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黒の雄羊  作者: みお
第1章
37/64

終 話

 見上げる空は高く、青に浮かぶ真白の雲は穏やかに流れ行く。そよぐ風がくたびれた要塞を彩る僅かばかりの緑を揺らし、心地よい葉擦れの音を作っては、町中を忙しなく行き来する民を癒した。

 イルシオンより帰還した黒騎士を温かく迎え入れた要塞都市アルゴは、今日も今日とて穏やかだ。



「ふぁぁーあ……」



 昔の繁栄を微かに残す石畳を歩きながら、ヴィゴは盛大に身体を伸ばす。雑じりらしい体躯の大男が腕を上げれば、地面に影が落ちて、辺りを駆回っていた幼子が、黒騎士かっきぃ、と驚嘆の声を上げた。彼ははにかみ、肩を並べて歩くイェオリは振り上げられた腕を迷惑そうに押し退けて、



「光栄だ。アルゴの騎士殿」



 棒きれを振り振り、ごっこ遊びに興じる少年たちに白い歯を覗かせた。

 幼い騎士達は黒騎士に最高の笑顔を返して、また跳ね回りながら死闘に熱を込めた。活気を取り戻した町は明るく華やいで、鼓膜を撫でる騒めきも、鼻を擽る香ばしく焼けたブロートのニオイも、全てが平穏を体現しているかの様だった。



「なんだよ。ご機嫌だな」



 ヴィゴは下衣の落としに手を突っ込み、背を丸めて相方の顔を覗き込んだ。その橙に映る彼の態度も、表情もいつも通り。どこか怠そうで、それでも暇を嫌い、そのくせ緑の奥に過去を見る。

 獣と対峙し、任を終えて要塞都市に帰還したのは数日前。彼が選抜した部下、数人を失って僅かに数日経ったに過ぎない日中だった。それでも、付き合いの長いヴィゴでさえ、彼の様子に微かな違和感も覚えない。戦いの中に身を置く軍人ならば、当然の振る舞いの様にも思えるが、内の傷は見えない物。決して口にはしないが、心配くらいはする。



「そんなに見つめられたら穴が開く」



 苦く笑うイェオリに、ヴィゴはばつが悪そうに頭を掻いた。逸らされた橙に、緑眼が伏せられる。

 死者こそ出なかったが、ヴィゴの隊も多大な損害を被った。少数で任をこなすしかない黒騎士に損失は付いてまわるもの。だから常に覚悟を持って死地へ仲間を送り出し、同じ地で命を賭ける。



「俺はただ、得た安穏な日々を楽しんでんだよ」



 物言いは軽いが、含まれる意は重い。それでもどこか、揶揄する様に口端を緩めるイェオリに、



「あぁ」



 ヴィゴはにやり、と厭らしい笑みを浮かべた。



「今夜で何人目?」

「一々数えるか?」

「さすがは黒騎士随一の種馬。来るモノ拒まずだな」

「選り好みせず食えって教わらなかったのか?」

「お前が言うと厭らしい」



 互いに命を張るからこそ、合う呼吸もある。

 肩を並べた黒騎士は互いに密やかに肩を揺らして、城門を潜る。その際、痛んだ城壁の補修に当たっていた騎士の幾人かが身を正したので、適当に手を振り、ご苦労さん、と軽く労った。

 風雨に欠けた塔の上ではためくアルゴの旗が、空を叩く羽の様な音を立て、ひび割れた城壁に等間隔に立てられた黒騎士の軍旗を見下ろす。彼らはその脇を過ぎ、要塞を囲む外壁をなぞる。赤い土地から家一軒程度上げられた地面に造られた要塞からは、城下町が一望できた。その昔は町を作っていた筈の、今では住むモノもなく、手入れも行き届かない廃墟然の建物を眼下に見ながら、



「このまま居座ったら、お前の子供だらけになるんじゃねぇの?」



 ヴィゴが揶揄すれば、



「んなヘマするか」



 イェオリは心底心外だ、と言う顔で返す。



「さすが下衆を地で行くだけあるな」

「あ? 嬉戯に品もクソもあるか」



 イェオリは片側だけ撫でつけた長髪を面倒そうにかき上げて、相方にわざとらしく悪い笑顔を作って見せた。ヴィゴは笑う緑眼に鼻を鳴らして、橙を緩める。傍らで笑う男が人肌を求めるのは、内に抱える痛みを紛らわせる為だと知っている。きっと黒騎士の誰もが人知れずそうしてやり過ごしているのだろう。その心中を察するに余りあるが、彼が彼なりに痛みと向き合っているのなら、それでいいのだろうと思った。

