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黒の雄羊  作者: みお
第2章
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第1話 新しいはじまり(1)

 若く、美しい女が森を行く。

 光の差し込まないそこは薄暗く、酷く気味が悪かった。踏みしめる地面は一面緑。返す感触は綿の様に柔らかで頼りなく、その下に土があるのかも疑わしい。纏わりつく湿気が先へ進む足を遅らせ、喉元を締め付けては、呼吸を妨げた。

 彼女は胸元で手を組み、身を縮めて辺りを見回す。

 そこは確かに木々の生い茂る森である筈なのに、生命の気配は一切なく、驚く程の静けさを運んで鼓膜を引っ掻いた。異様な雰囲気を感じ取った彼女は、震えながら息を呑んだ。



―――これ以上進むな。



 どこかで声がする。

 彼女は聞き覚えのないその声に戸惑う様子を見せた。再び辺りを見回し、陰る木々の間を窺う。気配はないのに何かが居る様な気がして、探る様に目を凝らしては、落ち着きなく握り合わせた手を擦った。そうして暫く思案し、恐る恐る足を進める。

 生温い風が長い髪を掬い上げ、美しいドレスの裾をはためかせる。緊張から出た汗が頬を伝って、首筋を流れ、空けるように白い肌を濡らす。


 

―――行くな。



 頭に響く声と同時に足を止めた大きな背中に驚いて、彼女は無意識に彼の腕を力一杯握りしめていた。

 彼が言う。



「見てはなりません」



 その声が聞いたこともない程硬かったので、彼女は更に不安を覚え、彼の背に身を寄せた。

 しかしなぜだか、見てはいけないそれを見なくてはいけない様な気持ちになって、彼女は誘われる様に、ふらり、と彼の背から歩み出してしまう。



―――駄目だ。



 呼吸ができない。

 眩暈がする。

 脈打つ音が煩い。

 頭が、痛い。



「お下がりを、王妃様」



 彼の静止も耳には届かず、彼女はそれを見てしまった。

 長い草に隠れる様に蹲る獣。

 それは真白の毛皮を纏った仔。

 彼女はただ、美しい、と思った。



―――見るな。



 彼女はもっと間近でそれを見たいと願う。



―――駄目だ。



 冷や汗が背中を伝う。脈打つ鼓動が痛い位に激しくなって、息苦しさが増す。金縛りにあったかの様に手足が痺れ動けない。



「見るなっ!」



 ベルンハルトは叫んで、文字通り飛び起きた。

 身体を震わせるほどの拍動に喘ぎ、無意識のうちに胸を掻き毟る。噴出した汗は額を流れ、頬を撫でて、黒衣を濡らす。



「はっ……」



 状況が理解できず、ベルンハルトは何度も瞬いた。

 目の前に広がるのは暗闇。今、自身がどこを見て、何を見ているのかも分からない。不安に顔を下げると、漸く微かに震える拳が目に映った。暗闇にぼんやりと浮かぶそれは、まるで作り物の様に青白に見えた。



