は……」
深く吐いて再び吸うと、湿った空気が鼻を擽った。
ベルンハルトは少し灰目を彷徨わせ、
「アレは鹿……というか」
記憶を辿る様に、言葉を紡いだ。
その時、唇に手を当て、無意識的に親指の爪を噛む様は、どこか神経質そうに見えた。
「んー……」
「なんです?」
エリゼオは静かに次の言葉を待つ。
しかしベルンハルト自身、答えを持っていない。良く分からない、と言う方が正しいのか。それが夢であるせいかもしれないし、そうではないのかもしれない。もしかすると知識が無い為に理解できないのかもしれない。とにかく、説明するにはどうする事が正しいのか判断できず、
「アレには顔がある」
見たままを口にした。
「は?」
驚く程間の抜けた声だった。
それはエリゼオの困惑を表現するには十分過ぎた。
ベルンハルトはうまく説明できない苛立ちと、煽られた羞恥心に頬を染める。
「いや、だからアレには顔があるんだって」
「いや、准将。シカにも顔くらいあるでしょう」
「……」
昇る日が辺りを優しく照らし出す。朝露に濡れた草木は輝き、小鳥たちは楽しそうに囀っては跳ね飛ぶ。風はいつも通りに流れて、僅かな緑の匂いを運ぶ。湿った赤土を叩く蹄は、帰国を喜ぶ黒騎士の心を体現するかの様に、いつにも増して軽快だった。
「准将……」
元より掴み所のない男ではあったが、ここまで酷く無かった様に思う。雲を掴む様な上官の話しぶりに、エリゼオの困惑は深い。
「ったく……」
沈黙を嫌ったエリゼオは、溜息を吐いて、腕を組んだ。
「あーっ!」
ベルンハルトは地団太を踏んで、大きな声を出す。
「だから、違うんだって! 顔があるんだって! こう……」
もどかしそうに動く手は何かを伝えるが、それでは全く埒が明かず、話しも進まない。エリゼオが眉根を寄せ、静かに目を閉じると、ベルンハルトはまたむくれる。
そうして、
「んーっ!」
一時思案した後、
「あ、そう! お前みたいな顔がさっ!」
思いついた、とばかりに叫んだ。
彼があまりにも大きな声を出したので、美しい声で囀っていた鳥達が、木々から一斉に飛び立った。ベルンハルトは構わず、納得した様子で腕を組み、深く何度も頷く。
しかし、流れから置いていかれたエリゼオは困惑したままの表情で、彼を見つめていた。
「分かったか?」
「いや、あの、准将?」
エリゼオは顔を顰める。
「その、シカとやらに俺の顔が?」
「いや、お前……じゃないんだけどさ。こう、青白くて、不気味な……」
上官の言わんとする事を理解して、エリゼオは溜息をつく。
「勘弁してください……」
眉間を押さえた臣子にベルンハルトは難しい顔をして、首を捻る。エリゼオの態度が解せない、と言う顔だ。
「あー、つまり……」
エリゼオは目の前で揺れる、朝間詰め色に染まった灰の髪を見る。
「獣の身体に、人間の顔がついてるんでしょう?」
「いや、だからそう言ってるだろ」
頬を膨らませ怒るベルンハルトに、エリゼオは深い溜息をついた。それは疲弊であり、安堵。上官はいつでも、どこまで行っても自由で、計り知れないのだ。兎にも角にも、己の顔を見て恐怖心を抱いていたのではない、と知れただけでも儲けものだった。それではさすがに居心地が悪すぎる。
「んー、その顔がすっげぇ、おっかないんだって」
ベルンハルトは興奮して続ける。
「青白い顔のクセに、口は真っ赤で……」
上官の引き絞った口が気に障った。
エリゼオは深く溜息をついて、彼の向う脛を踵で打った。
「いってぇっ!」
ベルンハルトは叫んで、足を押さえる。そして怒りの理由も分からず、内に引っこんだ臣子を睨めば、
「准将、帰ったら文事の時間を取りますよ。報告書もご自分で」
冷たい声が降って来た。
「お前……」
「ご安心を。ゾフィーヤを付けます」
そこまで言って、エリゼオは再び溜息を零した。
病んだ彼に、全ての職分を任せる事は精神的負担が大き過ぎるだろう、と政務、軍務に関わる卓上の業務の類は全て処理してきた。そのせいでここまでの語彙力低下を招いたとは考えたくもない。何より気味の悪い顔に例えられた怒りが、時間を置いて追いついて来た為でもあったのだが。
「甘やかし過ぎた。ここまで酷いとは……」
呟くエリゼオの肩を、ベルンハルトは思い切り殴った。