 だから何も言わず、いつも通り。ただ笑って、じゃれ合う。



「やだやだ。これだから育ちのいいお貴族様は」

「言ってろ」



 細工の美しい、巨大な蝶番だけを残した外壁の門を潜り、石積みのなだらかな坂へ出る。両脇が切り落ちたそこに手すりや段の類はなく、その昔は馬車の類も行き来していたのだろうが、かなり注意しないと転げ落ちかねない場所だった。要塞であるから、利便性より敵の侵入を防ぐ目的を重視したのだろうが、今となっては不便の一言に尽きる。所々欠けたそれに足を取られない様、慎重に下れば、



「お、おはようございますっ!」



 途中、大きな籠を抱えた町の娘達に声を掛けられた。朝の挨拶を交わすには随分と遅い時間ではあったが、客人に礼を欠かない彼女達の心根を嬉しく思い、騎士達は口角を緩める。



「おはよう」

「毎朝大変だな」



 荷馬が一台通る程度の、決して広くはないそこを並んで歩いていた黒騎士達は、脇に避けて彼女達に道を譲る。そうして、



「手伝おうか?」



 人懐っこい笑みで手を差し出した。

 彼女達は互いに顔を見合わせた後、



「だ、大丈夫です!」



 頬を染め、急いで彼らの脇を通り抜けた。

 ヴィゴは肩を揺らし、イェオリは、名残惜しそうに振り返る歳若の娘に手を振る。



「長居すると腑抜けになりそうだな」

「どうせ暫くの間だけだろ。今は物珍しくてもすぐ飽きる」



 イェオリはその顔に笑みを張り付けたまま冷えた声を出して、正面に向き直った瞬間にはいつもの怠そうな表情に戻っていた。



「冷めてんなぁ」

「そうか? そんなもんだろ」



 坂を下り、壊されることもなく崩れかけたままの建物を過ぎる。次いで、新しく建てられたらしい柵の脇を抜ければ、ボヴァンの群れが顔を上げた。

 ヴィゴは呑気に乾草を食む獣を横目に、頭の後ろで腕を組んで、また欠伸を零した。温かな日差しに褐色の髪は淡く輝き、如何にも柔らかそうなそれは風にそよぐ。



「んあ?」



 どこか遠くで鳥の鳴く声がして、子供たちが真似る様な声が聞こえた。続いて流れる笑い声に、自然と顔が綻んだ。



「アウヴォのヤツ、ホント子供の相手得意な」



 町を囲む外壁まで来ると、鉄格子の上がった入り口が見えた。二人の黒騎士はそれを潜って、漸く外へと出た。見渡す限り続く赤銅の大地と青の境目に散らばる黒騎士の姿。その手には得意の得物ではなく、土地を耕す為の鍬が握られている。



「がんばってんな」



 軍衣を腰まで開けさせ、一心不乱に開墾に励む黒騎士の姿は立派な農夫だった。戦う為に鍛えられた身体が撓る度、柔らかな日差しに汗が散って、手伝いを買って出た町娘達の目を釘付けにした。密やかに流れる黄色い声は町の浮ついた空気を象徴する様で、イェオリは些か微妙な表情を浮かべる。



「にしても早かったな」



 うんざりとした様子で溜息をつく相棒に苦く笑って、ヴィゴはここ数日で急造された石壁を見た。励む黒騎士の更に奥。町の半分程度はある、耕された土地をぐるり、と囲む様に造られた壁は、完成間近だ。



「あいつ、脳筋過ぎるだろ」



 その頭に浮かぶ、寡黙で真面目な男は、たった数日で眼前に広がる土地のほぼ全てを耕し、石壁を築いて見せた。それは魔や呪の類ではなく、純粋な力技。黒騎士の誰もが彼のそれを理解している積りだったが、実際に目の当たりにすると、驚愕より先に呆れがやってくる。

 師団長の右腕となり、盾となり、矛となる男はやはりニンゲンではない、と言うことらしい。



「残りはバドんとこが引き受けたらしいぞ」

「アイツ一人で十分だったろ」

「気ぃ遣ったんだろ。バドのおっさんも真面目だかんな」

「ご苦労なこって」



 どこか面白がる風を見せるヴィゴに、イェオリは興味がない、とばかりに欠伸を零す。



「まぁ、許したのはベルだろうけど」

「だろうな。アイツなら自分のケツは自分で拭きたがる」



 幼さの残る長の我儘に、苦虫を噛む歳若の黒騎士の顔が浮かんで、二人は揃って肩を揺らした。

 獣を討伐後、意識を失った上官を含め、傷を負った黒騎士を引き摺って、彼らは別動隊へと合流した。伝令を受け、急いで現場に駆けつけたミリは、出番を失ったせいか、心配の為か、きっと前者であろうが、酷くご立腹だった。