「は……」



 溢れた汗が鼻筋を撫でて、青白のそれに音もなく落ちる。雫はジワリ、と肌に滲んで溶け、僅かだったが、確かに感触を伝えた。



「……」



 ベルンハルトは何度も瞬き、肩で息をしながら、自身の手を強く握る。すると眼下で震えていた青白が止まり、そこで漸く、雫に濡れたそれが自身の拳であった、と気づいた。



「准将?」



 酷く静かな声だった。

 ベルンハルトは聞き慣れたそれに、顔を上げる。たぶん、上げたのだと思う。何度か瞬いたが目には何も映らず、判断は付かなかった。



「エリ?」



 呟けば、



「ここに、准将」



 暗闇でも光る弁柄が見えた。



「は……」



 内で緩むそれに、酷く安堵した。



「エリ……」



 名を呼ぶと、笑う気配がする。



「大丈夫ですか?」

「んー、あんまり……。酷い夢だった……」

「その様ですね。何度も呼んだんですよ?」



 彼は暗闇で濃くなった弁柄を茶化す様に眇め、狭く暗いそこで大きく伸び上がった。そうして立ち上がり、



「もう日も昇る。少し冷えますが開けますね」



 言いながら、慣れた手つきで馬車の幌をたくし上げた。途端に澄んだ、少し湿っぽい空気が荷台に流れ込んでくる。



「今どの辺り?」



 問いながら、ベルンハルトは深く息を吸い、吐いた。冷えた空気が肺を満たし、澱んだ気分が少し晴れる。濡れた額を拭えば、ひやり、と張り付いた灰髪が流れて、落ちた。 



「……」



 エリゼオは少し緩んだ上官の表情に安堵して、口端を緩める。



「もう直ぐエクに入ります。今日中には王都へ入れる」

「そうか……」



 ベルンハルトは欠伸を噛み殺し、痛んだ首を鳴らした。それは面白いほど大きな音を立てたので、エリゼオが微かに口角を持ち上げた。



「……」



 ぼんやりと、彼は幌の隙間から外を見る。そこから覗く空は淡く色付き、霞のかかった赤い大地はいつも通り雄大で、相も変わらず美しい。少し埃っぽい様な、それでも爽やかささえある空気は、どこか甘い。起き出した鳥達が、僅かばかりに根を張る木々を揺らし、吹く風は朝露に濡れた雑草を撫でては、消え行く。



「冷えますよ、准将」



 彼らを乗せ、揺れる馬車は、時折跳ねては軋んだ。その度に荷が弾み、それらを固定する縄が高く鳴る。エリゼオはそれらを器用に押さえながら、手にした毛皮を見下ろし、目端を緩める。



「それでは寒いでしょう?」



 掛布代わりにしていた外套を指差し、揶揄する臣子に、



「お前は?」



 ベルンハルトは苦く笑って返した。

 吐いた息は白く流れ、尾を引いて、消える。

 北部は今朝も冷える。



「お前は寒いか?」



 ベルンハルトは皺の寄った外套に袖を通し、未だに覚め切らない頭に、流れる景色を映していた。そんな上官を見ながらエリゼオは笑う。



「いいえ」

「んじゃ、俺も寒くないだろ」

「そうですか? 鳥肌が立ってるのに?」



 そう言って彼は外套の上から自身の腕を撫でた。

 ベルンハルトは眉根を寄せ、微妙な表情になる。



「なぁ。俺達はスヴェンの言う様に、ホントに一人か?」

「なんです、急に」

「急じゃないよ、ずっと考えてる。考えて、混乱してる」



 灰の中にじわり、と弁柄が過って、静かに消えた。



「だっておかしいだろ? お前は寒くないのに、なんで俺は寒いんだ? お前は夜目も鼻も利くのに、俺は全く駄目だ。お前は頭もいいし、読み書きだってできるのに、俺は? もしホントに一人ってんなら、荷物は俺の方だろ? じゃぁ、消えるのは……」



 ベルンハルトはそこまで言って、詰まる息に喉を鳴らした。再び震えだす身体を自身で抱くと、冷えた汗が首筋をなぞる。



「准将……」

「スヴェンは言わないけど、やっぱり普通じゃないんだろう、ってのは分かってる。でもどうしたらいいか分かんない」



 頭を抱え、目を瞑ると、脳裏に誰かも分からないモノ達の驚きと好奇、憐みと蔑みの目が浮かんだ。

 慣れたつもりでも、それは無遠慮に心を引っ掻いて、疼く様な痛みを運ぶ。そうしてまた、時間を置いてじわじわ、と心を侵食し、苦しめるのだ。



「あの目は嫌いだ……」



 それは彼の藍鉄と同じ色を含んで、自身を見下ろす。

 向けられた切っ先。

 風に揺らめく、日よけ布。

 叫ぶ女性の声。

 鈍く光って見えたのは、彼の狂気か、日光か。



「っ」



 ベルンハルトは突如顔を上げ、弾かれた様にその場を飛び退った。その時、狭い荷台に積まれた木箱に強かに背中を打ち付けたが、気にもならなかった。



「俺はやっぱり要らなかった?」



 誰とはなしに呟いて、背を預けるままに、その場に崩れ落ちる。

 熱くなった目頭に顔を歪めて、堪らず覆えば、涙が零れる。



「助けて……」



 汚れた床板を引っ掻いて、嗚咽を漏らすが、誰にも届かず。



「助け……」

「准将っ!」



 エリゼオは叫んで、



「っ」



 傾きかけた身体を、手を突くことで何とか支えた。

 反動で汗が散り、床板が濡れる。

 頭が、目が眩んで、視界が歪む。

 苦しい。

 エリゼオは弁柄を苦痛に歪め、締め付けられる胸を押さえたまま、顔を上げた。酸素を求め、喘げば、

 