 しかし、給金の話になると直ぐに落ち着きを取り戻したのだから、彼女らしいと言えば、らしい。平穏を取り戻した幕営地で、黒騎士達は休むことになるが、誰もがその晩のことを覚えては居ない。後に、樹人の仕業と判明するが、あの朝、森の眠りより目を覚ました羊の群れの許には、多くの贈り物が届けられていた。それは大小様々で、寝ずの番が気づかないうちに運び込まれていたものだから、その日の当番は顔を青くし、震えていたのは言うまでもない。

 同時刻、黒騎士の動揺を知る由もないエリゼオは、どういう訳か、呼ばれた夜と同じベッドで目を覚ましていた。これも呪術の類か、それとも悪夢か。内で寝息を立てる上官を見て困惑していると、枕元に置かれた小さな包みに気づく。エリゼオは見慣れないそれを解き、夢ではなかったか、と一人零した。



「アイツのことだ。もう早いとこは植えおわってんだろ?」

「じゃねぇの。ほら、あそことか」



 ヴィゴの指さす場所は、赤土が若干黒く見える。



「フィアが言うにはあの土撒けば直ぐに育つらしいぞ」

「便利なこって」



 あの朝、黒騎士の前に姿を現したエリゼオの手には、様々な色形をした種があった。彼はこれを撒けば命が産まれる、と言った。その場に居たモノの多くが、中佐は気が触れた、と思ったのは公然の秘密だ。彼は少し説明の足りない部分があるので、集ったモノの困惑も頷ける。

 あるモノは賭けか何かで負けて、仕方なく罰を受けているのだと思った。

 しかし、エリゼオはふざけるでもなく、いつも通り真面目な顔で、幕営地前に大量に置かれた荷を検めた。まるで全てを知っている、と言う顔で、だ。

 始めは巨大な革袋。それは明らかに人が作った物でない荷台にうず高く積まれ、天幕に影を作っていた。短刀を突き立てれば、中身が肥えた土だと分かる。それが見える限りで数十台。運搬にも困る量ではあったが、そのどれもに荷引きの獣が付き、至れり尽くせりの状態だった。

 訝ったベルンハルトが、これはなんだ、と尋ねれば、荒れた土地では種が芽吹かないのかもしれない、と臣子が答えた。

 その時エリゼオは、これを梳き込む作業は骨が折れそうだ、等と考えていたが、昨晩の出来事を知らない黒騎士達にすれば、理解不能な事態であった。

 惑う黒騎士達を他所に、エリゼオはそれらとは違う、美しい獣が引く荷車を検めた。虹色の糸を紡いで作られたらしい幌を剥げば、器用に編まれた籠がこれでもか、と積み込まれていた。その中に詰まるのは色鮮やかで、あの夜の樹人の涙を思い起こさせる様な、芳醇な香りを漂わせる果物だった。

 エリゼオは礼の意味をやっと理解したか、と笑い、ベルンハルトはまた首を傾げていた。



「そういや、アイツ、ドリュアスに攫われたんだっけ」



 一部始終を思い出したヴィゴは顔をくしゃくしゃにして、噴き出す。



「首輪掛けられたんだろ?」

「犬は犬らしく飼われればよかったんだよ」



 忌々しそうに鼻筋に皺を寄せるイェオリに、



「ベルが黙ってないだろ」



 ヴィゴは笑う。



「ベルの奴、エリゼオの話を聞いた後、俺に森を燃やせ、って唸ったんだぞ」

「冗談だろ」

「アレは冗談じゃねぇって。目が笑ってなかった」

「……まぁ、ミンツなら……、言いかねん、か?」

「あのアホ。エリゼオの事となると見境なさすぎだろ」


 

 ヴィゴの言葉に、イェオリは苦い顔をする。



「しかもドリュアスからエリゼオに贈り物があったらしいな。聞いたか?」

「いや」

「細身の長剣らしいぞ。黒くてかっきぃの」

「あぁ……。だからここ最近、ミンツは機嫌が悪かったのか」

「だよ。エリゼオがドリュアスに気に入られたのが気に食わないんだろ」

「結局は自分の物になるだろうに」

「バカ、そこは違うんだって。見てろ? 結局二本腰にぶら下げてくるぞ」

「そうか? 俺はエリゼオが折れると思うがな。アイツは特に拘らないだろ」



 イェオリはそう言って、腰に提げた愛刀を指先で叩いた。



「いやいや、アイツは結構選り好み激しいぞ。ま、拘るモノによるんだろううけど」

「ふぅん?」

「ま、興味ないだろうな」

「ないな」

「ホント、お前、エリゼオ嫌いな」



 ヴィゴはまた肩を揺らして、話題の彼らを探す様に辺りを見回した。睡眠時間も惜しんでドリュアスの為に働く男を手伝うのが目的、と言えば聞こえがいいが、その実、暇つぶしがてら揶揄いに来たのだ。



「……」



 ヴィゴは笑みに目を細めたまま、何気なく平地からなだらかに盛り上がる丘へと目を向けた。



「うおっ」

「なんだよ。急に大きな声出すな」



 片耳を押さえ、迷惑そうな顔をするのはイェオリ。ヴィゴは構わず、相方の肩を無遠慮に叩く。



「ロロが居る」

「……」


 

 黒騎士二人は丘の上で身体を丸める獣の背を見て、互いに顔を見合わせた。

 普段、騎獣を放しておくことなどあり得ない。ただ単に危険な為でもあるが、騎獣として流通する彼らの資産価値は高いのだ。獣の種別により変動は見られるが、一頭で都に数軒の屋敷が構えられる程度の金が動くことも珍しくはない。勿論、高価であるのは需要があるからだが、その絶対数が少ない事にも起因している。

 一般的に騎獣に成りうる獣は野性味が強い。決して人間に媚びず、手懐ける事さえできないこともある。その為、所謂騎獣と呼ばれる商品にするまでに、時間と労力がかかる。大量生産できない分、希少性があり、必然的に値が上がった。加え、権力と見栄の権化たる貴族達がこぞって欲しがるのだ。値が張れば張る程、彼らは満足するものだから、価格は一向に崩れない。

 商人にすればこれ程うまい商売はないが、専門業者は都に居ない。流通する多くが、壁と嫌悪される第三領より排出されたモノだった。

 理由は簡単。儲かるが、その分多くの命がかかる。

 騎獣を商売にする阿呆は、小遣い稼ぎに精を出す黒騎士か、命知らずの雑じり、若しくは生きる為に命を張る他ない様なモノ達だけだった。

 それ程珍重される騎獣が、専用の施設に係留されているわけでも、見張りが立つわけでもなく、木陰で寝息を立てている。しかも彼がこの世界で他にない、唯一無二の存在だとしたら。

 眉を吊り上げ、唸る歳若の上官の顔が浮かんで、ヴィゴは苦く笑う。



「ベルの奴、またどやされるな」



 それは能天気な上官が、騎獣を自由にさせている、と思ったからの発言であったのだが。

 なだらかな斜面を登り、傍らを歩く相方を見れば、



「そうか?」



 応える彼は横たわる獣を指差した。



「ん?」



 イェオリの指を追い、獣を見ると、長く伸びた尾の向こうに見慣れた革靴があった。ヴィゴは眉根を寄せたまま、緩やかなそれを昇る。途中、ロロが目を開き、太い首を甲虫の様に鳴らして振り返ったが、歩み寄る黒騎士の姿をぼんやりと見つめるだけで特に反応も見せず、直ぐに頭を下ろした。

 そうこうするうちになだらかな丘の頂上へと至る。ヴィゴはそこで微睡む男を見下ろして、短く息を吐いた。



「おいおい、雨が降るぞ、コレ」



 荒れた赤い大地に出来た、吹き出物の様な丘。その上に生える一本の大きく立派で、酷く場違いな木。それが、柔らかな日差しを遮る様に伸ばした腕の下で、確かにロロは硬い身体を器用に丸めていた。それだけでも十二分に不自然な光景であったのだが、彼の規則正しく上下する腹を枕にするのは、彼の主たる上官だった。彼は獣に身体を預け、日も高い中、安らう。しかも、余程疲れていたのか、近づいても一向に目を開けない。



「まぁ、寝る間も惜しんで働けばこうなるか」



 真面目で責任感の塊の様な男が、己の過ちで黒騎士の手を煩わせることをよし、としないことは分かっていた。

 しかし、一睡もせず建造を急ぐ彼に戸惑ったのは確かだ。そこで誰とはなしに、休息にもなる、だとか、ついでにアルゴの修復を、破壊した広間だけではなく、くたびれた外観にまで手を伸ばしてはどうか、と声を上げた。こうして今に至る訳だが。