「っ、ぃー……」



 途端に、縮こまった肺に空気が入り、気管が悲鳴を上げた。

 彼は床に手を、膝をついたまま、背を逸らせて、とにかく呼吸を落ち着かせることに集中した。意志とは関係のないところで四肢が震え、急激に大きく膨らんだ胸が痛む。顔を顰めながら深呼吸を繰り返し、木箱に背を預ける。

 こんな時に人肌でもあれば直ぐに落ち着けるのに。

 どこかで思うが、当てもなく。無意識に胸に当てた手が軍衣を握りしめる。



「准将……」



 頭を預け、上向いた顔は青ざめていたが、その弁柄に宿る光は強い。



「准将、もう止めましょう……」



 内で泣き喚く彼の声を聞きながら、エリゼオは深く息を吐いた。そうして静かに目を瞑る。



「こんな事、続けたって意味はない。今、現実にあなたは居るし、俺も居ます。性格も違えば、話し方も違う。あなたは右を使うが、俺は左を使うし、体術や剣術の類は俺の方が得意ですが、あなたは他のモノにはない魔力を操るでしょう? 互いに個性がある。それだけなんですよ。こんな風に自身を卑下すべきじゃない」



 暗い幌馬車に、唸る獣の様な声が響いた。



「それにスヴェンが、他者がどう考えているかなど知りませんが、今、こうして在るのは、必要だからですよ。それ以上でも以下でもない。もう何十年とこうして生きてきたでしょう? 今更なんです? 何か問題がありましたか?」



 揶揄する様に口角を上げる臣子に、ベルンハルトは何度も瞬いた。その度に涙が溢れるが、彼は鼻を啜るだけで、拭うことはしなかった。



「自身を、他者の思惑に委ねるのはもう止めましょう。そんな事、とうの昔に卒業したでしょう?」



 暗に言わんことを理解しながら、幼い彼は何度も肩を揺らした。涙に揺れるその灰は愛らしくもあり、酷く儚げでもある。

 エリゼオは笑って、幼子の様な上官の頭を優しく撫でる。



「あなたは私に吸気の術を教えてくれた。そして現に、俺は人様の生を奪える身分になった。他者ではこうはいかないのでしょう。そう考えれば、あなたと俺が一つであることに納得は行く。互いに羨み、不足を感じるのは、身体自体はその能力を有している、と無意識下で理解しているにも拘らず、行使する術を知らないもどかしさではないでしょうか。では互いに学び合えば?」



 彼が目を開くと、灰が揺れる天井の幌を映した。



「やがては万能な男が出来上がって、それこそあなたの願う、隊を護れるモノに大きく一歩近づけるのでは?」



 エリゼオが弁柄を緩めると、ベルンハルトもふわり、と笑んだ。

 そうして、



「ごめん、俺……」



 落ち着きを取り戻した彼は、ばつが悪そうに頭を掻く。



「また変な夢見て……」



 言う灰目が澱む。



「俺が居なかったら、みんなも苦労しなくてよかったんじゃ、って思った……」

「准将……」

「もうっ、もう考えないからっ」



 ベルンハルトは座り込んだまま頭を振って、次いで勢いよく立ち上がった。そして後方に蓋をする幌の紐を解き、勢いよく開け放つ。開けた視界に映るのは黒の鎧を身に着けた騎士団。彼の大切な仲間で、大切な家族達。

 幌馬車を護る様に付いた幾人かが驚き、顔を上げたが、ベルンハルトは構わず笑って応え、落ちない様に荷を掴んだまま何度も深呼吸した。



「よしっ!」



 大きく叫んで、彼は再び床板に腰を下ろす。



「こいつ等を確り護ってやれるように、今日から特訓なっ!」

「まぁ、護って貰うほど、ヤツ等も弱くはないと思いますが」

「いいんだよっ。俺がやりたいからやるのっ! お前もしっかり協力する様に!」



 ベルンハルトが胡坐をかき、腕を組めば、



「仰せのままに」



 エリゼオが静かに応えた。

 それから暫く、彼らは黙って揺られるままだった。

 黒い馬体を輝かせ、軍馬が蹄を鳴らす。赤土が剥き出しの街道は容赦なく車軸を軋ませ、荷馬車を大きく揺らしては、砂埃となる。

 黒騎士の一団は一路、都を目指し、静かな朝焼けの街道を、ただひたすらに進み続ける。



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