 眠りこける彼がベルンハルトだとしたら、不眠の彼が眠っていること自体が珍しかったし、彼がエリゼオなら尚の事。日の下で、しかも無防備に寝顔を晒しているなど、考えられなかった。

 彼等らしからぬ行動をヴィゴが笑うと、イェオリが鼻を鳴らす。

 


「何がどうすればこうなるんだ?」



 緑眼が見下ろすのは、眠りこけるエリゼオ本人ではなく、彼の腹の上。黒衣に映える煤色の髪を柔らかく揺らし、客人とも言うべき黒騎士を枕にするアルゴの騎士だった。彼は黒騎士師団の騎獣、アイーダを抱き枕に、大口を開けて涎を垂らす。



「ふはっ!」



 ヴィゴは傍らで至極不満そうな声を出す相方を見て、堪らず噴き出した。彼が今どんな心境なのか。想像に易い。

 無遠慮な笑い声に、アルゴの騎士の腹に顎を乗せ、寛いでいたアイーダが薄っすらと目を開く。彼女は平穏を打ち破る二頭の雄羊を睨むと、



「むふー……っ」



 何とも不機嫌に鼻息を吐いて、面倒そうに再び目を閉じた。



「……」



 獣の態度に、イェオリの額に青筋が立つ。

 ヴィゴはまた耐え切れなくなって、



「あははっ!」



 今度は声を上げて笑った。



「お……」



 イェオリは口を開きかけるが、アイーダの迷惑そうな蘇芳色の目に自身を見て、



「っ……」



 鼻筋に皺を寄せるに留まる。



「獣までクソ生意気な男に見える……」



 唸れば、



「確かに似てるなっ」



 ヴィゴはまた楽しそうに喉を鳴らした。

 アイーダは騒がしい男達を嫌って、騎士の腹の上でそっぽを向き、ごろり、と態勢を入れ替えた。そうすれば自然と彼らに背を向ける格好になって、彼女は満足気に喉を鳴らした。その後、それがさも当然だ、と言わんばかりに、主の大切にしているモノの、分厚い身体に頬を寄せ、何度も身体を擦り付けた。



「ん……」



 不意に腹を撫でられた騎士は僅かに身じろいで、甘えるアイーダの首元に手を突っ込んだ。そうして一頻り撫でると、



「……」



 聞こえない声で何かを呟き、また深い眠りに落ちた。



「こいつ、アルゴの騎士だろ?」



 不機嫌に唸るのはイェオリ。

 その緑眼が農夫とさほど変わらない、軍衣とは名ばかりの衣服を身に着けた、アルゴの中では大柄の部類の男を見下ろす。彼と言葉を交わしたことなどないが、その身なりから女が好みそうな真面目さが垣間見えた。



「そうだぞ」



 楽しそうに笑うのはヴィゴ。



「しかも騎士の長様だ」

「ふぅん? で? そのアルゴの騎士の長様が、なぜうちの長を枕にしてるんだ?」

「そらお前。そう言うことだよ」

「どういう事だよ」



 眉間の皺を深くするイェオリに、ヴィゴはまた楽しそうな声を上げる。



「言ったろ? コイツはあれで拘るんだよ」

「……」

「お前と違って、権威あるモノは従えたい質なわけ」

「……」

「スヴェンから聞かなかったか? エリゼオも吸気の方法を……」

「いい。分かった」



 イェオリは至極嫌そうな顔をして、ヴィゴの言葉を遮った。そんな相方の顔を見て、ヴィゴはまた笑う。



「お前だって人肌があった方が眠れるんだろ?」

「一緒にするな」

「そうか? 誰も独りは嫌なんだよ。俺もフィアなしじゃ無理だしな。ただ、それだけのことさ」



 そよぐ風に、木陰を作る枝葉が揺れた。

 遠くで鳴く鳥は時折黄色い声を運んで、青く澄んだ空へと消え失せる。

 流れるのは規則正しい寝息と、微睡んだ時間。

 それは何とも平和で、穏やかな絵面だった。



「黙ってればかわいい顔してるのにな」



 ヴィゴがエリゼオを見下ろして静かに笑えば、



「何処が」



 イェオリが猛獣らしく、喉を鳴らす。

 確かに、足元に転がる大男の、いつもは深い溝を作る眉間も今はなだらかで、その寝顔は酷く幼く見える。彼がどれ程の思いで、絶えず師団の為に心を砕いているのか、と考えると、このまま蹴り飛ばしたい衝動を抑えるのが大人の対応か。



「……」



 イェオリは至極嫌そうな顔をした後、静かに溜息をついた。そしてそのまま何も言わず、少し丘を下って、日の当たる場所で腰を下ろした。

 彼の後ろを不思議そうについて歩いたヴィゴは、相棒の脇に立って、首を傾げる。



「んだよ。蹴飛ばさねぇの?」

「……」



 心の内を読まれた気まずさもあったが、それよりも虚無感の方が大きかった。イェオリは後ろ手を突いて、溜息をつく。



「なんだ。起こして引っ張って行くのかと思った」



 橙の目が、眼下に広がる土地を指した。



「やる気なくなった」

「嘘だろ、お前。そんな言葉知ってたのか?」



 ヴィゴはまた笑って、相棒の傍らに腰を下ろし、彼の背中を無遠慮に叩いた。

 イェオリは迷惑そうな表情を浮かべたものの、直ぐに口端を緩めて、温まった地面に転がった。そうして頭の後ろで腕を組み、足を組んで、どこまでも高い空に目を眇めた。



「ふぁー……あ」



 イェオリが欠伸を零せば、



「あふ……」



 今度はヴィゴが釣られて大きな口を開ける。

 頬を撫ぜる風は穏やかで、どこからか花の香りを運んで来た。

 降り注ぐ日差しは優しくて、どこか冷めた身体を暖かにする。



「ここは俺達には穏やか過ぎる」

「戦場の方が似合うって?」

「余計な事考えなくて済むだろ」



 イェオリは緑に青を濃くして、やがて静かに目を閉じた。

 ヴィゴはその傍らで鍬を振り続ける黒騎士達を見下ろしながら、少女の様にはしゃぐ娘達の華やいだ声を、黙って聞いていた。

 気を遣う間柄でもない。沈黙が続こうが一向に構わない。

 それでも。



「短期間で堅牢な補給拠点ができると思えば安いもんだろ」



 ヴィゴはぼんやりと口を開いた。

 イェオリは一瞬、目を開き、何かを口にしようとしたが直ぐに止めた。代わりにもう一度目を閉じ、深く息を吸って、



「お前の、その嫌に前向きな脳味噌、偶にかち割ってみたくなる」

「待て、待て。そのエリゼオみたいな物言い止めろよ。こえぇから」

「……」

「ちょっ、せめて何か言えって」

「……」

「イェオリ、お前っ! 最近アイツに似てきたぞ!」



 響いた声は直ぐに空に消えて、代わりに落ち着かないヴィゴと、美しい旋律を連れてきた。



「リアム、か?」



 ヴィゴは鼻先を上げ、



「アイツの唄は駄目だ。眠くなる……」



 イェオリは微睡む獣らしく、静かに喉を鳴らした。



「芽が出て、ホントに獣が産まれるのか分かんねぇけど、一発目の結果が出たらおうちに帰れるってよ」

「……」

「後は、あのおっさん、名前なんて言った?」

「アラヤ……」

「あぁ、そう。その町長に任せるんだと」



 ヴィゴは穏やかに流れる時間に目を細め、イェオリは温かな日差しを命一杯享受する。



「森に運ぶ任があるだろ?」

「それはほら、ここに残りたがってるヤツも居るし、丁度良いんだって」



 珍しく苦い物言いをしたヴィゴに、



「あぁ……」



 イェオリの答えは軽い。



「平穏を選ぶのも悪くない」



 しかし、それが嫌に物悲しく聞こえた。



「お前ももういいんじゃねぇの?」



 ヴィゴは遠くを見て、立てた膝に頬杖を付いた。先を口にはしないが、それが酷く優しく、残酷な申し出だと分かる。



「ここで止まって何がある?」



 怒るでも、落胆するでもなく、落ち着いた調子で口を開いたイェオリに、



「そうだなぁ。先ずは可愛い嫁さんだろ?」



 ヴィゴは茶けた。



「あはっ! まぁ、らしくねぇな」

「まぁ、そういうことだろ」

「だな、無理だ」

「あぁ、無理だ」



 遠くに聞こえる歌声は長く高く響いて、青空を彩る小鳥に続いた。

 それは彼らの生を彩る非日常。

 それは酷く穏やかで、奇妙極まる数か月だった。


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